宮尾登美子の「天璋院篤姫」を読んだ感想とあらすじ

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覚書/感想/コメント

新装版 天璋院篤姫(上) (講談社文庫 み 9-7)
講談社
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新装版 天璋院篤姫(上) (講談社文庫) [文庫] [Mar 15, 2007] 宮尾 登美子

十三代将軍徳川家定の御台所(正室)で、その後江戸城の無血開城を迎えるまで大奥を束ねていた天璋院(てんしょういん)篤姫(あつひめ)が主人公の小説。

薩摩藩の分家から本家の養女となり、ついには将軍の御台所となり、幕末の動乱を体験し、徳川の家名を守り抜いた数奇な運命を辿った人物である。また、歴代御台所の中で、最も多く「お移り」をした人だった。

宮尾登美子氏は巻末の対談で、「天璋院篤姫」を書く動機を次のように述べている。

「和宮のことをいろいろ読みますうちに、やはり非常に徳川にいじめられたというようなことを読んだり聞いたりしていて、何か違うんじゃないかみたいな感じがありました。」

和宮に関連しては、悲劇の皇女というイメージが作られている。だが、これは明治政府が身内のことだけに、そのようにしたてあげたものであり、一方からの見方でしかない。

本書を読むと、和宮に関しては、おそらく真逆の印象を受けることになるだろう。

徳川の家に馴染もうとせず、徳川家の人になれなかった和宮。そして、本来なら和宮が指揮をしなければならない大奥は、和宮が京都の方ばかりを向き仕切るつもりがないから、必然的に天璋院がその役目を負わなくてはならなくなる。

毅然とした態度で大奥を束ねていた天璋院。それを物語る逸話として、一橋慶喜が徳川宗家を継いだ頃に、

『この頃の女中たちの言葉に、
「天璋院さまのご威令には庭の蝉さえなびく」
というのがあり、それは夏の日盛りのいっせいの蝉時雨さえも、篤姫の、
「控えよ」
の一言でぴたりと静まるというのであった。』

という。

動乱期の真っ只中で、大奥をしっかりと束ねていた天璋院という人物の凄みが伝わる逸話でもある。そして、これくらいの統率力がなければ、動乱期の大奥は内部から瓦解していたに違いない。幕末の大奥にあって、徳川宗家は得難き人物を得ていたのだ。

天璋院は慶喜の後に徳川宗家を継いだ徳川家達にも慕われ、その子たちは天璋院を「二十日さま」と呼んで敬っていたという。

なお、本作は2008年のNHK大河ドラマ「篤姫」の原作である。

関係する本として下記などがある。

内容/あらすじ/ネタバレ

篤姫は幾島の介添えで、島津斉彬の妻・英姫所用の駕籠に乗り、これからの長旅に出立する。薩摩から江戸まで四百十一里。途中大坂、京都に寄って諸家に挨拶するため、二ヶ月以上の日取りを組んでいる。

嘉永六年八月二十一日のことだった。

この早朝、今和泉郷の領主、島津安芸の妻お幸と二人の兄が篤姫の駕籠を待ち受けていた。腹を痛めた娘を篤姫さまと呼び、地にひざまずいて挨拶する母を篤姫は目の底にやきつけたまま駕籠は過ぎていった。

篤姫の実父・島津安芸忠剛はご一門四家と呼ばれる今和泉家の当主で、藩主斉彬の祖父に当たる斉宣の五男である。藩主の命により二十歳で養子に入った。

篤姫が生まれたのは天保七年二月十九日で、朝から大雪だったと篤姫はお幸から聞かされていた。初名を於一(おかつ)と名付けられた。兄三人は父・忠剛に似て蒲柳の質でよく患っていた。女ながらも兄妹のなかでこの子が一という望みを託したのかもしれなかった。

忠剛は於一が男でなくて残念だと小さく呟くことがあった。篤姫も自分がいっそ男に生まれたらよかったと、はがゆく思うことがないでもなかった。ひとしお強く感じたのは、篤姫が十二歳の秋で、今和泉家が危急に瀕した時だった。弘化四年は本家のお由羅騒動の紛擾が激しくなった頃であった。

嘉永二年の正月二日。篤姫は奉書を忠剛からもらった。それには成人名、敬子(すみこ)とあった。於一から敬子になったのだった。

篤姫が十四の年からぼつぼつ始まった縁組みがなかなか決まらなかったのは、お由羅騒動がいよいよ熾烈になり、分家も旗色を明らかにすることを迫られ、いたずらに先走って、反対派となる分家と深い姻戚関係になるのを避けるためでもあった。

