藤田覚「幕末から維新へ」(シリーズ日本近世史⑤)の感想と要約は?

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覚書/感想/コメント

本書の対象は18世紀末から19世紀半ば過ぎまでの江戸時代です。

いわゆる「幕末」の時代です。

あとがきに書かれていますが、本書では2つの点に留意して書かれています。

  1. なるたけ社会史や経済史、思想史などに目配りしながら、政治過程を中心に叙述しようとした
  2. 百姓・町人身分の動向を取り込もうと試みた

本書で扱っている時代は下記にてまとめています。

岩波新書の日本史シリーズ
  • シリーズ日本古代史
    1. 農耕社会の成立
    2. ヤマト王権
    3. 飛鳥の都
    4. 平城京の時代
    5. 平安京遷都
    6. 摂関政治
  • シリーズ日本中世史
    1. 中世社会のはじまり
    2. 鎌倉幕府と朝廷
    3. 室町幕府と地方の社会
    4. 分裂から天下統一へ
  • シリーズ日本近世史
    1. 戦国乱世から太平の世へ
    2. 村 百姓たちの近世
    3. 天下泰平の時代
    4. 都市 江戸に生きる
    5. 幕末から維新へ 今ココ
  • シリーズ日本近現代史
    1. 幕末・維新
    2. 民権と憲法
    3. 日清・日露戦争
    4. 大正デモクラシー
    5. 満州事変から日中戦争へ
    6. アジア・太平洋戦争
    7. 占領と改革
    8. 高度成長
    9. ポスト戦後社会
    10. 日本の近現代史をどう見るか
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はじめに

天明7年(1787年)、全国的な打ちこわしが続きました。

田沼意次から松平定信へ政権が移行するまでの政治的空白期と、幕府の無策をついた騒動でした。

京都では禁裏御所にお賽銭を投げ入れる、御所千度参りが広まっていました。

京都では将軍に替わる天皇の姿がおぼろげに浮かんでいました。

寛政3年(1791年)から欧米諸国の船が日本に直接もしくは近海に姿を現していました。

幕末から維新への歴史は大きく2つに分かれます。

  1. 18世紀末からペリー来航直前までの約50年間
  2. ペリー来航から維新までの約15年間

第一章 近世の曲がり角ー維新の起点

松平定信による寛政の改革

天明7年(1787年)松平定信は寛政の改革を断行しました。

幕府は田沼時代の経済政策に重点を置いた時代から、ふたたび政治の時代へ転換します。

18世紀の半ば以降、かなりの藩では幕府より財政状況は危機的でした。

藩政改革の核心は次のようなものでした。

  • 徹底した緊縮による財政支出の大幅削減
  • 耕地と農地の再把握による農村の再建
  • 生活必需品など領内自給自足の強化
  • 特産物生産の症例と専売制
  • 藩士教育のための藩校の設立や拡充

