古瀬奈津子「摂関政治」(シリーズ日本古代史⑤)の感想と要約は?

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藤原良房、藤原基経の時代をへて、藤原道長、藤原頼通までの時代を扱っています。

この摂関時代の研究が本格化したのは、比較的最近なのだそうです。

歴史については研究が進められるようになったのは案外新しい。それは、この時代について考察する際、前代までの正史である六国史が九世紀末の光孝天皇の時代で終わっているため参照できないからである。

10世紀以降の歴史を知るためには、貴族が書いた日記、儀式書、文書、手紙などを総合的にみていかなくてはならない。

しかし、たとえば藤原道長の書いた日記「御堂関白記」が広く一般に知られるが、史料として刊行されたのは一九五〇年以降のことである。摂関期の研究は一部の研究者によって行われていたのだが、史料が公刊されるようになってようやく平安時代史の研究も盛んになってきた。

摂関期の日記や儀式書を読み解けるようになったのはこの三〇年と言っても過言ではない。日本古代史の中で、平安時代史はフロンティアなのである。

古瀬奈津子「摂関政治」(シリーズ日本古代史⑤) p1−2
岩波新書の日本史シリーズ
  • シリーズ日本古代史
    1. 農耕社会の成立
    2. ヤマト王権
    3. 飛鳥の都
    4. 平城京の時代
    5. 平安京遷都
    6. 摂関政治 今ココ
  • シリーズ日本中世史
    1. 中世社会のはじまり
    2. 鎌倉幕府と朝廷
    3. 室町幕府と地方の社会
    4. 分裂から天下統一へ
  • シリーズ日本近世史
    1. 戦国乱世から太平の世へ
    2. 村 百姓たちの近世
    3. 天下泰平の時代
    4. 都市 江戸に生きる
    5. 幕末から維新へ
  • シリーズ日本近現代史
    1. 幕末・維新
    2. 民権と憲法
    3. 日清・日露戦争
    4. 大正デモクラシー
    5. 満州事変から日中戦争へ
    6. アジア・太平洋戦争
    7. 占領と改革
    8. 高度成長
    9. ポスト戦後社会
    10. 日本の近現代史をどう見るか
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第一章 摂政・関白制度の誕生

「摂政」「関白」と「内覧」

「摂政」「関白」、そしてこれら2つと似た性格の「内覧」の特徴は、職員令に規定されていない令外官だったことです。

  • 「摂政」:摂り従うという意味。天皇に代わって政治を行います。
  • 「関白」:関かり白すの意味。天皇へ奏上することも天皇から下す命令もすべてに関与します。
  • 「内覧」:内々に覧るの意味。天皇への奏上と天皇からの仰せをあらかじめ覧ます。

