律令国家の形成
皇親政治
大海人皇子は673年に飛鳥浄御原宮で即位し天武天皇となります。
天武天皇は即位後1人の大臣も置かず、皇后(のちの持統天皇)や皇子(草壁皇子、大津皇子、高津皇子ら)たちと政治を行いました。
豪族を新しい支配体制に組み入れようとしたのです。律令国家体制の成立まで続いた政治体制を皇親政治といいました。
- 681年:律令の制定に着手します。
- 684年:八色の姓を定め、皇室との遠近に応じて豪族を新しい身分に位置付けます。
天武天皇は律令のほか、国史の編纂(681年)にも着手します。
また、藤原京の造営にも着手していましたが、律令制定、国史編纂、都城建設の諸事業の完成を見ないまま亡くなります。
天武天皇が亡くなると、皇后だった持統天皇が受け継ぎます。
- 689年:飛鳥浄御原令を施行し、藤原京の造営を進めます。
- 694年:飛鳥から藤原京に都を移します。
藤原京ははじめての中国風の都城でした。東西5.3km、南北4.8kmの巨大都市と推定されています。
なお、史上初めて上皇になったのは持統天皇でした。平安末期の上皇とは異なり、持統天皇が上皇となったのは、15歳で即位した文武天皇を補佐するためでした。
本郷和人氏によれば、持統天皇が追及した政治上の使命は、主に二つあったと考えられます。一つは律令制に基づいた統一国家の建設です。もう一つが天皇氏の皇位継承を中国に倣って親から子への長子相続の世襲にすることです。
大宝律令
持統天皇は天皇位を孫の文武天皇に譲り、太上天皇として天皇を後見しました。この時代になり、律令国家としての形が整います。
- 701年(大宝元):刑部皇子・藤原不比等らによって大宝律令が制定されます。
- 718年(養老2):藤原不比等らによって養老律令が制定されます。
天皇が父子直系で受け継がれる原則もこの頃です。
7世紀末から8世紀初めに、我が国は日本を称します。「唐書」にも倭から日本へ国号を採用します。
中央と地方の官制
- 律:刑法にあたるもの
- 令:行政組織や官吏の服務規定などを定めたもの
律は唐の律をほぼ受け継ぎましたが、令は日本の国情にあわせて作られました。本郷和人氏によると、日本には科挙がなかったため、「家」を基本とした世襲で役人が選ばれていました。
中国では皇帝が徳をもって天下を治めるため、社会秩序としての礼が最も重んじられました。それを破る者を法で罰することが基本とされたため、律が重視されました。
日本では国家の行政制度を整えるために取り入れられましたので、令が重んじられ、日本の国情にあうように修正されました。
律令に基づく国家運営を「律令国家」と言いますが、「律令国家」とは8世紀まで文章になった成文の法律がなく、慣習によって行われていた政治から、法律で政治制度を規定し(=令)、法律に基づいて刑罰を与える(=律)ようになった法治国家を指す用語です。
政治を行う太政官は、太政大臣、左大臣、右大臣、大納言の三位以上の公卿が中心です。ついで、中納言、参議が設けられます。
政治は合議で決められ、天皇の裁可を受け、八省によって施行されました。
律令は、格(きゃく)や式(しき)を出すことで日本の社会に合わせる努力が続けられます。
- 官位相当の制:官吏は位階に応じた官職に任命されました。官職に応じて、位禄・季禄、位田・職田などが与えられました。
- 蔭位の制:五位以上の貴族の子や三位以上の子と孫は、父や祖父の位階に応じて一定の位階と官職が与えられました。
- 刑罰:笞、杖、徒、流、死の五刑がありましたが、貴族と官吏は重い罪でなければ、実刑は科されませんでした。免職や罰金で済ますことができたのです。
本郷和人氏によれば、氏社会から家社会へ転換する上で重要なのが、律令に加えられた「蔭位の制」です。これにより、父の位階に応じて子に位階を授ける形になります。
