文治政治
慶安4(1651)年、3代将軍・徳川家光が亡くなり、徳川家綱が4代目将軍となった直後に、兵学者の由井正雪による慶安の変(由井正雪の乱)が起きます。
由井正雪は幕府に不満を持つ牢人を集めて転覆をくわだてましたので、幕府は牢人が生まれる原因となる大名改易の政策をやわらげます。
その中で、50歳以下の大名には末期養子を認めました。また、殉死を禁止し、有力大名に幕府へ証人(人質)を出させることをやめるなど、戦国時代の遺風を無くす政策に改めました。
幕府は武力による政策から、法令・制度による文治政治への転換を図りました。
大名においても学問を奨励し、儒学思想に基づき領民の教化を図りました。
代表的な大名は次の通りです。
- 会津藩主・保科正之
- 岡山藩主・池田光政
- 水戸藩主・徳川光圀
- 加賀藩主・前田綱紀
元禄時代
4代将軍・徳川家綱には子がいなかったため、5代将軍には舘林藩主であった弟の徳川綱吉がなりました。
徳川綱吉による政治の時代を元禄時代と呼びます。
当初、厳しい態度で政治に臨みましたが、側用人に柳沢吉保を登用し、独裁的な政治が目立つようになります。
綱吉は学問を好み、江戸の湯島に孔子をまつった聖堂を移し、林信篤(鳳岡)を大学頭に任じました。
歌学方には北村季吟、天文方には安井算哲(渋川春海)を登用しました。
一方で生類憐みの令をだして、厳しく励行させたため、庶民の不満が募ります。
貨幣の改鋳
新井白石と正徳の治
6代将軍・徳川家宣、7代将軍・徳川家継の時代は、わずか7年ほどでしたが、将軍を補佐したのが朱子学者の新井白石でした。
徳川家宣は新井白石の意見を聞き入れ、多くの改革を進めました。
元禄時代に質を落とした貨幣を、再び改鋳し、質量ともに慶長小判に等しい正徳金を発行しました。しかし、この政策は長く続かず、のちには再び悪質の貨幣が鋳造されるようになります。
新井白石は将軍の権威づけのため、江戸城の門構え、将軍や大名の礼服を改めました。
朝廷とは融和を図るため、新たに閑院宮家を創設します。
朝鮮通信使の待遇については、これまでよりもやや簡素に改めます。朝鮮の国書に書かれていた将軍を意味する「日本国大君」を「日本国王」にあらためさせました。
長崎貿易を制限しました。中国船やオランダ船で輸入されたのは、生糸や毛織物、木綿、皮革類、白檀、木材などでしたが、これへの支払いを金・銀・銅などで行っており、金・銀の産出が減ると銅の輸出が増えたため、正徳5(1715)年、海舶互市新例(長崎新令・正徳新令)をだして、往来船の数や貿易額を制限しました。
産業の発達
農業
幕府や諸藩が新田開発を積極的に行い、各地で灌漑施設がつくられ、新しい耕地が開かれました。
- 越後 紫雲寺潟新田
初期は富のある農民が開発にあたっていましたが、町人が資本を投じて大規模に開発する町人請負新田があらわれます。
- 玉川上水、見沼代用水…武蔵野に水を供給しました
- 箱根用水…箱根芦ノ湖の水を駿河方面に引きました
技術面では作物の品種改良、干鰯、油粕など金肥の使用が進み、農具の改良・発明によって農作業が飛躍的に効率化しました。
- 備中鍬:平鍬にくらべて深く耕すことができるようになりました
- 潅水:17世紀末に畿内では中国伝来の竜骨車が用いられ、18世紀半ばからは簡便な踏車が広く使用されるようになります。
- 脱穀:扱箸から、17世紀末から18世紀初頭にかけて千歯扱が用いられます。
年貢は米のほか貨幣でも納めることができましたので、農民は現金収入が得られる商品作物を多く作るようになります。都市の近くでは野菜栽培が盛んとなります。
- たばこ
- 桑・麻…衣料原料
- 油菜・荏胡麻…灯火油原料
17世紀末には福岡藩士・宮崎安貞が「農業全書」をあらわすなど、多くの農書があらわれ、農業の生産力をさらに高めました。
漁業と鉱業
漁業は網を用いる漁法が発達しました。
漁業の盛んな地方
- 土佐沿岸(かつお)
- 五島方面(まぐろ)
- 九十九里浜(いわしの地引網)
捕鯨業は紀伊から各地に広まっていきます。
製塩は瀬戸内海沿岸が主産地で、生産された塩は全国に送られました。
鉱山
鉱山の開発も進みました
- 金山:佐渡、伊豆
- 銀山:石見大森、但馬生野
- 銅山:伊予別子、下野足尾
名産の成立
農業と結びついた自給自足の農村家内工業が主でしたが、しだいに都市の手工業者の生産が進み、各地に名産が生まれました。
戦国時代から木綿が栽培されるようになると、麻布と綿布が衣料として一般的になります。
- 綿織物業:河内、尾張・三河地方(綿花栽培がさかん)
- 縮や晒:越後地方(麻布の原料となる青苧を生産)
- 絹織物:京都の西陣、関東の桐生(18世紀に国内産の生糸が生産されると、京都の西陣の技術が伝えられました)