藩政にすぐれた業績や見識を持つ大名のまわりに危機感をもつ大名が集まり、学び合って、優れた施策が全国に広まりました。

寛政の改革は全国的に吹き荒れた一揆・打ちこわしが引き金ではじまりました。

とられた政策は封建的社会政策ともいうべきものでした。

まず、食糧備蓄策の囲米が行われます。

天明の大飢饉による打撃から回復するための農村復興策を取ります。

旧里帰農奨励令は失敗しますが、実効性のあるものにするためヒトとカネの措置をします。

幕府代官の8割近くを交代させ、公金貸付政策を大規模に展開しました。

田沼時代の経済政策は飢饉の際に米の価格と流通を統制できず、金融市場の安定化もできませんでした。

そこで松平定信は富裕な江戸町人を勘定所御用達、米方御用達に登用します。

深刻な経済的困難に直面していた旗本・御家人を救うために行われたのが、寛政元年(1789年)の棄捐令でした。

金融市場の指導権を握るために設立されたのが、札差への資金貸付機関であり、札差を監督する猿屋町貸金会所でした。

藩の維持・再建のなかで藩を一つの国家とみる藩国家意識が強まり、幕府・将軍と藩・大名の関係は、18世紀末前後に新たな段階に入ろうとしていました。

1780年代から北太平洋産の毛皮貿易を巡り、イギリス、アメリカ、フランスなどの極東進出が始まり、諸外国の日本への関心が高まります。

中国での貿易のため、航路上の日本は寄港地、貿易の対象として浮かび上がったのです。

鎖国は北方、西方からも動揺し始めます。

寛政期に幕府がロシアにとった対処方は幕末まで続きました。

それは祖法としての「鎖国」堅持と、うらはらに紛争を回避するための管理貿易容認論です。

文化元年(1804年)ロシアのレザノフが長崎に通商と友好関係の樹立を求めて渡来しました。

しかし幕府は3年前に新規に外国交易を開始しないことで老中が一致しており、通称拒絶で一致しました。

ラクスマンに通商許可をほのめかしていたため、レザノフへの回答は日露紛争を引き起こします。

レザノフは限定的な武力行使を指示し、「文化の露冦事件」が起きます。

ロシアの攻撃と日本側の敗北・劣勢の情報は、虚実取り混ぜて各地に伝播し、実態以上の大騒動になります。

武威に裏打ちされているはずの幕府・将軍の威光を失墜させる瀬戸際に追い込みました。

緊張状態は続き、文化8年(1811年)にゴロヴニン事件が起きます。

ロシアはナポレオンとの戦争、幕府は長らくのロシアとの対峙を収束させるため早期決着を図ります。

この事件でロシアによる働きかけが弱まり、日露交渉は40年後のプチャーチン来航を待つことになります。

文化4年に幕府が求められもしないのにロシアとの紛争に関する情報を朝廷へ報告しました。

これが幕府が朝廷へ対外情勢を報告する先例になり、義務となっていきます。

蝦夷地を巡る日本とロシア

松平定信政権は田沼意次政権の蝦夷地開発とロシア貿易の政策を否定しました。

寛政元年(1798年)アイヌが蜂起すると、アイヌがロシアにつくのではないかと懸念され、新たな蝦夷地政策が模索されます。

松平定信が退陣すると、蝦夷地直轄し開発しようとする政策がふたたび頭をもたげます。

しかし蝦夷地の開発(開国)策は将軍の意向により否定され、直轄は東蝦夷地に限定されます。

文政4年(1821年)に直轄政策は中止となり、全蝦夷地は松前藩に返還されます。

フランス革命後、オランダはフランスに従属・同盟していたため、フランスと戦っていたイギリスと交戦状態になります。

対日貿易を独占してきたオランダの混乱に乗じて、イギリスやフランスの商人がしばしば渡来しました。

朝鮮との関係にも変化が出ます。

通信史の応接を江戸から対馬に変更しました。直接的な動機は幕府財政の悪化ですが、もう一つ挑戦蔑視観の高まりがあります。

天皇浮上

18世紀末から19世紀初頭に天皇をめぐり新たな動きが3つ見られました。

1 天皇・朝廷みずから朝儀や祭祀を再興・復古させ、天皇と朝廷の権威を強化しようとした動き
2 天皇と将軍の関係を大政委任という考えで説明する政治論の登場
3 日本を皇国として世界に誇ろうとする観念の強まり

