奈良時代(平城京遷都から遣唐使、天平文化)はどんな時代?

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人口

奈良時代の推計人口は725年時点で全国に4,512,200人です。弥生文化の発展とともに人口が急速に増加し始め、人口成長は千年ほど続き、8世紀を過ぎる頃から成長が鈍化し、11世紀になると農耕文明の初期における人口循環を一巡させたようです。

気候

太陽活動は7世紀後半に底打ちして活発期へ転換します。10世紀から11世紀のかけてオールト極小期がありましたが、14世紀まで総じて温暖な気候が続きます。
欧州や中国では8世紀以降に社会的基盤が安定し文化の発展だけでなく、人口増加の勢いも顕著でした。
しかし日本はそうではありませんでした。
8世紀に始まる温暖な時代以降に干ばつ、飢饉、疫病が頻発していました。
干ばつが多かったのは畿内を中心に東海・山陽・四国の西日本でした。関東は奈良時代から日照りに強かった地域でした。
奈良時代は太平洋高気圧の勢力が強く、梅雨前線が北上し高温小雨の夏となり、台風もやって来ず水不足になりました。
この状況は14世紀に低温多雨に変わるまで続きました。
704年〜706年、719年〜720年、722年〜723年、735年〜737年には干ばつに由来する飢饉が記録されています。
奈良時代から平安時代の灌漑設備は貧弱なものでした。平野に広がる水田は灌漑設備が充実する室町時代以降の姿です。
ため池は谷池と皿池があり、谷池は山沿いの河川を堰き止めて小さなダムを作ったものです。
奈良時代から平安時代にかけての良田の多くは水利が容易な川沿いに位置していたと考えられています。

奈良時代の特徴は律令制に基づく政治です。国家体制を整えていった時代でしたが、政争や反乱の多い時代でした。

また、呪詛が盛りとばかりに満ちあふれ、宮廷内の政治も呪詛によって導かれている時代でもありました。

  • 729年 長屋王の変
  • 740年 藤原広嗣乱
  • 757年 橘奈良麻呂の変
  • 764年 恵美押勝(藤原仲麻呂)の乱

更には僧侶の道鏡を天皇にしようという動きもありました。

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平城京への遷都

文武天皇が若くして亡くなると、母が即位して元明天皇になります。

710(和銅3)年、平城京を築き、藤原京から京都を移します。

平安京に移るまでの80年ほどを奈良時代と言います。

奈良時代は74年しかありませんが、区分する意味があります。

奈良時代は天武天皇に連なる血筋の皇子・皇女が天皇になりました。政争の中で天武天皇の血筋がほぼ根絶やしになると、長岡京へ遷都され、平安京へ遷都します。大きな政治の変化ということができます。

農業

国司・軍事に、水田の他に、畠に粟、麦、豆などを植えるように指導させました。

貨幣と鉱物

道路・流通

都を中心に整備されて、約16kmごとに駅家を設ける駅制がしかれました。

利用したのは都と地方の連絡にあたる官吏でした。

初期荘園の形成

722(養老6)年、長屋王のもとで百万町歩の開墾計画が立てられます。

翌年には三世一身法が施行され、田地不足のための政策が取られます。

743(天平15)年、橘諸兄のもとで墾田永年私財法が施行され、開墾した土地が永久に私有が認められました。

貴族や寺社は、郡司などの地方豪族と結んで開墾を進め、農民の墾田を買い集め私有地を広げます。

初期荘園が形成されます。

一方で、農民の中には、天災や租税の負担に耐えかねて、区分田や家を捨てて浮浪・逃亡する者が現れます。

論点
  • 2018年阪大:日本古代には都の場所がたびたび変わりました。7世紀半ばから8世紀半ばにおける都の変遷について問われました。
  • 2013年阪大:平城京はおよそ10万人が住む政治都市であったといわれています。平城京はどのように区画され、いかなる施設が配置されていたのか、その概要について問われました。
  • 1981年一橋:平城京の市、荘園の市場、寺内町について具体的に説明しながら、古代~中世の市・町の発展過程が問われました。
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蝦夷と隼人に対する統治

