鎌倉時代~南北朝時代(鎌倉幕府の滅亡)はどんな時代?

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大河ドラマ
  • 1991年の大河ドラマ(第29回)は足利尊氏を主人公とした「太平記」でした。
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鎌倉幕府の滅亡

悪党問題

14世紀になると、西国では悪党の動きが活発になります。その頃の幕府は得宗専制政治が極度に進んでいました。

鎌倉時代中期以降、荘園制の下で本家、領家、預所、荘官、地頭、荘民らがそれぞれの立場で荘園経営に関与しました。

それぞれの地位・役割と収益は一体化し、「職(しき)」と表現されました。

世代交代や相続、売買などにより職の保有者が変化していきました。所領問題は複雑化し、紛争も多発するようになりました。

朝廷でも皇統が分かれ、持明院統と大覚寺統とで皇位を争っていました。皇統が交代も所領問題を複雑化させる要因になりました。

所領問題が複雑化して紛争も激化する中で、あらゆる階層の集合離散と武力衝突が起きます。こうした武力衝突が「悪党」問題として鎌倉幕府に持ち込まれましたが、幕府は対応しきれませんでした。

悪党の実態は、本所による荘園支配再編の動きから排除された者でした。

悪党は典型的には夜盗、山賊、海賊を指しましたが、鎌倉時代後期に重大問題となったのは、本所が荘園支配に敵対する者を告発するのに悪党という言葉を用いて、幕府も悪党として告発された者を捕まえたからです。

犯人を捕まえるのは本所の責任で、幕府は本所領の境界で犯人を受け取るのが本来でした。

本所に敵対する者を幕府に処断させるためには、国家的重犯罪であり、幕府の使節を本所領に特別に入れることが必要でした。

これに対応するために、正応3(1290)年から永仁3(1295)年の伏見天皇親政時期に、違勅狼藉を検断することが綸旨・院宣により命じられた場合は受理する制度を整えます。

六波羅探題は違勅院宣・違勅綸旨を受け取ると、使節2名を指名して在所に入部して捕らえました。

在所に入部して捕らえるのは強権発動ですので、文書は衾御教書と呼ばれました。

この制度を利用して本所が敵対者を告発する事例が増えたことが悪党問題の実態でした。

両統迭立

幕府の要職、多くの守護、地頭が北条氏によって占められ、本来、北条氏と対等のはずの有力御家人も北条氏に従っていました。

足利氏も北条氏に従っており、惣領は執権・北条高時から一字もらい足利高氏(のちに尊氏)と名乗っていました。

この時期、朝廷は幕府に実権を奪われ、後嵯峨天皇ののちは、皇位、皇室領の荘園を巡り、持明院統と大覚寺統の二つの皇統が対立していました。

亀山院から始まり、後宇多、後二条、後醍醐と続く系統が大覚寺統といいます。

一方で後深草院から始まり、伏見、後伏見、花園、光厳と続く系統を持明院統といいます。

持明院統は朝廷固有の領域を固守しようと動き、大覚寺統は儒学や仏教など大陸の文化に関心を注いで王権に権力を集中しようと動いていました。

幕府は両統が交代で皇位につく両統迭立の方式で朝廷の政治を左右しました。

かつては、幕府が朝廷に介入して皇統を分裂させたとか、得宗専制が武家社会のみならず公家社会にまで及んだとされたことがありましたが、事実は異なりました。

幕府は皇統をめぐる争いに介入することに消極的だったのですが、公家社会の方が得宗に公権力の行使を求めたのでした。

幕府がはっきりとした態度を示せば良かったのですが、幕府の指導部の弱体化と、天皇家内部の争いのため、その場しのぎに終始しました。

後醍醐天皇

後醍醐天皇の当初の立場は大覚寺統の中継としてのものでした。

元亨元(1321)年に後醍醐天皇の親政が始まると意欲的に政治を推進します。

熱心に学問に取り組み、日野資朝などの有能な学者を置き、儒教の談義を繰り返し、承久の乱前の体制に戻すことを念頭に綸旨万能を主張し、他の権威・権力を否定しました。

後醍醐天皇は次の皇位が自分の皇子ではなく、両統迭立の原則により兄・後二条の系統になることが幕府によって定められていたため、幕府に不満を持ちます。

そして、西国の高い経済力と寺社や悪党の勢力の成長を背景に、天皇中心の政治の復活を目指します。

後醍醐天皇は2度にわたって討幕を計画します。正中の変と元弘の変です。

正中の変が起きた時、幕府は20年前に決着したはずの室町院遺跡をめぐる相論に悩まされていました。

元弘の変では、幕府は承久の乱の時同様に大軍を送り笠置山を攻略し、京都に使節を送り後醍醐天皇不在のまま後伏見上皇の詔により持明院統の光厳天皇を皇位につけました。両統迭立の原則は守られました。

