記事内に広告が含まれています。

本郷和人「日本史のツボ」の要約と感想は?

この記事は約29分で読めます。

本書は日本通史を七大テーマで俯瞰することを目的としている。七つのテーマとは「天皇」「宗教」「土地」「軍事」「地域」「女性」「経済」である。

筆者の専門は中世。この時代を扱った歴史学の学説は二つ。「権門体制論」と「二つの王権論」である。前者は建前や制度を重要視し、後者は現実を重視する立場と理解した。筆者の立場は「二つの王権論」である。

これらの学説の違いは、ざっくりと言って、京大学派と東大学派の違いなのではないかと思う。近畿対関東と言ってもよいように思う。(間違っていたらごめんなさい。)違う学説同志で議論をたたかうのは健全なことなので、議論を深め今後の研究に期待したい。

筆者は本書の中で、ダイナミックな流れの中で歴史を捉えなけらばならないと主張している。

この考え方は歴史を学ぶ上で一つの指針になる。一定の考え方を有してダイナミックな流れを捉えることが重要で、立場が「権門体制論」「二つの王権論」などの学説の違いには意味がない。

歴史の捉え方、歴史への考え方、に対する一つの価値観を有していることが重要である。本書はそうした点でも重要な視点を与えてくれると思った。

また、大学受験で論述式を要求される日本史対策にも有効であろう。ダイナミックに歴史を捉えていないと解けない問題を出題する大学であればなおさらである。

スポンサーリンク

第一回 天皇を知れば日本史がわかる

飛鳥時代・奈良時代

天皇のもともとは(今の)奈良県に現れたヤマト王権の王であった。天皇家は地域の王から出発した。

飛鳥時代から奈良時代にかけ、天皇家は積極的に中国大陸からの外来文化を採り入れ、文化に独自の改変を加えて「日本文化」を作り上げることに寄与した。

これに重要な役割を果たしたと考えられるのが、天智天皇、天武天皇、持統天皇の3人の天皇である。

3人の天皇が取り組んだのが、日本ブランドの創生である。これを促進したのが「外圧」だった。

663年の白村江の戦で、ヤマト政権はいつ唐に侵略されるかわからない危機に直面した。天智天皇は、都を飛鳥から近江へ遷し、内政改革・国防強化に着手する。

白村江の戦の敗戦により、ヤマト政権はアイデンティティ・クライシスに陥ったと考えられる。こうした中で3人の天皇は独自のヴィジョンを打ち出していくことになる。

この時期に「天皇」の呼称が生まれ、「古事記」「日本書紀」の編纂が始まり、法隆寺や伊勢神宮が作られるのは偶然ではない。敗戦により、敵国である唐の先進性を採り入れ、自国の強化を図っていったのである。

最たるものが「律令制の導入」で、土地はすべて天皇のものとする公地公民制が敷かれ、「大宝律令」が整備された。

一方、当時のヤマト政権の支配が及んだ範囲は、畿内を中心として、東は越と呼ばれた新潟県くらい、西は九州北部くらいまでだった。

関東、東北、九州南部は朝廷の文化・文明の及ばない「化外の地」だった。化外の地は中華文明の及ばない地域を指すものだが、この場合、朝廷の文化・文明の及ばない地域と考えてよさそうだ。

ヤマト朝廷にとって死活的に重要なのは、中国大陸、朝鮮半島の情勢だったので、「化外の地」への対応はなおざりなものになった。

重要な制度や文化、モノや富はすべて西からやってくる。東アジアから瀬戸内海をへて大阪に至る交通路がヤマト朝廷の大動脈だった。

積極的に先進的な制度などを取り入れたが、当時の史料をみても、「公地公民制」が全国に及び、税金が全国から収められたとは考えにくい。

そのため、天皇家が推し進めた「律令制」は、あくまでも「外圧」に対抗するためのヴィジョン、努力目標だったと思われる。

だが、755年~763年の安史の乱で唐の力が弱まり「外圧」が弱まると、ヤマト政権は「努力目標」を見失い弛緩し始める。ムリな律令を維持する必要がなくなり、私有地となる荘園が増え「律令制」が崩壊していく。

この時期については「テーマ:飛鳥時代(大化の改新から壬申の乱)」でまとめています。

平安時代

平安時代になり、「外圧」の消滅は、天皇を地域の王から、内向きな雅な王へ変質をさせることになる。天皇の政治的権力が摂関家に簡単に奪われたのも、外圧への緊張感の喪失に根本がある。

そして、外圧の消滅は、外交の放棄へつながっていく。以後、日本は200年以上続く平和な時代に入り、国風文化を洗練させていくことになる。

平和な時代であったのは、天皇の系図から読み取れる。危機的な時代は、皇位継承をめぐって皇子たちが権力闘争を繰り返していた。そのため、継承は安定せずに、系図がヨコに広がっていった。

