◎平安時代の年表
◎鎌倉時代の年表
平氏の台頭と鳥羽院政
鳥羽院制の開始
大治4(1129)年、白河院が亡くなります。継承した鳥羽院は、秩序を求めた祖父とは異なり、諸勢力の統合に力を注ぎます。
すぐさま蔵に封させ宝物の分散を防ぎ、勝光明院付属した宝蔵を設けました。宝蔵は宇治の平等院宝蔵や延暦寺の前唐院蔵にならったもので、王権を飾ることに腐心しました。
鳥羽院は諸国の荘園も院周辺に集中します。一度も荘園整理令を出さず、寄進を受け入れ、荘園には国役の免除や国使不入などの権利を与えました。
集められた荘園は六勝寺や待賢門院、美福門院、皇女の八条院などに所領とされ、荘園の目録は国王のコレクションに性格を有しました。
平氏による西国進出
院は宝物や荘園の他に武士も集めました。白河院は武士の出世を抑えましたが、その中で出世したのが平氏でした。平氏は京での根拠地を六波羅に置きます。
平清盛が左兵衛佐に任じられた大治4(1129)年、平忠盛は西国に勢力を伸ばし、長承元(1132)年に殿上人になります。平忠盛の昇殿は平氏による武家政権への第一歩となります。
長承3(1134)年、天下飢饉が起きます。この飢饉はその後続く中世の飢饉の端緒となりますが、同時に海賊や山賊が横行するようになります。
これ以後、飢饉や彗星、代替わりとともに徳政が求められるようになります。
飢饉への有効な対策は特に取られませんでしたが、海賊に対しては追捕がなされました。
平氏は西国の海賊追討使に任じられ、西国の豊かな国の受領となって勢力を伸ばしました。
源氏による東国進出
源氏は為義が畿内周辺に自ら出かけて勢力を広げます。
また源氏は様々な手段を講じて地方に勢力を伸ばしていきました。為義の嫡子・義朝は東国で育ち、為朝は鎮西で育ち、それぞれの地域で力を伸ばしました。
子を地方に派遣して在地の武士と主従関係を築く戦略を取ったのです。
院に仕えて主従関係を広げる武家
このように源氏と平氏は院に仕えた地位を利用しつつ、地方の武士との間に広く主従関係を築いていきました。
武士独自の慣習が生まれ、国司の統制から自由な活動を繰り広げたので、武士同士の争いが絶えませんでした。法然が父を失ったのはこの頃でした。
特権が与えられた荘園と家産に組み込まれた知行国との紛争も起きていました。
国衙の目代や在庁官人と豪族的武士との対立が合戦に至ることは広く諸国で起きていました。
荘園の免除特権を否定して国の支配を強めようとする受領や国衙と、朝廷や院から免除特権を獲得して荘園支配を強めようとする荘園側の動きが衝突しますが、摂関家の知行国も例外ではありませんでした。
保元・平治の乱
平安末期にあたるこの時期、1150年頃の人口推計は全国で6,836,900人程度でした。10世紀以降になると西日本の人口増加が鈍化し、東日本の人口増加は続いたため東日本が西日本を凌ぐようになります。
ハワイ大学のファリス氏による推計として1150年頃の日本の人口は530万人から630万人です。
保元の乱(皇位継承と摂関家の内紛)
京では皇位継承をめぐり崇徳院と美福門院が競り合っていました。これに密接に絡んできたのが摂関家の内紛でした。
保元の乱は鳥羽院が亡くなったのを直接のきっかけとしますが、事の発端は、鳥羽院政期の皇位継承問題にあります。
鳥羽院と崇徳天皇の関係悪化に原因を見出されますが、従来の研究で想定されたのは、崇徳天皇の本当の父親は鳥羽院ではなく、白河院というものでした。
しかし近年この「古事談」に書かれたエピソードはデマである可能性が指摘されています。そして「愚管抄」の叙述の信憑性についても、近年の研究は否定的です。
崇徳院は近衛天皇の養父として遇され、両者の養子関係は譲位の前後でも継続しており、崇徳院に対する鳥羽院の処遇に変化がありません。
