江戸城(江城、千代田城)の訪城記-歴史と見どころは?(東京都千代田区)現在の皇居[国の特別史跡]

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東京はこの江戸城を中心にして発展しました。現在の皇居です。千代田城とも呼ばれます。

時代小説の多くは、江戸時代を舞台にしますが、多くの時代小説に登場する江戸城を一度は訪れると良いと思います。

時代小説の世界観がより身近に感じられるようになると思います。

目次
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900年の歴史を積み重ねた日本最大の城

最初にここに城を築いたのは平氏の秩父氏から別れた江戸氏とされます。

平安時代の1150年頃と言われますので、900年近くの歴史がある城です。

ただし、当時の遺構が見つかっていません。本丸あたりにあったのではないかと推測されています。

江戸城の前には海が広がり、平川と石神井川が流れていました。水運に適した土地で、水運が盛んだったようです。

室町時代になると、江戸氏の勢力が衰え、本拠地を今の世田谷区喜多見に移します。

次に江戸城を本拠地にしたのが太田道灌でした。1456年(康正二年)に築城を始め、翌年には完成します。

道灌の時代は子城、中城、外城に分かれていたようですが、どこかは不明です。中核となる中城は本丸あたりにあったのではないかと思われます。城下は栄えたようです。

その後、上杉氏が支配を続けますが、1524年に北条氏綱に攻められ、落城します。

徳川家康が江戸城を攻め落としたのが1590年(天正十八年)でした。

この年から江戸城の再構築が始まり、完成を見るのは江戸時代の三代将軍徳川家光の時代で、1638年(寛永十五年)になります。五十年近い歳月をかけてできた巨大な城です。

宿泊旅行なら旅行サイトを利用するのが良いと思います。下記をご参考になさってください。

徳川家康入府時

徳川家康が江戸に入った時、100戸位しかない寒村だった、と言われていますが、どうやら違うようです。

自分の業績を大きく見せるために、えらい寂れた場所だったことにしたそうです。

実際、都内の旧朱引にあたるエリアを歩き回り、寺社の創建時の様子が書かれている案内板や案内書を読むと、江戸開府当時に寂れていたとは思えません。

繁栄していたわけではないでしょうが、海運や水運がそこそこ発達して、物流に便利な場所として程々に栄えていたのではないかと思います。

近くには浅草寺などの寺町もありましたので、密集していたわけではありませんが、程々の集落が近いところに点在していたのではないかと思われます。

そうでないと、急速な都市の拡大がなかったのではないかと思います。

すでにある程度の人口があったからこそ、人口の急速な流入を受け入れることができたのではないでしょうか。

そして、急激な人口の流入に耐えられる食料の供給体制が確保できる状況だったからこそ、当時世界最大の都市になれたのではないかと思うのです。

田畑は短期では出来上がりません。時間がかかります。

100戸位しかない村、そこから想起されるのは、開拓されていない農村ということになりますが、そうではなく、急激な人口の流入に耐え切れる農業生産があったのではないでしょうか。

江戸の初期がどうだったのかは、そのうち改めて調べたいと思います。

天海が風水で護った城という説

江戸を徳川家康が選んだのは天海の献策によるものという説があります。

天海が江戸を選んだ理由が、江戸が風水における「四神相応」の考えにかなった土地だったからという説です。

四神とは、青龍、白虎、朱雀、玄武を指します。

四神相応に適した土地とは、東に青龍が宿る川、西に白虎が宿る道、南に朱雀が宿る水面、北に玄武が宿る山がある土地とされます。

ただし、四神相応のこの解釈・考えがそもそも間違っているという説もあります。

江戸は、東に平川、西に東海道、南に江戸湾、北に富士山が見える麹町台地があり、四神相応の条件を満たす場所というのです。

そして、天海は江戸城を中心に、陰陽道の北東「鬼門」、南西「裏鬼門」を固めたとされます。

京都の場合、鬼門である北東には比叡山延暦寺、裏鬼門である南西には石清水八幡宮がありますが、これに倣って、鬼門、裏鬼門に寺社を配置したというのです。

鬼門封じの役割

  1. 上野の寛永寺
  2. 神田明神
  3. 浅草寺

裏鬼門封じの役割

  1. 増上寺
  2. 日枝神社

よく燃えた江戸城(火の元が大奥だったことも)