だが、天皇が権力を失うと、皇統が乱れることなく、系図はタテになる。天皇家にとっては平和な時代は、継承も平和になった。

天皇家は政治的権力を摂関家に奪われたが、経済力は失わなかった。国の土地はすべて天皇のものという律令制の建前がかろうじて残っていたためである。

いつ奪われるかわからない荘園の権利を確保するため、荘園を有する者は有力者の庇護を仰いだ。その頂点にいるのが天皇だったからである。

庇護と寄進の関係は複雑で、一つの土地を巡って権利は錯綜する。こうした土地の権利を巡る仕組みを「職(しき)の体系」と呼ぶ。

だが、院政によって律令制は自己否定される。

天皇は公を代表する存在として公地公民制の頂点に立っていたが、白河上皇や後白河上皇のように、自らの荘園を拡大させるようになると、一つ階段を降りて私利私欲による闘争に参加することを意味してしまう。

土地は天皇のものとしたのを、天皇家が自己矛盾することにより、「律令制は建前としても崩壊」することになる。そして、土地争奪戦に突入し、中世の幕が開ける。

土着化した下級貴族や荘園経営者や土地の有力者から武士は発展した。

そして、数百年の学習を通じて、武士はゆっくりと統治や外交と戦争を担える自立した集団へ成長する。やがて「職の体系」に代わる土地安堵の論理を生み出す。

白河、鳥羽、後白河上皇に仕えた傭兵集団だった武士が源氏や平家で、朝廷に武力で対抗できることに気づく。

院政期に激化した朝廷内闘争を通じ、源氏と平家は二重の戦いを行うことになるが、一つは朝廷内闘争の代理戦争、もう一つは武士としての朝廷に対する独立戦争である。

鎌倉時代

1192年に源頼朝が鎌倉に幕府を開いた時点では、朝廷は辺境の武士たちの軍閥くらいに捉えていた。

鎌倉時代武士の優位が決定的になるのは1221年の承久の乱からである。後鳥羽上皇がこの戦いで大敗し、天皇の権力を大きく減退させることになる。

経済力に直撃を受け、3千か所にのぼる所領を幕府に没収される。武装も解除され、京都に六波羅探題が置かれて監視が強化される。とどめは後鳥羽上皇の隠岐島への配流だった。

武士による支配権が確立したと考えらえるが、歴史学の中では異論もある。異論は「権門体制論」という。「権門体制論」の方が歴史学の中では主流かもしれない。

「権門体制論」は、天皇は室町時代まで土地の支配者(=権門と呼ばれる)の任命権を掌握し、権門の上に君臨していたとする。朝廷は武士の棟梁を任命していたので、天皇は武士の上に君臨していたとする。

一方で、筆者は「二つの王権論」の立場である。形式や建前ではなく、実際はどうだったかという立場で考えると、人事権や訴訟解決力、外交、軍事など国家の最も大切な仕事は幕府が担っていたので、朝廷が上とはみなせないということになる。

承久の乱については、本郷和人「承久の乱 日本史のターニングポイント」が参考になります。

室町時代

室町時代の初期、後醍醐天皇が武家から権力を奪還しようと戦いを挑む。建武の新政であるが、3年2か月で瓦解する。

南北朝の動乱の中で、天皇の位置づけで特筆べき事件は、1352年の後光厳天皇の即位だった。

治天の君からの後継指名を受けることと三種の神器を持っていることが天皇の即位に必要だったが、北朝側には何もない状態だった。だが、足利政権は後光厳天皇の即位を強行した。武家政権が思うままに天皇を作り出せることを証明してしまった。

天皇を自由に作り出せるようになったにもかかわらず、武家政権は天皇家を廃さなかった。室町時代初期を代表する高師直ですら、天皇に敬意や畏れを抱かないが、木像でも金の像でもいいから、存在は必要だと認識していた。

そこまでして必要だったのは「職の体系」があったからである。「職の体系」を上回る論理がない以上、天皇家を滅ぼしてしまったら、土地の権利は大混乱を起こす。

戦国時代

「職の体系」に頼らなくなったのは、戦国時代に入ってからである。「職の体系」の複雑な権利が整理され、一元化したのが織田信長だった。

この時期には天皇家の財力は著しく低下し、葬儀や即位の費用を捻出できないケースもあった。そのため、在位期間が長くなっていった。

江戸時代

江戸時代になると、禁中並公家諸法度によって、天皇の第一の仕事は学問だと定められた。

朝廷に残されたのは、改元や暦を作ることだけだったが、江戸幕府はこのいずれも行うことにより、天皇の役割はさらに限定されるようにある。

だが、幕末になると、再び「外圧」による危機にさらされ、新しいヴィジョンを掲げるため、天皇が再発見されることになる。

スポンサーリンク

第二回 宗教を知れば日本史がわかる

日本の宗教を理解するうえでの3つのポイント。

  1. 「八百万の神々」。根っこになるのは多神教。吸収力が強く、いろんな宗教を吸収して現地化していく。
  2. 「世襲」。宗教と世襲は相性が悪いはずだが、日本的な特殊性が発揮される。
  3. 「外圧」。仏教、キリスト教、など外からの宗教は日本社会に大きなインパクトを与えた。

