松平定信とは?寛政の改革を主導した白河藩主、第八代将軍・徳川吉宗の孫

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略歴

宝暦8年(1759年)-文政12年(1829年)(71歳)

江戸時代が慶長8年(1603年)から慶応4年/明治元年(1868年)の265年間なので、江戸時代中期から後期にかけて活躍した政治家です。

寛政の改革を主導しましたが、改革内容が緊縮財政であったため、急速に景気が冷え込み、庶民から不人気でした。

松平定信の前に幕閣の中枢にいた田沼意次の時代を懐かしむ声も聞かれ「白河の 清きに魚も 住みかねて もとの濁りの 田沼恋しき」という狂歌が生まれています。

寛政の改革は1787年から1793年に行われました。松平定信の祖父にあたる八代将軍吉宗がおこなった享保の改革、約50年後に老中・水野忠邦がおこなった天保の改革とあわせて三大改革と並称されます。

江戸時代に改革は度々行われているため、三大改革という呼び方はふさわしくなく、水野忠邦が自ら断行する改革の正当性を主張するために、そう呼んだという説もあります。

水野忠邦に先立つ二人は徳川の血筋の者であるから、あえてそうした人物が行なった改革になぞらえ、自らの正当性を主張しようというものということです。

さて、松平定信の改革は田沼意次が推進した重商主義を否定する格好で、緊縮財政、風紀取締りを行いましたが、庶民にも強要したのが不人気の要因となります。

蘭学も好まず、否定的な立場でした。

身分制度改定も並行して行われました。主なものとして、人材登用の手段として学力試験を行っています。この試験で見出された者の中に蝦夷地調査隊の一員に加わった近藤重蔵がいます。近藤重蔵は間宮林蔵、平山行蔵と共に文政の三蔵と呼ばれます。

ガチガチの保守的な政策だけでなく、人足寄場の設置など新規の事業にも取り組みました。この人足寄場の設置の陣頭指揮は鬼平犯科帳で人気の長谷川平蔵宣以です。

また、南町奉行には「耳袋」で有名な根岸肥前守鎮衛を起用しました。根岸肥前守鎮衛は刺青があったと噂される人物で、遠山の金さんこと遠山金四郎景元に先駆けた世情に明るい町奉行でした。

いずれも時代小説で馴染みの人物たちですが、個性的というか、一癖二癖あるような人物たちで、寛政の改革のガチガチなイメージとは掛け離れています。

長谷川平蔵などは、勝手気儘するので松平定信も少々気に食わなかったようですが、能力は評価していたようで、罷免することなく使い続けました。こうした人材登用ができた人物だったのです。

失脚してしばらくは領国経営に力を入れ、家督を譲った後の晩年は浴恩園で過ごしました。

風流な生活だったようで、登用した人材も多岐に渡ったため、松平定信の本質はむしろ開明的だったのではないかと思ってしまいます。

風流を解するのは、藩主であった白河藩に日本初の公園(南湖公園)を造った事からもわかります。

松平定信が活躍した時代は「テーマ:江戸時代(幕藩体制の動揺)」にまとめています。

家系

御三卿の田安徳川家の初代当主・徳川宗武の七男として生まれました。幼名・賢丸(まさまる)。生母は香詮院殿(山村氏・とや)。

御三卿は親藩になるので、本来なら老中にはなれませんでした。老中は譜代の役職のためです。

父・宗武の男子は長男から四男までが早世しました。そのため五男の徳川治察が嫡子になっていましたが、病弱だったようで、六男・松平定国と定信は田安家に残ることになります。

定信は田沼意次が政治舞台にいる時から「賄賂政治」として批判しました。権勢絶頂の相手を真っ向から否定するので、慌てた一橋治済によって、安永3年(1774年)白河藩に養子に出されました。

白河藩を治めていたのは久松松平家の庶流です。譜代という扱いでした。この時点で松平定信は親藩ではなく、譜代になります。とはいえ、徳川吉宗の孫ということもあり、親藩に準ずる扱いを受けたようです。