嘉永四年二月、斉彬は薩摩藩主の座に就き、三月に領主として初めて国への旅に就いた。五月に出水郷から領地に入った。出迎えの総帥は忠剛だった。

斉彬は家督内証祝として一門四家の家族一同を城に招いた。篤姫は十六歳になっており、今和泉家はめったにない招待に大騒ぎであった。五月十五日に四家ともども城中へ参上した。

一人ずつ藩主の引見となり、篤姫の番となった。斉彬から書を読んでいるかと聞かれ、篤姫は好んで読むのは史書のたぐいと答えた。特に日本外史が好きだと答えると、斉彬は残りの七巻を贈ると約束してくれた。篤姫の引見はことのほか長く、小半刻近くを費やしていた。

薩摩藩には篤姫と同年代に重富家の於哲がいる。重富家は藩主・斉彬の弟・久光を当主に頂いている。

忠剛が恐れていることがある。それは久光の第二子・右近の室として篤姫を望まれやしないかということである。そこで、忠剛は篤姫をいまのうちに斉彬の側室に差し出してはどうかと考えた。先例がないわけではない。

こう考えている中、忠剛は三月の観桜の宴に招かれ、その後に斉彬から後日あらためて花見をしたいといわれた。篤姫に関する縁談かと忠剛は考えていたが、案に相違することとなった。

斉彬はこれまでに四男二女を失っており、今育っているのは二人である。将来を考えると、器量のある子を養女に貰い受けたいと考え、先ほど引見したおりに篤姫こそが探し求めていた娘と惚れ込んだのだという。

篤姫を側室にと腹を決めていた忠剛は、涙ぐむほどに感激した。自ら首実検をして一の姫にするというのだ。

篤姫は父の話を聞いても、それがどのようなことなのか充分考えられずにいた。それよりも、斉彬が贈ってくれた日本外史のほうが余程気になっていた。

日々が過ぎ、忠剛は少々焦る気持ちがあった。城中では五月二十七日に四女典姫が生まれ三人が育っている。養女はいらないと思っているのではないだろうか。それの不安であった。

だが、二月二十日に城中に入り、三月朔日に親子固めの盃を行うことになった。

遅れたのには理由があった。斉彬の大叔母で第十一代将軍家斉の御簾中として輿入れした茂姫の先例にならって、篤姫を大奥に上げてはどうかという思案があったのである。

忠剛は、本家の一の姫という縁組みでさえ、今和泉家始まって以来の栄誉と思われるのに、場合によっては将軍家の正室になるかもしれないという話にどうすればいいのかわからなかった。

斉彬は篤姫のために幾島という老女を手配した。幾島は江戸本邸につとめたこともあり、京のことも知っているので、篤姫の教育に必ずやよい結果をもたらすと判断したのだ。

こうした中で、篤姫を幼い頃から育ててきた今和泉家の奥老女・菊本が自害した。死をもって身を引いた菊本に篤姫は胸がいっぱいになり、嗚咽をこらえきれなかった。

養女のご沙汰を受けた時、居を城中へ移すだけのことと軽く考えていたふしもあったけれど、菊本はそんなやわな覚悟ではこの先乗り切っていけないことを示唆してくれたのかもしれなかった。菊本の霊は、このあとしばしば篤姫の夢に出て、その都度勇気を与えてくれた。

篤姫が城に上がった。迎えた若年寄の広川は、ごゆるりとご休息遊ばされますよう、というが、女中の幾重もの視線に取り囲まれて気持ちは萎えるばかりであった。

今和泉家では中間お末の端に至るまで心温かかった。それに比べれば、この城の人間の権高さ、虔しみのいろもない有様に気持ちは暗く沈む。

広川から幾島が着いたことを知らされた。髪の黒さを見て、若いと思っていたが、顔には深い皺が刻まれ、眉間の真ん中に、月見団子ほどの丸い大きなこぶ突出していた。

挨拶が終わり、明日からは篤姫は一日中幾島の教育を受けることになる。

万事につけてほめる菊本と違い、幾島はずけずけとものをいう。篤姫は幾島の顔のこぶをみつめながら、こんな老女は好きになれぬ、嫌いじゃと思っていた。

篤姫は正室の腹ではないが、正しく斉彬の子であり、事情があって打ち捨てておいたものの、この度改めて認知したということで、幕府保有の諸大名の系図に記録されることになる。