「摂政」「関白」「内覧」は、官僚制の外にあって、天皇との間に特別な役割をもつ官職として登場しました。

摂関政治とは、摂関が天皇をないがしろにして自由に政治を行い、天皇と摂政・関白は対立していたと考えるのは誤りです。

摂関は天皇制を前提として成立しましたので、天皇側の要請によって摂関が生まれたとする説があります。

天皇の地位が確立し、権力・権威が拡大したからこそ、生まれたのが天皇直属の令外官としての摂関だったとも考えられます。

平安時代初期に天皇へ権力が集中しました。

奈良時代までの王権は、天皇だけでなく、太上天皇や皇后もそれぞれ政治権力を分有していました。

それが平安時代になり、皇后や太上天皇などの地位が低下したことで天皇に権限が集中することになったのです。

摂政が置かれた理由

こうした中、摂政が置かれたのは政変によるためです。

貞観八(八六大)年に応天門の変が起きます。太政官内部で散しい対立があり太政官が機能しなくなるという危機的状況の中で、藤原良房に摂政補任の勅が下されました。

これが「摂政」の始まりとされることが多いですが、藤原良房が摂政の始まりと考えられるのは、前例とされたからです。

貞観一八(八七六)年、清和天皇から購成天皇へ譲位する宣命の中で、良房の養子・藤原基経(陽成天皇の外伯父)を摂政に任ずる時に、良房が前例とされました。

摂政の最も重要な職務は、叙位(位階を与えること)・除目(官職を与えること)などの人事と、官奏という下からの奏上文を天皇に代わって覧ることです。

関白の始まり

関白の始まりは先ほど登場した藤原基経です。

必ず最初に基経に諮り、基経が受けることになりました。これは「内覧」の職掌で、関白の中核部分です。

光孝天皇の宣命によって、基経は事実上の「関白」となったと見なされます。

宇多天皇が即位した時、天皇一関白ー太政官という政治のルートができ、関白は天皇が行うことをすべて把握できるようになりました。

関白は、天皇が元服したあと天皇を補佐する職業をさすようになります。

基経が没すると、宇多天皇、次の醍醐天皇は摂関を置きませんでした。その後、摂関が設置されたのは、10世紀の醍謝天皇の子・朱雀天皇の時です。

藤原忠平が摂政となり、同じ天皇で、幼帝の時には摂政、成人すると関白に補任するという例が開かれますが、摂関常置ではありません。

摂関の常置

摂関が常置されるようになるのは、政変がきっかけです。

摂関が常置され、摂関政治が本格的に開始されたのは「安和の変」があったからです。

この政変で源氏の源高明が失脚します。

安和の変の首謀者は、源高明の次に左大臣になった藤原師尹、冷泉天皇の外成の伊尹・兼家とする説が有力です。

安和の変は、藤原摂関家と天皇の親族である源氏の権力闘争でした。その本質は、藤原氏の他氏排斥です。

また安和の変は、上級貴族の中での、天皇の血統をひく賜姓源氏と藤原氏の抗争という性格がありました。

摂関家内部における勢力争いは、激しくなり、兄の兼通に退けられた兼家は事件を引き起こします。

花山天皇寵愛の女御・忯子が身ごもったまま没したことにより、花山天皇が突然出家し、皇太子懐仁親王が一条天皇として即位したのです。

背後で暗躍していたのが兼家です。

  • 藤原兼家:女御・忯子の死を嘆き悲しんでいた花山天皇に出家を勧めました
  • 藤原道兼(兼家の二男):天皇が内裏を出るのを助けました
  • 藤原道隆(兼家の長男)、藤原道綱(兼家の子):三種の神器を皇太子懐仁親王の元に運びました

一条天皇が即位すると、外祖父である兼家が摂政となりました。

しかし、官位では、右大臣の兼家より上に太政大臣頼忠、左大臣源雅信がいました。

そこで、兼家は右大臣を辞職し摂政だけとなり、座次を太政大臣より上になると宣旨得ます。

これで摂政は、太政官から独立した官職となります。

そして、摂関の地位が親から子へと継承される仕組みが定まります。

摂関の地位が定まりましたが、兼家の三男・藤原道長は、摂関にならずに、内覧で一上という立場を二〇年にわたって続け、太政官政務を直接把握し、内実を空洞化しました。

摂関政治のシステムを考える上で忘れてならないのが、天皇の「母后」です。

天皇が幼い場合は後見し、摂関期の天皇は摂関と「母后」によって支えられました。

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第二章 道長がつくった時代

摂関政治と女性

藤原道長は摂関政治の最盛期をもたらしただけでなく、摂関政治に新たな段階をもたらしたと考えられています。

摂関期は通い婚の時代と言われていましたが、近年の研究によって、道長のように初めは妻の邸宅に通いますが、正妻とは同じ邸宅に一緒に住み、その他の妻の元へは通うという形式が多いことがわかってきています。

子どもは妻側が育てることになり、子どもに対する影響力は、妻側(母方)の存在も決して小さくはなかったことを意味します。

父親の朝廷における地位は男子に譲られますが、邸宅などの財産は女子にも譲られました。

この時期は、父系の「氏」の中に、父系の一門や一家が成立していく時側でした。ですが、「家」は成立していません。

  • 「家」:擬制的な親子関係を含んだ家族で、家職と家産を所有し、親から子へと継承していく社会の構成単位でsy
  • 「氏」:藤原朝臣のように、氏名とカバネを天皇から賜与された父系の親族集団で、氏神祭祀や寺院における祖先祭祀を共に行うが、摂関期には氏の中にさらに一門や一家という親族集団が生まれた。