忠通と頼長の兄弟で争いが生まれ、日本第一ノ大学生と称された頼長が氏長者の地位を奪い取りました。
家の実権をめぐる争いは武士の家でも起きていました。
源氏では源為義と嫡子・義朝との間、平氏では忠盛と兄弟の忠正との間です。
これらの争いは崇徳・頼長派と美福門院・忠通派に分裂します。
鳥羽院の政治方針は貴族社会を分断し、各派の上に調停者として君臨するというものでした。これが鳥羽院の死去により蓄積された矛盾が爆発します。
中継ぎとしての後白河天皇の登場
崇徳院と鳥羽院の関係が破綻したのは、久寿2(1155)年に近衛天皇が死去したためでした。
近衛天皇が亡くなると、法皇は側近を召して新帝の協議をします。
近衛天皇に子がいなかったため、誰が皇位を継承するのかが問題となりました。
候補は2人です。崇徳院の子・重仁親王と雅仁親王の子・守仁親王です。重仁親王を選べば崇徳院が院政を行うことになります。
ところが実際の即位したのはどちらでもなく、雅仁親王でした。後白河天皇です。守仁親王が一人立ちするまでの中継ぎのような存在でした。
後白河天皇の中継ぎの立場は歴然としていたため、後をめぐって争いがおきはじめます。
久寿3(1156)年、鳥羽法皇の病気が重くなります。法皇は源義朝・義康らの武士に臣従を誓わせ禁中の警護を命じます。平清盛も美福門院のはからいで警護に入りました。
このように後白河天皇方では鳥羽院が亡くなる前から、鳥羽院の命で武士が動員されていたのです。
実際の状況は崇徳院側が謀反を企んだというより、後白河天皇方が崇徳院方に圧力をかけ、挙兵に追い込んだのでした。
このようにして起きたのが保元・平治の乱です。源氏や平氏が中央政界に進出するきっかけとなりました。
崇徳上皇対後白河天皇による争い
保元元(1155)年に鳥羽法皇が亡くなると、すぐさま崇徳上皇が藤原頼長と軍を発して皇位を奪おうとしていると噂が立ちます。禁中の警護が強化され、検非違使らが警戒しました。
主導権を握ったのが信西でした。後白河天皇は中継ぎの天皇でしたので、立場を強固にする必要がありました。
摂関家の氏長者を象徴する邸宅が没収され藤原頼長の氏長者の権限が否定されると、上皇・頼長が対処せざるを得なくなります。
しかし武力は少なく、武力で情勢を覆そうとは考えていなかったと思われますが、崇徳上皇が白河御所に入ると挙兵したものとみなされました。
崇徳院側には源為義がつきました。かつては地位・軍事力ともに武士の首位でしたが、勢力が衰え、摂関家に臣従することで勢力回復を目指していました。
崇徳院側にはこのように摂関家に組織された武士がつきました。私的な主従関係により形成された集団を権門と呼び、御家人制による鎌倉幕府も権門としての性格を有しています。
一方で後白河天皇側は、天皇の命令で公的に動員された武士達によって構成されていました。中核は平清盛、源義朝、源義康でした。源義康の子孫が足利氏です。
教科書的には、朝廷内の政治主導権や、寄進によって生まれた荘園の支配権をめぐって引き起こされた乱で、地方から多くの武士が動員された、と説明されます。
貴族社会の内部争いも武士の力を借りずには解決できないことを示しました。
関白藤原忠通の末子の慈円は「愚管抄」でこれ以後「武者の世」になったと記しました。この認識は貴族共通のもので、時代は武士に世に着実に動いてゆきました。
上皇や摂関家を躊躇なく攻撃する武士の登場は天皇と藤原氏中心の古代社会の終焉を宣言するものでした。
保元の乱は権門という新たな組織の形成によって発生しました。乱によって大打撃を受けた摂関家は、権力や組織としての独立性が大幅に損なわれました。
