灰原薬氏による「応天の門」の第18巻です。
引き続き貞観7年(865年)が舞台のようです。
舞台となる時代については「テーマ:平安時代(藤原氏の台頭、承平・天慶の乱、摂関政治、国風文化)」にまとめています。
全巻の目次
第18巻の基本情報
関係年表
- 864(貞観6)
- 富士山噴火(貞観大噴火)富士山噴火史上最大
- 亡くなった人物(円仁(入唐八家))
ーーー第18巻はここからーーー
- 865(貞観7)
- 大きな出来事がありませんでした。
ーーー第18巻はここまでーーー
- 866(貞観8) 応天門の変
- 最澄に伝教大師、円仁に慈覚大師の諡号が授けられる
- 応天門の変(応天門炎上し、伴善男が罰せられる)
第18巻の「道真の平安時代講」【解説】本郷和人
- 都で働く女性たち:平安時代には、貴族の娘で高貴な女性に仕える「女房」や、掃除・料理などを担う庶民出身の「端女」がいました。女房には和歌や音楽などの教養や専門技能が求められ、財産の管理を担う人もいるなど、自分の能力を生かして活躍していました。
- 書物の素材について:平安時代には紙や書物が貴重であり、清少納言が『枕草子』を書き始めたきっかけも、主人の藤原定子が美しい紙を手に入れたことでした。日本では木簡が文字の記録に使われ、朝廷には書物や紙を管理・製造する役所が設けられていました。
- 時間の知らせ方:平安時代には水時計「漏刻」を使って時刻を測り、役人が鐘や太鼓を鳴らして人々に時間を知らせていました。午前3時頃に内裏などの小門が開き、午前6時頃には主要な門が開かれ、役人たちは出仕していました。
- 宴の様式について:平安時代の貴族は「焼尾荒鎖」と呼ばれる、歌や酒を楽しむ盛大な宴会を好んでいましたが、一条天皇はこうした宴会を嫌い、控えるよう命じました。道真の時代は、椅子とテーブルを使う唐風の宴会から、床に座る形式へと移り変わる時期だったと考えられます。
- 夏の過ごし方:平安時代は中世温暖期にあたり、貴族の住宅である寝殿造では、壁を少なくして風通しを良くするなど、暑さを和らげる工夫がされていました。『枕草子』には、蛍が飛ぶ夏の夜や、削った氷に甘い汁をかけたかき氷が登場し、当時の貴族の夏の楽しみがうかがえます。
物語のあらすじ
伴中庸、五条の屋敷に赴く事
太皇太后・藤原順子の屋敷に紀豊城が忍び込み、屋敷の護衛達に囲まれます。
伴中庸が現れ、紀豊城がいることに驚きつつも事をおさめようとします。
そこに在原業平もやってきて、道真の言う通り伴中庸が太皇太后・藤原順子の屋敷にいることを確認しました。
そして、在原業平は屋敷の中で妙なものを見かけました。
菅原道真、大学寮にて怪異を閲(けみ)する事
在原業平は太皇太后・藤原順子の屋敷で、どこかで見たことのある女がを見かけたのでした。
藤原良相の宴に招かれたときに見た女でした。
雨が降ってきました。
菅原道真は雨が降ったことをいいことに、大学寮へ行くのをやめようかと思っていたのですが、橘広相がいると聞いて大学寮へ向かいました。
その広相から大学寮の倉に怪が住み着いていると聞かされます。
夜になると、中から足音がしたり、物が勝手に動いたりするというのです。
道真は仕方なく一晩だけ倉の中で様子を見ることにしました。
・・・
内裏。
帝と同じ御帳の中に太皇太后・藤原順子がいました。藤原良房がしばらく参内できないため、後見として同席することになったというのです。
同じ藤原北家の藤原良房と、妹の藤原順子、弟の藤原良相による骨肉の争いです。
・・・
倉の中で音がしました。道真は意を決して、正体を探ろうとします。
翌朝。
ボヤ騒ぎのとき、まいた水が床にしみこんで木が腐って、床が傾いていることが分かりました。
・・・
太皇太后・藤原順子の屋敷に伴中庸が呼ばれ、太皇太后から来月の宴に出てほしいと頼まれます。
太皇太后は宴で自分が亡き者にされようとしていると怯えているのです。
その頃、藤原基経は島田忠臣を呼びつけて、宴に出席するように命じていました。唐風の宴で漢詩を披露しあうというからです。
在原業平が菅原邸を訪ね、道真を太皇太后の宴に同席させてほしいと頼んできました。
行く気のなかった道真でしたが、唐風の宴と聞き、行く気になります。
伴善男も太皇太后の宴への出席は気が進みませんでした。しかし、中庸が先に言っていると聞き、慌てて宴に向かいました。
そして、全ての者が太皇太后の屋敷に揃いました・・・
伴中庸は太皇太后にあることを託されました。
そして、藤原基経が太皇太后に呼ばれます。
この宴は太皇太后が藤原基経を亡き者にするための謀だったのです。
番外編
藤原高子に仕える実直な女房・山路(やまじ)が藤原高子と初めて会ったのは、高子が皇太后・順子の屋敷で行儀見習いをしていた時でした。
在原業平との関係が知れ渡っていたころの事です。
