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竹姫(浄岸院)とは?五代将軍綱吉の養女と薩摩藩の関係

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竹姫(のちの浄岸院)

江戸時代の薩摩藩と将軍家の結びつきを語る上で、必ず登場するのが竹姫( 浄岸院)です。

そして、この竹姫が強めた薩摩藩と将軍家との繋がりこそが、後に篤姫(天璋院)が十三代将軍家定の正室になるための布石となります。

格上の婚家

竹姫の話の前に、薩摩藩の婚姻政策を簡単に見てみます。

薩摩藩の婚姻政策は独特であったようです。

他の大名家の婚姻状況を概観すると、妻の実家の家格が婚家より高い傾向があります。これは家格の向上を目指す場合に有利となります。

特に将軍家から息女を迎えると、将軍姫君として遇され、死後も徳川家の菩提寺に埋葬されることが多かったようです。またこのことによって便宜を図ってもらえることもあったようでした。

こうした一般的な傾向とは異なり、江戸時代の薩摩藩主十二人の夫人の出自を見ると、家格が上といえるのは竹姫、保姫、英姫の三人くらいでした。

保姫は徳川御三卿の一橋徳川家当主徳川宗尹の娘で、薩摩藩主・島津重豪の正室、徳川治済が兄、法号は慈照院殿円応霊妙大姉でした。

英姫は一橋徳川家当主・徳川斉敦の娘で薩摩藩主・島津斉彬の正室、最初は英姫(ふさひめ)、後に恒姫、栄樹院となります。

薩摩藩の婚姻政策

なぜ、薩摩藩は独自の婚姻政策をとったのでしょうか?

そもそも、大名の奥女中制度は一般的に妻の実家の制度の影響を受けることが多くありました。そのため、大名の奥女中制度は将軍家の大奥よりも複雑だったようです。

ですが、薩摩藩の場合、家格が上から夫人を迎えることが少なかったため、他家の影響はほとんど受けなかったようです。あえて家格が上からの夫人を迎えないことで、他家からの影響を排除しようとしたのでしょう。

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五代将軍綱吉の養女竹姫の縁組み

こうした薩摩藩にあって、竹姫との縁組みというのは特例的な意味合いを持ちます。

享保十四年(一七二九)四月六日。

老中松平乗邑から島津家第二十二代の継豊(薩摩藩としては第五代藩主)に五代将軍綱吉の養女竹姫を娶らせたいという八代将軍吉宗の意向が伝えられます。継豊は二年前に正室を亡くしていました。

継豊には世嗣の益之助(のちの宗信)がおり、竹姫を迎え、竹姫が男児を産めば御家騒動の火種となる可能性がありました。

そのため、継豊はもちろん、江戸詰の家老たちも乗り気ではありませんでした。そこで、断る理由を見つけるために、四苦八苦したようです。

ですが、吉宗は竹姫が男児を産んでも、益之助の嫡子として問題ないという意向を伝えていました。ここに来て薩摩藩としても断る理由がなくなってしまいます。

この時代については「江戸時代(幕藩体制の動揺)はどんな時代?」にてまとめています。

第五代藩主継豊の憂鬱

継豊はよほど思いあぐねたのか、隠居して国許にいる父の吉貴から断ってもらおうとしています。ですが、意に反して、吉貴は竹姫との婚姻に前向きでした。

将軍家からたとえ養女であったとしても娘を迎えるとなると、御守殿の建設をはじめとして、物入りでした。継豊や江戸詰めの家老らが難色を示すのは当然だったのです。

また、大奥からは迎える姫だけでなく、御付の奥女中もくっついて、何かとトラブルのもととなったようです。

奥女中だけでなく、幕府から御住居掛りと呼ばれる役人がやってきて、御殿に関する事務を執りました。

江戸屋敷に大奥が移転してきたようなもので、さらに幕府密偵を抱え込むようなものだったのです。

さらに、迎え入れた姫が死去すると、御殿は撤去されるのが決まりであり、この出費も余儀なくされます。

かといって、こうした将軍からの輿入れを固辞すると、幕府から報復にあったようです。

それは、転封や御手伝いを命じられたりと、出費を強いられるものでした。賄賂を送る余裕のある大名家は、賄賂でうまく逃れることができることもありました。

ですから、継豊も江戸詰めの家老らも上手い逃げ口上を見つけようと躍起になったのです。

継豊と竹姫の婚姻

結局、継豊と竹姫の婚姻はなされることになります。

結果としてこの降嫁は薩摩藩にとってプラスに働き始めます。将軍家からの輿入れで、薩摩藩ほど役得にあずかった大名はいないのかもしれません。希有なケースのようです。

まずは、竹姫の住まい用として芝屋敷の北側に六八九〇坪を無償で下賜されます。他に、婚姻後に継豊は従四位上中将に昇進し、玉川上水を芝の藩邸に分水することが許されるなどの利権を多く獲得しました。

竹姫は享保十八年に一子・菊姫を産みましたが、男児には恵まれませんでした。そのため世継ぎ騒動の火種は生まれませんでした。

竹姫と薩摩島津家

竹姫は薩摩島津家を支えつづけた人で、継豊が亡くなると、跡を継いだ宗信を支えました。その宗信がわずか二十二歳で亡くなると、重年と改名した宗信の異母弟・久門も支えます。さらに重年が六年後に亡くなると、後を継いだ重豪(しげひで)を養育して支えました。

重豪の性格形成や人生には大きな影響を与えたようで、後に重豪が薩摩の風俗を嫌って、上方風の言語や風俗に改めようとしたり、開花政策をとったのはその影響だといわれています。

重豪の前の重年が襲封からわずか六年で病死したのには、宝暦治水事件として知られる木曾・揖斐・長良川の分流工事の心労が関係していると考えられています。

この河川工事は当初予算を超え四十万両にも達し、多くの犠牲者が出てしまいました。杉本苑子「孤愁の岸」などで知られる事件です。

薩摩藩にとっては重荷となった工事で、この心労が重年の寿命を縮めたのは間違いなさそうです。

幕府への外交政策

ですが、竹姫が降嫁して幕府と親密な関係を築いていながら、この命が下された謎が残ります。

この時期、将軍に代替りがあり、権力構造の変化もあったのですが、薩摩藩はその点をうまく乗り切れなかったのかもしれません。

ましてや、自身が継豊、宗信、重年とわずかな年月の間に藩主が変わるという状況にあり、幕府への外交政策が行き届かなかった側面もあるでしょう。

竹姫と幕府

こうした所を反省し、竹姫は幕府との関係を取り戻すために積極的に動き、重豪と一橋家の徳川宗尹の娘・保姫との縁組がなります。宝暦十二年(一七六二)、重豪十七歳、保姫十六歳でした。

そして、重豪に娘が生まれたら、徳川一門と縁組みさせるように遺言し、十一代将軍家斉と寔子(ただこ)(広大院)との縁組みが成立することになります。

この寔子が剃髪して広大院と名乗り、後の天璋院の入輿を後押しすることになります。

つまり、薩摩藩島津家は竹姫の輿入れに始まる享保十四年(一七二九)から幕府の瓦解に至るまで、将軍家と姻戚関係にあったのです。

その礎を築いたのが将軍家から輿入れした竹姫でした。