8世紀初めに東北地方で陸奥国と越後国を分けて出羽国を作ります。

出羽柵、多賀柵(のちの多賀城)を設けます

720年の蝦夷の反乱は重要な戦いとなります。

8世紀初めに進められた陸奥国北部への関東からの大規模な移民に、蝦夷たちが反発した事件でした。

近年の研究により戦乱の後大規模な改革が行われたことが明らかになり、事件の衝撃の大きさが再認識されています。

改革の最中である724年の海道蝦夷の反乱以後、774年までの50年は大きな反乱は起きず、特に750年代半ばまでは比較的安定した社会状況が続いたようです。

774年に陸奥国の海道蝦夷が桃生城を襲撃します。38年戦争の始まりとされる事件です。

突然一方的に起きたわけでなく、きな臭い状況が続いている中での出来事でした。

戦果は出羽国まで広がり、混沌とします。

780年に朝廷から位階を得ていた伊治公呰麻呂が、普段から夷俘と侮蔑してきていた道嶋大楯を殺害し配下の蝦夷とともに紀広純を殺害、多賀城を襲いました。

政府はすぐさま藤原継縄を征東大使に任命し、陸奥に派遣します。しかしすぐに軍事行動をしなかったため、追加の軍を出しますが、戦果を挙げられませんでした。

事件は個人の私怨を超えて広範な騒乱に発展しました。

差別を受けつつ服従・協力を余儀なくされた他の蝦夷も離反していました。しかも反乱には移民系の人々も含まれていたようです。

九州では日向国を分けて大隅国を設け、多褹島(種子島)を領土に編入します。

論点
  • 2017年東大:東北地方の支配は、律令国家にとってどのような意味を持ったか、また、7世紀半ばから9世紀に、東北地方に関する諸政策は国家と社会にどのような影響を与えたかをその後の平安時代の展開にも触れながら問われました。
  • 2011年阪大:日本の古代国家は東北地方の蝦夷や九州南部の隼人を服従させ支配地を拡大していきました。7世紀中葉(孝徳天皇の時代)から9世紀初頭(桓武天皇の時代)にいたる蝦夷政策について問われました
  • 2011年筑波:8~9世紀における東北地方の動向について、「伊治呰麻呂」「坂上田村麻呂」「文室綿麻呂」「阿弖流為」の語句を用いて回答することが求められました。
  • 2008年東大:東国は、古代国家にとって、どのような役割を果たしていたのか、また、律令国家は、内乱にどのように対処しようとしたのかを、古代の内乱の傾向を踏まえて問われました。

藤原氏の進出と政争

8世紀初めに藤原鎌足の子・藤原不比等が律令体制の確立に力を尽くしました。一方で婚姻により皇室との結びつきを強め、勢力を伸ばしました。

この時期の政争は藤原氏の権力伸張の過程として理解されることが多く、政争に藤原氏が関与していることは確かですが、多くは天皇の意思に沿った動きと見た方が正しいようです。

長屋王の変

藤原不比等の死後、長屋王が藤原氏を抑えようとしましたが、729年、藤原不比等の子4人による策謀により、当時の政府で最高権力者であった長屋王が謀反で失脚、妻の吉備内親王、子息4人の王ととともに平城京の自宅で自殺に追い込まれます。長屋王の変と呼ばれる事件です。

この事件では、長屋王が左道と言われる邪術を密かに学んで国家反逆を企てているという理由で自殺に追い込まれました。

長屋王の変も直系として皇統を継ぐ資格のある長屋王の血筋を絶やすことが目的の政治的冤罪でした。

かつての通説は、藤原光明子を皇后にしようと目論む藤原氏が、反対するであろう長屋王を除いた政変というものでした。

最近ではこれに加えて長屋王と吉備内親王との間に生まれた男子が皇位継承の有力候補となる可能性があり、それを恐れた藤原氏が長屋王に濡れ衣を着せて、王夫妻と男子を抹殺したとする見方が有力です。

血筋では、天智天皇と天武天皇の血を引く皇子女を両親に持っていました。正妻は草壁皇子の皇女吉備内親王でした。

かつての通説は、岸俊男氏によって唱えられました。

このまま藤原氏の血を引かない皇子が天皇になり、天皇の外戚の地位を失えば、藤原氏の権勢の低下は避けられない。

そのため、皇位継承の機会を有する皇后に目をつけ、光明子を皇后へ昇格させ、子ができるのを待ち、もしもの場合は光明子を天皇に即位させようと図ろうとしました。

しかし律令下では皇后になれるのは内親王だけのため、光明子を皇后に昇格させようとすれば、規則に厳密な長屋王が反対すると考え、藤原氏は濡れ衣を着せて抹殺したと論じました。