「家」は経営体でもありますが、摂関期にはそれが未成立のため、女性は結婚しても夫の氏や一門へは入りません。

女性は亡くなると、夫の氏や一門の墓地ではなくて、実家側の墓地に葬られますし、法会やお盆の行事も実家方の氏寺などで行われました。

摂関政治は藤原氏の良房・基経以降の摂関家流の政治家たちによって創出された政治システムですが、母方の影響力が強い社会構造がその基盤にあったからこそ成立した政治システムであったと言えます。

院政につながる政治

道長にとっては待望の外孫の後一条天皇が即位しました。

道長は外祖父として摂政となり、二〇年間にわたり保持してきた左大臣の官を辞します。
ところが、翌年、道長は摂政を辞し、息子の顔通が代わって摂政となります。

道長が摂政だったのはわずか一年。

道長は「大殿」として隠然たる力を振るっていくことになります。

「大殿」とは貴人の当主の父の意味で、道長は公的な役職を自らは保持せず、周囲の人間を動かすことで実権をにぎりました。

従来は、摂関政治が衰退して、白河上皇以降院政になるので、摂関政治と院政の間には断絶があると考えられてきました。

しかし、最近の研究で、藤原道長の権力形態が院政へと継承されているという指摘がされています。

政務における「奏事」の成立が特徴的です。

「奏事」により、公卿を含む太政官が政務から排除されてしまいます。そして、摂関・内覧は重要な機能を果たします。

ただし、公卿が政務・儀式の運営から疎外されていくのは、必ずしも道長の創意だけとは言えませんが、「奏事」の成立により促進されたことは否めません。

道長が院政の先駆けであったのは、摂政を頼通に譲り、太政大臣を辞して以降も、大殿として摂関である頼通の背後で政治の実権を掌握していたことからも窺えます。

大殿方式が院政へと継承され、譲位した後も天皇の背後で院が政治に関与する院政が成立したと考えられます。

摂関の地位は道長・頼通の直系の血筋に固定化していきます。

院政期以降、摂関家が家格として成立し、外戚関係がなくとも摂関の地位を独占できるようになったためと考えられてきました。

院政期には一般に貴族の「家」の家格が成立することが指摘されています。

第三章 「殿上人」の世界

  • 公卿:位階では三位以上、官職では参議以上の、太政官において最高位をしめる上級貴族
  • 殿上人:四位・五位の中から選ばれる天皇の側近で、公卿予備軍

殿上人は二官八省に代表される律令官僚機構の官人です。

また、殿上人は天皇によって任命される一種の身分で、天皇の代替わりごとに選び直される点が律令官人とは異なるます。

殿上人は各天皇との関係によって成立している資格であり身分でした。

殿上人は当初は三〇人くらいでしたが、時代が下るにつれて増えていきました。

九世紀末から一〇世絶初めに平安官の使い方が大きく変化し、内裏を中心とした地区のみが使われるようになりました。

平安宮の使い方が変化するとともに、そこで行わ儀式・行事も変化していきます。

平安前期の儀式・行事は摂関期にも基本的に継承され、そこに新しい儀式・行事が加わりました。

貴族の日記は、朝廷における政務や儀式・行事の記録が主でした。

子孫が朝廷に出仕した時に役に立つように子孫へ残すことが主たる目的だったのです。

