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高埜利彦「天下泰平の時代」(シリーズ日本近世史③)の感想と要約は?

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本書の対象は17世紀半ばから18世紀半ば過ぎまでの江戸時代です。

将軍で言えば、第四代将軍徳川家綱から第十代将軍徳川家治が統治した130年余りです。

ちょうど政治的に安定した時期でした。

本書で扱っている時代は下記にてまとめています。

岩波新書の日本史シリーズ
  • シリーズ日本古代史
    1. 農耕社会の成立
    2. ヤマト王権
    3. 飛鳥の都
    4. 平城京の時代
    5. 平安京遷都
    6. 摂関政治
  • シリーズ日本中世史
    1. 中世社会のはじまり
    2. 鎌倉幕府と朝廷
    3. 室町幕府と地方の社会
    4. 分裂から天下統一へ
  • シリーズ日本近世史
    1. 戦国乱世から太平の世へ
    2. 村 百姓たちの近世
    3. 天下泰平の時代 今ココ
    4. 都市 江戸に生きる
    5. 幕末から維新へ
  • シリーズ日本近現代史
    1. 幕末・維新
    2. 民権と憲法
    3. 日清・日露戦争
    4. 大正デモクラシー
    5. 満州事変から日中戦争へ
    6. アジア・太平洋戦争
    7. 占領と改革
    8. 高度成長
    9. ポスト戦後社会
    10. 日本の近現代史をどう見るか
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第一章 東アジアの動乱と平和の訪れ