いずれにしても親藩でなくなったことにより、老中への道がひらけることになります。

定信が白河藩に養子に出た同じ年、実家の田安家では兄の治察が死去します。そのため、田安家の後継になるために白河藩の養子の解消を願い出たのですが許されませんでした。結局、田安家は十数年にわたり当主不在となります。

寛政の改革

田沼意次が失脚すると、田沼派と松平定信を老中に据えようとする御三家・御三卿との間で権力闘争が繰り広げられます。

決着をつけたのが、天明7年(1787年)5月に起きた江戸・大阪をはじめとする全国30余りの都市での「天明の打ちこわし」でした。江戸では米屋への打ちこわしが5日間も続く騒動となり、幕府に衝撃を与えます。

結果として、田沼派が失脚して、松平定信が老中に就任して寛政の改革を断行します。松平定信が老中に推挙されたのは、天明の大飢饉のおり、白河藩では餓死者が出なかった手腕を認められたからでした。

対策を練ったおかげでしたが、この手腕を認められ、第11代将軍・徳川家斉の老中首座・将軍輔佐となります。家斉は当時15歳でした。

杉田玄白は「もし今度の騒動なくば御政道改まるまじなど申す人も侍り」と言ったように、打ちこわしが引き金となっての政変でした。

寛政の改革の課題は田沼時代に進行した内外の危機に対応しながら、幕藩体制を立て直すことでした。

老中になると、定信は幕閣から旧田沼系を一掃粛清します。そして祖父・吉宗の享保の改革を手本に復古主義的な考えに基づいた寛政の改革を行い、幕政再建を目指しました。田沼の政治を悪性と断罪し、否定しています。

改革派の譜代大名を老中、若年寄、側用人にすえ、町奉行や勘定奉行などには有能な人材を登用しました。

松平定信が直面したのは、凶作の連続による年貢の減収と、飢饉対策のために幕府のたくわえが底をつき、100万両の収入不足が見込まれるという点でした。そのため、厳しい倹約令による財政緊縮政策がとられました。倹約は大名から百姓・町人に至るまで要求され、大奥は経費を3分の2まで減らされます。

経済的に困窮した旗本・御家人の救済するために寛政元年(1789年)に棄捐令を出しました。棄捐令は天明4年(1784年)以前に札差から借りた金の返済を免除し、以後の分も低利での年賦返済とするものでした。事実上借金の踏み倒しを幕府が行ったことになります。総額118万両にのぼったため、札差に大打撃となり、新規の融資が困難になるなどの混乱が生じました。

ですが、飢饉で餓死者を出さないことと、幕政を運営することは意味が違います。こうした緊縮政策では根本的な解決には至りませんでした。

幕府の財政基盤である農村対策として、農村の復興策がとられました。荒れ地の再開発や農業用水の整備のために、公金貸し付けを大規模に行います。ほかには旧里帰農奨励令(=旅費や補助金を与えて農村に帰ることを勧めた=荒廃農村の再建)があります。

寛政の改革は、飢饉が直接の引き金となった一揆・打ちこわしから始まったので、飢饉対策が重点的にとられました。そうした施策としては、囲米(=飢饉対策の米備蓄)があります。囲い米で米を備蓄させ、飢饉に備えさせるということです。

他には、猿屋町会所、人足寄場(=封建的社会政策)、株仲間や専売制を廃止、七分積金(=江戸町会所設立)などでした。

学問においても、寛政2年(1790年)に朱子学を幕府公認の学問と定め、聖堂学問所を官立の昌平坂学問所と改めて、陽明学・古学の講義を禁止した寛政異学の禁を出しました。

幕府の教学を担った林家(りんけ)を強化し、のちに寛政の三博士と称される柴野栗山(しばのりつざん)、尾藤二洲(びとうじしゅう)、岡田寒泉(おかだかんせん)らを輩出しました。