年中行事の観念が生まれたのは、摂関期でした。

キサキとキサキに仕える女房

摂関期の宮廷社会では母后をはじめとするキサキとキサキに仕える女房たちも重要な存在でした。あった。

摂関の娘は「母后」として天皇を生むのが役割のように思われがちですが、政治的にも重要な機能を果たしていました。

皇后・中宮は、単に皇子を生む存在なのではなく、摂関とは別の政治的機能を有しており、政治の表舞台で活躍していました。

外戚である摂関と母后が政治的に大きな力を発揮できたのは、「家」の制度が未成立なことが背景としてあったからです。

摂関期は女性が「家」制度に取り込まれず、独自に活躍できた最後の時期でした。

第四章 ひろがりゆく「都市」と「地方」

受領

公卿になれない中下級貴族にとって、受領は実入がよいため人気でした。

中下級貴族は受領になりたがりましたが、一方で、都で文人貴族として栄達することにも喜びを見出す者もいました。

受領以外では、東宮職、中宮職、皇后宮職の判官・主典クラスの事務官には中級貴族が就く者もいました。

また、上級貴族の家司(家政機関の職員)になる中級貴族もいました。

平安京の発展と庶民の暮らし

摂関期になると、左右京のバランスが崩れ、右京は衰退し、左京が繁栄します。

平安京内部に変化が見えるだけではなく、平安京は摂関期になると外へと発展していきます。

平安京の拡大が始まったのも、摂関期なのです。

平安京の庶民の住む場所も変わって行きます。

例えば官衙町です。

官衙町とは、本来、律令制下で諸国から上番した衛士・仕丁・織手・采女・工部などの宿所のことでした。

摂関期には、官衙町は手工業者を編成する場となりました。

院政期(一二世紀以降)になると、平安京内に「在地」という地縁共同体が成立します。

住民でもっとも多かったのは、貴族に仕えて下働きをしていた雑色です。

なかには、三代にわたって仕える譜代の雑色がいました。

摂関期には、天皇と貴族、上級貴族と中下級貴族、そして貴族と庶民の間において、主従関係が成立してくることがわかります。

平安京の祭り

庶民たちの世界が広がり、平安京に新しい祭りが誕生しました。

祇園祭です。平安京には造営当初から、官が行う賀茂祭(現在の葵祭)がありましたが、祇園祭は成長してきた都市の庶民によって始められた祭りでした。

祇園祭は祇園御霊会とも呼ばれます。

御霊会とは、元来、非業の死をとげた人々(早良親王、伊子親王など)が御霊となって疫病をはやらせると考えられていたのが、架空の外来の疫神である牛頭天王に仮託されるようになったもの。そして、一〇世紀から一一世紀にかけて、洛外の深草・八坂・紫野などで疫神をまつる御霊会が行われるようになり、それぞれ稲荷祭・祇園祭・今宮祭へと発展していった。

これらの祭りは元来民によって始められたが、疫神をまつる神社を京内におくことは朝廷によって禁じられていたため、祭りの間だけ、京内に祭神を迎えて神事を行った。その場所が御旅所である。

祭りの後、祭神は洛外の本社へ帰っていくのだが、この帰って行く行列を人々は見物した。祇園祭の場合は、三条大路・四条大路を祇園社へと東へ向かっていく。稲荷祭の場合には、七条大路を稲荷社へと東く帰っていった。