計画は2度とも失敗に終わり、後醍醐天皇の配流で一件落着するかに見えましたが、これを機に畿内周辺の寺社、悪党、反北条氏の御家人らが立ち上がります。

後醍醐天皇の皇子・護良親王や河内の武士・楠木正成らが抵抗します。

楠木正成の出自は、悪党の1人と言われてきましたが、中世史研究者の筧雅博氏は、楠木家が駿河の御家人であり、得宗被官だったのではないかと言う説を発表します。楠木は駿河の知名で、霜月騒動で畿内に所領をもらって、西に移住して河内で一定の勢力を築いたというものです。

幕府は反乱鎮圧のため足利高氏らを派遣しますが、高氏は途中で幕府にそむき、六波羅探題を攻め落とします。

有力御家人の新田義貞も鎌倉に攻め入り、北条高時ら北条一族を滅ぼします。

新田義貞は稲村ヶ崎を回って鎌倉に侵入しますが、この海岸線突破は大潮時の干潮を利用しただけでなく、この時代は世界的な寒冷期だったため、海面水位が低下していたことも影響していそうです。

鎌倉の町は徹底的に破壊されます。現在、鎌倉で目にする寺社仏閣のほとんどは江戸時代に建てられたものです。

史料も散逸し、行政文書や書簡などは、殆どが失われました。史料が残らなかったほど、鎌倉幕府は跡形もなく抹殺されました。(鎌倉時代の研究に負の影響を与えています)

