本郷和人「北条氏の時代」の感想と要約は?

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鎌倉時代は約150年間ありますが、その主人公は「北条氏」です。その北条氏のリーダーたちを取り上げたのが本書です。

2022年の大河ドラマ「鎌倉殿の13人」が北条義時を主人公としていたこともあり、北条氏への注目が高まっていました。

地方の小さな勢力だった北条氏が、政権を牛耳るまでになりえたのは、その類まれなる陰謀の技術だったと思います。北条氏には常に陰謀という血なまぐさく暗い側面が付きまといます。その血なまぐささはヨーロッパの中世に通ずるところがある様にも感じられます。

鎌倉時代は、日本史の舞台を大きく東へと拡大した時代でもあるのです。

また、鎌倉時代は血なまぐさい、そして人間くさい戦いと陰謀の時代でもありました。

北条氏の時代 p4~5

なぜ北条氏は御家人の頂点に立つことができ、なぜ御家人によって滅ぼされてしまったのか。本書では得宗家を中心に述べられていきます。

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第一章 北条時政 敵をつくらない陰謀術

北条時政以前の北条氏は分からないことが多く、史料も記述も少ないそうです。

北条氏の館の発掘調査から大きな建物跡が出てきたため、北条氏がもともと豊かで大きな勢力を持っていたとする説がありますが、文献上裏付ける記述は何一人出てきません。

また、平家の血を引いているとされますが、どのような家系なのかがハッキリしません。しかも、時政は本家ですら無かった可能性があります。

源頼朝の旗揚げの際にも40騎余りを用意しましたが、一国を代表する武士であれば300人くらいの兵は動かせます。北条氏は50人に満たない武士を率いるのが精一杯だったのです。

ただし、北条時政はこの時代の地方の武士としては漢字を自然に使い、文章を書けたので、地元では目立つ存在だったと考えられます。

源頼朝との出会いは北条時政の運命を変えるわけですが、本郷和人氏は1180年に源頼朝が鎌倉を本拠にした時点で鎌倉幕府誕生と考えています

朝廷がオーソライズした年ではなく、自分たちの意思で関東に本拠地を作った1180年を鎌倉幕府成立の年と考えるのが相応しいということです。

北条時政は干されていた?

源頼朝が政権を樹立したあと、外戚の北条時政は無役にとどまりました。

政治の重要局面に登場したのは一度限りで、京都との交渉でした。この時に守護と地頭の設置を認めさせています。

しかし、これ以外はほとんど目立った活動をしていません。

「亀の前騒動」では勝手に伊豆に引き上げるなど源頼朝との距離もありました。

源頼朝が亡きあとの北条時政

源頼朝が亡くなり生まれた空白期間に力を伸ばしたのが北条時政でした。

源頼家が家督を継いで三ヶ月後十三人の合議制がスタートします。この合議制は、頼家の将軍権力を奪うものでした。この中に北条氏からは北条時政と江間義時(=北条義時)の2人が入りました。

十三人のなかで最初に失脚したのは梶原景時でした。源頼家、実朝の時代に暗躍したトリックスターの三浦義村が絡んでいます。三浦義村の行動はいつも怪しく、事件のきっかけを作ります。

梶原景時は、北条時政が守護を務めていた駿河で御家人の吉香友兼らに討ち取られます。

梶原景時の失脚により、景時領の分配が行われ御家人たちは大きな利益をあげました。

奪った土地の分配は鎌倉時代の内ゲバを見る上でとても重要です。分け前にあずかりたい武士の心理をつき、北条氏は味方を増やしていきました。

源頼家が病で倒れると北条氏は後継者の準備に入ります。嫡男の一幡を東日本、弟の実朝を西日本を治めさせる案です。

一幡を擁する比企氏にとっては、実朝を擁する北条氏によって半分を奪われる格好になりました。北条・実朝と比企・一幡の対立です。

この当時、鎌倉には高度な文書行政ができる文官グループはワンセットしかいませんでした。北条時政は文官のトップである大江広元の支持を取り付け比企能員を誅殺し比企氏を滅亡させます。