天保十五年(一八四四)。江戸城は明暦の大火(一六五七)以来二百年ぶりとなる火事で本丸御殿が焼失しました。御殿の半分以上を占める大奥も焼失しています。

火の勢いは凄まじく、徳川家斉の正室だった広大院も御末に背負われて避難しています。広敷用人などは広大院の救出を試みたらしいですが、普段は立ち入れない大奥のため、広大院の居場所がわからなかったようです。

この焼失から約二十年後に幕府は倒壊しますが、それまでの間に度々火事に見舞われました。

火の元は大奥でした。

火災の被害が大きくなった原因は、何日も雨が続き、よもや火事が起るとは思っていなかったので、注意が足りず、しかも大きな雨音のせいで発見が遅れたということらしいです。

しかも、大奥の部屋の仕切りは土壁ではなく木材であったため、火の廻りが早く、出口を炎で遮られ、逃げ出せずに亡くなった女中が多かったようです。

本丸御殿は、現在の皇居の東御苑の一部になっています。ちなみに、皇居東御苑は、江戸城の旧本丸・二の丸、三の丸部分にあたるそうです。

かつての大奥は、明暦の大火後、再建されることのなかった天守閣跡のすぐ南にありました。将軍の世継ぎや隠居した大御所らが住んだ西の丸部分は、皇居宮殿となっています。

本丸御殿再建

天保十五年の全焼後、弘化二年(一八四五)に本丸御殿は再建されています。記録によると、本丸の面積は三万四五三九坪、うち御殿の広さは一万一三七三坪でした。

本丸御殿は表向、中奥、大奥の三つに分れています。

表向きは幕閣たる老中らが詰める部屋や役人の部屋から構成されています。

中奥は将軍が日常生活を送る空間です。

そして、大奥があります。大奥は御殿の内六三一八坪あった。表向と中奥を合わせた面積よりも広かったようです。

安政六年(一八五九)に再び本丸御殿が焼失します。将軍は前年に家茂が十四代将軍になったばかりでした。家茂は天璋院らとともに西の丸に移り本丸御殿の再建を待つことになります。

再建は万延元年(一八六〇)のことです。

文久三年(一八六三)。和宮降嫁後、家茂が京へ上洛したあと、また本丸御殿が焼失します。

この前に西の丸も焼失していたため、西の丸御殿での仮住まいもできず、家茂は田安屋敷へ、天璋院は清水屋敷へと移ることになります。

元治元年(一八六四)。西の丸御殿が再建されますが、本丸御殿は再建されることがなく幕末を迎えます。

天守閣再建運動

大阪城や名古屋城には天守閣があり、それぞれの街を象徴するランドマークとなっています。ですが、江戸城には天守閣がありません。

もちろん完成時にはあったのですが、焼け落ちてしまい、再建されなかったのです。太平の世になり、無用ということになったようです。財政が厳しかったというのもあるようです。

さて、この天守閣を再建しよういう市民運動があります。もし実現すれば、真の意味で東京のランドマークが復活することになります。海外からも城を見に来る客が増えるのは間違いないでしょう。

そして本丸御殿も復活できれば素晴らしいと思います。名古屋城が先行して本丸御殿を復活させるので、東京も負けていられません。

江戸城は皇居となっておりますが、同人に国指定の特別史跡にもなっています。

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皇居東御苑(重要文化財クラスのものがあるエリア)

天守台から大手門、大番所、本丸跡、松の廊下跡、富士見多聞など重要文化財クラスの建築物があるのに、指定されていないのが皇居東御苑です。

皇居東御苑が宮内庁管轄のためで、皇室の財産や宮内庁管轄の建築物や美術品は「御物」として、文化財保護法の対象外です。

奈良の正倉院の宝物もそうだといいます。

天守閣が建っていた時期は短い(天守閣が再建されることはなかった)

江戸城に天守閣があったのは、意外と短い期間でした。

戦国の雰囲気があった江戸時代初期のころだけであり、以後は、必要性もなく、天守閣が再建されることはありませんでした。

江戸城本丸の一番北側に位置しています。江戸城の天守は、慶長11年(1606)の家康、元和8年(1622)の秀忠、寛永15年(1638)の家光と将軍の代替わりごとに築き直され、将軍の権力の象徴であったともいえます。