この頃の天皇は光格天皇でした。

光格天皇の特徴は2つあります。

1 幕府に強い姿勢で挑もうとしたこと
2 強い君主意識と皇統意識を持っていたこと

光格天皇のいる朝廷は近世天皇・朝廷の歴史に新たな動きを見せることになり、活発な朝儀や祭祀の再興・復古の動きを見せます。

大嘗祭は10世紀の貞観式・延喜式の古代朝廷儀礼に近い形に復古させようとします。

また新嘗祭も神嘉殿を新造して天皇が親察しました。

さらに、禁裏御所を復古的に幕府に部分的に造営させます。

朝廷では空前の復古ブームが生まれます。

尊号一件

寛政3年(1791年)から寛政5年にかけて尊号一件が起こり、朝幕関係に緊張が走ります。

光格天皇が実父へ太上天皇の尊号をおくろうとして幕府は認めず公家数人を処罰した事件です。

大政委任論

18世紀末に大政委任論と皇国観念が登場します。

将軍が国政(大政)を担当する権限の由来は天皇の委任にあるという考え方です。

それゆえに将軍は天皇の臣下であるとも理解されました。

大政委任という考えは、天皇の権威によって江戸幕府の全国支配を肯定し強化する意義を持つ主張です。

ですが、大政委任論は天皇を日本の君主とし、将軍をその臣下に位置付ける説のため、関係が変化すると君臣関係が強調され、実質化が求めれてきます。

皇国観念

皇国とは天皇の統治する国、天皇を頂点に戴く国という意味で、世界一の国として誇る意味を含みます。

皇国観念は大政委任論を組み込んで日本の国の形として観念化されていきます。

幕末には皇国への狂信と激情が生み出され、尊王と攘夷が結合して尊王攘夷運動として欧米諸国への対抗エネルギーになりました。

第二章 内憂外患の時代へ

松平定信の老中辞職後も、寛政の遺老と呼ばれる老中に引き継がれました。

文化14年(1817年)に水野忠成が実権を握ると幕政は大きく転換します。

緊縮財政から貨幣改鋳による益金(出目)を新たな財源とした財政構造に転換します。

益金による財政支出の増加は、消費を刺激して商品生産を活発化させ、華やかな消費時代を生み出します。

しかし質の悪い貨幣の改鋳は物価上昇を引き起こしました。

諸大名は藩政改革にもかかわらず財政が悪化していきました。

そこで不正無尽に手を出してなりふり構わず財政を補填せざるを得ませんでした。

幕府政治の劣化

将軍徳川家斉による恣意的な政治が目に余る時期でした。

背景には側用人を兼務した水野忠成や御用取次、愛妾の養父など将軍側近が権勢をふるったためです。

この時期を「大御所時代」とよび、内外の危機に無頓着で能天気な時代と見なされました。

それを示すのが、将軍と大名の官位の異常な上昇です。そして家斉の子女の縁組先大名を、拝借金の貸与や領地の加増で優遇した不公平な措置です。

天皇号の再興

諡号+天皇号は仁和3年(887年)の光孝天皇で中絶していましたが、天保11年(1840年)に光格天皇に天皇号が送られました。

それまでは〇〇院の院号でした。954年ぶりの復古です。

アヘン戦争の影響

文化12年(1815年)ヨーロッパではナポレオン戦争が終結し、ウィーン体制が確立していました。

日本では港や周辺の海域に渡来する異国船が増えていましたが、捕鯨船でした。

文政8年(1825年)幕府は異国船打払令を発布し、渡来する異国船を砲撃し撃退するよう命じました。

戦争にはならないという幕府の甘い情勢認識によって発布されたものでしたが、16年後のアヘン戦争の情報により根底から覆りました。

異国船打払令は水戸学者の会沢安が攘夷策として誉めたたえ、「新論」は幕末の尊王攘夷運動の思想的支えになりました。

この頃、天保期の大飢饉の影響で激しい打ちこわしを伴う百姓一揆が全国的に激発しました。

そして天保8年(1837年)に大塩平八郎による大塩事件が起きます。

天保8年(1837年)モリソン号事件が起きます。

モリソン号事件をきっかけに幕府は再び江戸湾防備の再構築を模索しますが、蘭学者の江川英竜と目付の鳥居耀蔵が対立し、天保10年に蛮社の獄が引き起こされます。

幕府では大御所家斉と側近が幕政の実権を握り、内憂外患への積極的な対応策は取られませんでした。

しかし、天保11年(1840年)に中国とイギリス間でアヘン戦争が本格化し、天保13年(1842年)に南京条約が結ばれることで、東アジア世界の秩序が解体し始めます。

