江戸時代(幕藩体制の動揺期)はどんな時代?

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人口

享保から天保期にかけての人口推計は次のようになります。

  • 享保6(1721)年 31,278,500
  • 寛延3(1750)年 31,010,800
  • 宝暦6(1756)年 31,282,500
  • 天明6(1786)年 30,103,800
  • 寛政4(1792)年 29,869,700
  • 寛政10(1798)年 30,565,200
  • 文化元(1804)年 30,746,400
  • 文政5(1822)年 31,913,500
  • 文政11(1828)年 32,625,800
  • 天保5(1834)年 32,476,700
  • 天保11(1840)年 31,102,100
大河ドラマ

1993年上半期の大河ドラマ(第31回)は16世紀末から17世紀初頭の琉球王国を舞台にした「琉球の風」でした。

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享保の改革

大河ドラマ
  • 1995年の大河ドラマ(第34回)は徳川吉宗を主人公とした「八代将軍吉宗」でした。

18世紀の初め、和歌山藩主だった徳川吉宗が将軍職に就いたころ、幕府や諸藩は財政難で苦しんでいました。

諸藩では、藩の特産物を専売するところもありましたが、支出をおさえるために家臣の俸禄を減らしたり、大坂・京都の貸付(大名貸)に頼って財政難をしのぐところもありました。

旗本・御家人、藩士などは、札差などから借金したり、内職によって生活を支えるのが普通になっていました。

徳川吉宗は曾祖父・徳川家康の時代を政治の理想として改革に乗り出します。享保の改革と呼ばれます。

享保の改革はいちおうの成果をあげますが、米価の変動が激しく、年貢増徴により生活を圧迫された農民は不満を抱えました。

財政再建

  • 倹約令…元禄文化でぜいたくになっていた武士・町人の生活を引き締めるため、きびしい倹約令をだして質素な生活を命じました。また、法会や寺社建立などの支出を抑えるようにします。
  • 上げ米…収入が不足しましたので、大名に上げ米を命じます。大名の江戸参勤の期間を半減し、石高の100分の1の米を幕府に上納させる制度で、10年近く続けられました。
  • 足高の制…旗本の俸禄の加増を在職中に限って増給するようにしました。財政支出の増大を抑え、有能な人材の登用が可能になります。
  • 新田開発の奨励…大商人の出資をもとめ、武蔵の玉川上水、見沼代用水沿いには新田村がひらかれました。収入の安定・増加を目指して幕領の年貢を引き上げましたので、百姓一揆も次第に増えました
  • 殖産産業…甘藷(さつまいも)、甘蔗(さとうきび)、朝鮮人参などの栽培をすすめます。
  • 実学の奨励…中国語に訳されたヨーロッパの書物(漢訳洋書)で、青木昆陽らに蘭学を学ばせて新しい知識の導入を図ります。

法典の整備

  • 公事方御定書…大岡忠相らに命じ、それまでの幕府の法令や処罰の先例を調べて公事方御定書をつくらせ、裁判の基準としました。
  • 相対済し令…急増する金銀貸借に関する訴訟については取り上げないで、当事者間の話し合いで処理するよう指示しました。
  • 目安箱…庶民の声を聴くため、評定所の前に目安箱を置いて投書させ、その中から小石川薬園の中に貧困者のための施療病院として養生所を設けました。
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田沼時代

大河ドラマ
  • 2025年の大河ドラマ(第64回)は蔦屋重三郎を主人公とした「べらぼう〜蔦重栄華乃夢噺〜」でした。

9代将軍に徳川家重、10代将軍に徳川家治がなりますが、家治は政治にはかかわらず、田沼意次が権勢をふるっていました。この20年間を田沼時代と呼んでいます。

田沼意次は幕府財政を救うため、大商人たちの経済力を利用して積極的な政策をとります。

  • 幕府直営の座を設けて銅や鉄などを専売
  • 一般商工業者の株仲間を公認して、運上・冥加金を徴収
  • 俵物(海産物)を増産して中国に輸出

しかし、災害などにより計画が中断されたり、賄賂の横行など政治が乱れました。

  • 下総の印旛沼、手賀沼の干拓事業が大洪水で失敗
  • 武蔵・上野に反物、綿糸の検査所を設置して検査料の徴収を考えるも、農民の一揆により廃止
  • 新しい計画をたてると、利権を得ようとする業者が暗躍し、役人のあいだに賄賂が行われる