これが長い間通説でしたが、河内祥輔氏は藤原氏中心の権力闘争史観だとして、聖武天皇の立場から分析しました。

聖武天皇は生母が皇女ではなく、藤原氏出身でした。そのため皇統に劣等感を持っていたため、自身の皇統を確立することを計画していました。

誕生した皇子が病没したことに衝撃を受けると同時に、長屋王と吉備内親王の子に脅威を感じ、抹殺することで自身の子孫のみ皇位継承権があることを示したと分析したのです。

現在では、長屋王の変は、聖武天皇の皇太子死去を直接の契機とし、長屋王家への脅威を感じた聖武天皇と藤原氏が謀反の罪を被せた皇位継承問題を根底にした政変と考えられています。

また、事件直後には呪詛の禁止と呪詛者の弾圧を宣言します。勅命で禁止したということは、天皇をはじめとして貴族や役人、民衆の間で、呪いを恐れる信仰が広範に流布していたことを物語っています。

聖武天皇と藤原氏

藤原氏は藤原不比等の女・光明子聖武天皇の皇后にたてて権力を握ります。

ライバルのいなくなった聖武天皇は藤原氏出身の皇后をたて、天皇と皇女の間の皇子が直系の天皇ちみなす観念のほかに、藤原氏の血筋の女性が生んだ皇子も直系天皇になれるという観念が生まれます。

藤原広嗣の乱

735年の夏から太宰府で天然痘が流行り始めます。それまで日本に無かった疫病です。

藤原不比等の子・4人は729年に長屋王を自殺に追い込み体制を盤石にしますが、737年に蔓延した天然痘で藤原四子の全員が世をさります。

藤原四子が疫病で死ぬと、皇族出身の橘諸兄が政権を握ります。この時、藤原広嗣は20代はじめで、従五位下になったばかりでした。

藤原広嗣は藤原式家の宇合の長男として生まれました。藤原不比等の孫にあたり、父・藤原宇合は藤原四子の1人でした。

年末になって藤原広嗣に太宰府の次官である太宰少弐として九州への赴任が言い渡されます。

聖武天皇の勅には、藤原広嗣がしきりに親族を貶めることを言うので左遷することで改心させようと述べられていますが鵜呑みにはできません。

そもそも太宰府は地方最大の官司であり、要職の赴任先でした。そのため広嗣の太宰少弐任命は一概に左遷とは言えませんでした。

当時の太宰府の課題は疫病、天災からの復興でした。また新羅との軍事的な緊張関係が高まっていた時期でした。

橘諸兄政権は地方の行財政改革、公民の救済政策を断行していましたので、太宰府の高官は重要なポストでした。

740年に広嗣は時政の得失と天地の災異について上表文を中央政府に提出します。

広嗣は中央政府から遠ざかり、不満と焦りがあったのも事実と思われます。

主張は悪政により天変地異が起こり、その元凶である僧正の玄昉と吉備真備を除かなければならないとするものでした。

続日本紀でも同じことが書かれていますが、広嗣の反乱の動機を政治批判から2人への私怨に転化しようとする藤原氏の意図があったという指摘もあります。

上表文を受け取った聖武天皇は反乱と判断して広嗣を討伐する軍を九州に送ります。藤原広嗣の乱です。

広嗣軍は政府軍に敗れますが、1万人を超える兵士を動員できました。中核となったのは太宰府常備軍と考えられています。

742年、太宰府は廃止されますが、743年には鎮西府が置かれました。鎮西府が置かれた一番の理由は太宰府常備軍の再置だったのではないかと思われます。そして745年に太宰府が復置されます。

この間、聖武天皇は都をたびたび変えました。太宰府で起きた反乱が王権を不安と混乱に陥れたのでした。

聖武天皇の仏教政策

聖武天皇は藤原広嗣の乱後に都をたびたび移しますが、社会不安が深刻になりました。

天皇は仏教の力で政治・社会の動揺を鎮めようと考えます。

  • 741(天平13)年、国分寺建立の詔
  • 743(天平15)年、盧遮那大仏造立の詔

都が平城京に戻ると、東大寺の大仏造立の事業は紫香楽宮から平城京に移され、10年後に大仏開眼供養が行われました。

橘奈良麻呂の変

757年、橘諸兄の子・橘奈良麻呂が光明皇太后の信任を得て権力を握っていた藤原仲麻呂を倒すために反乱を計画するも、未然に発覚します。

近年では、藤原仲麻呂にたいする反対派の単なる抵抗ではなく、皇位継承に関する争い、特に孝謙天皇の即位に対する反発が中核にあるとする見解が示されています。

橘奈良麻呂の主眼は阿部内親王(=孝謙天皇)の即位ではなく、その次の皇位継承だったのではないかと考えられます。橘奈良麻呂が皇嗣に立てようとした黄文王は長屋王の子でした。