この情報は幕府に早くからもたらされ、欧米列強との戦争を何としてでも回避する避戦政策を、確固に一貫して採用していきます。

幕府の方針は、祖法の鎖国は維持し、戦争は回避するというムシのいいものでした。

こうした情勢下で対外的独立のために必死の政治的軍事的な努力が進められました。

その初発が水野忠邦の天保の改革です。

天保の改革

内憂外患を前に幕府に難局を乗り切る力があるのかを疑わせる事件が起きます。

三方領知替えの失敗です。

諸大名の領地を没収したり移動させるのは、世界史で見ても江戸幕府・徳川将軍の特徴的な権限でした。

将軍権限の強大さがあったのですが、所替えの撤回は将軍権力の弱体化を露呈させ、幕政運営の困難を予感させるのに十分でした。

天保の改革は天保12年(1841年)大御所家斉の死去により偶然始まります。

改革を宣言する前に、アヘン戦争を教訓に日本の砲術の西洋化を建言していました。

天保の改革はアヘン戦争情報に敏感に反応して深刻な対外危機を感知した幕藩領主の先鋭部分が、危機への政治的軍事的対応を模索する動きだったのです。

対外的な危機への具体的な対応はイギリス軍艦来日計画の情報が入ると大きく進みました。

異国船打払令はイギリスとの戦争を引き起こす危険が高いと判断され、異国船打払令を撤回し、薪水給与令を出します。

幕府は打払令から穏便な薪水給与令に変更しましたが、海岸防備は軽微なものから厳重なものへ転換し、諸大名に重い負担となります。

幕府は大規模な軍備増強を構想しましたが、財政の壁に突き当たり、兵器の西洋化は伝統的な幕府軍制と矛盾しました。

天保の改革の軍事的改革策は、具体化する前に水野忠邦の失脚により頓挫します。

寛政期から外国艦船による日本廻船への妨害や海上封鎖が憂慮されていました。

大量輸送には海上交通が重要でしたが、江戸へは浦賀水道を経ましたので、浦賀水道が封鎖されても物資が途絶えないようにする必要がありました。

そこで、銚子→利根川→印旛沼→検見川→品川のコースの開発が検討されました。

印旛沼の工事は8割ほど進んだところで台風の影響で破壊され、水野忠邦失脚とともに中止となります。

天保14年に十里四方上知令が出されました。江戸と大坂周辺を幕領とし、支配を強化するのが目的です。

しかしこれも上知の対象となった旗本や大名などの不満や抵抗により中止となります。

三方領知替えの失敗に続く領知替えの失敗でした。

内政改革の失敗

幕府財政は貨幣改鋳の益金による補填で運営されていました。

しかしこれは物価を上昇させ、さまざまな歪みを生み出していました。

天保の改革の財政対策の柱は、伝統的な倹約による支出の削減でした。

幕府は株仲間による流通統制政策採っていましたが、変更して株仲間を解散させていきます。

目的は自由な営業と売買による物価の下落でしたが、物価は思うようには下がりませんでした。

結局、幕府は株仲間の再興を許可します。

物価高騰の原因として奢侈贅沢があげられ、取り締まりがされましたが、影響は市中に及び、江戸は深刻な不景気に見舞われます。

水野忠邦は寄席の数を削減し、歌舞伎三座を移転させ、床見世を撤去させます。

これらに反発したのが北町奉行の遠山景元でしたが、水野忠邦は罷免に追い込み、後任に鳥居耀蔵を据えました。

天保の大飢饉がほぼ終息した天保9年(1838年)頃から、江戸に出てきている農民を戻して農村人口を回復させる議論がされていました。