比企能員に手を下した仁田忠常はすぐに殺されます。北条氏がよく使う手ですが、事件が起きると、敵と実行犯が消されます。

比企氏滅亡後すぐに源頼家の体調が回復しました。朝廷には頼家が亡くなったので実朝が跡を継ぐと伝えているため、非常に具合の悪い出来事でした。

源頼家は北条時政によって出家させられて伊豆の修善寺に幽閉されます。翌年、亡くなりますが、慈円は「愚管抄」で暗殺だったと記しています。

比企氏の所領の配分は北条時政が行いました。この時、鎌倉幕府は事実上、北条氏の政権になりました。

北条時政のつまづき

北条時政がつまづくのは後継者を決める時でした。

いつの時点か不明ですが、北条時政は牧の方を妻に迎えます。時政は牧の方との間に生まれた北条政範を後継者にしようと考えていたようです。

北条義時は江間姓を名乗っていましたので、北条本家の後継者としては認められていませんでした。

しかし北条政範が若くして亡くなると、牧の方が産んだ娘の婿である平賀朝雅を重用しはじめます。平賀朝雅は源氏の名門の当主です。

権力を固めるために北条時政が狙いを定めたのが武蔵でした。武蔵で邪魔になるのが畠山重忠でした。

京でのいざこざを経て北条時政は息子の義時と時房に畠山重忠を討てと命じますが、義時は必死で止めます。しかし、義理の母となる牧の方の兄・大岡時親からの発言を聞いた義時は覚悟を決めます。

義時は畠山重忠を悼むことで流れを変えました。

追い打ちをかけたのが北条時政が牧の方と計って平賀朝雅を将軍にしようとする牧氏の乱が起きます。

本郷和人氏はこの牧氏の乱は北条義時による時政追放事件だったと考えています。

北条時政は失脚しますが、義時は本拠地の北条に置いて監視しました。時政は復権することなく、10年後に78歳の長寿を全うして亡くなりました。

北条義時は平賀朝雅を討ち、所領の武蔵は弟の時房に与え、以後、北条氏は相模と武蔵を独占し続けます。

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第二章 北条義時 「世論」を味方に朝廷を破る

謎多き北条義時

吾妻鏡では時政より義時を初代北条氏とみなしているように思えます。

北条義時は謎の多い人物で、同時代の肖像画や木像などもありません。

若き日の重要なポイントは、北条氏の嫡男でなかったことと、頼朝の側近であったことです。

北条時政は義時に江間の地を与えて別の家を作らせたと考えられます。

北条時政を追い落として関東の武士のトップに立った北条義時は、ライバルを駆逐し、その延長上に実朝暗殺事件が起きます。

最初のターゲットは和田義盛でした。和田合戦です。

泉親衡による謀反の疑いに子と甥が加担したとされ、甥は屈辱的な扱いを受けます。

和田義盛は兵を挙げましたが、一族の三浦義村が裏切り、義時に一報を届けます。義時はすぐに御所に入って実朝の側に控えます。玉を抑えた時点で、戦の勝敗は決まったといえます。

北条軍は和田勢に耐えます。中心で指揮したのが北条泰時でした。次第に御家人が集まり、和田氏は滅亡します。

鎌倉のど真ん中で行われた戦で北条氏は武力で勝ちました。和田氏の所領は分け与えられ、和田義盛が持っていた侍所別当の役職を義時が手に入れ、政所別当と兼務することで、政治と軍事を握る事実上の執権体制が確立します。

源実朝暗殺事件と承久の乱

1219年に源実朝暗殺事件が起こります。本郷和人氏はこの事件は御家人たちの総意であり、それをくみ取った義時によって起こされたと考えています。事件後、公暁の背後関係をろくに探った形跡がありませんでした。

この後、北条氏主導で源頼朝直系の男子次々と殺され、御家人たちにとって源氏の血は必要なくなってきていました。

そして起きたのが承久の乱です。承久の乱については下記に詳しいです。

本郷和人「承久の乱 日本史のターニングポイント」

残された史料から、後鳥羽上皇は右京兆(北条義時)を討てと命じたと推測されます。

ここから文字通り北条義時を討てと解釈して鎌倉幕府を否定したわけではないという研究もありますが、本郷和人氏の意見は異なります。

一般的に朝廷が敵を倒す命令を出す際には、組織名ではなく相手方のトップの名前を書きます。

この時代には鎌倉幕府という呼び名はなく、徳川幕府のような確立した組織もありません。四代将軍は内定はしているものの、実権はありません。鎌倉に存在する集団は、義時とその仲間たち、でしかありません。そうなると、義時を討て、としか書きようがなくなります。

関東武士が求めたのは東国のことは東国が決めるということでした。もし、義時を失ったらこれまでの権利関係を保証してくれる人がいなくなります。御家人たちにとって、義時を討てというのは、鎌倉幕府を倒せに同義でした。

吾妻鏡では、義時が後鳥羽上皇との戦いに気乗りでなかったことをしつこく強調しています。已むに已まれない戦いであることを繰り返し描写されます。世論への配慮と建前づくりのうまさと考える事もできます。