奈良時代

8世紀の初めに「日本書紀」「古事記」が成立し、「神道」の基礎ができるが、同じころに天皇家主導で仏教の受容が進む。

神道と仏教はほとんど並行して、天皇家によって形成され受容されていった。理由は「外圧」。663年の白村江の戦での敗北であった。

天皇家では仏教が重視されてきた

神官の最高位は公卿になれなかったが、仏教には親王の出家や、出家後に親王になるなどの例が数知れない。天皇皇后などの葬儀にあたる大喪の儀も、江戸時代末期まで仏式で行われ、神式になるのは明治時代以降である

仏教が国家体制の中核に結び付くが、世俗権力との距離が近すぎることがゆがみを生じされることになる。結果として、日本の仏教は独立性が乏しく、修行や教義の研究より、形骸化した儀式を重んじるようになる。

「東密」「台密」が貴族社会に広まっていくと、形だけのものになってしまう。時期的に唐が衰退してゆき、外圧が緩むと、儀式化、まじない化に拍車がかかる。

平安時代

これに貴族社会の「世襲原理」が組み合わさってしまう。平安時代、寺院に「院家」が現れる。大寺院の内部に寺がある状態だが、これが世俗の貴族と結びつく。

妻帯は不可なため、跡継ぎは生まれないが、家から跡継ぎを迎え、叔父から甥へ院主が継承される疑似的な世襲が続く。そして、院家も世俗の格付けに準じて格付けが決まっていく。

当時の仏教界では、教義の理解や仏教哲学を重んじる「教相」よりも実践を重んじる「事相」を重要視していた。事相では儀式がメインとなるので、誰にでもできた。

鎌倉時代

こうした平安仏教に異を唱えたのが、鎌倉仏教であった。「権門体制論」では鎌倉仏教は天台・真言の一部もしくは異端でしかない、とされる。

だがいくつかの点で、革新的だったと考えられる。

法然が説いた浄土宗は、二つの意味で「やさしい教え」だった。

  1. 名もなき人々の救済を目指した「優しい教え」
  2. 誰にでもできる「易しい教え」

御成敗式目によって武士は戦う人から治める人になっていく。その過程で「撫民」、つまりは民をかわいがる、大事にすると説くようになる。平安貴族とは異質の発想が生まれる。この背後には人々の救済を重視する浄土宗の思想があったと考えられる。

鎌倉幕府と特別の関係にあったのが禅宗だった。禅宗は将軍が最終的な人事権を持っていたので、禅宗は武家の宗派であった。

室町時代・戦国時代

戦国時代において非常に重要なのは一向宗とキリスト教だった。一向宗は日本には珍しい一神教の色彩の強い宗教だった。

宗教史において白村江の戦に続く「外圧」はキリスト教の伝来だったが、その宣教師がバチカンへの報告でライバルになるのは浄土宗(一向宗)であると書いている。

江戸時代

江戸時代になると、幕府のもとでまとめて管理されるようになる。そして、一種の役場的な役割も課せらえるようになる。寺檀制度である。

幕末の黒船来航という「外圧」により、日本はアイデンティティの危機を迎える。明治政府が打ち出したのは、天皇を中心とした国家づくりであり、思想的に補強するために求めたのが古来の神道だった。

だが、天皇はむしろ仏教とのつながりが強かったほどで、邪魔な仏教を排除しようとしたのが廃仏毀釈だった。このとき、どれだけ貴重な文化遺産が破壊されたか、筆者は歴史学者として胸が痛むいう。こうした神道原理主義的な騒動も一過性で終わる。

廃仏毀釈については安丸良夫「神々の明治維新―神仏分離と廃仏毀釈―」に詳しい。

そして第4の「外圧」として敗戦を迎え、宗教そのものが軽視、喪失する。

第三回 土地を知れば日本史がわかる

奈良時代

律令制の根幹ともいえる班田収授法からして、現実的に機能していたか疑わしい。この制度は人口と土地をきちんと把握して、管理していないとできない。また、十分な行政力が必要である。この制度は国家が掲げた「理想」だった。

723年には三世一身法、743年には墾田永年私財法が出されるが、公地公民が崩壊していったのではなく、公地公民は最初から実態がなく、現実を法律が追認していっただけではないかと考えられる。

平安時代

荘園と公領の支配システムは同じだった。

  • 公領の場合は、朝廷⇒国司⇒在庁官人
  • 荘園の場合は、本家⇒領家⇒下司

根っこは同じ「職の体系」という上下関係で成り立っていた

だが、「職の体系」には土地の持ち主がはっきりしないという問題があった。また、中央にいる領家や本家が当てにできるのかという問題もあった。当てにならないとなると、自力で守るしかない。これが武士の誕生につながる。

鎌倉時代

こうした中で自分たちの権利を守るために武力行使や、京都との交渉力のあるものが必要となり、選ばれたのが源頼朝だった。

そして、幕府の行政と裁判は「所務沙汰」「雑務沙汰」に分かれるが、土地関係の「所務沙汰」がメインとなる。この時に必要な法が「御成敗式目」だった。

鎌倉幕府は土地の管理を基盤にした政権だったが、脅かしたのが銭の流入だった。貨幣経済が浸透するのは13世紀の半ばである。

武士も問答無用に貨幣経済に巻き込まれ、やがて土地の切り売りが始まる。だが、徳政令により、土地を返すことになると、商いをする人々は御家人に怖くてお金を貸すことができなくなる。結果的に御家人の困窮はますます深まっていく。