大陸や朝鮮半島の情勢

大陸では明から清へ交替する時期でしたが、この明清交替は日本を含む東アジアに大きな影響を与えました。

朝鮮では清軍が攻め込み(丙子胡乱)、朝鮮を降伏させていました。

これに先立ち、朝鮮は「倭乱」と呼ばれた豊臣秀吉との戦いに苦しめられていました。

徳川家康の代に変わると、家康は朝鮮との通交の再会を望みます。

明清交替の琉球とアイヌへの影響

明清交替は琉球王国にも大きな影響を与えました。

琉球王国は薩摩藩の支配を受けつつ、清朝からの冊封を受ける二元的な外交体制を取ります。

蝦夷地におけるアイヌ民族と松前藩・江戸幕府の関係にも影響を与えました。

1669年、シャクシャインらのアイヌ民族が一斉に蜂起します。

アイヌ民族は大陸に渡って女真族やツングース族と交易を行っていたため、幕府は女真族(清朝)が加担するのでは無いかと危惧しました。

1671年にシャクシャインの戦いが終結すると、北方での秩序が形成されます。

対外的な窓口

明清交替の影響を受けた朝鮮や琉球の関係が落ち着き、長崎におけるオランダ商館と中国船との関係も秩序を保ちました。

寛文期(1661〜1673)には国内外の平和は安定的になります。

長崎、対馬、薩摩、松前の4つの窓口を通して異国等との交流を持ち、清朝を中心にした冊封体制と共存していきます。

1800年代にロシアやイギリス、アメリカなどから圧力が加わるまで、泰平の時代が保たれることになります。

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第二章 江戸幕府の権力機構

第四代将軍・徳川家綱

1651年(慶安4年)は明清交替による動乱で不安定な状況が続いていました。

その中で徳川家光が死去します。長子の家綱は身体の弱い11歳の男児でした。

大老・酒井忠勝、老中・松平信綱・阿部忠秋、叔父で後見を託された保科正之らが幕政を運営します。

慶安事件(由井正雪の乱)に見える構造矛盾

将軍宣下を受ける少し前に「慶安事件」もしくは「由井正雪の乱」が発覚します。

この事件で、牢人問題という社会の構造的矛盾を顕在化させます。

牢人の不満を解消させるには仕官が解決策ですが、仕官先は乏しいものでした。

同年、幕府は牢人を発生させない方策として、末期養子の禁止を緩和します。

慶安事件が幕府に与えた影響と見て差し支えないでしょう。

慶安事件とともに、国内の状況を不安定にしたのが1657年(明暦3年)の明暦の大火です。

徳川家綱政権の政策

東アジアの安定がもたらされた頃、1663年(寛文3年)に徳川家綱政権は自立した政権として踏み出します。

政権を主導した松平信綱と酒井忠勝が死去し、家綱を中心とした自立した政権へ移ります。

日光社参

同年に15年ぶりの日光社参を行いました。

日光社参には将軍が軍事指揮をとる軍事演習の意味と、日光東照宮の持つ権威を利用する意味があります。

日光社参が終わると家綱は次々に政策を展開します。

武家諸法度

代始めの「武家諸法度」を発布し、殉死の禁止を新たに加えました。

それまでの主人個人に死後まで忠誠を尽くす属人的な主従関係から、主人の家への奉公を命じたのです。

これにより主従制を安定させ、下剋上の論理を否定する効果を持ちます。

寛文印知

1664年(寛文4年)寛文印知が行われます。

家綱が諸大名へ領地判物・朱印状および目録を一斉に交付したものです。

二代・三代将軍が個々に発給したのと異なり、全大名に一斉に発給したところに意味があります。

家綱が知行体系の頂点に立ったことを明示し、将軍権力の体制的な確立を示したからです。

公家や寺院・神社にも同様に発給が行われました。

証人制度廃止

1665年(寛文5年)には譜代を除く35大名に家老などの長子を江戸藩邸に置かせる証人制度を廃止します。

殉死の禁止、寛文印知、証人制度の廃止で家綱の幕藩関係は安定します。

官僚機構の整備

官僚機構も整備します。

老中と若年寄の職掌を明確に規定します。

番方・役方の役料支給額を明細に取り決め、将軍と旗本の主従関係とは別に官僚の報酬体系が決まります。

権力機構を整え、巡見使の全国派遣、海難における決まりの交付、石高制の基準となる枡の統一などの政策を進めました。

朝廷の統制

天皇・朝廷もしっかり統制します。

幕府の統制下で天皇・朝廷が果たした機能は3つあります。

1つは元号の宣下です。2つ目は官位叙任の制度です。3つ目は国家祭祀の機能です。

しかし朝廷には一切の行政能力がありませんでした。

天皇の皇位継承は幕府の許可が必要なほどに、この時期の朝廷は統制されていました。

公家も同様で、公家の役割は禁裏小番と家業(家職)です。

二重の朝廷統制機構

朝廷の統制機構は二重に設けられていました。

1つが摂家と2人の武家伝奏による内部からの統制、2つが京都所司代と禁裏付武家という武士による外部からの統制です。

外部からの統制は、京都所司代、町奉行、禁裏付、京都代官に別れます。

宗教統制

宗教統制も行われました。

仏教に関する政策は、キリスト教と日蓮宗不受不施派の禁圧政策と連動しました。

この時期に農村部では一夫婦単位の小家族の自立が展開され、檀那寺との間に新たな寺檀関係が形成され、寺請制度が浸透して行きます。

この寺請制度を利用して信仰の確認を行っていました。

そのうえで、1671年(寛文11年)に宗門人別改帳の制度を命じます。