慶長の天守は、現在より南の富士見多聞のあたりに位置していたと考えられます。5層の天守の高さは、国会議事堂とほぼ同じくらいだったといわれています。

元和・寛永の天守は、現在の天守台とほぼ同じ位置にありました。
元和の天守は元和8年(1622)、2代将軍秀忠の本丸海造の際、慶長の天守を撤去して新しく建てたもので、翌9年に完成し、高さは慶長の天守を上回っていたといわれています。
寛永の天守は、寛永15年(1638)、3代将軍家光のとき、元和の天守台(現存の天守台)に建てたもので、「江戸図屏風」によると金の鯱をのせた五層の天守閣でした。

この寛永の天守は、明暦3年(1657)の火災で焼け落ち、翌年に加賀藩前田家の普請により高さ18mの花崗岩でできた天守台が築かれます。これが現在残る天守台ですが、四代将軍綱吉の叔父である保科正之の戦国の世の象徴である天守閣は時代遅れであり、城下の復興を優先すべきであるとの提言により、以後天守閣は再建されることはありませんでした。現在、東西約41m、南北約45m、高さ11mの石積みが残っています。

江戸城の天守閣は、江戸初期の50年間だけ存在したのでした。

なお、明治15年(1882)当時の気象台が天守台に設けられ各種の観測が行われていました。

この城を書いている本

海音寺潮五郎の「日本名城伝」を読んだ感想とあらすじ

城を巡る人物模様を記した本であり、築城史ではない。各城に関しては別題があり、それに即した内容が書かれている。近世の城で実際に戦闘を体験しているのは、大阪城、熊本城、会津若松城、五稜郭しかないが、いずれも力攻めでは落ちなかった。そういう意味で、いずれも難攻不落の名城なのだ。

大手門(旧江戸城大手高麗門)

大手門の形式は枡形門と呼ばれます。

大手高麗門(一の門)と大手門渡櫓(二の門)と、桝形と呼ばれる四角形の場所からできています。

桝形の中に「旧大手門渡櫓の鯱」があります。

太平洋戦争末期の1945年4月13日、渡櫓は全焼しており、1965~67年にかけて復元工事を行いました。

高麗門はほぼ江戸時代の様子をとどめています。

宮内庁三の丸尚蔵館と大手三の門

宮内庁三の丸尚蔵館

大手三の門は、大手門から三の丸尚蔵館の前を過ぎた正面のところににあり内側には同心番所があります。この門も本来は枡形門で、両側和水堀でした。

ここを駕籠に乗ったまま通ることができたのは、尾張・紀伊・水戸の徳川御三家だけで、それ以外の大名はここで降ろされ、検問を受けました。このことから、この門は下乗門とも呼ばれました。

大手三の門

同心番所(大手三の門を警固する与力・同心がつめていた)

大手三の門を過ぎるとすぐにあるのが同心番所です。

同心番所には大手三の門を警固する与力・同心がつめていました。同心とは、江戸幕府の諸奉行・所司代・城代・大番頭などの配下に属し、与力の下にあって、庶務・警備の仕事をしていた下級役人を総称したものです。

同心番所の屋根瓦の一番高いところには、徳川家の葵御紋の妻瓦があり、軒先は普通の三巴紋の瓦となっています。

百人番所(甲賀組、根来組、伊賀組、二十五騎組の4組が守っていた)

甲賀組、根来組、伊賀組、二十五騎組の4組が護りを固めていた場所です。

長さ50メートルを超える百人番所です。大手三の門を守衛した江戸城本丸御殿最大の検問所でした。鉄砲百人組と呼ばれた根来組、伊賀組、甲賀組、廿五騎組の4組が交代で詰めていました。各組とも与力20人、同心100人が配置され、昼夜を問わず警護に当たりました。

同心が常時100人詰めていたところから百人番所と呼ばれるようになったといわれています。

江戸城遺構に関する案内図

江戸城というのがいかに巨大な城であったかがわかります。

今の皇居は、かつての江戸城の一部分でしかありません。

大番所(中之門警備のための詰所)

本丸へと通じる中之門警備のための詰所で大番が詰めていました。

百人番所、同心番所とこの大番所の三つが残っています。大番所は大手中之門の内側に設けられ、他の番所よりも位の高い与力・同心によって警備されていたといわれています。江戸城本丸へは最後の番所であり、警備上の役割はきわめて重要であったと考えられています。

皇居展望台からの眺望

展望台からの風景です。丸の内のビル群を眺められます。

富士見櫓(現存する3櫓のひとつ)

小さな城の天守ほどの大きさがあります。

櫓は数多くあったそうですが、度重なる火災や地震による損害で、現存するものは伏見櫓、富士見櫓、桜田巽櫓の三つだけです。

旧本丸の東南に位置します。品川の海や富士山がみえたそうです。

万治2年(1659年)の再建。

松の廊下跡(忠臣蔵で有名 殿中でござる!殿中でござる!)