戦いは一方的に終わり、後鳥羽上皇は軍備の放棄を宣言します。これにより武士による支配の時代が本格的に始まります。

承久の乱の戦後処理

北条義時は戦争が終わった直後から過酷な戦後処理を行い、朝廷にも処罰の範囲が広がります。日本史を決定的に変えたのは、後鳥羽上皇すら罪に問うた事でした。武士が朝廷を凌駕する力を得たことの象徴になります。

義時は後鳥羽上皇の血統を徹底的に排除します。

承久の乱を経て、朝廷の荘園三千ヶ所とも言われる権利を幕府が没収し、幕府方の武士の恩賞として分配します。これによって鎌倉幕府は東国だけでなく全国政権への一歩を踏み出します。

所領の分配は北条氏によって行われたので、北条氏と御家人の関係が変化します。

北条氏も肥大化し、北条家の当主である得宗の重要性が増し、後の得宗専制体制へつながります。また、北条氏は鎌倉周辺の地名などを冠して一門と他を区別しました。その中には得宗家に逆らう名越流北条氏もいます。

第三章 北条泰時 「先進」京都に学んだ式目制定

後継者ではなかった泰時

北条泰時は長男でしたが、子供の頃から後継者の扱いを受けてきませんでした。

10歳下の朝時は母が比企氏でしたので、血統的に後継者に相応しかったのです。

泰時が後継者になれたのは、和田合戦や承久の乱などで最前線で武功をたてたこと、六波羅探題北方として朝廷の政治を間近で体験し、当代きっての文化人と交流したこと、トップとしての自覚があったことなどです。

北条氏で最も優秀なリーダー

泰時は北条氏の中でも最も優秀なリーダーだったと言えます。

安定した政治システム作りだし、御成敗式目の制定、鎌倉の都市整備を行いました。

義時の死後、1225年には、11人の評定衆と泰時、北条時房の2人の執権による合議体制を築きます

評定衆は、かつての十三人衆のような大物御家人のパワーバランスの調整の場ではなく、政務執行機関でした。

執権というポジションが制度として確立したのも泰時の時でした。評定衆を招集し、主導する役職が執権と呼ばれました

評定衆システムとセットになった本当の意味での執権は泰時が初代と考えられます。

泰時が慎重なのは、執権を自分一人にせず、目上の叔父時房を京都から呼び寄せて二人体制としたことです。二人目の執権を連署と呼びようになります。

泰時は将軍の代わりの政治を行っているという建前は崩しませんでした。

六波羅探題で北方を務めている間に華厳宗の明恵と出会います。鎌倉にいては望めない高度な教育を受けることができました。

また、文字通り朝廷の徳のある政治を肌で感じることができました。

この時代、幕府の最大の仕事は土地の安堵であり、不動産トラブルの調停でした。

承久の乱の後、西日本に広がった土地をめぐるトラブルで東国武士の暗黙のルールが通じないことに泰時は頭を悩ませていました。

そこで1232年に制定されたのが、御成敗式目(貞永式目)でした。

幕政は安定しましたが、後継者には問題がありました。子が亡くなっており、孫の二人を後継者にします。

晩年に天皇の人事に関わる大きな事件がありました。九条道家が、後鳥羽上皇が可愛がった順徳天皇の子を即位させようとします。

泰時は順徳天皇の血統は認められなかったので、土御門上皇の子・邦仁王を即位させます。

これが幕府が天皇を決める前例になりました。

第四章 北条時頼 民を視野に入れた統治力

北条経時の将軍解任事件

北条泰時を継いだのは孫の北条経時でしたが、病弱のため4年で引退して、すぐに亡くなります。

この間に幕府の本質にかかわる重要な事件が起こります。北条家による将軍解任事件です。

執権・経時が就任した時には四代将軍九条頼経は在位16年になっていました。長く在位する事で、権力と権威を持つようになり、得宗家に不満を持つ北条一門の名越朝時や御家人の三浦泰村・光村の兄弟らが頼経に近づきます。