水野忠邦は強制的に農民を村に戻す人返しを意図しましたが、遠山景元の抵抗にあいます。

結局、水野忠邦の改革は天保の改革が終わるとほとんどが元に戻りました。

幕府には強権的な手法で政治改革を行う力は無くなっていました。

幕府は政治主導を維持するために諸大名と協調し、天皇権威を取り込みながら幕政を運営していかざるを得なくなります。

第三章 近代の芽生え

第三章では学校教育と朱子学、洋学、国学などを概観します。

18世紀後半から19世紀にかけて、武士と民衆に対する学校における組織的な教育が発展します。

藩校の設立や拡充が相次ぎ、組織的な藩士教育が進められました。

庶民を対象にした郷校(郷学、豪学校)は18世紀末の寛政期から増え始め、19世紀半ば近くの天保期に急増し、明治初年度に激増して近代学校制度の基盤となります。

郷校は私塾や寺子屋とは異なり公的な性格を持っていました。

幕府は寛政の改革で朱子学を正学(官学)としました。

聖堂学問所では朱子学以外の学問(異学)の教育を禁じ、寛政異学の禁と呼ばれます。

ただし、異学の禁は聖堂学問所に限られ、朱子学以外の学問の弾圧は意図していません。

幕府は寛政4年(1792年)から朱子学を振興し、埋もれた人材を発掘するための学術試験である「学問吟味」を始めます。

幕末になればなるほど学問吟味合格者のなかから対外関係を中心に有能な幕臣が輩出されました。

寛政9年(1797年)林家の家塾を幕府直轄の学問所とします。正式名称は学問所です。昌平坂学問所、通称・昌平黌。

昌平黌で学んだ諸藩士が帰藩して藩校の教授などになったため、昌平黌と朱子学の権威が高まりました。

また、学問所の儒者らは幕府外交の現場で活躍しました。ただし、欧米との外交文書に漢文が使われなくなると、役割は著しく低下します。

蘭学は18世紀後半の田沼時代に本格化し、医学、天文学、地理学などの分野で発展しました。

元禄時代にはじまった古典を実証的の研究する学問が田沼時代に国学として発展します。

国学者は仏教や儒教など外来の思想や文化が入ってくる以前の日本古来のあり様を明らかにしようとしました。

国学者系統の神道説は復古神道と呼ばれます。

民衆の知の発展

庶民の教育機関である手習所は18世紀末から19世紀に激増し、教育爆発とも言われる現象が指摘されています。

商品生産や貨幣経済の発達により、よい奉公先を得るためなど、読み書き算盤が必要になったのが背景です。

これが日本人の識字率を高めることに繋がりました。

読み書き算盤能力や蓄積された経験などから、生産の場では改良や新たな取り組みが活発でした。

第四章 開国・開港

渡来する異国船が増え、老中阿部正弘を中心とする幕府は、新たな異国船対応策を模索しました。

軍備が整わないなかで欧米列強と戦争はできません。

即座の打払い実効ではなく、危機を煽ることで、遅々として進まない海岸防備や軍備の強化を推進しようとしたようです。

弘化3年(1846年)アメリカとフランスの艦船が渡来した情報を受け、朝廷は突如海防に関する勅書を出しました。

同時に朝廷は文化4年(1807年)のロシアの紛争状況を報告した例を根拠にして、近年の対外情勢の報告を要求します。

幕府もこれに応じて報告して、これにより朝廷は幕府の対外政策に介入できる道を開きました。