松之大廊下(まつのおおろうか)は、江戸城内にあった大廊下のひとつです。

本丸跡左手の現在は木立となっているところに、本丸大広間と白書院(将軍との対面所)を結ぶL字形の廊下がありました。これが「松の廊下」です。

ここが「忠臣蔵」で有名な元禄14年(1701)3月14日、赤穂藩主の浅野匠頭長矩が高家衆筆頭の吉良上野介義央に斬りかかる刃傷事件が起きた場所です。

上野介は軽傷でしたが、殿中での刃傷はご法度であったので、内匠頭はその日のうちに切腹となりました。その後、赤穂藩は取りつぶしとなり、家臣たちは浪士となりました。

一方、上野介には御咎めはなく、お家の再興も退けられた浪士が大石内蔵助の頭に亡君の仇討を計り、元禄15年(1702)12月15日に吉良邸に討ち入り本懐を遂げました。

この事件の発端となった、松の廊下は本丸で二番目に長い廊下といわれ、西へ約19メートル、北へ約31メートル、幅は約5メートルであったと伝えられています。障壁画に「松」を主題にした絵が描かれていたことから「松の大廊下」と呼ばれていました。

忠臣蔵・赤穂浪士もの

富士見多聞

堀側から見ればよかったと思いました。裏から見ると単なる倉庫ですので…。

一般参賀などの皇居公開時には外側(蓮池堀側)から富士見多聞を見ることができるそうです。

見られる時期は限られるということでしょうか…。

多聞とは、防御と装飾とを兼ねた長屋作りの武器庫で、本丸には十五棟の多聞が有りましたが、現在残っているのは、この富士見多聞だけです。

石室(石作りの蔵)

抜け穴とか、金蔵とか諸説があるそうです。

富士見多聞北側の蓮池濠沿いにある石作りの蔵です。江戸城の遺構の中では比較的小さなもので、表の石組には焼けたような痕があり、多少ずれています。

入り口には扉を取り付けた穴があり、内部は20平方メートルほどの広さとなっています。伊豆半島産の安山岩(伊豆石)の切石で、隙間もないほどキッチリと壁が造られています。江戸城の抜け穴や御金蔵との説もありますが、場所柄から、火災などの際に貴重品などを避難させた蔵と考えられます。

本丸・表御殿跡(江戸幕府の政治の中枢があった場所)

江戸城の真の姿は、ここにあった本丸御殿です。江戸幕府の政治の中枢が、ここにありました。

江戸城本丸跡には広々とした芝生が広がっています。本丸御殿は、表・中奥・大奥の三つからなっていました。表御殿は、諸役人の執務や将軍の謁見の場など公的な建物で、最も格式の高い「大広間」は正月などに諸大名が参集する場所でした。

明治維新の直後、本丸跡は焼け野原で、第二次大戦後も野菜畑や桑畑の時代もありました。
本丸跡は気象台発祥の地でもあり明治期から昭和30年代まで気象庁の官舎もありました。明治4年(1871)正確な時間を知らせるために、ここに午砲台(ドン)が設置され、昭和4年(1929)に廃止されるまで、「ドン」の愛称で東京府民に親しまれていました。

北詰橋門・北桔橋

いったん皇居東御苑を出て、平川橋へ向かいます。

内濠(平川濠・乾濠)に架かり、皇居東御苑の北側にあります。江戸城北桔橋門の橋で、有事に備えて橋が跳ね上がる仕組みになっていました。太田道灌の時代には、この付近が城の大手(正面)であったと伝えられています。江戸時代は門を入った所に江戸城本丸の天守閣がありました。現在は、冠木門と橋だけが残っています。

平川門・平川橋

平川橋を渡り、再び皇居内に入るために平川門をくぐります。

江戸城の鬼門にある門で、死人や罪人はこの門から外へ出されました。また、本丸の大奥から一番近かったので、奥女中が使う門として、お局御門とも言われました。

江戸城の門は門限が決まっており、不定時法で明け六つに開門、暮れ六つに閉門となっていました。

逸話として、閉門時間に間に合わなかった春日局が平川門の外で一夜を明かしたというものがあります。

天神濠(一部しか見えません)