経時が執権に就任して、1244年に頼経は将軍職から引きずり下ろされます。しかし、頼経は鎌倉に留まり大殿と呼ばれて、多くの支持者を集めていました。

時頼を支えたのは極楽寺重時と安達氏

1246年に経時の弟の北条時頼が執権になりますが、非常に不安定な状態での政権の引き継ぎでした。

時頼を支えたのは大叔父の極楽寺重時と安達景盛、義景、泰盛の三代の安達氏でした。極楽寺重時は連署として支え、安達氏とは婚姻で何重にも結びついていました。

時頼は評定衆とは別に少数の幹部による意思決定機関を作り、深秘御沙汰と呼ばれました。のちに寄合衆へ発展します。

1249(建長元)年には評定衆の下に引付衆を新設して裁判の迅速化をはかります。

1246(寛元4)年に北条経時が亡くなると、宮騒動が起こります。

時頼が一気に動き、名越家のなかの将軍派や御家人で将軍派の者を片づけ、前将軍の九条頼経を京都に追放したのです。

京都では幕府との連絡役である関東申次を頼経の父・九条道家から西園寺実氏に変更されます。

九条道家系の排除は続き、幕府は貴族の主要人事も動かすようになります。

残る反執権勢力は三浦一族になりますが、前将軍の九条頼経が京都に追放になったため、後ろ盾が無くなり、緊張感が高まったタイミングで、安達勢が三浦泰村の館を攻撃し、三浦氏を滅ぼします。宝治合戦と呼ばれます。

三浦氏を滅ぼすと、北条時頼は極楽寺重時を呼び寄せて連署に就任させます。

1252年、将軍の九条頼嗣が追放されます。前将軍の九条頼経が関係するとされる謀反事件がありました。

前年に足利泰氏が突然出家しましたが、これに足利泰氏が関わっていたのではないか考えられています。

代わりの将軍は後嵯峨上皇の長男・宗尊がなりました。

本郷和人氏は、権力を盤石にした北条氏がなぜ将軍になれなかったのかという素朴な疑問に対しては、なれなかったのではなく、ならなかったのだ考えています。

高い官位につかなかったのは、他の御家人に対するアピールだったと考えています。

撫民の思想

北条時頼の治世で、為政者は民を慈しむべきだという撫民の思想が明白に語られるようになります。

本郷和人氏は三つのポイントがあるとします。

  1. 京都で朝廷が始めた徳政の影響
  2. 浄土宗で顕著な平等の思想
  3. 御家人が地頭として荘園の人々を統治する立場に立ったこと

北条時頼は禅宗を保護しました。鎌倉の建長寺を開き、蘭渓道隆を師と仰ぎました。

また、北条時頼の時代は日蓮宗の勃興期でした。興味深いのは、日蓮の教団には北条家との闘争に敗れた一族が集まっていました。幕府が日蓮の教団を危ないと考えたのも頷けます

北条時頼は30歳で出家します。後継者の時宗は6歳だったため、中継ぎとして極楽寺家から執権を立てます。それが赤橋長時です。

他家に執権を譲っても得宗家の優位性はもはや揺らぐ事がなかったのです。

北条時頼は引退したものの、院政を始めます。赤橋長時が若くして亡くなると、北条政村が七代執権になります。

北条時宗が18歳になると、政村は執権を譲っても、連署になって若き北条時宗を支えました。執権から連署になったのは政村だけでした。

第五章 北条時宗、貞時 強すぎた世襲権力の弊害

本郷和人氏は、元寇は幕府の外交能力の欠如によるものと考えています。

内政に関しても幕府は対応がブレます。政権内部の対立を、得宗家の北条時宗が調整しきれなかったのです。

北条時宗は生まれながらにして得宗と執権が約束されていました。

幕府内の北条一族の力は拡大しており、幕政の主導権を北条一門で独占するようになります。北条一族の有力者たちの発言力が大きくなり、得宗の将軍化が起きます。

御内人

得宗による権力の確立は、得宗家に仕える「御内人」という新しい権力グループを産みます。

御内人のトップを内管領といい、北条時宗の時代は平頼綱でした。

御内人vs北条一門・安達氏の対立が北条時宗時代の幕府の政策が大きく揺れる原因となります。

1266(文永3)年に北条時宗は六代将軍宗尊親王を京都に追放します。時宗は将軍の後継を押さえたうえで、軍勢を動員して将軍に脅しをかけた事件でした。

この事件が示すのは得宗家の力が、親王将軍すら簡単に追放できることと、異をとなえるのが名越家のみとなるほど、強いということです。

この後、将軍の存在は驚くほど薄くなります。

「吾妻鏡」の記述はこの将軍追放が最後となります。吾妻鏡が扱わない鎌倉中期から後期については、発給文書や手紙、「増鏡」、貴族の日記などから歴史を組み立てていくことになります。

貨幣経済の浸透

この時期、貨幣経済が浸透し始めていました。鎌倉幕府の経済は土地=農地をベースにしていましたので、その経済は農業を主体とし、モノの売買を主体とする貨幣経済には対応していませんでした。

鎌倉末期になると中国からのきらびやかな具足などがもてはやされます。銭を得る手段のない御家人たちは、土地をカタに銭を借りますが、返せなくなり土地が取られる御家人が続出します。