平治の乱(院近臣による内部対立)
保元の乱は後白河天皇方の勝利終わったことから、後白河天皇の地位も安定し、信西が天皇を押し立てて政治改革を進めました。一方で、乱によって摂関家の勢力は大きく低下しました。
勝者の後白河天皇側では論功行賞が行われました。かつてはこの時の論功行賞が平清盛に比べて少なかったため源義朝が不満を持ったとされましたが、恩賞は合理的なものでした。
乱により、死刑復活が復活しますが、これは実力によって敵対者を葬る考え方を公的に認めることになりました。
天皇家の直轄領の充実を図り、後白河天皇の経済基盤を広げました。
荘園整理令を軸とする保元の新制
荘園整理令を軸とする保元の新制を出します。鳥羽院政では出されなかった荘園整理令が出されたのは、全国に広まった荘園をめぐって紛争が生じていたからです。
整理の眼目は、久寿2(1155)年7月24日以後に立てられた荘園を停廃止することと、年貢の免除されていた土地以外の加納や出作による荘園を停止することでした。
延久の整理令を基準としてきたこれまでの荘園整理令に比べ、大きな転換となりました。
後白河法皇の院政
乱から2年経つと抑えられていた諸勢力が頭をもたげてきます。
保元の乱から平治の乱までの3年間で重要な要素は後白河天皇から二条天皇への譲位です。
後白河天皇に中継ぎの天皇を認めてきた美福門院が退位を求めてきました。美福門院と信西の話し合いの結果、後白河上天皇は譲位し二条天皇が即位します。そして後白河院政が始まります。
もともと後白河天皇は中継ぎ的存在でしたので、既定路線でした。
天皇親政を求める勢力が台頭するとともに、院近臣の中にも家を興す動きが広がります。
上皇の寵を得ていた藤原信頼は目覚ましい出世を遂げ公卿の仲間入りをします。
一方で信西は人事権を掌握します。「平治物語」では信西が藤原信頼の大将の望みを断ったから恨みを買って平治の乱が起きたとしています。
信西が政治的実権を握ったことと、信西の子らの急激な昇進は従来の院近臣たちの反発を招きました。
政治の実権を握った信西に対する院近臣の反発と、二条天皇の親政を求める動きがあわさって政局が進みます。
藤原信頼は武力を源義朝に頼みました。義朝は保元の乱の活躍のわりに信西の評価が低く取り残されていました。
藤原信頼と源義朝の挙兵
保元4/平治元(1159)年に改元され平治元年となりますが、平清盛が熊野詣でに赴いた隙をついて藤原信頼は源義朝と挙兵します。
信頼と義朝の関係は以前からのものであり、長期的で深い信頼関係がありました。
一方で信頼の子・信親は清盛の婿になっており信頼はあえて清盛を攻撃する必要はありませんでした。
藤原信頼と源義朝が信西を攻め滅ぼし、信頼が実権を握りました。すると新たな不満が現れます。こうした状況で平清盛が帰京し、事態が大きく動きます。
この争いで平清盛は源為朝を倒して、諸国武士団の上にたつ武家の棟梁になり、平氏全盛の基礎を固めます。
平治の乱は基本的に院近臣による内部対立が原因で、動員も個別の武力にとどまりました。しかし主要な院近臣が没落し、平清盛の政治的台頭を招きました。
- 2012年筑波:鎌倉幕府の成立過程について、「後白河法皇」「藤原泰衡」「壇の浦」「地頭」の語句を用いて回答することが求められました。
- 2007年筑波:平安時代後期における院政のあり方について、「南都・北嶺」「院宣」「平清盛」「熊野参詣」の語句を用いて回答することが求められました。
平氏による武家権門の成立
平清盛が活躍した時代が舞台の大河ドラマ
- 2012年の大河ドラマ(第51回)は平清盛を主人公とした「平清盛」でした。
- 1972年の大河ドラマ(第10回)は平清盛を主人公とした「新・平家物語」でした。