斉彬の大叔母・茂姫が入輿が決まって篤姫(とくひめ)と改名したのにあやかり、敬子は篤姫(あつひめ)となった。

こぶや広川にはまだ心が解けないが、篤姫は次第に城中の暮らしに馴れていった。

江戸の老中・阿部正弘より早馬があり、第十二代将軍家慶が薨去したという。この正確な日時を知った上で、斉彬は篤姫を江戸へ送り出したのだ。

早く送り出したいのにはもう一つ理由があった。それは、大奥では京都の公家の姫君を御簾中にという動きにつながりかねない出来事があったためである。実際に二条家の姫君に白羽の矢を立てようとする向きもあると阿部正弘が伝えてきている。一刻も猶予ならないと斉彬は判断を下したのだ。

篤姫の一行は大坂までは海路を取ることになった。

国を出たのが八月二十一日。京都に十月十三日に着いた。三日後には江戸に出発した。そして十月二十九日に三田の藩邸に着いた。奥老女の小の島が出迎えた。長道中をともにしたせいか、篤姫は以前ほど幾島を嫌と感じなくなっていた。

翌日には母となる斉彬の正室・英姫との対面が待っていた。英姫は若い頃にひどい痘瘡をわずらい、瘡痕が顔に残っていた。以来、人前に出るのを極端に嫌った。幾島はそのことを知っていたが、篤姫には明かせなかった。

十一月二十三日、家督を継いだ家祥は将軍宣下を受け、十三代将軍となり、名を家定と改めた。

これにあわせて斉彬も出府してきていた。その途中で忠剛の訃報に接したようである。幾島は丸一日その事を篤姫に伝えなかったが、その事で篤姫から強く叱責を受けた。そして、篤姫は声を上げて泣いた。

将軍継嗣を巡る議論が活発化していた。水戸斉昭の第七子で、一橋家を相続している十八歳の慶喜と、紀州には九歳の慶福がいる。

水戸斉昭は慶喜を推してくれなければ、篤姫入輿は妨害するとの含みを持たせていた。斉彬はそれを快く引き受けた。

斉彬はこうした微妙な政局に対処するため、自由に活動できる信頼の置ける人物を選び、西郷吉兵衛を選び、庭方役に登用した。西郷には篤姫入輿の準備、その支度一切の調達をいいつけた。

禁裏御所が炎上した。五月に入って、秋の入輿の延期が伝えられた。これが最初の関所だった。

安政二年も多事多難な年となる。この年の三月に水戸斉昭を筆頭に、山内豊信、伊達宗城、松平春嶽らが、花見に島津邸にやってきた。その席に篤姫が呼ばれ挨拶をすることになった。

水戸斉昭の意地悪な質問にも篤姫はさらりと答え、臨席していた諸大名は、学問にたいして造詣の深い篤姫に度肝を抜かれた。当日の客たちは、篤姫を認めたのだった。

このあと、老中・阿部正弘のすすめもあり、近衛家の養女として徳川家にはいるのが望ましいとなり、近衛家との養女縁組みを正式に約束した。

しかし、これも安政の大地震によって、またも入輿は延期となる。

この地震のおり、篤姫は英姫の家族全員を庇う様子を見て、驚き、ようやく幾島から英姫の顔の痘痕の話を聞いたのだった。

三田の薩摩藩邸の被害も大きく、篤姫らは渋谷別邸に移ることになった。

ようやく篤姫の入輿が決まった。四年目のことである。納采の儀は九月半ば、婚儀は十二月十八日、江戸城入城はそれより早く十一月十一日と決定した。

その前日、斉彬は篤姫を呼び、一橋慶喜を将軍継嗣に薦めて欲しいと伝えた。そのために始終連絡をとり、西郷吉兵衛と小の島、幾島を通じて密書が行き来することになるという。

渋谷村から江戸城まで続く行列は、先頭が江戸城に入った後でも、後尾はなお渋谷邸を出発していなかった。すべての物が運び込まれるまで六十五日かかったという。

翌日からは御台所としての日課を踏む前に、大奥女中の年寄たちとの対面があった。取り仕切るのは総取締役の滝山である。大奥では御台所に次ぐ権勢である。御台所付の女中の総帥には唐橋がついていた。