田沼時代の蝦夷地の開拓

北海道、千島、樺太は蝦夷地と呼ばれており、大部分はアイヌが居住し、西南の一部に松前氏の所領となっていました。

松前氏は幕府からアイヌとの交易する権利を得て、本州の産物との交換により利益を得ていました。

田沼時代にロシア船が蝦夷地近海にあらわれ通商を求めてきます。

仙台藩の医師・工藤平助は「赤蝦夷風説考」を田沼意次に献上し、対ロシア、蝦夷地開拓の必要性を説きました。

田沼意次は最上徳内らに銘じて、蝦夷地を調査し、報告に基づき俵物増産に力を入れました。

18世紀の飢饉と百姓一揆

18世紀を通じて災害が起き、凶作、飢饉がおきます。それに加えて、領主の年貢が重くなると百姓一揆が各地で起きます。

  • 宝永4(1707)年 富士山大噴火 駿河・相模で降灰による田畑大被害
  • 享保17(1732)年 西日本一帯に大量のうんかが発生 稲作が大打撃 餓死者1万2000人、飢民265万【享保の大飢饉】

江戸でも米価が上がり、米の買い占めをした商人が打ちこわしに合います。

江戸時代の百姓一揆は3000以上知られますが、近世の前期はそれほど多くなく、村役人などが代表になって領主に訴える代表越訴型の一揆でした。

代表的なのが、下総の佐倉惣五郎で、一揆の代表者が義民として伝説化されました。

18世紀にはいると農民が団結して蜂起する惣百姓一揆になり、18世紀末には一揆の件数も増えました。

要求も年貢の減免の他、街道の人馬徴発への反対、村役人の不正の非難などが加わり、規模も大きくなりました。

村では村役人と平百姓が対立して村方騒動に発展することが多くなり、都市では打ちこわしが盛んになります。

天明の大飢饉

田沼時代の天明3(1783)年から天候異変起きます。梅雨が明けきらないうちに秋雨前線が停滞したようです。典型的な冷夏になりました。

また、浅間山の大噴火があり、これにともなって東北地方を中心に冷害がつづき多くの餓死者をだしました。しかし、天明の飢饉は浅間山の噴火と関連づけられることが多いですが、冷害や水害の多発と時間的に合いません。

どうやら前年にエルニーニョ現象が発生していた可能性が高いことがわかりました。この結果、日本では暖冬と冷夏の組み合わせになります。

これに火山噴火の硫酸エアロゾルによる日傘効果が加わり低温傾向が長期化したと見られますがます。

こうして江戸時代最大の飢饉となる天明の飢饉が起きました。

各地で百姓一揆がおき、天明7(1787)年、江戸、大坂などで天明の打ちこわしがおきました。

田沼意次はその前年、失政を問われて老中を罷免、領地を没収され、田沼時代が終わりました。

寛政の改革

天明の打ちこわしが鎮まったあと老中になったのが8代将軍徳川吉宗の孫・白河藩主・松平定信でした。

11代将軍徳川家斉の補佐役となり、幕政の改革に乗り出します。寛政の改革と呼ばれます。在職は6年でした。

江戸時代において、朝廷は伝統的な王朝の意味合いしか持ちませんでした。松平定信が、動揺する幕府政治を正当化するため委任論を理論づけしました。朝廷が幕府に政治を委任している以上、幕府が自由に政治を行うことができるというものでしたが、委任されているということは、朝廷の方が上位にあるという諸刃の剣でした。

この松平定信が田沼政治を一掃します。

  • 営利事業の大部分のとりやめ
  • 株仲間の税の一部廃止

行った政策

  • 棄権令…旗本・御家人を救済するため、札差の貸金を帳消しにする
  • 農民を農村に戻す…農村の復興のため、農村から都市に出稼ぎに来ている農民を出身地にもどし、農具代や食料を与えて自立できるように努めました。
  • 人足寄場…江戸に流れ込む浮浪者、無宿者が大きな社会問題になっていたため、火付盗賊改方・長谷川平蔵の意見により、江戸石川島に人足寄場を設け、治安維持を図りながら、職業訓練を行いました
  • 囲米…天明の飢饉から、社倉、義倉を設けて米穀の貯蔵をすすめます
  • 七分積金…江戸で町民が負担する町費を節約し、節約分の7分(7割)を積み立て、火災や飢饉の救助にあてることにしました