古瀬奈津子「摂関政治」(シリーズ日本古代史⑤)p130

受領と受領の仕事

受領は強欲で、地方からの収奪によって財産を築く悪役とされてきました。

しかし、近年の研究によって、平安時代の貴族社会・王朝文化を支えたのは実は受領であったことが明らかになってきました。

受領とは、国司の四等官(長官である守・次官である介・判官である接・主典である目)のうち、長官である守が権力を帯びてからの呼び名です。

親王が守となる上総・常陸・上野国では、守ではなく介が受領になりました。

受領になるには五位の位階が必要でした。

受領になることは難しく、実入りのいい受領になりたい官人は多くいました。

しかし、受領を経てから公卿や殿上人へと昇進することはほとんど無理でした。

摂関期には、身分が固定化してくるからです。

公卿ー殿上人ー諸大夫(殿上人以外の五位)という身分のうち、受領は諸大夫に該当する中級貴族です。

いくら受領として有能でも、公卿や殿上人にはなれませんでした。

税目の変化

朝廷は受領に調庸等の納入を請け負わせる体制(受領体制)を構築します。

一〇世紀以降調庸未納はさらに進行し、今までのやり方では調庸の納入を確保することは難しい状況になりました。

朝廷は新たな調庸の確保策を打ち出し、国家財政の再編を行い、恒常的な財政を維持する対策を取ります。

そのひとつが、正蔵率分制です。

正蔵率分制ができると、その他の調庸物収納は放棄されるのではなく、一〇世紀後半になるとその他の調庸物納入に対しても新しい政策が出されました。

従来の調庸物は年料と呼ばれましたが、年料制の改革のひとつが、「永宜旨料物制」です。

こうした恒常的な朝延財政の再編策の他に、臨時の行事については臨時召物制によって料物が納入されるようになりました。

租庸調から官物へ、雑徭から臨時雑役へと税目が変化し、支配の単位は人から土地へと大きく変化したのです。

第五章 国際関係のなかの摂関政治

遣唐使廃止の理由

永和五(八三八)年までは間隔をあけながらも続いていた遣唐使は、摂関期に入ると全く派遣されなくなります。

菅原道真の奏上によって遣唐使の廃止がされたと考えられていましたが、道真は、この回の遣唐使の可否を問題にしているだけでした。

唐使はなし崩し的に停止に至ったと考えられるようになってきています。

遣唐使が派遣されなくとも、僧侶や新羅商人・唐商人らによって唐の情報や文物が入手可能な状況になってきていたからです。

中国と日本の関係

延喜七(九〇七)年、三〇〇年の栄華を誇った唐帝国が滅亡します。

中国本土は群雄割拠の時代となり、五代十国時代へと突入しました。

古代日本にとって絶対的な存在であった中国は、唐帝国の滅亡を機に相対的な存在に変化して行きます。

すでに自らの国制や文化の基盤を築いたことも、中国の相対化を進めることになりました。

菅原道真以降の摂関期に、幕末までつづく日本の中国認識の枠組みが成立したのです。

朝廷は中国への国使派遣を行わなくなり、一〇世紀以降、ますます外交に消極的になりますが、貿易には関心をもっていました。

貿易が盛んに行われる一方で、朝廷は、延喜初年に渡瀬制を制定したとされています。

自由な往来を禁じ、すべて朝廷の管理下におきましたので、鎖国的な対外関係になったとみる見方が一般的でした。

しかし、近年、渡海制は伊制の中にすでに規定されていたと理解されるようになりました。

刀伊の入寇

刀伊とは中国東北部沿海州地方に居住する女真族のことです。

渤海故地で、金の建国まで勢力が分散しており、しばしば高麗へ侵入していました。

寛仁三年、刀伊が日本にも入寇(=侵攻)してきたのです。

刀伊入寇は摂関期における最大の対外危機でした。

朝廷が対外関係に消極的であっても、東アジアの国際情勢から逃れることはできないということも示しています。

中国に渡る僧侶たち

摂関期の対外関係を担ったのは前記の商人たちでしたが、もう一方の担い手は僧侶でした。

入宋巡礼僧は、入宋に際して勅許が必要なこと、勅許を得るとともに朝廷からは滞在費を支給されたこと、北宋へ赴いた後、皇帝に謁見していること、皇帝に調見した時のやりとりなどが遣唐使と極めてよく似ています。

