茂姫(広大院)とは? 島津家から最初に将軍家に嫁いだ薩摩藩の姫

この記事は約3分で読めます。
記事内に広告が含まれています。

茂姫(広大院)は、江戸時代末期の薩摩藩と幕府の関係を考察するうえで、重要な人物です。

薩摩藩は徳川幕府を倒す勢力となるわけですが、薩摩藩と将軍家は極めて近い姻戚関係でした。

スポンサーリンク

一橋家との縁組み

五代将軍綱吉の養女から島津家へ輿入れをした竹姫(浄岸院)は、将軍家との関係が疎遠になるのを憂いており、島津家の将来のためにも一橋家との縁組みを望んでいました。

島津重豪に娘が生まれたら、徳川一門と縁組みさせるように遺言して竹姫は亡くなり、重豪に娘が誕生します。

一橋家にも男子・豊千代が誕生し、竹姫の遺命に従って島津家は一橋家に縁組みを申し入れました。

重豪の娘の幼名はお篤、その後に茂姫と改めます。後の広大院です。

スポンサーリンク

田沼意次との結びつき

竹姫との婚姻の時にはためらいを見せた島津家でしたが、このときの婚姻はむしろ積極的だったのではないかと思われます。

一橋家と縁を繋ぐことで、藩財政の窮乏状況をすこしでも緩和させたい狙いもあります。

この時期、一橋家の付家老は田沼意誠であり、実兄は御側御用取次の田沼意次でした。

島津家としては一橋家を介して田沼意次との結びつきを強くしようと言う思惑があったはずです。

代わりといっては何ですが、島津家は茂姫の手当を一橋家におくり、これが功を奏したか、島津家は御手伝普請を命じられることは少なくなりました。

宝暦治水の苦い経験を持つ薩摩藩としては上々の出来だったはずです。

徳川家基の死去

安永八年(一七七九)に世嗣の家基が十八歳の若さでなくなってしまい、後嗣を選ばなくてはならなくなりました。

選考の主導権を握ったのが田沼意次で、天明元年(一七八一)に一橋家の豊千代が後嗣に決定しました。

茂姫も一橋屋敷に引き取られ、西丸に入りました。九歳の少女でした。これは島津家にとって予想外の展開となります。

豊千代が十一代将軍家斉になると、重豪は斉宣に家督を譲りました。これは将軍岳父になったことを遠慮してのことといわれています。

岳父になることで、重豪はさまざまな恩恵にあずかりました。

そのひとつに江戸城での席次が大広間から大廊下席に昇格したことがあげられます。

ですが、こうした優遇は反発を招くことにもなりました。

重豪が家督を譲った理由としては、田沼意次と親しかった重豪が、田沼の失脚によって薩摩藩への風当たりが強くなるのを予想して、あらかじめ隠居を決意したという見方もあるようです。

広大院

茂姫は右大臣の近衛経煕の養女となり、姫君様と称されて寔子(ただこ)と名を改めました。

寛政元年に家斉と婚儀が行われて「御台様」と称され、大奥に入ることになります。

寛政八年に家斉の五男となる敦之助を産みますが三年後に亡くなります。

御台所が男子を出生するのは二代将軍・徳川秀忠の正室お江与の方以来でした。

天保八年に家斉が隠退して大御所となり、西丸に移ると茂姫も西丸に移り「大御台様」と称せられるようになります。

天保十二年に家斉が死去し、剃髪後「広大院」を名乗りました。翌年には従一位を授かり、「一位様」と呼ばれるようになります。

後年、薩摩藩から再び御台所が誕生します。篤姫(天璋院)です。

タイトルとURLをコピーしました