和親条約と安政の改革

嘉永6年(1853年)アメリカの使節ペリーが浦賀に、ロシアの使節プチャーチンが長崎に来航しました。

ペリーの来航は予告されていたものでした。

幕府は紛争を避けるため書翰を受領し、回答の猶予を求めます。

ペリーは来春再来日することを通告して浦賀を去ります。

幕府は同様にロシアの書翰を受けとりました。

幕府はアメリカへの回答を迫られ、朝廷への報告と、三奉行や評定所に諮問したうえで、全大名と幕臣に書翰を公表しました。

幕府が政策決定に前に全大名と幕臣に意見を徴集するやり方は、公議政治への転換の一歩になりました。

しかし政策の決定と実行は幕府が行うため、政治構造の変化はありませんでした。

老中阿部正弘は通商容認論と鎖国攘夷論の政策対立を内に抱えたままとなります。

再来日したペリーと日米和親条約が締結されました。

幕府がいかに取り繕おうとアメリカの軍事的な脅しに負けて結んだ屈辱的な条約と受け取られ、攘夷感情に火をつける結果になります。

ペリーの来航以降、幕府の政治に大きな変化が生まれました。

安政の改革と呼ばれる幕政の改革が行われ、第一に人材登用、第二に軍事力強化策が行われました。

通商条約の締結

つぎの焦点は欧米列強が要求する貿易をどうするかでした。

老中阿部正弘は安政2年(1855年)頃から貿易容認政策へ転換したようでした。

蘭癖とも称された佐倉藩主の堀田正睦を老中首座にすえ、貿易政策転換の布石を打ちます。

堀田正睦の構想は管理貿易で、幕府による官営貿易か長崎で行われていた貿易方式でした。

自由貿易へ転換するのは安政3年に下田に着任したアメリカ総領事ハリスとの交渉以降です。

ハリスは清国でのアロー戦争を脅迫の材料として、幕府が想定していた管理貿易案を一蹴しました。

幕府は通商条約締結に対して諸大名らから意見を求め、朝廷に勅許を求めることにしました。

勅許は簡単に得られるという読みがあったためです。

鎖国から開国・開港への大転換にあたり、国論の統一に天皇・朝廷を政治的に利用しようとしたのです。

これが天皇・朝廷の政治的権威を急浮上させ、幕末史に踊り出させることになります。

朝廷もやむを得ないと了承し、幕府へ判断を一任する方向でしたが、勅答案を見た公家による前代未聞の一揆・強訴により勅答案は撤回に追い込まれます。

堀田正睦は条約勅許の獲得に失敗したのです。

幕府は通商条約のほかに継嗣問題を抱えており、難局を乗り切るために彦根藩主の井伊直弼が大老に就任します。

井伊直弼はハリスが脅迫的な圧力をかけたため、勅許を得ぬままに日米修好通商条約に調印してしまいます。

その後相次いでオランダ、ロシア、イギリス、フランスと通商条約を結びます。安政五か国条約です。

これ以降反対派の切り崩しと弾圧が行われました。安政の大獄です。

幕府は開国和親、朝廷は鎖国攘夷に国論が二分されました。

開港と民衆・幕府

開港は経済的に近代への起点となりました。

安政6年、横浜、箱館、長崎の三港が開港され、自由貿易が始まると、横浜を中心に貿易が急速に発展します。

生糸は、幕末開港以降には日本最大の輸出品に成長します。

開港後に生糸輸出が増大した理由は、ヨーロッパで蚕の病気が流行し、フランスを中心に生糸産業が大打撃を受けていたから、また、日本の生糸の価格がヨーロッパに比べて安かったからでした。