室町時代・戦国時代

足利政権が京都を選ぶことになるが、一つは銭への対応であった。鎌倉幕府は貨幣経済への対応ができずに滅んだので、貨幣経済の中心地の近畿に拠点を置いた。また、足利政権は弱体だったため、朝廷などの旧勢力と交渉しながら、政権運営をせざるを得なかったためである。

天皇が必要だったのは、根本的な要素の一つが、土地だった。室町幕府は複雑な土地の権利関係を整理することができなかった

旧来の「職の体系」を超える論理を組めなかったのである。これが応仁の乱の原因の一つとなる。それを乗り越えたのが戦国大名だった。

戦国大名によって「職の体系」は否定され、新たな土地所有の権利が確立する。これを徹底的に進めて天下を統治しようとしたのが織田信長だった。

第四回 軍事を知れば日本史がわかる

兵站

軍事的な安定、安全保障がどの程度確保されていたかによって、その時代の政治や経済にも大きな影響を与えた。軍事を大きく戦術、戦略、兵站に分けると、戦術は技術によるところが大きく、戦略は政治、外交によるところが大きい。兵站=ロジスティックスは経済と密接に関係する。

兵力が多い方が戦争に有利なのは当たり前だが、常備軍は大変コストがかかる。兵をたくさん抱えると、財政上非常に重たい負担となる。そのため、平時はいかに常備軍を少なくするかが重要となる。

日本ではこの兵站をずっと軽視してきた。兵站がしっかりしていないと、何万人といった大規模な軍事行動はできなかった。これに真剣に取り組んだのが、織田信長以降じゃないかと思える。兵站を支えるために経済力が必要となり、そのためには民を安心して働かせなければならない。統治=民政の問題につながる。

歴史上の兵力

明治期に児玉源太郎がトップになって編纂した「日本戦史 関原役」(明治26年)での兵力の算定から1万の軍勢を用意するためには33万石が必要である。

これを基準にすると、明らかにおかしいのが1180年の富士川の合戦となる。非常に重要な史料である「吾妻鏡」に平家7万、源氏20万と書かれているが、多すぎる。

応仁の乱でも20万の大軍が京都で戦ったというが、当時の守護大名の兵力は多くて2千~3千で、万の単位になるのは戦国時代になってからである。

大義名分

戦争に勝つために必要なのは、第1に敵を上回る兵力、第2に優れた装備、第3に大義名分である。歴史が教えてくれるのは、まさに生死を賭けた戦いだから、大義が必要になるということである。

大義がないと、兵は全力で戦ってくれない。明確な目的が示されるから戦えるのであり、ここに思想や文化という要素が重要となる。

戦に勝つとは

そもそも戦争に勝つということはどういうことか。筆者の基準は単純で、戦争を仕掛けた側が目的を達成できれば、仕掛けた側の勝ち、達成できなかったら仕掛けられた側の勝ち、というものである。

この観点に立てば、川中島の第4次の合戦は、武田勢の勝ちとなる。川中島に最後までたっていたのは武田勢で、上杉勢は越後に帰ってしまっていた。戦争の目的である北信濃を死守したのは武田勢であるから、武田勢の勝ちとなる。

応仁の乱も同様である。室町幕府の運営を担っていた細川家が、細川体制を作り上げるために政敵を排除する必要があった。10年の戦いを経て、結局は細川家が管領の座を独占し、幕府の中で専横的な権力をふるった。細川家の勝ちである。

歴史学の世界では、関ヶ原の合戦後も、大坂の陣までは東に徳川、西に豊臣の公儀二重体制論が唱えられている。だが、関ヶ原の戦いの後、徳川家康が論功行賞を行い、各大名に領地を分配したので、この考えは成り立たないと考えられる。

佐藤進一氏が唱えた「将軍権力二元論」では将軍権力が政治と軍事の二つの権力から成り立つと考える。この考えによると、関ヶ原の戦後処理の段階で徳川政権は確立していたと考えることができる。

第五回 地域を知れば日本史がわかる

どこから関東か

関東と近畿はかなり別々の歴史をたどってきた可能性がある。東北地方はかなり時代を下るまで、中央政権が考える「わが国」の範囲には入っていなかった可能性がある。九州も博多周辺は先進地帯としての役割を担ったが、南部は東北地方同様に周縁部として扱われてきた。

固関(こげん)という儀式がある。天皇の代替わりや朝廷で大事件が起きると、関所を閉ざす。二つの意味があり、ひとつは中央から犯人や要注意人物を逃さないこと、もうひとつは関の向こうから攻めてこないようにすること。

封鎖する関は三つあった。

  1. 北陸道:琵琶湖の北、越前にあった愛発(あらち)の関 →のちに逢坂の関に代わる
  2. 東海道:三重の鈴鹿山に置かれた鈴鹿の関
  3. 東山道:関が原に置かれた不破の関