御台所付き女中は御目見得以上でおよそ百人、御目見得以下で二百人にのぼり、将軍付きと大奥女中をすべてあわせると三千人近くになる。その頂点に立つのが御台所である。他に、江戸城には家定の生母・本寿院が西の丸に住んでいた。

将軍付き上臈年寄梅野井、総取締役の滝山、幾島を加えて、いかに家定が御台所のもとへいくように工夫するかが談合された。

一方で、幾島は、大奥で斉彬の使命を果たすために手足となって働く人間を物色しており、自分の部屋子の重野をみつけた。その重野には、家定の側室おしがの方の監視をさせることにした。

その重野が、家定が篤姫の所に来る回数が少ないのは、おしがの方が篤姫の所に行くのと同じ回数を自分の所に来るようにせがんでいるという。

年があけて鏡開きの行事の日。滝山が将軍の継嗣問題で水を向けてきた。篤姫は紀州の慶福がどのような子か興味がある。滝山が慶福を強く褒めるので、篤姫は幾島ともども驚いた。大奥の水戸嫌いは察していたが、滝山の口からそれが根強いことがはっきりと分かった。

老中・阿部正弘が急逝した。篤姫は気落ちし、これから先、斉彬の命をどうすすめていいか途方に暮れる思いがした。

紀州派は滝山をはじめとして鮮明であったが、一橋派はどうもはっきりしない。旗幟を明らかにしているのは、幾島に唐橋、亀岡、花乃井とわずかであった。

九月に吹上げの庭で観菊の会があり、御三家が来るという。篤姫は紀州の慶福にすすんで会ってみようと思った。

その前に、一橋慶喜に会う機会も作ったが、慶喜は人を見て態度を変える人のようであり、篤姫はいたく失望した。慶喜は斉彬の前では人君の器と思わせる態度をとり、将軍と御台所には熱意のない態度を見せる。二腹持っていることになり、篤姫は決して快くは思えなかった。

観菊での慶福はまだ十二歳ではあったが、立派な振る舞いを見て、先ほどの慶喜とどうしても比べてしまうのであった。

滝山が篤姫にいいにくいことだが、と前置きして、老中の堀田正睦を更迭してはどうかといってきた。後任には井伊掃部頭直弼を考えているという。井伊直弼と水戸斉昭は犬猿の仲。継嗣問題への布石である。篤姫は滝山の度胸に驚く思いだった。この際であるから、篤姫は滝山に心底を聞くことにした。

滝山は大奥に水戸斉昭の干渉が入るのは困るという。そして、篤姫は御台所になったのだから、徳川宗家の人であり、何につけお家のためになることを第一に考えて欲しいという。だから、ここは大奥のことを考えて、水戸斉昭の干渉を未然に食い止めてもらわなければならない。

篤姫は滝山の言葉に強い衝撃を受けた。お家のためになることを第一に…。今までのように、いささかの疑いもなく斉彬の指令通りに動くことに迷いが出た。そして、堀田正睦更迭の件に関しては、篤姫は滝山の判断に任せることにした。

家定は自分の後嗣に紀州の慶福をたてることに決めたと篤姫に告げた。そして、家定は幼い慶福の後見として、篤姫がいればこの政局は乗り切れるだろうという。

継嗣の決定は、ハリスの通商条約と並んでの目下の重要急務であった。一方のハリスとの通商条約は調印されることとなる。

継嗣問題に関しては公式に徳川慶福が決定した。一橋派の落胆は傍目にもはっきりとわかるものだった。

家定が篤姫に後見を頼んだ件がどうなるのかと思っていたら、大老の井伊直弼は聞き捨てるつもりなのを知り、篤姫は怒りが全身を駆けめぐった。

幾島が暇を告げてきたが、時勢がすこぶる流動的なため引き留めた。

家定のおわたりが途絶えて二ヶ月以上がたつ。その間に、一橋派の上級層となる大名の活動が完全に止められていた。

そして、島津斉彬が死去したとの知らせが舞い込んできた。在位七年。諸国諸大名の中でも英明といわれた人物だった。

篤姫は斉彬の死により、斉彬が抱いていた野望の全貌を知る。そしてその野望の中における己の役割というのを悟り、顔から一時に血の引く思いがした。

この知らせの後、家定薨去の知らせが届く。斉彬より先になくなっていたが、先例にならって発表が一月ほど遅れていた。結婚後一年七ヶ月の短い生活であった。

篤姫の院号が天璋院に定められた。そして、家定の葬送のころ、井伊直弼の苛烈な攘夷志士の逮捕、処罰が始まっていた。安政の大獄である。

幼い将軍、徳川慶福が名を家茂(いえもち)と改め、本丸に住むようになった。天璋院は家茂が正式に将軍職に就いたのを機に西の丸に移った。この頃に幾島が天璋院のもとを去った。