平清盛の政権を史上初の武家政権に位置づけ「六波羅幕府」と呼ぶ学説もあります。
乱後の平氏の知行国は五カ国から七カ国に増え、平氏は多くの荘園や知行を得て富を蓄えました。平清盛は日宋貿易に力を入れ、瀬戸内海航路をととのえ、大輪田泊(神戸港)を修築して、宋船を畿内までひきいれ、貿易によってさらに富を大きくします。
平清盛は上皇・天皇の両勢力から頼みにされ、永暦元(1160)年に公卿になります。
政治の役割分担
上皇と天皇による二頭政治が行われて、武力の面で平清盛が支え、政治の面で摂関が支えました。
永暦元年に美福門院が亡くなると上皇側と天皇側の対立が深まります。
応保元(1161)年、二条天皇は院政を停止しました。失意の後白河上皇でしたが、平氏や院近臣の仲介等で後白河院領が急増し経済的基盤が拡大しました。
「治天の君」後白河院
永万2(1165)年に二条天皇が亡くなります。後白河院政が完全に復活し、「治天の君」になりました。
仁安2(1167)年、平清盛は太政大臣になります。平清盛は短期のうちに太政大臣を辞し、政界から形式的に身を引き、平重盛に家督を譲ります。
平清盛の娘・徳子(建礼門院)は高倉天皇の中宮となります。
平清盛はすぐに太政大臣を辞任しますが、嫡子の重盛には、東山、東海、山陽、南海の諸道の賊徒の追悼を命じる宣旨が下されます。
重盛は武官の地位にはなく、より高位にありました。この宣旨は朝廷の官職と関わりなく全国の賊徒追討を命じることで、軍事・警察機能の担い手として位置付けたものと評価されます。
平氏は武家の長としての地位を獲得したのです。
こうした平氏の下で始められたのが内裏大番役でした。国衙を介した一国単位の公役とされますが、動員形態や動員範囲に異論が出ています。
武門政権の平氏政権が誕生
こうして軍制・官制において武門政権の平氏政権が誕生します。平氏は直接的には国政に関わらなかったため、院政下での武家政権でした。また、朝廷の支配機構のうえに成り立っており旧勢力の強い反発を受けます。
安元2(1176)年、平家と後白河法皇を結んでいた建春門院が亡くなります。
配流途中の比叡山の悪僧・明雲が大衆に奪われたため、後白河法皇は平清盛に比叡山への攻撃を命じました。
平氏打倒の動き 鹿ヶ谷の陰謀
やむなく比叡山への攻撃へ腹を固めた頃、治承元(1177)年、鹿ヶ谷の陰謀が起きます。多田源氏の源行綱から藤原成親らの謀議が密告されます。藤原成親らは後白河法皇を動かして平氏打倒をはかりますが、発覚して終わる事件です。
鹿ヶ谷の陰謀以後、高倉天皇への皇子誕生が望まれ、平清盛の孫になる皇子が誕生(安徳天皇)しました。
しかし治承3(1179)年、娘の盛子、家督の重盛が相次いで亡くなります。
院政期の文化
治承・寿永の乱(源平の争乱)
治承・寿永の乱とは、いわゆる源氏と平氏の戦いです。
平氏一門と源氏一門
しかし、研究の進展により、そもそも平氏や源氏と一括りにできるような集団は想定し難いことが明らかになりつつあります。
平氏は平氏一門と言っても、宗盛流、頼盛流、重盛流に分かれ、壇ノ浦まで戦い切ったのは宗盛の一流に過ぎませんでした。
一門内の政治的・軍事的分裂が戦乱の帰趨に大きく影響を与えました。
源氏はさらに複雑で、保元の乱・平治の乱を経て河内源氏の嫡流・庶流の関係は流動化し、治承・寿永の乱の頃には庶流が各地に割拠しました。
そのため治承・寿永の乱は長く続いた河内源氏の一族間抗争の側面を有していました。
平氏の強硬な態度
治承・寿永の乱の引き金となったのは治承三年政変でした。
この年(治承3(1179)年)、平清盛の面目が丸潰れとなる人事が発せられ、法皇に裏切られた思いの清盛は強硬な態度に出ます。