この三つの関が都の東側にだけ置かれ、西にはなかった。

「関東」は本来、この三つの関の東側を指した。この当時、美濃、越前より東は関東だったのである。一方で、進んだ文化は西から来た。入り口が博多だった。この博多と近畿地方を結ぶ大動脈が瀬戸内海だった。

中央と関東の境界

中央と関東の境界はどのように作られたのか。ルーツは壬申の乱(672年)にある。

天智天皇の後継を巡る戦いだったが、天智天皇が亡くなると大海人皇子は大友皇子と戦うため軍事行動を起こし、向かった先が関が原だった。

この関が原には大海人皇子の所領があったためであるが、優れた戦略拠点でもあった。大海人皇子は都から大友皇子軍が来るのを防ぐため道を封鎖した。それが不破と鈴鹿だった。ここで安全を確保して兵力を集めて侵攻したのだった。

関東や東北

美濃や越前が関東だったとすると、今の関東や東北はどうなるか。一言でいえば「化外の地」であった。遠い東北地方など真面目に治めるつもりはなかったのある。

平安時代初期の793年、801年、802年に坂上田村麻呂が征夷大将軍として東北地方に派遣されたが、実際に朝廷が東北地方を支配できたかは疑問がある。7世紀くらいまでは朝廷の勢力はせいぜい新潟あたりまでだったと思われる。

古代朝廷は東北地方を侵略はできても、占領・統治はできていなかったと考えられる。兵站を考えても明らかである。1180年の富士川の戦いでさえ平家は兵站の確保ができていなかった。アテルイを降伏させ、胆沢城や志波城の拠点は築いたが、軍を引き上げれば元の無秩序に戻るというのが繰り返されたと考えられる。

古代の交通についていえば、整備された街道ではなく、難所があちこちにあり、一人で歩くなどは無理な状況であった。

2通りの武士

武士には2通りあった。田舎の武士と京都の武士である。

田舎の武士は「在地領主」で、貴族の配下で地方に派遣された役人の中で土着化して地主となり、自分の土地を守るために武装したものたち。

京都の武士は、京武者ともいうが、天皇や朝廷、摂関家の警護を行う警察組織のようなもの。筆者は田舎説に立っている。理由としては京都説だと、率先して武装する必然性が良く分からないためである。

平氏と源氏

平家は関東で勢力を持ち、のちに伊勢に移る。関東の平家の中から現れたのが、平将門で、将門の乱は下総、常陸の平氏一門の争いだった。これを鎮圧したのが同じ平氏の平貞盛で、この4男・維衡が伊勢平氏の祖となる。

関東で勢力を広げた平氏の中で、豊かな京都に近い伊勢に移った連中がおり、その中から平清盛が出てきた。平家の本流がいなくなった関東に今度は源氏が入ってきただけであった。

源頼朝が伊豆に流されたのは、平清盛にとって伊豆はとんでもなく遠い僻地だったからである。そんな僻地で何ができるかという感覚だったのである。

源頼朝も13歳まで京都で育った京都人であったが、政権を鎌倉に打ち立てたあと、京都には2回しか行かなかった。

関東にとどまる源頼朝

富士川の戦いの後、頼朝は平家を討つために京都へ進もうとするが、三浦氏、上総氏、千葉氏の3人の有力な家人が頼朝にあなたのやるべきことは京都に行くことではなく、関東を治めることであると、言うと、頼朝はこれを聞き入れた。

こうしたことが関東の武士から我らの代表にふさわしいとなったのである。反対に京都の文化にあこがれて関東武士の支持を失ったのが、3代目の源実朝だった。

源頼朝が線引きした東西の境は美濃の墨俣だった。墨俣以東が鎌倉政権のエリアで、以西は京都のエリアであった。承久の乱後は尾張から西が六波羅探題の管轄で、三河から東が鎌倉幕府の管轄となった。頼朝の時代から35年ほどたって、東西の境界が少し東にずれた。この最前線の三河に配置されたのが、足利氏だった。

京都に上る足利尊氏

関東出身で全国政権を打ち立てた足利尊氏は、政権の中心を鎌倉にするのか京都にするのかの選択に迫られた。弟の直義は鎌倉に幕府を置くべきと考えたが、尊氏は京都にこだわった。大きな理由は流通と貨幣経済への対応だった。鎌倉時代の中期から、貨幣経済が広まるが、これに対応できずにつぶれたのが鎌倉幕府だった。モノとカネの中心は京都であり、経済を掌握するには京都を押さえるしかなかった。

細川頼之による足利体制設計

足利尊氏の孫・三代将軍足利義満の時代に足利政権が本格的に確立するが、体制を設計したのが細川頼之だった。この細川頼之が室町幕府のテリトリーを思い切って縮小した。

ターニングポイントになったのが、1392年だった。前年に全国66か国のうち11か国の守護を務めた山名一族を討伐し、京都の行政・治安・司法を朝廷の検非違使庁から幕府の軍事組織である侍所の管轄へ移した。