神社神職に対しても統一的な法度を発布します。

統制にあたっては2通りの方式を用いました。

1つ目は領主が朱印地・黒印地・除地を与えることです。

2つ目が神職の身分制のもとでの統制です。寛文5年のいわゆる諸社禰宜神主法度に方式が端的に示されています。

この結果、吉田家は全国の神職を配下におさめて組織化しました。

幕府は修験道や陰陽道などの多様な信仰を禁止しませんでした。

そしてこれらを集団として組織化して統制しました。

修験者は天台宗聖護院門跡と真言宗醍醐寺三宝院門跡、陰陽師は公家の土御門家が組織化しました。

第三章 新たな価値観の創出

第五代将軍・徳川綱吉

将軍綱吉は末期養子で誕生しました。

家綱死後二日で出された鳴物停止令の期間が過ぎると、権力機構の整備に着手します。

憲政を振るっていた大老を罷免し、「越後騒動」を再審議して権力を誇示しました。

堀田正俊を大老、牧野成貞を側用人に登用すると、農政を正すために幕領支配の代官たちの刷新を図ります。

不正代官の処分を厳格に行い、幕府初期に在地勢力と妥協した残滓を淘汰しました。

幕府権力の安定と勘定機構の整備に妥協の余地のない処分だったのです。

徳川綱吉政権の政策

1683年(天和3年)綱吉は代始めの武家諸法度を発布します。

第一条が最も重要ですが、武家にとって第一に重要なことを弓馬の道から忠孝と礼儀に改めました。

大陸で10年続いた三藩の乱が終焉し、東アジアが安定し、国内に不安定要素がないことから、軍事的緊張を高めるのは相応しくない状況となりました。

学問と文化の重視

綱吉政権は学問と文化を重視しました。

儒学では林鳳岡を初代大学頭に任じ、湯島に聖堂を建立し、林家の家塾は昌平黌と名付けられます。

仏教では護国寺、知足院を建立します。

神道では吉田家中心の神道政策をさらに推進させました。

天文暦学では渋川春海に改暦を命じ、貞享暦を採用します。

和歌の研究のために歌学方を設けて和歌や古典研究を行わせます。

また、新たな時代の価値観に抵抗する「かぶき者」である旗本奴を取り締まりました。

生類憐みの令と服忌令

そして生類憐みの令と服忌令の表裏一体となり政策を打ち出します。

生類憐みの令の対象は捨て子や捨て病人、行き倒れ人、道中旅行者の病気保護など、弱者も含まれました。

20年以上にわたって生類憐みの令が出されたことで、泰平で情けのある社会を到来させました。

服忌令も生類憐みの令と表裏の関係ながら一体となって社会の価値感を転換させました。

生類憐みの令が仏教の思想に基づくのに対して、服忌令は神祇道と密接に関係して、死や血を排除する思想に基づきました。

服忌令で服喪期間や忌引き期間などを細かく規定しました。同時に血の穢れを排する規定も含んでいました。

1701年(元禄14年)に浅野長矩が即日切腹を命じられたのは、勅使を饗応する江戸城内での儀式を、血で穢したのは服忌政策重視の観点から許しがたい事件だったのです。

死を忌み嫌い、血の穢れを排する服忌の制度は武士の世界のものではなく、古代から朝廷や神社において存在してきたものでした。

これを綱吉政権が武家社会に制度化したのです。

朝廷との関係

戦前から長らく江戸時代の朝廷は一体となって幕府と対抗する関係にあったと考えられてきました。

しかしそうではなく、幕府による朝廷統制策うぃ受け入れる立場と、朝廷復古を目指す立場が存在していました。

綱吉政権の時代は両者の立場が鮮明になった時期でした。

朝幕協調路線が摂家近衛基煕、朝廷復古路線が霊元天皇でした。

こうした中で221年断絶していた大嘗祭が行われました。

側用人・柳沢吉保

綱吉は柳沢吉保を側用人に取り立てて側近政治を行い、老中会議制を形骸化させます。

諸国に巡見使を派遣し、全国を統治する権限を行使します。

1686年(貞享3年)幕領・私領を問わず、全国に鉄砲改めを命じます。

1697年(元禄10年)国絵図・郷帳の作成を命じます。次いで全国の交通制度である宿駅制の充実を図ります。

東大寺再建にも国家統治の権限を行使します。1567年(永禄10年)松永久秀の兵によって大仏殿が焼かれて以来、百数十年振りに大仏殿を再建します。

その他にも寺社造営・修復を行い、その数106例に及びました。

しかし、こうした寺社造営修復は幕府財政を大いに圧迫したと考えられます。

財政担当・荻原重秀

1694年(元禄7年)柳沢吉保が老中格になると、財政に長けた荻原重秀を登用します。

おりしも財政が赤字であり、荻原重秀は金貨の改鋳を行い、質の低下した元禄金銀に鋳なおしました。

このような政策が採られたのは綱吉政権という強い国家権力があったからでした。

1703年(元禄16年)11月に大地震が江戸を襲いました。

4年後、1707年(宝永4年)東海・南海地方で大地震が発生し、その後富士山が噴火しました。

綱吉は早急に復旧策を打ち出しましたが、ここにも綱吉政権の権力の強さが見えます。

第六代将軍・徳川家宣

1709年(宝永6年)に綱吉が亡くなると、徳川家宣が六代将軍になりました。

間部詮房と新井白石

綱吉の側用人の柳沢吉保は隠居し、新たに間部詮房を登用しました。間部を補佐したのが新井白石でした。

家宣の側用人政治の特徴は、将軍の意向を受けた間部が老中層の会議に参加し、会議の結果は間部が単独で将軍に報告するもので、老中による政権運営を抑制し、将軍の判断が直接政策に結びつくものでした。