藤原不比等の四人の息子は三位以上に昇進し、「家」を持つことになりました。藤原四家の起源です。日本社会における「氏」から「家」への転換の始まりでした。
行政区
畿内・七道に分けられ、国・郡・里が設けられ、国司・郡司・里長が任じられました。
国司は国造など地方豪族などから任命された郡司をひきいました。
戸籍・計帳に人民を登録し、50戸ごとに1里を編成します。
京には左京職(しき)、右京職を置き、摂津には難波を管理する摂津職、九州には太宰府を置き、外交・軍事、諸国の統轄をさせました。
班田収授法
班田収授法により、6歳になると男女ともに一定面積の区分田が与えられました。
班田は6年ごとにつくられる戸籍に基づいていました。
区分田は一生耕作ができましたが、売買は禁じられていました。
区分田の面積
- 男子:2反(約11.7アール)
- 女子:男子の3分の2
- 私有の奴婢:良民男女の3分の1
田地は条里制によって区画されていました。
死者の田はつぎの班田の年に国家に返されました。
農民は国家に対して租・調・庸、雑徭・兵士役などの義務を負いました。
- 租:区分田にかけられ、規定の収穫量の3%の稲を地方の倉におさめました。
- 調:絹・布をはじめとする政府指定の地方産物
- 庸:中央での労役である歳役の代わりに布や米などを出すもの
- 雑徭:国司が徴発する地方の労役
- 兵士役:各地の軍団に勤務するもので、一部は衛士や防人となって、都や九州の防衛にあたった
調・庸以下は正丁(せいてい)と呼ばれる成年男子に人別に課せられました。
公出挙として春に租稲の一部を農民に貸し付け、秋の収穫の際に5割の利息をつけて返納することも行なっていました。
この利息分を地方政治の財源にあてました。
強制的な貸付のため、農民の重い負担となります。
身分制度
大きくふたつに分けられていました。
- 良民:一般の農民
- 賤民:五色の賤(陵戸、官戸、家人、公奴婢、私奴婢)
身分によって、区分田や労役などの権利・義務に違いがありましたが、日本では数も少なく、身分上の区別も曖昧でした。
- 2018年東大:中国の都城にならって営まれた日本古代の宮都は、藤原京(694~710年)にはじまるとされます。それまでの大王の王宮のあり方と比べて、藤原京ではどのような変化が起きたのか。律令制の確立過程における藤原京の歴史的意義にふれながら問われました。
- 2018年阪大:日本古代には都の場所がたびたび変わりました。7世紀半ばから8世紀半ばにおける都の変遷について問われました。
- 2012年一橋:律令国家の形成とともに中国に倣って都城が建設されましたが、都城にはどのような人々が居住し、その生活を経済的に支えていたのは何であったかを問われました。
白鳳文化
仏教、神祇制度、薄葬令
参考文献
テーマ別日本史
政治史
- 縄文時代と弥生時代
- 古墳時代から大和王権の成立まで
- 飛鳥時代(大化の改新から壬申の乱)
- 飛鳥時代(律令国家の形成と白鳳文化) 本ページ
- 奈良時代(平城京遷都から遣唐使、天平文化)
- 平安時代(平安遷都、弘仁・貞観文化)
- 平安時代(藤原氏の台頭、承平・天慶の乱、摂関政治、国風文化)
- 平安時代(荘園と武士団、院政と平氏政権)
- 平安時代末期から鎌倉時代初期(幕府成立前夜)
- 鎌倉時代(北条氏の台頭から承久の乱、執権政治確立まで)
- 鎌倉時代(惣領制の成立)
- 鎌倉時代(蒙古襲来)
- 鎌倉時代~南北朝時代(鎌倉幕府の滅亡)
- 室町時代(室町幕府と勘合貿易)
- 室町時代(下剋上の社会)
- 室町時代(戦国時代)
- 安土桃山時代
- 江戸時代(幕府開設時期)
- 江戸時代(幕府の安定時代)
- 江戸時代(幕藩体制の動揺)
- 江戸時代(幕末)
- 明治時代(明治維新)
- 明治時代(西南戦争から帝国議会)