しかし、急激な生糸の輸出は生糸の不足と価格高騰を引き起こしました。

物価高騰

幕末に物価が高騰しましたが、原因としては、万延元年の幕府の貨幣改鋳と慶応期の諸藩による藩札の大量発行にありました。

開港とともにメキシコ・ドルが大量に流入し、日本の貨幣とともに通用通貨として流通します。

しかし、金と銀の比価が、日本は金と銀が1対5だったのに対し、国際的には1対15でしたので、外国商人は銀貨を金貨に換えて国外に持ち出し、金が大量に流出します。

幕府は品位を変えることで、金銀比率を国際標準にします。

質を落とすことで幕府は巨額の改鋳益金を得ます。これが万延元年からの第1段階の物価高騰になります。

そして、大量の藩札の発行は通貨インフレをもたらし、慶応期の第2段階の激しい物価高騰を引き起こします。

第五章 幕末政争から維新へ

安政の大獄で反対派を強硬に弾圧した井伊直弼は安政7年に桜田門外ノ変で暗殺されます。

井伊直弼は天皇に圧力をかけ条約調印の承認を迫ります。

軍事力が整えば鎖国に引き戻すのでしばらく猶予してほしいと迫ったのです。

そして井伊直弼は天皇に要請して「戊後の密勅」の返納を命じる沙汰書を出し、水戸藩に返納を迫ります。

徳川斉昭以下への処分と戊後の密勅返納を拒絶を主張した水戸藩士らが暗殺したのでした。

一方で、貿易の急拡大はさまざまかつ深刻な問題を引き起こしつつありました。

通商条約をめぐって二分している国論の解決が急務でした。

公武合体が急がれたのです。

その象徴として孝明天皇の妹和宮ち将軍家茂の縁組である和宮降嫁が画策されます。

こうしたなかで公武合体のもとで有力大名が政治参加する中央政府としての幕府へ転換を目論んだ動きが出てきます。

政治闘争が始まり、長州藩が、ついで薩摩藩が乗り出してきます。

長州藩では長井雅楽の開国策による公武合体をはかる「航海遠略策」を藩論として動き出しました。

しかし長州藩内で通商条約と開国を容認する藩論へ反対が強まり、藩論が破約攘夷へ転換します。

老中安藤信正は和宮降嫁で公武合体を演出しましたが、幕府強化のために天皇の権威を利用したと非難され、水戸藩浪士ら攘夷派に坂下門外の変で襲われ負傷します。

坂下門外の変以降、幕府は井伊直弼の強権政治の後始末をしていました。

将軍家茂は文久の幕政改革を表明しました。

文久の幕政改革は朝廷の幕政干渉による改革で、江戸時代の朝幕関係は逆転しました。

参勤交代制が形骸化し、幕府による大名統制は弱体化します。

また、水戸藩に戊後の密勅を承認します。これは、大名が天皇から命令を受けることを認めることを意味しました。政治的な命令・指示が、朝廷と幕府の両方から出る事態となったのです。

文久2年には幕府直属常備軍の軍政改革が打ち出されます。

西洋式陸軍を創設し、幕府独自の軍事力強化をめざします。

幕府歩兵隊は筑波山の天狗党鎮圧に初めて実戦出動し、以後幕長戦争などに出陣しました。

尊王攘夷運動

朝廷では次第に尊王攘夷派勢力が主導権を握ります。

孝明天皇は公武合体により鎖国復帰を実現する立場であり、尊王攘夷派とは一線を画し、暴発を恐れていました。

尊王攘夷派は安政の大獄で処分された公家の復権を進め、和宮降嫁に協力した公武合体派の公家へ圧力を強めて排除していきます。

朝幕の合意は10年以内に鎖国復帰でしたが、朝廷は攘夷派の主導で幕府に破約攘夷を督促する勅使を派遣します。

将軍家茂は勅書を受け入れ、奉勅攘夷が始まります。

幕府は国内政治を優先すれば欧米列強との関係が悪化し、欧米列強との関係を優先すれば国内の政治的対立が激化するジレンマに陥りました。

文久2年には天皇が君主で将軍は臣下という君臣関係が明確化され、儀礼や慣行の変更が行われます。
朝幕関係では、関白と武家伝奏・議奏という朝政機構では対処できなくなっていました。