一方で、松平定信は言論を厳しく統制しました。小説や政治を批判、風俗を乱すものは禁止されたので、町民の不満をまねきました。

寛政異学の禁…寛政2(1790)年、聖堂付属学問所では朱子学だけとして、他の学問を禁じます。

役人の登用試験も朱子学に限ります。

林家による聖堂学問所も、幕府官立の昌平坂学問所に改められます。

海防

  • 寛政4(1792)年、林子平「海国兵談」 海防の必要性を説きましたが、無用に人心を動揺させたとして処罰
  • ロシアの使節ラクスマンが根室にきて、大黒屋光太夫を送り届け、日本との通商を求めました

これらを受け、松平定信は海防に力を入れ、相模や伊豆の海岸警備の状況を視察しました。

諸藩の改革

殖産興業の推進と専売制度を強化し、名君として評判の高い藩主も現れます。

  • 熊本藩 細川重賢
  • 米沢藩 上杉治憲
  • 秋田藩 佐竹義和

海外からの通商要請

世界の情勢は大きく変わっていました。16世紀はスペイン、ポルトガル、17世紀にはオランダ、ついでイギリス、フランスが海外に進出します。

ロシアは東方進出に力を入れ、18世紀初めにはシベリア経由で日本近海に現れ、オットセイなどの毛皮をとるようになります。

  • ラクスマン来航
  • 文化元(1804)年 レザノフが長崎に来航し、日本との通商を求める

幕府は近藤重蔵や間宮林蔵を派遣して、千島、樺太の探検を行い、蝦夷地を幕府直轄地として北方の警備を厳しくします。

南からはイギリスやアメリカがやってきました。

文化5(1808)年 フェートン号事件 イギリス軍艦フェートン号がオランダ船を追って長崎に侵入して乱暴を働いた事件

その後もイギリス、アメリカの捕鯨船が日本近海に現れました。

文政8(1825)年 異国船打払令(無二念打払令)を出して、鎖国体制を守ろうとします。

天保8(1837)年 モリソン号事件 漂流した日本人の送還と日本との通商交渉のため江戸湾入口に来航したアメリカ船モリソン号を撃退する事件

大御所時代と大塩の乱

松平定信は在職6年で老中を罷免させられます。そのあと19世紀初めの文化文政期(化政時代)に政治をとったのは11代将軍徳川家斉でした。

天保年間に将軍職を徳川家慶に譲りましたが、大御所として50年間政権を握りました。この時代を大御所時代と呼びます。

内外ともに緊迫した情勢でしたが、側近にすぐれた人物がおらず、将軍のぜいたくな生活を諫めるものがおらず、政治は腐敗し、田沼時代の悪い部分だけが再現されました。

19世紀半ば近くの天保年間には、天明の飢饉に劣らずひどい凶作がつづき、天保の大飢饉が起きました。

都市でも食料が買えず餓死する者があいつぎました。そのため百姓一揆や打ちこわしが各地で起きます。

天保8(1837)年、畿内でも米不足となり、幕府は救済措置をとらずに上方の米を江戸へ送ろうとしたため、いきどおった大坂町奉行の元与力・大塩平八郎が豪商を襲って金や米を奪い、貧民に分配しようとした大塩の乱がおきます。

乱は密告によって失敗しましたが、大塩平八郎は有名な陽明学者でもあったため、事件は全国に伝わり、越後柏崎では国学者・生田万による生田万の乱がおきるなど、大きな影響を与えました。