徳川家宣政権の政策

家宣は生類憐みの令を廃止し、老中や側用人への賄賂を否定しました。

威圧的に将軍の存在を誇示しなかったのは新井白石を用いた家宣政権の個性でした。

この特徴は武家諸法度に現れます。儒教色の強い性格になりました。

一方で荻原重秀とその配下を排除することができず、通貨問題は未解決のままとなります。

対朝廷(近衛基煕の全盛期)

この頃、朝廷では近衛基煕の全盛期でした。娘が家宣の御台所にもなっていたためです。

近衛家の勢力が盛んなため、朝廷復古の動きは抑制されますが、この対立構造が宝暦事件や尊号事件で顕在化します。

新井白石の時代

新井白石の提言が実施されることが多かったため、新井白石の時代と評価することがあります。

しかし、勘定奉行の荻原重秀とは政策で対立しました。

徳川家宣が病没し、政権は四年で終え、継いだ家継は幼児であったため、将軍の権威が弱体化したのは明らかでした。

代行する間部詮房と新井白石は儀礼を重んじ、将軍の地位が格式と権威を持つような仕組み作りに努めます。

しかし家継がわずか6歳9ヶ月で亡くなり、間部詮房と新井白石の政治も終わりを迎えます。

第四章 豊かな経済、花ひらく文化

大小の開発

戦争の時代が終わると、領内の原野や荒地を耕作地に変え、大小の開発で耕作面積はおよそ倍増しました。

1654年(承応3年)33年間の工事の末に利根川が太平洋に注ぎ込まれるようになりました。江戸湾に注がれていたのを付け替えたのでした。

老中松平信綱は玉川上水の開削を指示し、江戸市中の上水道が整備されます。

各地で諸大名による開発も行われましたが、町民や旧土豪による開発も行われました。

その一例が今の千葉県匝瑳市旭市にあった椿海(つばきのうみ)の干拓です。

干拓工事は1673年(延宝元年)に完了し、翌年から新田の販売が行われました。

同じような開発として箱根用水もあげられます。

大小の開発は全国で行われ、17世紀初頭の約164万町歩から18世紀初めには297万町歩へ増加します。

耕作地の増加により生産物が増加し、人口も倍増したと推測されます。

新しい村への入植者は一夫婦単位の小さな家族で構成されました。現在の家族の単位はこの時代に求められました。

そしてこの時代に家綱政権での宗門人別改帳が制度化されていきます。

藩の財源となる米の最大の販売地は大坂でした。換金して支出に充てました。

海路の確立による流通の発展

米を運ぶ流通は河村瑞賢によって寛文・延宝期に確立した東廻り航路と西廻り航路により活発になりました。

大名たちは年貢米の換金だけでなく、特産品の販売も考えるようになります。

各地の特産品は三都の問屋を媒介して全国を市場として流通する構造が確立しました。

大小の開発による耕地拡大は17世紀でひと段落します。

当時の技術で開発できる地域が少なくなったためと考えられます。

元禄年間からは同じ面積から多量の農産物を生む方向へ向かいます。

農業技術を高め、労働力の集約的な投下や宮崎安貞の「農業全書」のような農書も農作物の栽培技術を高めました。

米の反あたり収量が増加すると、木綿や菜種、藍、たばこなどの米以外の農産物の栽培が行われるようになります。

商人の性格の変化

大量の商品が流通するようになると、商業経営のあり方や、取り扱い商人の性格も変化を迫られました。

商品量が少なかった時期は、地域間の価格差が大きかったため、稀少性のある商品を移動させるだけで利益が出ました。

しかし元禄・宝永・正徳期には、全国で商品が生産され、地域間の価格差が小さくなります。

移動させるだけでは利益が出なくなり、大量購入、大量販売によって利益を上げるようになります。

三都の問屋商人も単品を大量に扱う専業問屋が主流になり、多品種を扱う荷受問屋は減っていきます。