国事御用掛は尊攘派に乗っ取られ、朝廷は尊攘派に占拠されます。

その結果、朝廷では孝明天皇の意思が通りにくくなりました。

天皇は無謀な攘夷には消極的でした。

奉勅攘夷戦争は開始されたはずでしたが、長州藩を除くと、幕府も他大名も外国船への攻撃は行いませんでした。

生麦事件の賠償金を幕府がイギリスに支払うのを中止したため、イギリスが戦闘準備をはじめました。

奉勅攘夷ですので、賠償金を払わず戦争するのが筋ですが、幕府は賠償金を支払いました。

生麦事件の張本人である薩摩藩に対してイギリスは犯人の引き渡しと賠償金を求めました。

交渉は不調に終わり、薩英戦争になりましたが、薩摩藩は攘夷戦争に敗北します。

奉勅攘夷を実行した長州藩は攘夷と正反対の動きをしました。

5名の藩士を密航という形でヨーロッパに留学させたのです。

長州藩政を主導した周布政之助は、いったん攘夷を決行してから欧米諸国と交渉して開国する考えでした。

威圧に屈服して締結させられた現行の通商条約を破棄し、攘夷戦争ののち主体的に条約を結び直すという主旨です。

朝廷から尊攘派追放

孝明天皇は自らの真意と関わりなく発せられる過激な勅命に深刻な危機感を抱いていました。

天皇は青蓮院宮や公武合体派の公家と連絡を取り、過激な尊攘派の公家や長州藩勢力を朝廷から排除する計画を進めました。

これが八月十八日政変です。

排除された尊攘激派の公家7人は長州藩に落ち延びます。七卿落ちです。

尊王攘夷運動を支えた草莽の浪士たちは王政復古を期待して各地で挙兵します。

政変後の政治状況

政変によって攘夷派を切り捨てたことは、天皇・朝廷の力を大きく削ぐことにつながりました。

攘夷の督促する勅使を受け、幕府は横浜の鎖港をします。これが四国艦隊下関砲撃事件(下関戦争)を引き起こす原因の一つになります。

天皇は島津久光に密勅を与えます。

無謀な攘夷には反対し、王政復古ではなく公武合体により攘夷を実現したいと表明したのです。

攘夷の看板は下ろしませんでしたが、過激な攘夷派によって権力と権威を獲得した天皇が、公武合体派の力を頼り、攘夷を緩和してしまいます。

元治元年、長州藩は京都での勢力挽回を目指して京都に攻め上りました。これが禁門の変です。

禁門の変で長州藩が破れると、イギリスを中心とした欧米使節団は長州藩に報復します。四国艦隊下関砲撃事件(下関戦争)です。

そして禁裏御所、つまり天皇へ銃口を向けた長州藩に対して、幕府は勅命を受け出兵します。第1次幕長戦争です。長州が恭順を示したため、戦闘は行われませんでした。

慶応元年、欧米列強は天皇・朝廷に軍事的威圧を加えます。すでに攘夷派を切り捨ててしまっていた孝明天皇に踏ん張る力は残されておらず、通商条約が勅許されます。

これにより条約勅許問題に終止符が打たれます。

頑迷ともいえるほどの鎖国攘夷主義者の孝明天皇がそれを捨てたことに、万人が仰天しました。

宮地正人氏は、鎖国攘夷を投げ捨てたことにより、孝明天皇は自らの政治生命を絶つことになったと説きます。

幕府は再びの長州藩征伐で権力回復を図りましたが、諸藩に疑念を抱かれ、薩摩藩は長州藩と連携して行動するようになります。薩長同盟です。

第二次幕長戦争で幕府は劣勢に立たされます。その間に将軍家茂が21歳で大坂城中で亡くなり、一橋慶喜が将軍の家督を継ぎます。

将軍の死去を理由に停戦し、戦争は幕府の敗北に終わりました。これは幕府の権威を決定的に失墜させました。

幕府も孝明天皇も、もはや絶対的な存在ではなくなり、これ以降、倒幕させ、それに代わる新たな政体、新たな国家樹立へ歴史はすすみます。

慶応2年、孝明天皇が急死します。現在、病死説が有力ですが、真相は不明です。かつてから毒殺説と病死説の論争があります。

翌慶応3年正月に明治天皇が践祚しました。大赦が行われ、八月一八日政変以来、処罰されていた公家が許されて戻ってきました。

政体変革

有力諸侯は、天皇を頂点とした有力諸侯の公議政体樹立へ進むことを目指しました。しかし徳川慶喜が幕府権力へ固執したため失敗します。

そこで西郷、大久保らの薩摩藩の指導部は、武力を用いた政体変革を選び、機会を探り始めます。

将軍慶喜のもとで幕府は急速に軍事と政治機構の改革に取り組みます。

軍事面では、陸海軍の強化に取り組み、幕府陸軍は傭兵制になります。政治・行政機構の改革も行います。

幕府は幕府中心の新たな国家体制を作り出そうと試みていたのです。

大政奉還

後藤象二郎らを中心とする土佐藩から、平和的な道筋で新政体、公議政体の樹立を目指し、大政奉還を将軍慶喜に勧める策がたてられました。

土佐藩は平和的な政体変革に力点を置き、薩摩藩は大政奉還を拒否すれば武力で政体変革を実現することを担っていました。

実現方法に両藩には思惑のずれがありました。

慶応3年10月14日に徳川慶喜は大政奉還を天皇に願い出て、翌日勅許されます。10月24日に将軍職の辞表をだします。

慶喜は新たな国政審議機関で主導権を握ろうと考えたようです

おわりに

朝廷は大政奉還をうけ、諸侯会議を開催するために全大名に上京を命じますが、混とんとする情勢を見極めようとする大名が多く、上洛する大名は少なかったようです。

一方で、薩摩藩は武力による倒幕を目指し、大政奉還を願い出た前日の10月13日に討幕の密勅を朝廷から手にします

西郷らは諸侯会議を経ることなく、武力を行使した朝廷クーデターにより新政体の樹立を目指します。

薩長は慶喜への不信感が強く、慶喜の政治力と徳川勢力の力を削ぎ、新政体で主導権を握るため、武力による倒幕を開始します。

王政復古の大号令が出され、天皇のもとに公議政体が樹立され、戊辰戦争を経て明治政府が確立しました。

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