天神濠は一部しか見えませんでした。平川門内で平川濠と接し、本丸の北東辺と二の丸の北側を守ります。

諏訪の茶屋(明治期の茶室風の建物)

江戸時代に吹上地区にあったものを、皇居東御苑の整備にあたって移されたもの。建物は明治45年に再建されました。

明治期の茶室風の建物として優雅な外観を持っています。

二の丸庭園(小堀遠州の庭園を模したもの)

二の丸には小堀遠州が造営した庭園があったそうです。

現在の回遊式の庭園は、昭和43年の皇居東御苑の公開にあたり、徳川家重時代に作成された庭園の絵図面を参考に造られたものです。

皇居正門石橋旧飾電燈

二重橋の手前側の石橋に設置されていた飾電燈のうちの1基です。

据付けられたのは1888(明治21)年、点灯開始は1893(明治26)年から90年以上の1986(昭和61)年まででした。

白鳥濠

本丸と二の丸の間に唯一残っている濠です。

  • 中之門跡(未撮影)
  • 中雀門跡(未撮影)
  • 大奥跡(未撮影)
  • 西桔橋(にしはねばし)(未撮影)
  • 下梅林冠木門外橋(未撮影)

皇居外苑

日比谷濠

江戸城(皇居外苑)を散歩。最初は日比谷濠(ひびやぼり)からです。祝田橋から馬場先門までの濠。この日は寒かったぁ…。

江戸時代の初めまで、日比谷入江と呼ばれる海でした。

神田山の切崩しや、半蔵門から桜田門にかけて桜田濠が掘られ、その土で日比谷の入り江が埋め立てられました。

入江の埋め立てと江戸城整備に伴って1608年ごろまでに出来上がったとされます。

今の日比谷交差点に日比谷御門がありました。日比谷公園内に石垣が残っています。日比谷公園に入ってすぐの心字池も江戸時代の濠の跡があります。

楠木正成像(このエリアに団体さんのバスが止まりまーす)

楠木正成(楠公)の銅像が外苑の一角にあります。

像は二重橋を正面に見据えています。

別子銅山を開いた住友家が、開山200年の記念として企画し、東京美術学校に依頼し作成し、宮内庁へ献納したものです。

高村光雲、山田鬼斎、岡崎雪聲などによる作品です。

楠木正成が後醍醐天皇を兵庫の道筋で迎えた際の勇姿ということです。

桜田門(桜田門外の変の舞台 桜田堀と凱旋堀の間にある)

昭和36年(1961年)に「旧江戸城外桜田門」として国の重要文化財(建造物)に指定されました。

明暦の大火で焼け落ちて再建されたが、江戸初期のままに残る門として指定されました。

門の名前は、徳川家康が入府するまえから、この辺りの地名が桜田郷だったことから来ています。

江戸城の各門の多くは、第一の門と第二の門との中間に桝形(四角形)の広場がある「桝形城門」の形式が採られています。

桜田門の桝形は15間×21間あり、現存している城門の中では最も広い規模を有し、形態が良保存されているため、昭和36年6月、国の重要文化財に指定されました。

江戸城には内桜田門と外桜田門の2つが存在します。前者は桔梗門とも呼ばれ、単に「桜田門」という場合には後者を指すことが多いです。

江戸城の城門で最大で左右が40メートル、奥行きが30メートルあります。

この門の近くで水戸藩浪士らによる大老井伊直弼の暗殺事件(桜田門外の変)が起きました。井伊直弼の屋敷は、今の国会議事堂前庭(洋式庭園)あたりだったようなので、目と鼻の先でした。

当時も今と同じように広い道だったので、襲撃者が隠れるところはなかったようですが、大名行列を見るのが物見遊山がわりだったそうで、事件当日も見物客が多かったそうです。

桜田門外の変を扱った映画

(映画)柘榴坂の仇討(2014年)の感想とあらすじは?
桜田門外の変を題材にした映画。原作は浅田次郎による短編小説。短編集「五郎治殿御始末」(ごろうじどのおしまつ)に収録されている。主人公の志村金吾と直吉(佐橋十兵衛)は浅田次郎による架空の人物である。

二重橋(手前の橋が「正門石橋」、奥の橋が「正門鉄橋」)