専業問屋は自己資本で商品を購入するため、海難事故での損失を有利に対応するため、1694年(元禄7年)に十組問屋を結成します。

文化の担い手

寛文・延宝期の文化は武家や公家・僧侶たちの支配層が担いました。

東アジアの明清交替は文化に強い影響を与えました。

漢民族の亡命や渡来により、学問・禅宗・絵画などを直接伝えたのです。

黄檗宗の隠元隆琦や明朝復興のために働いた朱舜水などです。

〇〇八景もそうです。瀟湘八景という中国の景勝地を見立てたものからきています。

また林家が用いた「華夷変態」にあらわされるように日本型の華夷意識から発する文化活動が見られました。

この流れとしては正史編纂事業である「本朝通鑑」を寛文2年に命じます。

本朝文化を伝える朝廷の文化は武家社会にも受容され浸透していきます。和歌や有職故実が武家の学ぶ対象にもなったからです。

この時期の朝廷独自の文化としては庭園と植栽にみるべきものがありました。

元禄文化になるとに担い手は町民や農民になります。

文学における松尾芭蕉や井原西鶴、近松門左衛門らを支えました。

三都の庶民により歌舞伎や相撲興業が発展していきます。

第五章 「構造改革」に挑むー享保の改革

第八代将軍・徳川吉宗

将軍職を継いだ徳川吉宗は紀州藩の家臣を幕臣に取り立てました。

前政権の間部詮房、本多忠良、新井白石を罷免し、御側御用取次(御用取次)を新設します。

御用取次には各種情報が必要なため、紀州藩から広敷伊賀者を用い、享保11年から御庭番と呼ばれるようになります。

享保期の権力機構は、御用取次と三奉行が中枢を担い、実務官僚が政策を実施しました。

老中による合議制の政治は、吉宗政権でも主体にはなりませんでした。

新井白石の否定と肯定

吉宗は武家諸法度を五代将軍綱吉の時代のものに一語一句違わず戻して新井白石を否定しました。

一方で新井白石の「正徳新例」は継続します。金銀流出の抑制や、実情に即していたからです。

財政再建

幕府の財政再建は大きく2つの方策が取られました。

1つはいかに支出を削減するか、もう1つはいかに増収入を図るかです。

足高の制と上米の制

支出削減のため倹約が図られます。また、役人として役職にある間だけ俸禄を足す「足高の制」を制定します。

享保7年には「上米の制」が始まります。吉宗は人件費の増大が財政窮乏の要因と見ていました。

開発と年貢増徴策

抜本的な収入増加のために積極的な新田開発を行いました。その結果、幕領は50万石の増量となります。

徴収する年貢量を増加させる政策も推進しました。

年貢増徴策は、定免法の採用、有毛検見法の導入、三分の一銀納法による増徴策です。

農民にしてみれば搾取の強化であり、各地で質地地主と質地小作人の関係が生まれていきました。

一揆による抵抗が増え、一揆は享保期に明らかに増加します。特に幕領各地で増えました。

地主の肯定

享保7年に「質流れ地禁止令」が出されると、徳政と誤解した農民が取り戻そうとして騒動が起きます。

誤解を生みやすいため、享保8年には撤廃され、結果として質地地主の存在を体制的に容認します。

太閤検地以来、領主と農民の間の中間搾取を否定してきた原則を覆し、中間の地主の存在を公認し、明治時代以降の社会を規定しました。

大名と将軍の関係

財政再建にめどが立つと、日光社参を挙行し、大名と将軍の主従関係か確認しました。

幕藩関係における将軍権力の復活・強化は、尾張藩主・徳川宗春に対する譴責処分で効果をあげました。

御三家を処分できる実力を持っていることを誇示したのです。

特定の労働を請け負う人々

生産力の上昇を前提に社会は変容しました。浮遊労働力が都市や周辺に存在し、町人が仕事を請け負い、幕府や大名がこれを利用しました。

江戸で各種の労働を請け負い、幕府に認可されて仕事を独占するものが見られました。