また、細川頼之が行ったのが、関東地方と東北地方の切り離しだった。この地方を関東公方に任せることにして、室町幕府の範囲を中部地方から西に限定してしまった。

重要な博多は、山口の守護大名・大内氏に任せ、関東公方へのお目付け役は静岡の今川氏に担わせた。これらの体制を整えて、義満と頼之は南北朝の対立に終止符を打つ。

南北朝が統一されると、持明院統の天皇が続き、南朝系の天皇が即位することはなかった。

室町時代における「鄙」の扱い

室町時代の初期の東北政策は、立派な肩書を持つ奥州総大将や奥州管領を送り込むが、派遣しっぱなしでサポートはしなかった。遠国のことだから、どうでもいいという姿勢が明らかだった。

また、「都」と「鄙」という区分のなかでは、田舎とされた「鄙」には関東と東北、おそらく博多以外の九州が含まれていたt。この「都」と「鄙」の関係がひっくり返るのが戦国時代だった。

徳川家康を関東に左遷

豊臣秀吉は徳川家康を関東に移した。関東の領地は250万石。豊臣家の直轄領220万石を上回った。だが、当時の価値観では明らかに左遷だった。かつての平清盛と同じく、関東まで飛ばしてしまえば何もできないだろう、という発想だった。

だが、徳川家康は着々と地盤を固め、頼朝が作り上げた鎌倉幕府を「吾妻鏡」で学んだ。頼朝がどうやって関東をまとめあげ、政治基盤を築いたのかを真剣に勉強したのだ。

第六回 女性を知れば日本史がわかる

家族類型論

研究が進むにつれ、近世以前の日本社会では女性の地位はけっして低くなかったことが分かってきた。強い権力を保持した女性もおり、財産の相続においても女性の権利は相当認められていた。とはいえ、政治権力との関係においては、女性はいわば「制度」の外の存在であった。

人類学的な視点から日本の家族システムを探るにあたり、エマニュエル・トッドの家族類型論が参考になる。重要なのが最も近代的で進んだ家族システムと思われてきた「核家族」が、実は「最も原始的」な形態であることである。最も新しいシステムが大家族を形成する「共同体家族」である。「核家族→直径家族→共同体家族」の順に新しいシステムになる。

女性天皇

推古天皇に始まり、称徳天皇まで古代には八代六人の女性天皇が存在した。その後に女性で天皇になったのは、江戸時代の明正天皇、後桜町天皇の二人だけだった。

中でも重要なのが天武天皇の皇后で、天武天皇あとを継いだ持統天皇である。天武・持統の時代こそ、この国の在り方を決定づけた時期だった。この時期に天皇の称号が定まり、「古事記」「日本書紀」が成立する。国文学においてはアマテラスのモデルは持統天皇とする説も唱えられている。

持統天皇

持統天皇は何故自ら天皇の座に就いたのか。筆者は皇位継承に関する重大なルール変更があったと考えている。

持統天皇は自分の子供に天皇を継がせたかった。それまで、皇位の継承は必ずしも父から子へではなかった。ヨコの継承もあり、実力のある皇族が継承することがあった。

持統天皇は天武天皇の死後、息子の草壁皇子を天皇にしたかったのだが、年少であったことと、大津皇子などのライバルがいたため、自らが中継ぎ役になったのである。

大津皇子らを排除することはできたが、肝心の草壁皇子が早く亡くなってしまい、孫の軽皇子を即位(文武天皇)させ、自らは太上天皇として政務を執った。ヨコの継承からタテの継承に移行する時期に、女性天皇が誕生したといえる。

文武天皇のときに制定された大宝律令では、相続の対象を男性に限ったり、長子の権利を重視するなど直径家族的な傾向が強い。当時の中国の直径家族システムを反映したものと思われる。だが、その後も日本では女性の相続権が認められ、律令は絵に描いた餅になる。

父系家族

もう一つ重要なのは、女系による継承は行われなかったことである。天皇家は一貫して男系でつながっていた父系家族であった。こうしたなか、皇統の危機だったのは、道鏡事件であった。

天皇家は早くから男系継承のルールが確立していたように見えるが、それが日本の家族のスタンダードだったのか、大陸の影響を強く受けた王家特有のものだったのか判断が難しい。

招婿婚

古代日本の家族制度上重要なのが招婿婚(しょうせいこん)である。

女性はずっと生家で暮らし、夫が通ってくる通い婚であるが、子が生まれると女性の家で育てられ、子供は母方の財産を相続するシステムである。

この招婿婚は正直言ってよくわかならない。財産が母方で継承されるという部分はあるが、天皇家をみても藤原氏を見ても血筋の継承は父方でつながっている。

この辺りをどう考えるのか、招婿婚の慣習はかなり限定的だったのではないかと考えられるが、今後の研究がまたれる。

外戚の力

母方の影響が強かったとしても、具体的な力をふるっていたのは、母方の男性(父や兄たち)だった。外戚としての藤原氏がその例である。

日本において興味深いのは外戚が世襲されていくことである。この状態を指して、天皇家の男性と藤原家の女性による万世二系と言ったりもする。

中国では外戚は基本的にどんどん変わっていく。そのため、皇帝が変わるたびに、外戚を中心とするグループが激しい権力闘争を巻き起こしただが、日本では外戚が固定化され、システムとして世襲化されてしまう。