1267(文永4)年に御成敗式目の追加法が出されます。のちの徳政令の原型と言える内容です。

しかし、土地政策はこの後の20年間で二転三転します。

貨幣経済の急速な発展と、幕府内における徳政令的な政策を巡る対立が背景にあると考えられます。

元寇は幕府の外交能力欠如による災難

元の外交政策は杉山正明氏をはじめ東洋史の研究者の研究により、元は日本との通交を求めており、居丈高に脅してきた訳ではないことが分かりました。

幕府は朝廷が用意した返書を止めて棚晒しにします。その後も無為無策でした。普通の外交対応をしていれば元寇は防ぐことができたことだったのかもしれません。

二月騒動と霜月騒動

元の脅威が高まる中で、得宗へのさらなる権力集中が進められます。時宗の兄・北条時輔を排除する二月騒動が起きます。二月騒動では北条時輔だけでなく、北条一門の名越氏がターゲットになります。これで北条一門の反対勢力が一気に消されます。

文永の役と弘安の役の間には7年の歳月がありますが、この時期の権力闘争や、朝廷を巻き込んだ争いが鎌倉幕府崩壊の序曲になります。

元と戦った西国の御家人は不満を募らせ、怒りの矛先は安達泰盛に向かいます。

こうした中に持ち上がったのが、1275(建治元)年の京都の政変です。皇統が亀山系(大覚寺統)から後深草系(持明院統)へ移り、両統迭立が始まります。

1284(弘安7)年に北条時宗が34歳で亡くなります。時宗の死によって安達泰盛と平頼綱の対立が深まり霜月騒動になります。

北条時宗を継いだのは嫡男の北条貞時でした。貞時の時代を得宗専制と呼びます。

貞時の母は安達泰盛の娘であり、乳母の夫が平頼綱でした。外戚系と乳母系がファミリー内で争っていたのです。

霜月騒動は重大な事件でありながら、史料がほとんど残されておらず、詳細がよく分かっていません。

騒動の結果、安達泰盛派が一掃されます。騒動は全国的な規模の広がりを見せ、事実上の内戦とも言えました。

平頼綱による安達一派の粛清は続き、評定衆と引付衆の半分近くが消えるという鎌倉幕府史上もっとも苛烈な政変になりました。

頼綱は安達泰盛の改革を否定する政策を行いましたが、家格が低かったため、評定衆や引付衆にはなれず、寄合衆に参加して政策を決定していきました。

頼綱(平禅門)の専横は長く続かず、北条貞時が立ちはだかり、自害します。

貞時の政権は平頼綱によって強化された得宗専制体制をそのまま引き継いだものでした。

北条貞時らが貨幣経済への対応策として打ち出したのが永仁の徳政令でした。

1305(嘉元3)年に北条氏同士の内ゲバといえる嘉元の乱が起きます。

第六章 北条高時 得宗一人勝ち体制が滅びた理由

北条高時は太平記の影響もあり、とかく評判が悪い人物です。

高時が表舞台に立った頃、後醍醐天皇が登場します。

1326(正中3)年、高時は病気のため24歳で執権を辞して出家します。そして得宗の跡目争いが起きます。嘉暦の騒動と呼ばれる政変です。

一方、後醍醐天皇が元弘の乱で決起します。呼応して一人が楠木正成でした。

楠木氏の出自

楠木正成の出自は、悪党の1人と言われてきましたが、中世史研究者の筧雅博氏は、楠木家が駿河の御家人であり、得宗被官だったのではないかと言う説を発表します。楠木は駿河の知名で、霜月騒動で畿内に所領をもらって、西に移住して河内で一定の勢力を築いたというものです。

決定的となったのは足利尊氏が後醍醐天皇側についたことでした。では、なぜ尊氏が幕府に叛旗を翻したのかですが、本郷和人氏は、決心を促したのは後醍醐天皇に忠誠を尽くすためでもなく、御家人たちの世論だと考えています。

新田義貞が鎌倉に入り、鎌倉の町は徹底的に破壊されます。現在、鎌倉で目にする寺社仏閣のほとんどは江戸時代に建てられたものです。

史料も散逸し、行政文書や書簡などは、殆どが失われました。史料が残らなかったほど、鎌倉幕府は跡形もなく抹殺されました。

北条一門は徹底的に滅びました。北条一門を族滅させれば、その土地は恩賞として配られることが分かっており、天皇の命による朝敵を殺すのだから、良心の呵責もありません。

鎌倉幕府と北条氏はよって立つべき御家人たちに見捨てられて滅びたのでした。

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