- 醸造業:伏見、池田、灘、伊丹など(清酒の技術)
- 紙:美濃、越前
- 陶磁器:瀬戸、九谷、有田
流通と経済活動
陸上交通
商品流通の発展にともない、全国的な交通網も整えられていきました。五街道は幕府直轄となり、宿泊、運輸、通信の施設が整えられました。
- 東海道
- 中山道
- 日光道中
- 奥州道中
- 甲州道中
街道には宿駅(宿場)がつくられ、大名は本陣、脇本陣を利用し、一般旅行者は旅籠屋、茶屋、商店などを利用しました。
問屋場が輸送業務をあつかっていましたが、幕府の文書・荷物を扱う継飛脚の業務もありました。諸大名による大名飛脚、江戸・大坂の町人による町飛脚なども生まれ、日を定めて出発していました。
庶民の旅行もしやすくなりました。人々の見聞が広まり、文物の交流も盛んになります。
- 伊勢神宮
- 讃岐の金毘羅宮
- 安芸の厳島神社
- 信濃の善光寺
- 京都、奈良、大坂、江戸などへの遊覧
- 各地温泉への湯治(上野の草津や伊香保、相模の箱根、伊豆の熱海、摂津の有馬、伊予の道後など)
一方で、治安維持の目的から要所に関所や番所をもうけ、通行人を調べ、通行を禁止する街道もありました。
水上交通
水陸の交通網は江戸と大坂を中心として発達します。物資の輸送では水上運輸がはるかに大きな役割を果たします。
- 瀬戸内海:古くからの海路
- 南海路:江戸と大坂を結ぶ重要な航路、菱垣廻船・樽廻船が定期的に就航しました
- 東廻り:陸奥と江戸を結ぶ航路、徳川家綱の時代に河村瑞賢が開きました
- 西廻り(北国廻り):出羽と大坂を結ぶ航路、徳川家綱の時代に河村瑞賢が開きました
- 大坂と北陸、松前(北海道西南部)を結ぶ北前船も活躍しました
河川も盛んに利用されます。豪商の角倉了以によって開かれた水路も活躍します。
- 関東の利根川
- 畿内の淀川
- 甲斐と駿河を結ぶ富士川
- 丹波と京都を結ぶ保津川
- 京都と伏見を結ぶ高瀬川
三都(江戸、大坂、京都)
各地に城下町が発達しましたが、江戸、大坂、京都の三都は著しい繁栄を見せました。
江戸は台地を削って海が埋め立てられ、町域がひろがり商工業の中心地が形成されます。明暦の大火後、整備がされ、人口が急増します。人形浄瑠璃や歌舞伎などの遊興施設がつくられました。
大坂と京都は上方とよばれ、大坂には多く大名の蔵屋敷が置かれ天下の台所と言われました。京都は文化的伝統に支えられた手工業が発達し、寺社参拝のために来た人々は土産を持ち帰るようになります。
三都では町屋敷は町奉行の支配下にあり、町年寄や町名主が町奉行の命令を受けて町内の自治を行っていました。
年貢の米や産物は蔵物と呼ばれ、大名はそれらを売るために大坂や江戸に蔵屋敷を設け、蔵元・掛屋などに蔵物の売却や代金の保管をさせました。
江戸では蔵米を受け取る旗本・御家人がために、浅草の蔵前(幕府の米蔵の前)に札差が店を構え、金融業を兼ねて富を蓄えました。
商人のあいだには、問屋、仲買、小売の別ができました。
問屋の中には組合(仲間)を作って利益を独占しようとするものが現れましたので、幕府はたびたび禁止しました。
18世紀になると、組合を公認し株仲間として、運上、冥加などの税金を納めさせるようになります。
代表的な株仲間
- 大坂の二十四組問屋
- 江戸の十組問屋
営業による利益には直接課税されなかったため、短期で大金を得ることができました。
- 京都の角倉了以…土木工事など
- 江戸の河村瑞賢…土木工事など
- 大坂の鴻池家…酒造、海運、金融業
- 伊勢出身の三井家…呉服店、金融業
貨幣と金融
元禄文化
庶民の生活
富を蓄えた町人に比べ、統制の厳しい農民の生活は貧しく、衣服は麻や木綿に限られ、食事も麦・粟などの雑穀が多く、家屋は茅葺、藁葺が普通でした。
参考文献
テーマ別日本史
政治史
- 縄文時代と弥生時代
- 古墳時代から大和王権の成立まで
- 飛鳥時代(大化の改新から壬申の乱)
- 飛鳥時代(律令国家の形成と白鳳文化)
- 奈良時代(平城京遷都から遣唐使、天平文化)
- 平安時代(平安遷都、弘仁・貞観文化)
- 平安時代(藤原氏の台頭、承平・天慶の乱、摂関政治、国風文化)
- 平安時代(荘園と武士団、院政と平氏政権)
- 平安時代末期から鎌倉時代初期(幕府成立前夜)
- 鎌倉時代(北条氏の台頭から承久の乱、執権政治確立まで)
- 鎌倉時代(惣領制の成立)
- 鎌倉時代(蒙古襲来)
- 鎌倉時代~南北朝時代(鎌倉幕府の滅亡)
- 室町時代(室町幕府と勘合貿易)
- 室町時代(下剋上の社会)
- 室町時代(戦国時代)
- 安土桃山時代
- 江戸時代(幕府開設時期)
- 江戸時代(幕府の安定時代) 本ページ
- 江戸時代(幕藩体制の動揺)
- 江戸時代(幕末)
- 明治時代(明治維新)
- 明治時代(西南戦争から帝国議会)