武家政権になっても同様で、鎌倉将軍家の外戚の北条家が権力を独占する。室町時代においては足利将軍家は日野家から妻を迎え続ける。

血の管理

平安時代の女性の地位を考える上で重要なのは女流文学の存在である。この時期に女流文学が花を咲かせるのは、女性の自由度が高かったことが大きいと思われる。

中国において皇帝の最大の仕事の一つは後継者を作ることであり、後宮ではうっかりと別の血が入らないように厳格な血の管理を行っていた。

だが、日本においての後宮の管理は非常に杜撰であり、事実上ないも同然だった。だから源氏物語のようなストーリーが成り立った。

また、当時の日本人は血筋について、今ほど厳密に捉えていなかった。具体的に言えば、生まれた子供の父親が誰かそれほど問題になっていない。平清盛の白河法皇ご落胤説があるが、当時の感覚ではこうした詮索はほとんど意味がない。

興味深いのは「貴種」の問題である。鎌倉時代の「吾妻鏡」にあるエピソードだが、葛西家に源頼朝の血が入ったという記述があり、葛西家は源頼朝の血を引いていることを誇りとした。同じく、源頼朝のご落胤をうたっている家として島津家、大友家であった。

血筋を誇るのに、その家の血が入っていないのは構わない。家のルーツとして重要なのは「母」ということになり、父系直径家族が確立する前の日本の家族観が伺える。

財産の問題

女性の地位が高かったことが分かるのは、土地を中心とした財産の問題だった。この時期の土地に関する文書には、土地の相続人として女性が頻繁に登場する。

女性が家に属して自前の財産を持てなくなったのは、もっと後世のことだった。江戸時代以降に女性の権利は縮小していく。特筆すべきは女性皇族が広大な荘園の持ち主だったことである。代表的なのが、八条院領と長講堂領。

家督相続

鎌倉時代以降の武家社会になっても、女性の地位は決して低くなかった。端的に見えるのが家督相続においてである。長子相続が始まるのは鎌倉時代半ば以降だが、それまでは必ずしも長男が後を継ぐわけではなかった。

その際に有力な決め手となったのが、母親の出自だった。母親の身分が高い子供が跡取りになるケースが良く見られた。源頼朝はその代表例である。当時の女性にとって実家の影響力は非常に大きかった。逆に言えば、結婚後も実家の父の支配権が及んでいた。

また、鎌倉時代の御家人社会では、女性を介した家と家の結びつきは非常に強かった。たとえ戦い勝ち目がなくとも、この結びつきによって味方しなければならなかった。

北条政子は京に上って天皇、上皇の前に出るにあたって名前がないとまずいので、父・北条時政から一字をとって政子とした。当時、女性の呼び名は父親の影響が強かった。

女性城主

戦国時代において、女性の位置づけだが、史料的に確認できる女性城主は立花山城主の立花誾千代くらいである。

女性城主はほとんど存在しなかったが、実質的に優れた統治能力を発揮した女性は少なくなかった。代表的なのが、豊臣秀吉の正室おねである。

江戸時代

だが、江戸時代になると女性の地位が低下する。ひとつには儒教の影響が強まったためである。エマニュエル・トッド氏によると儒教は父系社会の論理である。その論理を取り入れる中で、女性の自由は非常に制限された。自由が制限されたのは、男性もそうで、大名は身分制度にがんじがらめにされた。

日本は昔から女性の地位が低かったと批判される際の昔は、相当の部分江戸時代を指している。

第七回 経済を知れば日本史がわかる

古代

古代においては貨幣経済は普及していなかった。物々交換などの物品貨幣が主流だった。

古代の日本は中央の一握りの上層部と、それ以外の差がはなはだしい社会だった。それは中国という先進国との差でもあった。

この中国文化受容の象徴が遣唐使だった。894年遣唐使が廃止され、律令的経済が本格的に崩壊していくことになる。律令制は形骸化し、政治の不在が地方でますます顕著になった。

貴族たちはどれだけ豊かな土地に任命されるか、部下たちがどれだけ貢物を持ってくるかにしか関心がなかった。皆が任命されたがったのが、播磨国、大宰府だった。

平安時代

平安後期、地方から吸い上げられた富は、上皇の蕩尽に費やされた。その莫大な消費を満たすため、生産、流通が盛んになり、経済が活性化した。

京都が消費の中心地として拡大していく中で流れに乗ろうとしたのが平清盛だった。日宋貿易に着目して、一種の私貿易を展開していく。この貿易でもたらされたのが、大量の銅銭だった。これが出回ることによって、通貨が機能し始める。

鎌倉時代

しかし、平清盛の先進的な経済政策は、源頼朝によっていったん挫折する。頼朝の方針は商業よりも農業だったためである。

この鎌倉武士たちも貨幣経済の大波にさらされるようになる。1225年から1250年の間に急速に貨幣経済が浸透していく。

室町時代

足利尊氏が京都に政権を置いたのは、鎌倉に拠点を置いたのでは、貨幣経済の浸透に対応できないからである。カネとモノが集積する京都を押さえないと、政権運営はできないと考えたのだろう。