変に対して藤原仲麻呂は厳しい措置を施しました。

日本紀略では橘奈良麻呂の変が、讒言による右大臣藤原豊成の左遷と復任の事件として扱われています。豊成は仲麻呂の同母兄です。

そのため、橘奈良麻呂の変の本質は、藤原豊成の政界排斥事件と評する見方があります。

藤原仲麻呂は、この事件を利用して橘奈良麻呂と藤原豊成の二人を一気に排除したのでした。

橘奈良麻呂は、「日本霊異記」によると、邪術使いだと言われていました。

藤原仲麻呂(恵美押勝)の乱

政治は安定せず、藤原仲麻呂(恵美押勝)や僧・道鏡らによる政争が繰り返されます。

奈良時代に権力者同士が都を舞台に直接戦闘行為に及んだのは藤原仲麻呂の乱だけでした。

事件は天皇の地位を巡る争いでした。

藤原仲麻呂が殺され、一度退位した孝謙天皇が再び天皇の地位につき、天武天皇の血筋で受け継がれてきた皇位を誰に譲るのかという問題が振り出しになり、奈良時代の終わりへ向かうきっかけとなります。

戦闘は鈴印の争奪から始まりました。駅印、内印とともに天皇を象徴するものでした。文書行政が浸透してきたことが伺える内容です。

乱は権力者の争いとしては短期間で優劣が決しました。

上皇側の勝因は有力武将がついたことがあげられますが、これ以上に戦いが開始される前から仲麻呂派と反仲麻呂派のせめぎ合いが続けられ、すでに仲麻呂は孤立を深めていました。

遣唐使

白村江の敗戦から30年後、702(大宝2)年に遣唐使が復活します。

日唐の関係が安定していたため、文化輸入の使節として十分役割を果たしました。

7世紀に百済と高句麗が滅亡すると、朝鮮半島から多くの亡命者が日本に帰化しました。

8世紀において、王族や貴族は政界で活躍し、農民はおもに東国の開発に従います。

新羅との関係は安定しませんでした。対等の外交を主張する新羅と、新羅を朝貢国と位置づようとする日本とでしばしば衝突します。

中国東北部の渤海は唐や新羅と対抗する関係上、日本に朝貢しました。

論点
  • 2009年東大:7・8世紀の遣隋使・遣唐使は、東アジア情勢の変化に対応してその性格も変わりました。その果たした役割や意義を、時期区分しながら問われました。
  • 2003年東大:8世紀の日本にとって、唐との関係と新羅との関係のもつ意味にはどのような違いがあるかが問われました。
  • 1999年筑波:7世紀から9世紀における日本の対外交渉について、「遣渤海使」「阿倍仲麻呂」「白村江」「正倉院」の語句を用いて述べるよう求められました。
  • 1985年東大:7世紀から9世紀にかけての遣隋使や遣唐使が、当時の日本の政治および文化に与えた影響が問われました。

天平文化

宗教史

参考文献

テーマ別日本史

政治史

  1. 縄文時代と弥生時代
  2. 古墳時代から大和王権の成立まで
  3. 飛鳥時代(大化の改新から壬申の乱)
  4. 飛鳥時代(律令国家の形成と白鳳文化)
  5. 奈良時代(平城京遷都から遣唐使、天平文化) 本ページ
  6. 平安時代(平安遷都、弘仁・貞観文化)
  7. 平安時代(藤原氏の台頭、承平・天慶の乱、摂関政治、国風文化)
  8. 平安時代(荘園と武士団、院政と平氏政権)
  9. 平安時代末期から鎌倉時代初期(幕府成立前夜)
  10. 鎌倉時代(北条氏の台頭から承久の乱、執権政治確立まで)
  11. 鎌倉時代(惣領制の成立)
  12. 鎌倉時代(蒙古襲来)
  13. 鎌倉時代~南北朝時代(鎌倉幕府の滅亡)
  14. 室町時代(室町幕府と勘合貿易)
  15. 室町時代(下剋上の社会)
  16. 室町時代(戦国時代)
  17. 安土桃山時代
  18. 江戸時代(幕府開設時期)
  19. 江戸時代(幕府の安定時代)
  20. 江戸時代(幕藩体制の動揺)
  21. 江戸時代(幕末)
  22. 明治時代(明治維新)
  23. 明治時代(西南戦争から帝国議会)

経済史

文化史・ 宗教史

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