辻番請負組合、飛脚仲間、上水組合、ごみ取り請負仲間、火消仲間などです。

町の居住者は、労働を義務として負っていたのが、専門に請け負う人々が現れ、金銭によって労働を購入するようになります。

制度的な統治の整備

吉宗は次期の家重政権を見越して、個人の能力にかかわらない制度的な統治権力の形成を進めます。

綱吉政権で制度化された服忌令に追加ものは明治維新まで通用することになりました。服制も同様です。

公事方御定書を始めとする法制的な統治は社会に浸透していきます。

延享2年(1745年)に幕府は仏教諸宗派の寺院本末帳を提出させ、寛保2年(1742年)には勧化制度を整備し、全国の主だった寺社の造営・修復費用の助成を御免勧化を制度化する方式で行います。

勧化制度が整うと、相撲の勧進興行も再開されます。

朝廷との関係

将軍の地位に価値と権威を保つため、天皇と朝廷の協調関係の持続も図られ、桜町天皇の即位時に大嘗祭の再々興し、以後今日まで耐えることなく続けられるようになります。

延享元年(1744年)の甲子年には302年中断されていた七社奉幣使、425年中断されていた宇佐・香椎宮奉幣使を再興します。

奉幣使発遣にあたっては日光例幣使の格を上回らないことと仏教色の排除を命じました。

これらと並行して朝廷・公家の統制の枠組みの整備や引き締めを行いました。

第六章 転換期の試みー田沼時代

第九代将軍・徳川家治

宝暦10年(1760年)、家治が将軍になると、老中に協力する形で田沼意次は政策に参画します。

徳川家治の権威を高め誇示する政策が取られ、諸国巡見使の派遣、将軍の日光社参、将軍襲職を祝賀する使節の迎入れなどがされました。

国役不真による治水工事を継承して進めました。

田沼意次

田沼意次は明和4年(1767年)に側用人になり、安永元年(1772年)には老中になります。

重商主義的政策

田沼意次の政策は年貢増徴策ではなく、商品流通を活発にさせ、幕府が利益を獲得して財政を豊かにしようとするものでした。

重商主義的な財政策と評価する考えがあります。

安永元年に通貨政策として画期的な南鐐二朱銀を発行します。銀貨でありながら金二朱として使用できたのです。

それまでは秤量で通用させていました。

干し鮑やフカヒレなどの俵物の生産を奨励しました。

天変地異による頓挫

田沼意次が権力の頂点に位置するようになった頃、天変地異に見舞われ、積極的な政策の推進が難しくなります。

三原山噴火に始まり、阿蘇・桜島の噴火、江戸・小田原地震、浅間山噴火と続きました。

印旛沼・手賀沼干拓工事は、田沼政権の性格と異なり、従来と同様の新田開発政策でしたが、田沼意次の失脚で中止となります。

宝暦事件

宝暦期には朝廷で上下の秩序が緩み、無礼が横行しました。これは財政窮乏が一因にありました。

こうした中で起きたのが「宝暦事件」でした。

摂家の認識はクーデター未遂に近いものでした。

一部の議奏を含む天皇の近臣が徒党・謀反の志を持ち、天皇に馴れそって朝廷の権を取ろうとしたというのです。

摂家による処分は幕府の指示ではありません。

戦前は宝暦事件が幕府による尊王思想に対する弾圧と理解されていましたが、正確ではありません。

垂加神道の影響を受けた天皇近臣と摂家・武家伝奏ら執行部との対立でした。

大量処分をせざるを得ないほど統制が効かなきなっていることを物語る事件でした。

宝暦から天明期は、身分制度についても社会変容に対応して制度充実を図りましたが、一方で制度の枠組みを解体させる動きの双方が同居しました。

おわりに 格差社会の広がり

幕府や藩が百姓から年貢米を収取して成り立つシステムは、商品生産・流通が進展すればするほど衰退していきました。

商品生産・流通から生じる富には偏在が見られました。

地域間の偏在、地域内の偏在などです。