足利義満の時代
14世紀末。3代目将軍の足利義満の時代に60年ほど続いた南北朝の動乱が終わります。
明徳3(1392)、南北朝を合体させ、守護大名を抑えて幕府の全国支配を完成させます。
幕府は京都の室町におかれ、邸宅には名花・名木が集められたため、花の御所と呼ばれました。
幕府は諸国の守護による領地支配を基礎にしていましたので、重視されたのは将軍と守護大名とを調整する管領でした。
室町時代の政治機構は将軍を足利氏が世襲で継いだ他は鎌倉幕府とほとんど同じです。
管領は足利一門の細川氏、斯波氏、畠山氏から選ばれ、三管領と言われます。
侍所の所司(=長官)には山名氏、赤松氏、一色氏、京極氏から選ばれ、四職と言われます。
三管領四職は将軍を補佐する存在で、執権のように将軍の代わりに政治を行うものではありませんでした。
守護の中には数か国の守護を兼ねる大名もおり、守護大名の実力のまえに、将軍は不安定な状態でした。
足利義満は朝廷や寺社勢力への支配を強めて太政大臣となり、朝廷が維持してきた京都の行政・裁判権などを手に収めました。
華やかな武家の王権により文化的統合が進められ、朝廷の諸権限を接収します。出家すると院政と同じような政治体制をしきました。
明との貿易に際して日本国王を称しましたため、皇位簒奪の意思があったと言われることがありますが、この説を支持する研究者はほとんどいません。
室町幕府の正当性は朝廷から征夷大将軍に任じられたことにあるためです。
明徳の乱で、六分一衆(殿)とも呼ばれた山名氏をたおし、応永の乱で、6か国を有した大内義弘をたおし、力と権威で守護大名の勢力を削りました。
室町幕府と天皇・上皇
室町幕府は公家との連携を前提に成立した武家政権でした。
北朝を支えながら、京都を拠点にした政権の確立を目指しました。
室町将軍と上皇・天皇は、幕府成立時より緊密な関係にあり、将軍は天皇が行う公事の復興を財政支援によって担いつつ、公事への参加や皇位継承への関与等を通じて、上皇・天皇の政治を支えました。
こうした関係は応仁の乱によって将軍家及び幕府が分裂するまで維持されました。
そのため将軍家と天皇家の関係は必ずしも対立的なものではなく、近年の研究は「権限吸収」論に象徴される、公武を対立的に捉える構図の相対化へ向かっています。
一方で将軍の政治は常に上皇・天皇との関係に規定されるわけではありませんでした。
宗教政策においては、足利義満が鎌倉幕府が成し得なかった将軍家子息の門跡寺院への入室を果たすことにより国家的祈祷を担う宗教組織の編成を行いました。
寺社権門から公武関係を見ると、宗教・都市・社会集団に関わらずあらゆる政策において、将軍の統合力と求心力の大きさが際立っていました。
鎌倉府と九州探題
鎌倉に鎌倉府、九州に九州探題を設置し、地方政治を治めさせました。他に奥州探題、羽州探題が置かれました。
鎌倉府は関東8か国に伊豆、甲斐を加えた10か国を統轄しました。
長は鎌倉公方と呼ばれ、足利尊氏の子・基氏の子孫が世襲します。補佐役の関東管領には上杉氏が就きました。
鎌倉府は独立色が強く、しばしば幕府と対立します。
足利尊氏の庶子基氏が初代鎌倉公方として東日本を統御していた時期は、室町幕府と鎌倉府が対立することはありませんでした。
しかし、歴代の鎌倉公方は京都の政治抗争と連結することで室町幕府への対抗心を顕在化していきます。
1438年に永享の乱が起きます。四代目鎌倉公方の足利持氏は六代将軍の足利義教から討伐され自害します。
1454年に享徳の乱が起きます。五代目鎌倉公方の足利成氏が関東管領の上杉憲忠を謀殺したことに端を発し、内乱が30年近く続きました。
幕府の財源
幕府の財源は、諸国に散らばる御料所(=直轄領)からの収入、守護・地頭への課税が基本でした。
他に段銭、棟別銭、関銭がありました。幕府は寺社造営・修理を理由にしばしば課税しました。
- 段銭は田地1反単位
- 棟別銭は1軒単位
- 関銭は交通の要地におかれた関所の通行税
京都では高利貸業を営む土倉、酒屋から土倉役(倉役)、酒屋役を課し、日明貿易からも利益を得ていました。
倭寇と勘合貿易
蒙古襲来以降、日元両国の正式な国交はありませんでしたが、日元貿易は活発でした。
建長寺造営の費用のための建長寺船などが派遣され、足利尊氏も後醍醐天皇をとむらための天龍寺造営の天龍寺船を派遣しました。
大陸と沖縄の状況
14世紀後半、南北朝の動乱時期、中国では明が建国され、朝鮮半島では李氏朝鮮が建国します。
沖縄では15世紀前半に中山王国の尚氏が南山、中山、北山を統一して琉球王国を建国します。
倭寇
海の道では九州、瀬戸内海沿岸の土豪、商人を出身とする集団が活動していました。