絵双紙の取り締まりを行い、風俗の刷新が図られました。洒落本作者の山東京伝、黄表紙作者の恋川春町、出版元の蔦屋重三郎らが弾圧されました。

このようにガチガチにお堅いことを言うので、「世の中に蚊ほどうるさきものは無しぶんぶといふて夜も寝られず」という狂歌が生まれます。

朝廷との関係においては、幕府権威の強化をはかる一方で、京都御所再建で朝廷側の復古的造営要求に押し切られました。尊号一件で天皇の要求を退け、公家を処罰しました。この尊号一件がのちに辞職につながったという見方があります。

林子平が外国の日本侵攻の危険を指摘しましたが、幕府は人心を惑わすとして、禁固刑を科して弾圧しました。

ですが、対外的にはロシア使節ラクスマンの通商要求があり、通商許可を覚悟しつつも鎖国は祖法であると表明し、江戸湾防備計画を自ら視察して立案しました。また北方防備のため北国郡代の新設など国防体制を模索しました。この時に近藤重蔵ら蝦夷地調査隊を派遣しています。朝鮮蔑視観から通信使の延期・対馬聘礼も決定しました。

寛政の改革は、田沼時代末期の危機的状況を乗り切り、一時的に幕政を引きしめたが、厳しい統制や倹約は民衆の反発を招いた。

しかし、貨幣経済の浸透には対処できませんでした。江戸時代を通じて、幕府は貨幣経済の浸透へに対処に苦慮し続けたのです。

定信の政策には当初強い支持が集まっていたのですが、次第に反発が強まり、さらには将軍・家斉との対立が強まると、海防のために出張中、辞職を命じられて老中首座並びに将軍補佐の職を降ろされます。老中在位は6年間でした。

辞職の理由は、光格(こうかく)天皇が実父典仁(すけひと)親王に太上(だいじょう)天皇の称号を贈ろうとして定信に反対された尊号一件、将軍・家斉の実父・一橋治済を大御所に迎えようとして、定信に反対された大御所一件などが絡んでいるといわれています。

松平定信の引退後は寛政の遺老と呼ばれた三河吉田藩主・松平信明、越後長岡藩主・牧野忠精をはじめとする定信派の老中が幕政を率いました。定信の寛政の改革の政治理念は、幕末期までの幕政の基本として堅持されることになります。

白河藩主として

老中を辞してからは、領国経営に力を注ぎました。

白河藩主としては、江戸時代後期の名君の1人として高く評価されています。藩庁は白河小峰城。日本100名城にも選出されている城です。

幕閣を退いてからしばらくした頃の寛政12年(1800年)、文献から白河神社の建つ位置が白河の関であると考証を行っています。昭和の調査によって1966年に「白河関跡」として国の史跡に指定されました。

著作に「国本論」「集古十種」随筆「花月草紙」歌集「三草(みくさ)集」自伝「宇下人言(うげのひとこと)」などがあります。

諸藩の改革

諸藩においても藩政の改革が行われていた時期でした。藩財政の危機と、百姓一揆が高揚している時期で、幕府の寛政の改革と軌を一にして、多くの藩政改革が行われました。

熊本藩主・細川重賢(ほそかわしげかた)、松江藩主・松平治郷(まつだいらはるさと)、米沢藩主・上杉治憲(うえすぎはるのり、鷹山(ようざん)の名で知られる)、秋田藩主・佐竹義和(さたけよしまさ)などです。

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同時代人

大名としては米沢藩の上杉鷹山、平戸藩の松浦静山が代表的なところです。

他には上記記載の熊本藩に細川重賢、松江藩主の松平治郷、秋田藩主の佐竹義和らがいます。

部下としては、南町奉行の根岸鎮衛、火付盗賊改の長谷川宣以、蝦夷地調査の近藤重蔵らがいます。

小説

小説の主人公としては面白みがないようで、主人公としている小説はほとんどありません。

登場する際の類型は、真面目で、頼りになる上司という役どころでしょうか。清廉な人物として書かれるのも共通しているように思われます。

同時代人には個性的で、ある意味ハチャメチャな人物もいるので、謹厳実直だが、人は悪くないという役どころは重宝なのかもしれません。

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