平清盛は院政を止め平清盛が後白河院派の貴族39人を解官し、後白河院を幽閉して実権を握ります。クーデターです。
新たな政治を目指した行動ではなく、勢力が拡大したのを見届けると、福原に戻りました。
しかしこの影響は大きく、これを機に武士が積極的に政治に介入する道が開かれ、武士が武力で反乱する事態をもたらします。
この治承三年政変を期に成立した平清盛を頂点とする武家政権により、知行国主が交代します。この結果、坂東諸国にも目代として平家家人が派遣されます。
それまで院や院近臣と結んでいた在地武士は特権を失い、平家家人の圧力を受けます。相模の三浦氏や、上総国の上総広常などがそうでした。
治承・寿永の乱 源頼朝の挙兵
源頼朝・源義経が活躍した時代の大河ドラマ
- 2005年の大河ドラマ(第44回)は源義経を主人公とした「義経」でした。
- 1993年下半期の大河ドラマ(第32回)は藤原経清、藤原泰衡、藤原清衡、藤原秀衡を主人公とした「炎立つ」でした。
- 1986年の水曜時代劇は武蔵坊弁慶を主人公とした「武蔵坊弁慶」でした。
- 1979年の大河ドラマ(第17回)は源頼朝を主人公とした「草燃える」でした。
- 1966年の大河ドラマ(第4回)は源義経を主人公とした「源義経」でした。
治承4(1180)年、安徳天皇即位すると、後白河法皇の皇子・以仁王が平家打倒の令旨を出し、以仁王と源頼政が平氏打倒の兵を挙げ、治承・寿永の乱が起きます。
以仁王の蜂起自体は皇位継承に絡む私戦的な意味合いが強かったかもしれませんが、これをきっかけに全国に反平氏・嫌平氏の感情が広まります。
源頼政は平氏打倒の兵を挙げましたが敗死します。
源頼政は伊豆の知行国主であり、息子の源仲綱は伊豆の国守でしたが、この結果、知行国主が平清盛の義弟・平時忠になり、伊豆守が平時兼になり、平家家人の目代として山木兼隆が派遣されます。
伊豆では平家家人の伊東祐親が大きな力を得て、国内の支配にあたります。
源頼政に仕えていた北条氏や工藤氏は特権を失い、ここに北条氏が源頼朝の挙兵に味方した最大の理由があります。
源頼朝が挙兵したのは、以仁王の令旨だけでなく、平家による頼朝追討の動きや後白河の密旨、知行国主の交代による北条氏の危機があり、平家家人による圧迫は平家に不満を持つ坂東武士が味方することが予想されていたからでした。
源頼朝は挙兵して山木兼隆を討伐しますが、すぐに石橋山の戦いで敗戦します。
その後、すぐさま安房を目指します。これは敗戦の結果ではなく、当初からの予定であったと見たほうが良いです。
理由は、源頼朝が千葉氏、上総氏といった房総半島の武士を頼りにしていたこと、安房には河内源氏の所領があり、在地の武士・安西景益の支援が期待されること、頼朝に呼応していた三浦氏も安房を目指していたこと、そして、安房の知行国主が伊豆を長く知行していた吉田経房であったことでした。
安房の知行国主が平家一門ではなく、院近臣の吉田経房であったからこそ安房を目指したのでした。
安房に上陸した源頼朝一行に千葉常胤、上総広常が合流します。野口実氏の研究により、上総広常は当初から源頼朝の味方についていたことが明らかになっています。上総広常も知行国主の交代によって平家の圧力に苦しんでいました。
源頼朝らは鎌倉に入り拠点とします。本郷和人氏は1180年に源頼朝が鎌倉を本拠にした時点で鎌倉幕府誕生と考えています。
平安時代後期、軍事部門を担当する氏族として源氏と平氏が認識されるようになります。そのため平氏に対する反感は源氏への期待感に変換しやすかったと考えられます。東国は古くから中央政権に抵抗してきた伝統があり、武士団には独立心が育まれていました。
