浴恩園跡の歴史と見どころ紹介(東京都中央区)ようするに築地市場だが、松平定信ゆかりの場所

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松平定信ゆかりの旧庭園

築地の中央卸売市場は、天下の名園とうたわれた浴恩園があったところ。旧園の跡は関東大震災で消滅し、その面影を刻んだ銅版画のみが市場内に保存されている。

築地市場駅を降りて、場外市場絵向かう途中、ふと壁を見ると銅版画を見つけた。偶然だった。

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もともと築地には広さ五万坪の小田原藩稲葉家の名園「江風山月楼」があった。このうちの約二万坪が一橋家の所有となり、後年、一橋家のものとなった。

浴恩園は、寛政四年(1792年)松平定信が一万七千余坪の地を一橋家より得て隠居した地。松平定信自らが作庭したという。完成までに2年かかったらしい。

今となっては全く面影がないが、園内には春風池、秋風池、池を囲む築山などがあり、江戸湾を臨む池泉回遊式庭園だった。まさに塵外の別天地といわれていたそうだ。

文化9年(1812年)。
松平定信が54歳の時に家督を嫡男・定永に譲り、下屋敷である浴恩園に隠居した。楽翁と号し、晩年の17間を過ごした。

文政12年(1829年)。
神田佐久間町から出火した己丑火事。またたくまに大火事となり、築地周辺へも大火は押し寄せ、浴恩園は焼け落ちたという。この2ヵ月後に松平定信は71歳で亡くなった。

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