14世紀後半の倭寇を前期倭寇と呼びます。倭寇対策のためにアプローチしてきたのは高麗でした。
二度の蒙古襲来で高麗からの使節は途絶えていましたが、倭寇への対処を求めて1366年に使節を派遣しました。
北朝内で議論されましたが、南朝が抑えている九州の倭寇を禁圧するのは不可能であり、朝廷から返書は出さず、使節への対応は室町幕府に一任されました。
一任された足利義詮は自身の名義では返信せず、禅僧春屋妙葩の私信にて禁圧を約束します。
しかし、室町幕府は九州攻略が途上であり、倭寇禁圧をすぐには実行できませんでした。
より積極的に応じたのが九州に派遣されていた今川了俊でした。
高麗・朝鮮に対して足利将軍が表舞台に立つことはありませんでしたが、明に対しては当初から積極的に前面に立ちました。
1371年に九州を制していた懐良親王が明に朝貢使節を派遣しますが、翌年の1372年に明の洪武帝が派遣した使節は懐良親王ではなく、今川了俊が拘束します。
太宰府を今川了俊が落として、博多も北朝が掌握したのです。
懐良親王が明に使節を送ったことを知った足利義満は自身の使節を派遣します。
しかし明は義満の使節を退けます。明は諸国の君主である国王のみに朝貢を許していたからです。
洪武帝は懐良親王を日本の正統な君主としていましたので、義満は一臣下に過ぎないとみなされたのです。
一連の足利義満の使節派遣の背景には、懐良親王が日本国王である限り、南朝が九州攻防のために明に軍事的支援を求める可能性があり、それを阻止するためには、足利義満自ら日本国王に認定されるしか無いと義満が認識していたことがありました。
足利義満に転機が訪れるのは15世紀初頭です。明は内乱で混乱しており、そのなかで明は足利義満を日本国王に冊封します。
かつて足利義満が皇位簒奪を計画していたと考えられたこともありましたが、近年の研究では否定されています。
国内で日本国王の称号を使ったことはなく、あくまでも対外交渉上の称号だったことが明らかにされているのです。
勘合貿易
明は倭寇の活動をおそれ、私貿易を禁止します。日本には倭寇の取り締まりを求めます。
足利義満は応永8(1401)年、九州探題に倭寇の取り締まりを命じ、明との国交を開きます。
日明貿易では公私の船を区別するため合い札の勘合が用いられましたので、勘合貿易と呼ばれます。
明は外国に朝貢貿易の形式をとることを強制しており、日明貿易も日本が貢物を明に献上し、明が日本に物を与える形式が取られます。
日本からは銅、硫黄、刀剣などが輸出され、明からは銅銭、生糸、絹織物などが輸入されました。
日明貿易により莫大な利益と銅銭が大量にもたらされました。庶民のレベルまで貨幣経済が浸透し、商工業が飛躍的に発展しました。
勘合貿易の実権は、はじめは幕府にありましたが、やがて大内氏や細川氏に移ります。
大内氏は博多商人、細川氏は堺商人と手を結びました。大永3(1523)年、両者が寧波の乱で衝突し、大内氏が貿易を独占するようになります。
明に続いて対馬の宗氏を仲介にして李氏朝鮮とも国交が開かれます。日朝貿易では綿布が輸入され、銅、硫黄、南開諸島の特産品が輸出されました。富山浦、乃而浦、塩浦の三浦で交易が行われました。
応永26(1419)年、応永の外寇と呼ばれる、朝鮮軍が倭寇の本拠地と見た対馬を襲う事件が起きます。
その後も貿易は続きますが、永正7(1510)年、三浦の乱により貿易は衰えます。
琉球王国の立場
琉球王国は、明の私貿易禁止、倭寇取り締まりなどにより、貿易活動に有利な地位を占めました。
東アジア諸国との中継ぎ貿易を行い、日本にはシャムやマラッカからの香料や薬品をもたらします。
みずからは中国、日本の文化を移植しました。
北山文化
仏教
参考文献
テーマ別日本史
政治史
- 縄文時代と弥生時代
- 古墳時代から大和王権の成立まで
- 飛鳥時代(大化の改新から壬申の乱)
- 飛鳥時代(律令国家の形成と白鳳文化)
- 奈良時代(平城京遷都から遣唐使、天平文化)
- 平安時代(平安遷都、弘仁・貞観文化)
- 平安時代(藤原氏の台頭、承平・天慶の乱、摂関政治、国風文化)
- 平安時代(荘園と武士団、院政と平氏政権)
- 平安時代末期から鎌倉時代初期(幕府成立前夜)
- 鎌倉時代(北条氏の台頭から承久の乱、執権政治確立まで)
- 鎌倉時代(惣領制の成立)
- 鎌倉時代(蒙古襲来)
- 鎌倉時代~南北朝時代(鎌倉幕府の滅亡)
- 室町時代(室町幕府と勘合貿易) 本ページ
- 室町時代(下剋上の社会)
- 室町時代(戦国時代)
- 安土桃山時代
- 江戸時代(幕府開設時期)
- 江戸時代(幕府の安定時代)
- 江戸時代(幕藩体制の動揺)
- 江戸時代(幕末)
- 明治時代(明治維新)
- 明治時代(西南戦争から帝国議会)