源頼朝、源義仲、近江、四国、九州の反平氏の武士団が蜂起し、源平の争乱が始まります。
寺院の大衆が蜂起したため、平清盛は法皇、高倉上皇、安徳天皇を福原(神戸)に移します。福原遷都です。平氏は反乱勢力に備えましたが、富士川の戦いに敗れます。
都を戻して畿内を中心に支配を固めるため、南都北嶺の大衆の鎮圧に向かいます。そのなかで南都が焼き討ちにあい、東大寺の大仏が焼かれます。
平氏京都脱出
治承4(1180)年以降の干ばつにより養和の飢饉が起きます。
寿永2(1183)年、平家は飢餓の影響もあり、軍事力が衰え、安徳天皇と三種の神器を持って京都を脱出しました。
後白河法皇がいたため朝廷は機能しましたが、天皇の不在は不都合でした。安徳天皇の還京を待つ案もありましたが、新王を擁立することになりました。
8月20日に即位した後鳥羽天皇です。高倉天皇の第4皇子でした。安徳天皇が壇ノ浦に身を投じるまでの1年半、2人の天皇が存在しました。
1180年は源頼朝が挙兵し富士川の戦いで平家を破りますが、荒川秀俊博士は平家が破れたのは干ばつにより凶作で西日本が食料不足に陥ったことが一因ではないかと考えました。一方で東日本は影響がなかったと考えられます。
源頼朝が朝廷との折衝で東国の支配権を認めさせる
寿永2(1183)年、源頼朝が朝廷との折衝で東国の支配権を認めさせ、支配地に地頭を置き経済的基盤とします。
朝廷は宣旨により東海道・東山道諸国の年貢を復興し、神社・仏寺・王臣家領荘園が元のように領家に従うよう命じます。従わない者は源頼朝に沙汰させました。源頼朝が年貢と荘園の復興を保証したから発給できた宣旨でした。
こうしたことから、近藤成一氏は寿永2(1183)年に鎌倉時代が始まったと考えています。
源頼朝は挙兵直後から敵方所領の没収と味方への給与、味方の所領の安堵を行いました。所領の支配を自らの力で行ったのです。
これが鎌倉政権の独自性・自律性の基盤になったと評されます。
一方で平氏は平宗盛が惣官、平盛俊が惣下司、平重衡が追討使に任じられましたが、比較的少数の平氏家人が朝廷の宣旨で動員されたもので、朝廷という既存の政府の中で政権を掌握した平氏政権の特徴が現れています。
鎌倉政権は既存の政権に対する反乱軍として誕生・成長してきましたので、朝廷に対して自立性・自律性を確保していました。
文治元(1185)年に、ほぼ全国の軍事的支配権を握る
源頼朝は源範頼、源義経に平氏を追撃させ、各地に東国武士団を配置して、平氏が長門の壇ノ浦の戦いで滅ぶ文治元(1185)年には、ほぼ全国の軍事的支配権を握りました。
源頼朝は平氏の土地を没収した平家没官領を与えられ、これらを合わせて関東御領を成立させます。源頼朝の権力基盤の一つになります。
また朝廷に知行国を求め、4ヵ国の知行国を得ます。関東知行国(関東御分国)と言います。
財源となる荘園・公領の経営、御家人らの裁判のために、公文所(のちの政所)や問注所をおきます。
それらの長官には別当や執事を置き、朝廷の下級官僚だった大江広元、三善康信を任じます。
鎌倉幕府の成立
※鎌倉時代の開始時期については諸説あります。3つの諸説(東国支配権の承認を得た1183年説、守護・地頭設置権を認められた1185年説、1192年の源頼朝征夷大将軍就任説)が有力です。
中世史研究者の間では1185年が鎌倉幕府成立時期として有力です。平氏が滅亡したからではなく、源頼朝が源義経らの探索を理由に、全国の守護・地頭の任命権などを朝廷に認めさせたためです。
守護・地頭は律令国家に置かれた地方の支配者である国司の権限を受け継ぐ存在です。それを任命できるということは、国家機構の一部を代行する地歩を築いた証と言えます。