室町幕府は京都に依存する格好で財源を確保する。京都を狙い撃ちすることによって、コストをかけずに税収を確保できる。酒屋や倉庫から税金を取ることである。一方で、地方からは守護を派遣して、徴収していた。

室町時代の経済・文化を考える上で重要なのは日明貿易であった。8代将軍足利義政は政治的にも軍事的にも無力だったが、日本的と言える文化、生活様式を作っていった。

戦国時代になり、戦国大名の主流は地方経営派である。それに対して、流通を軸に全国支配を考えたのが織田信長だった。経済を主体に考えると、地域や鎖国と言った区分は邪魔でしかない。だからいったん全部壊して、全国規模の流通網を構築すると考えていたのではないか。

江戸時代

だが、徳川体制になって、銭本位からコメ本位への転換だった。物品通貨から貨幣に移行するのが、一般的な経済史の常識だが、江戸時代には逆転した。

全国的に公平な統一基準が必要となり、銭は先進地ではスタンダードだったからもしれないが、関東や東北地方ではそれについていくのが非常に難しかった。そこで一歩後退してコメを全国共通の尺度として採用したのではないか。

本書について

日本史のツボ
本郷和人
2018年
文春新書

目次

第一回 天皇を知れば日本史がわかる
 日本通史を七大テーマで
 「王」としての天皇
 「日本」ブランドの創生
 ヤマト朝廷の「実像」
 平安時代の天皇は外交を放棄した
 系図のタテとヨコ
 天皇家が経済力を保てた理由
 院政は律令制の自己否定だった
 源平の二重闘争
 天皇と将軍 どちらが上か?
 木像だろうと金の像だろうと
 在位の長さは貧乏の証?
 日本の危機と天皇
第二回 宗教を知れば日本史がわかる
 八百万の神々、世襲、外圧
 神道と仏教、どちらが重視されたか?
 中国文明のプレッシャー
 おまじない化する密教
 貴族の序列が仏教界にも
 政治も宗教も結局、儀式
 民が求めた救済と平等
 浄土宗と統治者意識の誕生
 禅宗の疑似世襲制度
 戦国「一神教」の挑戦
 江戸のお寺は「役所」化した
 無理を重ねた「国家神道」
第三回 土地を知れば日本史がわかる
 「栄光の古代」に異論あり!
 非現実的だった「律令制」
 荘園は「口利き」の体系
 任地に行かない国司たち
 土地システムが武士を生んだ
 なぜ頼朝は「代表」に選ばれたか
 銭が滅ぼした鎌倉幕府
 「御家人ファースト」と徳政令
 婆娑羅大名の苛立ち
 信長がもたらした「自由」
第四回 軍事を知れば日本史がわかる
 軍事=悪か?
 戦術の工学、戦略の政治学、兵站の経済学
 富士川の合戦「二十七万人」は多すぎる!
 思想戦としての「大義名分」
 川中島は信玄の勝ち
 応仁の乱、真の勝者は?
 関ヶ原の「戦争目的」
 悪党たちが戦いを変えた
 戦国大名は名経営者
第五回 地域を知れば日本史がわかる
 日本は「ひとつの国」だったか?
 東に置かれた三つの関所
 大海人皇子と関が原
 坂上田村麻呂は東北を制したか?
 平安時代のサバイバル
 京都人・頼朝が関東武士に支持されたのは?
 東西の境で天下人が生まれる
 鎌倉っ子・尊氏は京都を目指す
 室町幕府をダウンサイズした細川頼之
 独立政権の可能性があった毛利と北条
 徳川家康が学んだ「吾妻鏡」
 関東・東北に伸びしろあり
 「西国連合」の明治政府が東京を選んだ
第六回 女性を知れば日本史がわかる
 「日本は昔から女性の地位が低かった」は本当か?
 エマニュエル・トッドの家族類型論
 女性天皇の果たした役割
 「招婿婚」をどう考えるか
 外戚も世襲する
 女流文学と自由恋愛
 「ご落胤」大歓迎?
 大荘園の領主だった女性皇族
 家督争いの決め手は母親の実家
 婿殿はつらいよ
 慈円が嘆いた女性上位時代
 遊女の力
 日野富子のマネーゲーム
 北条政子は頼朝に何と呼ばれていたか?
 女性城主を選んだ名将
 正室vs産みの母
 なぜ江戸時代に女性の地位は低下したのか?
第七回 経済を知れば日本史がわかる
 歴史の「リアル」に迫る
 一万円札はいくらなのか?
 古代に魅せられた少年時代
 遣唐使廃止の意味
 貿易の交点・博多
 大消費者としての皇室
 中国からやって来た銅銭
 鎌倉武士の年収は?
 京都の富に依存する室町幕府
 日本文化の原型をつくったダメ将軍
 信長の旗印は「銭」
 銭本位制からコメ本位制に”後退”した理由
あとがき