海音寺潮五郎の「武将列伝 江戸篇」を読んだ感想とあらすじ

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覚書/感想/コメント

「真田幸村」といえば、真田十勇士が有名である。古いものには俗書にも見あたらないそうだ。わずかに作者も時代も不明の小説・真田三代記に穴山小助、由利鎌之助、三好新左衛門入道清海、同新兵衛入道為三、筧十蔵の名が見える。

このなかでは、大坂夏の陣の時、三好新左衛門入道清海は九十歳、同新兵衛入道為三が八十四歳だそうだ。十勇士は明治末年から大正初年にかけて、立川文庫によって創作されたものであろうということだ。

「立花一族」にでてくる誾千代は女大名である。江戸時代には皆無となったが、それいぜんは女が相続して領主となった例は少なくない。最も有名なのが、淀殿である。これは秀吉により淀城主とされたからこう呼ばれるようになったのだ。

この誾千代の夫・宗茂は豊臣秀吉に東の本多平八郎忠勝、西の立花宗茂をもって天下無双とするといわしめた人物である。秀吉の朝鮮の役にも出陣し、数々の武功をたてている。

だが、関ヶ原の戦いで西軍に味方し、以後浪人生活を強いられる。この時期の逸話は様々あり、それぞれが面白いので、宗茂を扱った小説を読まれるのも良いのではないかと思う。

「徳川家光」で土井利勝の家康落胤説を紹介している。本書を書いている当時は、風説というレベルであったようだが、海音寺潮五郎はこれを信用している節がある。

ところで、現在では、作家によっては家康落胤説を当たり前のようにして小説化しているが、実際はどうなのだろうか?

さて、家光の時代に鎖国が始まり、これを期に徳川家の財力は落ちていく。海外との窓口を閉ざして経済が発展することがないのは当然であり、鎖国政策は経済理論的に見ても何の得もないことは今日では常識である。

日中事変が始まったころ、海音寺潮五郎と菊池寛が同席した座談会で、鎖国の功罪如何にという問題が出ると、菊池寛は徳川家のためにはなったが日本のためにはならなかった。日本のためには悪いに決まっていると語ったそうだ。

結果的に、海音寺潮五郎は家光を中以下の人であったと評している。当時の老中らが名君として宣伝したので、名君ということになったのだろうといっている。

「西郷隆盛」はあくなき理想家であり、良心的であり、誠実であるというのが海音寺潮五郎の評である。

明治の高位高官らが志士時代を忘れ、宏壮な邸宅を営み、贅沢な生活をしている中、西郷隆盛だけは陸軍大将・近衛都督・主席参議という最も高い地位にいながら一僕を相手に小さな家に住み、木綿着物に小倉の袴をはき、徒歩で出仕していたそうだ。

勝海舟」はよほどに西郷隆盛に惚れ込んでいたようだ。あまりに西郷隆盛を褒めるので、当時出入りしていた坂本竜馬が西鄕を訪ねる。

そして、小さくたたけば小さくなり、大きくたたけば大きく響く、もし馬鹿なら大馬鹿、利口なら大利口と評したのは有名である。これに対して、海舟は評せられる人も評せられる人、評する人も評する人と書き残している。いずれにしても、人物は人物を知ると言った典型的な話である。

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内容/あらすじ/ネタバレ

真田幸村

関ヶ原の戦いでは、三万八千余の徳川軍に対して、二千五百の勢をもって上田城に十日間せき止めた。これで昌幸と幸村の武名は天下に上ったが、肝心の関ヶ原が西軍の惨敗に終ったのでどうしようもない。命だけはとりとめて九度山に押し込められることになる。

やがて、大坂方から招致があり、大坂城へ入城する。この時、徳川家は大坂方に先んじて味方にするよう働きかけ、それが失敗すると九度山から出さぬ手を巡らしたようである。だが、この徳川の目をかいくぐり、大坂城へはいることを得た。

大阪に入ってからは、幸村には昌幸ほどの貫禄がないゆえ、同じ策を立てても、人が従わぬだろう、と父・昌幸がいっていたような事態になる。

立花一族

九州立花氏は豊後の大友氏の一族である。もともと、豊後国大分郡戸次にいたので、戸次と称するようになった。やがて鑑連に至る。大友宗麟の命により立花城の城主となったので立花を名字として名乗るようになる。