なお、「幕府」が武家政権を指すようになったのは、江戸時代末期になってからで、歴史学ではこの言葉を借りて武家政権の統治機構を指すようになりました。
そのため鎌倉幕府成立時には武家政権を指す「幕府」という言葉は無いので、何をもって武家政権の成立とすべきなのかという問題のなり、歴史学者の解釈になります。
鎌倉時代において、武家政権を指す言葉としては、朝廷は「関東」とか「武家」と呼んでおり、幕府側の武士は「鎌倉殿」と言っていました。
文治元(1185)年に守護(惣追捕使)・地頭を諸国の荘園・公領におくことを認めさせる
後白河上法皇が源義経に源頼朝の追討を命じたため、源頼朝は文治元(1185)年に大軍で朝廷に迫り、守護 (惣追捕使) ・地頭を諸国の荘園・公領におくことを認めさせます。
源頼朝は東国武士団にこれらを任命します。 守護は国司の権限を引き継ぐので、任命権のある源頼朝権力は国家機関の重要な一翼を担うものでした。
この時、北条時政が入洛し、諸国荘公の兵糧米徴集と田地知行が認められました。これは源行家と源義経の追討のための軍事体制を展開する用意で、臨時の措置と思われます。後世に、このことが幕府の守護・地頭設置を朝廷が勅許したと解釈されます。
源頼朝はこの様な強権を握る理由として二人の逃亡と諸国の治安が乱れていることを理由としていますので、臨時の措置として朝廷側は受け取ったと思われます。
そして、地頭職は平家没官領・謀反人所帯跡に限って設置されるという原則が確立します。鎌倉時代通じて有効となります。
- 守護:国ごとに任命され、国内の武士を御家人に組織し、幕府の命令を執り行い、大犯三ヶ条(京都大番役の催促、謀反人・殺害人の逮捕)の業務を遂行します。
- 地頭:荘園や公領におかれ、年貢の徴収・納入、土地の管理、治安の維持にあたりました。
鎌倉幕府の地頭制について、従来は、治承・寿永の乱の結果、全国支配の覇権を握った幕府に対して、朝廷が許可した制度と考えられてきましたが、近年再検討されつつあります。
地頭制の起源は敵方の所領を没収して味方の武士に与えることにありました。
武士たちにとって治承・寿永の乱は自分たちの権利を獲得する絶好の機会だったのです。
中世の戦乱がしばしば全国に及ぶ内乱に発展した理由は、権利を巡る戦いにあったと考えられます。
国司と守護、荘園領主と地頭の二重支配
東国の武士たちは幕府成立以前から自らに館を中心に所領を支配していました。館は堀や土塁を巡らしていました。軍事拠点というだけでなく、経営拠点でもありました。館の周辺には門田と呼ばれる直営田がありました。
地頭職はある程度完成された荘園公領の体系の中に新規参入することになりました。地頭職は幕府から任じられるものであり、荘園領主の意向で改善されるものではありませんでした。
守護と地頭の設置により、国司と守護、荘園領主と地頭の二重支配が行われました。
本所にとって地頭は極めて厄介な存在となります。
地方には守護と地頭が置かれましたが、西国には国衙や荘園が残り、全国に鎌倉幕府の支配が及んだわけではありませんでした。従って、朝廷や公家の支配権が継続していました。
御家人は平氏の旧領の地頭職を得ることになりますが、新たな所領は西国に分布しており、承久の乱を経て西国に御家人の勢力がさらに拡大していくことになります。
御家人に限っていえば、鎌倉幕府成立以前の東国の所領と、地頭職で得た西国の所領があり、自ずと差がありました。御家人は全国に散在する所領の支配を迫られることになりました。
かつては武士が荘園制を打破し、領主制を打ち立てようとしていたと理解されましたが、近年では荘園公領制の枠組みを利用して、権益拡大を図っていたことが明らかになってきています。
奥州藤原氏を攻める
平氏滅亡後、源頼期は戦時体制を継続し、奥州藤原氏を滅亡させます。