化政文化

天保の改革

大御所の徳川家斉は大塩の乱の対策を行わないまま、天保12(1841)年に亡くなります。

老中・水野忠邦は、天保の改革を断行して、幕府権力の強化に努めます。

きびしい倹約令を出し、武士や庶民にぜいたくな生活を禁じ、風俗の取り締まりを行いました。

禁じられたもの

  • 華美な衣装
  • 高価な菓子・料理
  • 季節外れの野菜や魚類を高く売ること

娯楽施設を制限し、上演する内容も限定しました。

  • 劇場を市中から場末へ移転
  • 500軒あった寄席を15か所に制限

出版を統制し、作者が処罰されました

  • 柳亭種彦
  • 為永春水

農村では副業を制限

取り締まりが厳しいため、人々の間で不満がたまります。

物価が高いのは商工業者が株仲間をつくって価格統制を行っているためと考え、株仲間を解散して自由競争を行わせましたが、商品流通は悪化しました。

農村の再建のため、人返しの法を出して、農民を農村に帰らせました。

上知令をだし、江戸、大坂周辺の大名・旗本領を幕府領(天領)にして幕府権力を強化しようとしましたが、激しい反対にあい、水野忠邦は2年で失脚します。

西南の雄藩

財政再建は幕府だけでなく諸藩でも行われていました。西南の大藩では長崎を通じて海外の事情をしり、新しい文化を取り入れており、藩政改革も東国より進んでいました。

西南の大藩では新しい知識や軍事力によって力をつよめ、幕末の政治上に大きな発言権を持つ雄藩へ成長します。

薩摩藩

深刻な財政難に苦しんでいましたが、調所広郷が中心となって藩の借金をほとんど帳消しにし、琉球貿易や砂糖の専売制度などによって天保年間には財政を立て直しました。下級武士を登用し、洋式砲術の採用、機械工場の設立などを進めます。

藩主・島津斉彬は反射炉を作って鉄などを精錬し、様々な近代工業技術を導入します。

長州藩

村田清風が中心となり、負債の整理や紙、蝋の専売などで財政を立て直します。洋式の軍備を取り入れ、下級武士を登用しました。

佐賀藩、土佐藩

才能のある藩士が藩の実権を握るようになり、新しい制度が取り入れられていきました。佐賀藩では大砲を鋳造しました。

水戸藩

藩主・徳川斉昭が江戸の石川島に造船所をつくりました。(幕府も横須賀に製鉄所を作ります。)

近代工業のめばえ

近世の工業:農業と結びついた自給自足の農村家内工業
 ↓
18世紀:資本を持つ問屋が農家に道具や原料を貸す → 製品と引き換えに加工賃を払う=問屋制家内工業が広まる
 ↓
工場をつくり、賃労働者を集めて作業する方法=マニュファクチュア(工場制手工業)

例 醸造業(酒、醤油など)では早くから行われていた → 18世紀後期 織物業・鋳物業でも見られるようになる
 ↓
明治政府に引き継がれる

参考文献

テーマ別日本史

政治史

  1. 縄文時代と弥生時代
  2. 古墳時代から大和王権の成立まで
  3. 飛鳥時代(大化の改新から壬申の乱)
  4. 飛鳥時代(律令国家の形成と白鳳文化)
  5. 奈良時代(平城京遷都から遣唐使、天平文化)
  6. 平安時代(平安遷都、弘仁・貞観文化)
  7. 平安時代(藤原氏の台頭、承平・天慶の乱、摂関政治、国風文化)
  8. 平安時代(荘園と武士団、院政と平氏政権)
  9. 平安時代末期から鎌倉時代初期(幕府成立前夜)
  10. 鎌倉時代(北条氏の台頭から承久の乱、執権政治確立まで)
  11. 鎌倉時代(惣領制の成立)
  12. 鎌倉時代(蒙古襲来)
  13. 鎌倉時代~南北朝時代(鎌倉幕府の滅亡)
  14. 室町時代(室町幕府と勘合貿易)
  15. 室町時代(下剋上の社会)
  16. 室町時代(戦国時代)
  17. 安土桃山時代
  18. 江戸時代(幕府開設時期)
  19. 江戸時代(幕府の安定時代)
  20. 江戸時代(幕藩体制の動揺) 本ページ
  21. 江戸時代(幕末)
  22. 明治時代(明治維新)
  23. 明治時代(西南戦争から帝国議会)

経済史

文化史・ 宗教史

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