鑑連は入道して道雪を名乗る。(立花道雪として知られるが、立花姓を名乗ったことはない。)四十五の時(若き時との説もあり)、千鳥と名付ける刀で雷を斬った。以来刀を雷切と改めた。だが、感電して足が萎え歩行が自由でなくなった。しかし、気力衰えず、戦場には輿に乗って出て、向かうところ敵なしだったという。

士を愛すること一通りでなく、かといって軍規は厳正を極めた。恩威ならび行われる名将であった。

そんな道雪も子には恵まれなかった。一人娘の誾千代がいるだけである。道雪はこの娘に家督を譲り、後見することとなった。誾千代が立花家の当主であり、立花城主である。女大名となったのである。

これに道雪は高橋紹運の長男宗茂を養子にと懇願してもらった。道雪が惚れ込んで養子にもらったようである。

立花宗茂の実父・高橋紹運も名将の名の高い人であるが、宗茂も劣らずの名将である。だが、妻の誾千代との仲は必ずしも良くはなかった。

徳川家光

家光の父は徳川二代将軍秀忠、母は崇源院、俗名浅井、名はお江(ごうとよみ、督とも書くことがある)。このお江の一番上の姉は淀君、次の姉がお初(京極高次に縁づく)である。

お江は二度若しくは三度縁づいてから秀忠に嫁いできた。秀忠十七、お江二十三である。秀忠はお江が恐かったらしく、終始頭が上がらなかったようだ。二人の間には多くの子が生まれた。家光の下には忠長がいる。

家光を語る場合外せないのは春日局である。家光が幼い頃、秀忠夫婦は下の忠長を可愛がっていたようである。これはどうやら忠長の方が賢かったからのようである。この様子を見て心配した春日局は駿府の家康にいき、この様子を訴えた。家康は春日局をしかりつけたものの、江戸に出向き家光が嫡子であることを確定させた。

こうして将軍になった家光であるが、家光の逸話として後生に伝わっていることは、その多くは感心できないものである。また、男色が激しく、そのため春日局を始めとして老中も心配していたようである。

西郷隆盛

西郷隆盛が島津斉彬の知遇を得たいきさつは本人にもよくわからないらしい。だが、以前に意見書を藩庁に提出したことがあり、それが目にとまったのかもしれないと西郷隆盛は述懐している。

西郷隆盛は生涯を通じて豪傑ぶることのなかった人であった。そういうことが嫌いであり、ごくまじめな、至って礼儀正しい人である。

この西郷隆盛の人物を島津斉彬が買い、大いに世間に吹聴したおかげで、忽ち天下の名士になってしまう。このおかげで、後年縦横無尽に活躍できたのだ。

しかし、西郷隆盛の恩人ともいうべき島津斉彬が死んだ。コレラという説もあり、赤痢だともいう。作者は毒殺ではないかと推測する。この後、紆余曲折があるが、回天し始めた世の中で西郷隆盛は相当の働きをし、江戸幕府を打倒することを得る。

勝海舟

通称麟太郎、名は義邦。海舟という号は佐久間象山の書いた海舟書屋という額がよくできていたから思いついたという。

海舟の家はもともと男谷といった。この家系に幕末の有名な剣客・男谷精一郎がいる。普通は海舟の叔父と伝えられているが、実際は名義上いとこであり、事実は父のいとこである。

海舟の父・小吉、長じて左衛門太郎だが、幼名の小吉の方が有名である。無茶苦茶といってよいほどの快男児であった。この小吉が養子として勝家に行ったのだ。養母との折り合いが悪く、危うく御家断絶の危機も迎えるようなこともしている。

この子供が麟太郎である。麟太郎は島田虎之助の道場に通い、剣術の修行は相当やったらしい。そして、島田のすすめもあり、西洋兵学を学ぶ気になったようだ。また蘭学の勉強もずいぶんやったらしい。そして、麟太郎は海防関連の畑を歩み始める。

本書について


海音寺潮五郎
武将列伝 江戸篇
文春文庫 約三〇〇頁
戦国時代江戸時代

目次

真田幸村
立花一族
徳川家光
西郷隆盛
勝海舟
あとがき

登場人物

真田幸村
 真田幸村

立花一族
 立花道雪
 高橋紹運
 立花宗茂

徳川家光
 徳川家光

西郷隆盛
 西郷隆盛

勝海舟
 勝海舟

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