遣唐使が姿をかえて継続していると言ってもいいです。

浄土思想

摂関期の仏数の新しい潮流といえる浄土教の成立には、国際関係が深く関わっていました。

藤原道長は浄土教を重視することになり、法成寺には浄土思想に基づいた阿弥陀堂を建立しました。

浄土思想は、阿弥陀仏を本尊とする頼通の平等院にも受け継がれました。

道長は、国内の受制度に介入してその一端を担うことで、僧侶の再生産の仕組みに自ら関与しようとしました。

宋の受戒制度は大いに参考になったに違いありません。

大宋巡礼僧を媒介として、宋の仏教は摂関期の仏教に直接的な影響を与えたのです。

国風文化の成立

遣唐使が廃止されたことによって唐風文化が衰退し国風文化が生まれたと長く考えられてきました。

近年では中国や朝鮮半島の文化を受容しそれらに基づいて国風文化が生まれたと考えられるようになってきました。

唐物は国風文化の中に取り入れられ、唐物だけ別に使われるということではなく、天皇や貴族の儀式や生活の中に日本製の品々とともに用いられました。

文化全般についてみても、国風文化は唐風文化とともに存在しました。

摂関期においても、漢詩や漢文が貴族にとってはもっとも重要な教養でした。

国風文化に取り込まれた唐風文化は相対化されましたが、まだ漢詩・漢文、唐絵の方が、和歌や大和絵と比較すると公的場面において用いられていました。

第六章 頼通の世から「末法」の世へ

摂関家の成立

藤原道長を継いだ藤原頼通は新しく外戚関係を創出することがでませんでした。

しかし、五〇年にわたり関白を務めることによって、摂関家という家格に発展させました。

鎌倉時代には摂関は五摂家(近衛家、九条家、三条家、一条家、郡家)に固定されます。

摂関になると継承される「摂録渡領」という荘園群は、基本的に頼通の時代の荘園を継承しています。

法成寺領は道長の、東北院領は上東門院彰子の、平等院領は頼通が建てた寺院の所領です。

頼通の時に、摂関家領の基盤が築かれた部分が多いのです。

院政期には、貴族社会において父から子へと継承される「家」が成立し、家格や家業が成立します。

頼通は道長の築いた地位を継承し、天皇家に次ぐ摂関家という家柄を形成していきます。

社会の不安定化

藤原道長死去の翌年長元元(一〇二八)年に平忠常の乱が起きます。

長暦三(一〇三九)年には、延暦寺来徒三千人余が頼通の邸宅高倉殿に強訴します。

在地においても民衆の成長がみえました。

在地豪族層が国術に勤める在庁官人として成長し、受領の収奪に制約がかけられました。

頼通の時代には、社会の変動が顕著になり、朝廷も新しい対応を迫られるようになったのです。

荘園の発達

摂関期の諸国においては、受領のもと、公領においては名が編成され、負名に当てられた富豪層(田猪)が官物の徴収を請け負いました。

一方で、荘園はあり、朝廷から認可された官省符荘以外にも、官物免除を受領が認めた国免荘が増加していきました。

この時期の荘園の多くは、荘園領主が荘田の耕作を田堵らに委ね、地子を納めさせる方法で経営されました。

田堵らはひとつの荘園だけではなく、いくつかの荘園の耕作を請け負っており(請作)、荘園領主の支配力は強くはありませんでした。

荘園整理令

この時期の荘園の社会における位置づけは必ずしも確定していませんでした。

荘園停止を命じる「荘園整理令」がしばしば出されたことからもわかります。

諸国においては、荘園を設立しようとする動きとそれを止めようとする国の動きが拮抗していたのです。

画期となったのは、長久元(一〇四〇)年の長久の荘園整理令です。

延喜の荘園整理令(九〇二年)以後の荘園を停止せよという整理基準で、すでに何十年も経営されている荘園を停止するなど実効性はありませんでした。

長久の荘園整理令では、現在の国司以後に新設された荘園を停止するという大幅に引き下げた整理基準になったのです。

前任国司までが認可した国免荘を正式に認可することを意味しましたが、荘園と公領の区別を明確にすることにもなりました。

武士の登場

貞盛流平氏と秀郷流藤原氏は、坂東においては地方軍事貴族として、中央軍事貴族となった一族と連携しながら発展していきました。

安和の変後、源満仲とその子どもたちは摂関家を中心とする朝廷に奉仕して、中央軍貴族として重視され、坂東中心に活動する桓武平氏より優勢でした。

摂関期には、「兵の家」出身者は必ずしも武官に任官されているわけではなく、就いている官職の仕事が優先しました。

中央軍事貴族としての活躍はあくまで緊急時に限定されていたのです。

前九年合戦と後三年合戦

前九年合戦・後三年合戦で源義家が動員できた武力は、清原氏など地元の武力と、朝廷の動員によるものであり、東国武士を組織化したとまでは言えませんでした。

義家はいまだ都に拠点をもつ軍事貴族の盟主であり、東国武士の棟梁の立場にはなかったと言えます。

末法の世

末法思想は初めから固定化されていたわけではありませんでした。

末法の世なので、来世の極楽浄土を求めるようになるというわけでもありませんでした。

浄土教家の間では、未法到来の危機感により、祖師(最澄)回帰による法華一乗・菩薩道実践を行いました。

末法思想は、教団活性化の梃子となったと言えます。

寛仁元(一〇一七)年の末法到来に向けての浄土教の広がりました。

貴族たちは、死後極楽浄土に往生するために、寺や仏像を造ったり、念仏を唱えて功徳を積みました。

こうしたなか建立されたのが藤原道長による法成寺であり、藤原頼通の平等院でした。

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