元弘3(1333)年、鎌倉幕府は滅亡します。鎌倉幕府は鎌倉殿の政権として始まり、得宗の政権として終わりました。

北条一門は徹底的に滅びました。北条一門を族滅させれば、その土地は恩賞として配られることが分かっており、天皇の命による朝敵を殺すのだから、良心の呵責もありません。

鎌倉幕府と北条氏はよって立つべき御家人たちに見捨てられて滅びたのでした。

幕府の滅亡は得宗家の滅亡に過ぎず、御家人層は健在でした。

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建武の新政

後醍醐天皇は天皇親政を行うため、摂政・関白を廃止して新しい政治を目指しました。

1334年に年号を建武に改め、新政治を建武の新政と呼びます。

政治は公武両政治を折衷したものでした。摂関を停止し、律令制への回帰を図りましたが、政治機能は変質しており天皇の考えの通りには機能しませんでした。

中央に記録所と幕府の引付受け継いだ雑訴決断所をおき、地方には国司と守護をあわせ置きました。

御家人は武家政治を望んでいたため、新政府は公武諸勢力の要求に応じることができませんでした。

また、建武政権は現に行われている所領支配を認める当知行安堵を原則としました。しかし、所領問題を抱える多くの人々が、自らの安堵を求めて京へ殺到しました。

紛争の解決は容易でなく、倒幕戦争を戦った武士の間に建武政権への不満が溜まります。

建武2(1335)年、北条高時の子・時行による中先代の乱が起きます。足利尊氏は鎌倉にいた弟・直義を助けるために勅許なしで下りました。

そして反旗を翻し、翌年、足利尊氏は持明院統の光明天皇をたて、建武式目を定めて施政方針を示します。

暦応元(1338)年には征夷大将軍に任命され、幕府を開いて武家政治を再興します。

南北朝時代

建武の新政は3年でくずれ、後醍醐天皇は吉野にのがれ皇位の正統性を主張しました。朝廷が南北に分かれたため、南北朝時代と呼びます。

南朝側の北畠親房らが東国や九州で抗戦を続け、南北朝の対立は長引きました。

中先代の乱から室町政権が成立するまで、近年では足利直義が主導的な役割を果たしたことが注目されています。

武家政権再興の動きは鎌倉で建武政権下の鎌倉府を主導していた足利直義らによって用意されていた考えられています

新田義貞戦死後に足利尊氏は征夷大将軍になり、足利直義は左兵衛督に任じられました。

これまで成立期の室町幕府は尊氏・直義による二頭政治とされてきましたが、実質的にはほぼ全ての政務を直義が行っていたと評価されるようになります。

直義の政策は鎌倉時代後期の公武徳政の路線を引き継ぎ、貞和の徳政とも呼ばれました。しかし、戦乱の中で権益を拡大してきた武士たちの利益と対立する側面がありました。

幕府内でも対立がおき、足利尊氏の執事・高師直と弟・足利直義の争いは観応の擾乱と呼ばれる争乱に発展します。

南北朝の動乱が、皇統が合体する1392年まで長引いたのは、武家社会に一般的だった惣領制が解体しつつあったからです。

惣領制は、それぞれの武士団の宗家を首長とし、分割相続によって生まれた分家も、宗家を中心に結束する体制です。

惣領の統制権は嫡子以外の庶子に及んでいました。明瞭に現れるのが戦時でした。惣領は庶子を動員して一つの集団として戦場に赴きました。

鎌倉幕府は武士を御家人化するにあたって惣領制を利用しました。

しかし次第に庶子が惣領から自立しようとし、惣領と争うようになります。

分家内部では所領を細分化させないように嫡子単独相続が行われるようになります。

鎌倉時代後期になると御家人が新たな所領を獲得する機会が失われ、分割相続は所領の細分化をもたらすことになります。

南北朝の動乱はこうした事態を打開する絶好の機会となり、恩賞による所領獲得を期して戦争に身を投じました。

武士たちにとっては所領を獲得することこそが戦いの目的で、南朝、北朝のどちらに付くかは主要な問題ではありませんでした。

南北朝時代には宗家が北朝につけば分家は南朝に着くようになります。

皇統を巡る争いから、地域の武士団が勢力争いする時代に移行したと言ってよい状況になりました。

貴族社会でも、鎌倉時代後期から南北朝時代にかけて、大きな転換期を迎えていて、象徴するのが嫡流争いでした。

それまでの貴族の家では分割相続が行われて数多くの分家が成立していましたが、鎌倉時代後期になると、次第に分家が見られなくなります。

財産の相続形態も分割相続から、単独相続へ移行していきます。

農村

農村では有力農民を中心とした村落から、小農民の成長により新しい村落の結びつきが求められました。

農村は領主の不当な要求に対抗できる力を備えつつありました。

中小の地頭・御家人、新興武士も一族の狭い結びつきから地域的なひろい結びつきを作ろうとしていました。

国人と呼ばれ、荘園侵略を繰り返し、情勢に応じてさまざまな勢力と結びつきました。

守護大名

しだいに大きな力をつけてきたのが国ごとに置かれた守護でした。

鎌倉幕府は地方の武士を組織するため守護の権限を強化し、鎌倉幕府が定めた三ヶ条の権限(謀反、殺害の二大重犯罪人の追捕と、管国内御家人を率いて京都大番役を勤める大番催促の三つ)に加え、田地をめぐる争いの際に実力行動を取り締まる権限、裁判の判決を執行する権限を与えました。

守護はこれらの権限を利用しながら荘園の侵略を繰り返し、国人を家臣にして勢力を伸ばしました。

こうした守護を守護大名と呼びます。

半済令

足利尊氏は文和元(1352)年に半済令を出します。

半済令は一国の荘園・公領の年貢の半分を守護に与え、守護はこれを国人に分け与える制度です。

守護の支配権はさらに強化されます。

一方で足利尊氏は足利氏一門を諸国の守護に配置し、幕府の体制を固めます。

守護大名は荘園領主から年貢の徴収を請け負う守護請を行なったり、半済を実施したりして、荘園・公領を侵略しました。

荘園・公領を支配下に入れて家臣団の編成を行う守護大名の支配体制を守護領国制と呼びます。

国人たちはしばしば地域で連合して国人一揆を起こして対抗します。

参考文献

テーマ別日本史

政治史

  1. 縄文時代と弥生時代
  2. 古墳時代から大和王権の成立まで
  3. 飛鳥時代(大化の改新から壬申の乱)
  4. 飛鳥時代(律令国家の形成と白鳳文化)
  5. 奈良時代(平城京遷都から遣唐使、天平文化)
  6. 平安時代(平安遷都、弘仁・貞観文化)
  7. 平安時代(藤原氏の台頭、承平・天慶の乱、摂関政治、国風文化)
  8. 平安時代(荘園と武士団、院政と平氏政権)
  9. 平安時代末期から鎌倉時代初期(幕府成立前夜)
  10. 鎌倉時代(北条氏の台頭から承久の乱、執権政治確立まで)
  11. 鎌倉時代(惣領制の成立)
  12. 鎌倉時代(蒙古襲来)
  13. 鎌倉時代~南北朝時代(鎌倉幕府の滅亡) 本ページ
  14. 室町時代(室町幕府と勘合貿易)
  15. 室町時代(下剋上の社会)
  16. 室町時代(戦国時代)
  17. 安土桃山時代
  18. 江戸時代(幕府開設時期)
  19. 江戸時代(幕府の安定時代)
  20. 江戸時代(幕藩体制の動揺)
  21. 江戸時代(幕末)
  22. 明治時代(明治維新)
  23. 明治時代(西南戦争から帝国議会)

経済史

文化史・ 宗教史

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