皇居前広場の一番人気の伏見櫓を背景とした「二重橋」。

皇居前広場から正門を経て宮殿へ至る濠に二つの橋が架かっており、手前の橋が「正門石橋」、奥の橋が「正門鉄橋」です。

「二重橋」は一般にこの二つの橋を総称して言われますが、厳密には奥の「正門鉄橋」を指します。

「皇居正門鉄橋」は、1614年(慶長19年)当初、二重構造(木造)であったことが、名前の由来となっています。

現在の橋は、明治宮殿造営時に、錬鉄製の橋に架け替えられ、昭和の新宮殿造営時に、大幅な変更をせず架け替えられたものです。

「皇居正門石橋」は、1888年(明治20年)12月、明治宮殿が竣工する前年に完成しました。

石造りアーチ橋には、花崗岩が使用され、照明灯や高欄を含め、西洋建築の意匠が採用されました。

坂下門(西の丸の坂下にあった)

西の丸の坂下にあったことから坂下門と呼ばれます。

幕末1862 年(文久2 年)に老中・安藤正信が6 人の浪士に襲撃された「坂下門外の変」はこの門前で起きました。

桔梗門・桔梗濠(家紋である「桔梗」にちなんで)

太田道灌時代、瓦に施された家紋である「桔梗」にちなんで、桔梗門と呼ばれています。正式には、外桜田門に対し内桜田門と呼ばれます。

桔梗門は慶長19年(1614)に造られました。現在でも門の鬼瓦には桔梗紋が刻まれています。別名が「内桜田門橋」です。

桜田巽櫓(現存する3櫓のひとつ)

江戸城の櫓は度重なる火災や地震による損害で、伏見櫓、富士見櫓、桜田巽櫓の三基だけです。

本丸の東南(辰巳)の方角にあることに由来します。

「石落し」(石垣よりはみ出した出窓部)や鉄砲、矢用の「狭間」を戦略的目的で備えています。

和田倉噴水公園(和田倉地区にある噴水公園)

昭和36年に今上天皇の御結婚を記念して創建された大噴水を、平成5年6月の皇太子殿下徳仁親王と雅子妃殿下の御結婚を機に、「継続と新たな発展」をテーマに再整備し、平成7年6月に完成したものです。

和田倉門跡・和田倉濠(木橋の姿)

皇居のお濠に架かる橋で木橋の姿が残されているのは、和田倉橋と平川橋の二つだけです。

この橋より内側は、大手門や内桜田門(桔梗門)から入場する大名や武士が通行する橋で、一般人は通ることができませんでした。

和田倉の地には1607 年(慶長12 年)頃まで蔵があったので「蔵の御門」と呼ばれました。

1620 年(元和6 年)に最初の枡形門が築かれましたが、1923 年(大正12 年)の関東大震災で崩壊しました。

橋は残り、橋の腐朽が進んだため、1953 年(昭和28 年)に現在の鉄筋コンクリートの橋脚に架け替えられました。

  • 祝田橋(未撮影)
  • 馬場先門橋(未撮影)

北の丸公園

北の丸公園は、江戸時代に江戸城北の丸があった場所です。

千鳥ヶ淵などは桜の名所として有名です。

北の丸公園の西側の堀の石垣のわずかな隙間に、国の天然記念物に指定されている「ヒカリゴケ」が自生しています。

竹橋・竹橋門跡

竹橋の由来となっている竹の橋ではなく、石橋になっています。竹橋は、竹橋門があったところで、石垣の一部が残っています。

内濠に架かり、一ツ橋一丁目から代官町通りに向かう橋です。橋名の由来は、初めは竹で編んだ橋が架かっていたからと伝えられています。また、古い地図には「御内方通行橋」と記載されています。

元和6年(1620)に造られた江戸城の竹橋門のあった所ですが、門は撤去され石垣の一部と橋だけ残っています。現在の橋は、平成5年(1993)3月に補修されました。長さ51.05m、幅22.8mのコンクリ-ト橋です。別名として、「御内方通行橋」があります。

竹橋のところに竹橋御門がありました。江戸城三十六見附の一つです。江戸城外堀跡として国の史跡になっています。

  • 田安門(未訪問)
  • 清水門(未訪問)
  • 清水門橋(未訪問)
  • 田安門橋(未訪問)
  • 半蔵門橋(未訪問)
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