
真田家ゆかりの城
上田城は戦国時代に真田幸村の父、真田昌幸によって築城された。現在残っている城は、仙石忠政によって江戸時代の寛永年間に再建されたもので、もともと長野県上田市二の丸(旧・信濃国小県郡上田)にあった。
国の指定史跡でもあり、日本百名城や日本夜景遺産に認定されている。また、城の中に眞田神社がある。
上田城は真田昌幸と共に語られる。特に第一次・第二次上田合戦で徳川軍を撃退した事は有名で、この戦で真田の名前を全国にとどろかせることになる。池波正太郎氏の真田太平記などで読むのがおススメ。
城は千曲川の分流である尼ヶ淵に面していたので、築城当初は「尼ヶ淵城」と呼ばれることもあった。尼ヶ淵は城の堀として利用されている。堀は南櫓と西櫓のあいだの下にある。
南櫓

西櫓

西櫓付近から下を眺める

城は北に太郎山、南に千曲川を置いて築城されている。城の形状の関係で、城の南側は千曲川に接し、北側と西側に矢出沢川を引き込み総構えとしとなっているため、南側と西側、北側からは攻めにくい構造になっており、攻めるとしたら、東からとなる。そのためもあるだろうが、大手門に該当する東虎口櫓門が文字通り東にある。この東側にも蛭沢川や湿地帯が広がっている。徳川勢は東から攻め、敗退している。
城は1583年(天正11年)に築城された。その後、幾度かの増築を経ている。関ヶ原の戦いで西軍が敗れると、西軍側だった真田昌幸と真田幸村は九度山に配流となり、上田城は徳川軍によって1601年に壊されて堀も埋められた。
真田昌幸の長男で関ヶ原の戦いで東軍に属した、真田家の本家となる真田信幸は元々の居城である上野国沼田城を本城とし、上田城三の丸跡地に屋敷を構えて治めた。江戸時代には上田藩の藩庁が置かれていた。その後、真田家は元和8年(1622年)に信濃国松代へ転封された。
この後、上田に入ってきたのは、小諸藩より移ってきた仙石忠政である。寛永3年(1626年)から現在の上田城が普請された。寛永5年(1628年)の仙石忠政の死により工事は中断され、以後の増築は行われていない。
仙石氏の転封および松平氏(藤井松平家)に藩主家が交代し、幕末を迎えた。
「南櫓・北櫓・東虎口櫓門」は2009年に公開されたアニメーション映画「サマーウォーズ」ではヒロインの実家、陣内家お屋敷の門として登場した。
城の案内
正面入り口
正面入り口

入口付近の灯篭

案内図

上田城下の町絵図。江戸時代どうだったかがわかる。

上田城は国指定の史跡になっている。そのことを示す説明版と石柱。


二の丸橋を渡って城内へ。

公園となっているが、この辺りから旧本丸跡になる。


北櫓


西櫓
西櫓は寛永3~5年(1626~1628)にかけて仙石氏によって建てられた、上田城で江戸時代から現存している唯一の建物。


真田石
東虎口櫓門右手の石垣にある高さ約2.5m・幅約3mの大石。真田信之(信幸)が松代城移封にあたり父・真田昌幸の形見として持っていこうとしたが、微動だにしなかったという。

堀・土塁
「隅おとし」は上田城の特徴のひとつとされる。上田城本丸の北東(丑寅)の方角は鬼門にあたることから土塁の隅を切り込み「鬼門よけ」としたもの。

お堀沿いに桜が植わっており、桜の季節は壮観。






けやき並木遊歩道(二の丸堀跡)
上田城二の丸の堀跡。今は、ケヤキ並木遊歩道になっている。約646間(1163m)の堀。昭和初期の昭和3年には上田温電北東線が走っていた。



案内図


本丸跡



眞田神社
歴代の上田城主である真田氏、仙石氏、松平氏が御祭神。もともとは松平家の御先祖をお祀りする御宮のため、松平(しょうへい)神社と称していた。明治十二年(1879年)創建。昭和二十八年(1953年)に真田氏、仙石氏、松平氏の歴代全城主を合祀して、松平神社から上田神社に改称。市内にあった同名他社と紛らわしいこともあり、昭和三十八年に眞田神社と再度改称し、現在に至る

眞田神社の由緒板。


眞田神社の社務所

お守りの数々


御朱印

御神木。今はなくなってしまっている。


眞田神社の拝殿


兜松の案内

眞田神社本殿。このそばに真田井戸がある。

真田井戸
眞田神社の奥にある。直径2m・深さ16.5mの井戸。言い伝えでは、井戸は抜け穴になっており、城北の太郎山麓の砦や上田藩主居館(上田高校敷地)に通じていたという。

伊勢神宮内宮遥拝所
新しい。何か由来があるのだろうか…。

招魂社

公式ページ

地図
〒386-0026 長野県上田市二の丸4−6