文治5(1189)年、源頼朝は源義経をかくまったとして、奥州藤原氏を攻めました。
この合戦を通じて源家譜代の主従制を演出し、多様な在地武士が放棄した内乱を源平合戦として総括する政治的意図があったのです。
奥州合戦に勝利して源頼朝は名実ともに東国の王となります。宣旨なく追討を実施したことにより、東国における幕府の正統性を広く認めさせました。
こうして10年に及ぶ戦乱が終結します。
最近では治承〜文治の内乱という表現が用いられるようになってきています。
- 2013年東大:奥州藤原氏はどのような姿勢で政権を維持しようとしたか。京都の朝廷および日本の外との関係にふれながら問われました。
- 2013年東大:頼朝政権が、全国平定の仕上げとして奥州藤原氏政権を滅ぼさなければならなかったのはなぜか。朝廷の動きを含めて問われました。
- 2013年東大:平氏政権と異なって、頼朝政権が最初の安定した武家政権(幕府)となりえたのはなぜか。地理的要因と武士の編成のあり方の両面から問われました。
- 1996年筑波:9~12世紀における東北地方の政治的動向について、京・鎌倉の政権と関連させつつ、「多賀城」「中尊寺金色堂」「俘囚」「藤原秀衡」「安倍頼時」の語句を用いて述べるよう求められました。
建久3年(1192)全国の軍事支配を達成し、後白河法皇の死後、征夷大将軍に任命されました。
この時、源頼朝は国衙に結集する武士の大番頭を統率する守護を支配する権限も掌握し、そして、守護を通じて諸国の武士を統率する地位として「大将軍」を求めました。
従来、源頼朝が征夷大将軍への就任をこだわっていたとされてきましたが、櫻井陽子氏によると、頼朝は「大将軍」への就任を申請しただけでした。
朝廷は、「大将軍」に相当する官職は複数ありますが、坂上田村麻呂の征夷大将軍が吉例として任じます。
源頼朝が征夷大将軍にこだわっていなかったのは、すぐに辞することからもわかります。
征夷大将軍が幕府の首長を指すようになるのは源頼家から源実朝への交代以降です。
主従関係
源頼朝は主人と従者(家人)の主従関係を幕府の根本に据えました。
将軍は御家人に御恩を与え、御家人は将軍に奉公する制度です。
この社会制度を封建制度と呼びます。
- 御恩
- 本領安堵…土地の権利を認める
- 新恩給与…あらたに領地を与える
- 守護職・地頭職へに任命
- 奉公
- 軍役…戦場にでかける
- 京都大番役・鎌倉番役をつとめる
武士団の地位と経済力は向上しますが、国司や荘園領主と土地をめぐる争いがおきます。
幕府は政所や問注所などで対処しますが、朝廷との関係を重視する源頼朝と、守護・地頭の権利を主張する御家人との対立が生じます。
参考文献
- 鬼頭宏「人口から読む日本の歴史」
- 五味文彦「中世社会のはじまり」(シリーズ日本中世史①)
- 近藤成一「鎌倉幕府と朝廷」(シリーズ日本中世史②)
- 高橋典幸編「中世史講義【戦乱篇】」
- 高橋典幸、五味文彦編「中世史講義ー院政期から戦国時代まで」
- 田家康「気候で読む日本史」
- 本郷和人「北条氏の時代」
- 山本博文「歴史をつかむ技法」
- 山本みなみ「史伝 北条義時」
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政治史
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- 平安時代(藤原氏の台頭、承平・天慶の乱、摂関政治、国風文化)
- 平安時代(荘園と武士団、院政と平氏政権)
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