家茂に縁談がある。悪化するばかりの朝廷と幕府の融和のための和宮降嫁の話である。天璋院は自らの道を振り返り、御台所には武家の出がふさわしいのではないかと思っていた。

安政七年。井伊直弼が桜田門外で襲われて急死した。それでも和宮降嫁の話は消えることがなく、かえって拍車がかかった。

井伊直弼を推した滝山は総取締役の地位を降りることを告げたが、天璋院にとり、滝山は得難い存在であり、その慰留に努めた。そして、大奥は一丸となっていこうと天璋院は語るのであった。

和宮降嫁に関して条件を提示してきた。それは、入輿後も京都との緊密な連絡を保ち、その風俗習慣を生涯変えないという強い意思表示であった。

和宮降嫁の話は急がれ、その理由として大奥の空白を早く無くすことがあげられたが、天璋院はこれを聞き、今の大奥を守っている自分では役不足といわれている気がして怒りが爆発した。

また、表からの手回しで、皇妹を嫁に迎えるのに家の姑が武家の出では位が違いすぎるから薩摩に引き取ってくれという要請があった。天璋院はこれをはねのけた。おのれは徳川の人になっており、そのような斟酌は無用である。

降嫁決定の報のあと、国内が不穏な情勢となった。ハリスに随行していたヒュースケン暗殺事件などが起きた。
降嫁の条件には攘夷が約束されており、日本人の感情が異人討つべしの時代であった。

和宮は内親王宣下の沙汰があり、諱を「親子(ちかこ)」と賜った。和宮は江戸到着後、城に登城し、天皇への自筆の誓約書を迫った。引き換えに、幕閣は攘夷の約束に関しては確答を避けた。

天璋院のもとには、和宮の幕府を嫌う様子ばかりであった。この頃には天璋院は人格識見ともに大奥三千人の女中たちの尊崇の的であった。

和宮と天璋院の初対面がなされた。この時天璋院にはしとねが用意されていたが和宮の分がなかった。これは入城の段取りの打ち合わせの時から決まっていたのだが、和宮をはじめとする京都方は悔しさに涙したという。

意趣返しというわけではないだろうが、和宮から天璋院へのお土産には天璋院とだけあり、様も殿も書かれていなかった。

じきに、江戸方と京方という言葉が大奥で使われ始まる。江戸方は京方のすることなす事を監視するようになり、京方は万事江戸方を見下すような態度をする。婚儀が始まる前に両者の関係はすでに悪化していた。

天璋院はこの頃本丸に戻っていた。それは婚儀の前後の打ち合わせのために度々西の丸まで往復する不便を考えてのことであり、もうひとつは嫁の御台と少しでも親密になりたいという考えがあったからである。

和宮側から御台所と呼ぶのは以後止めて欲しいとの要請があった。内親王なのだから宮さまと呼んで欲しいとのことだった。

天璋院は女中たちにこう命じた。如何に耐え難かろうと、目をつぶり耳をふさいで我慢せよ。京の御風に逆らってはならぬ。

天璋院は積極的に自分から接触を図り親密になろうと考えていた。この天璋院の思いが通じたのか、和宮の態度が軟化してきたかのように思われた。

慶喜を後見職にしているが、家茂の肩に掛かる国勢の厳しさはただならぬものがあり、文久三年上洛することとなった。四ヶ月後に江戸に戻ってくることになる。

この上洛中に西の丸が火事にあった。これに関連して、焼失した西の丸の再建された暁には、西の丸に移って欲しいという表からの要請があり、これは本丸に戻るなとの指図に違いなかった。大奥に関するかぎり、表からの指示は受けないのが普通である。

どうやら朝廷からの要請であり、ここに天璋院は婚儀以来一途に念じていた和宮との融和も裏切られ望みが絶えたと思ったのである。

天璋院は二の丸に移ることを即断した。この話はすぐに大奥に広がり、敵対意識に火がつき、嫁が来て姑を追い出したという声が高まった。

滝山は二の丸へ移る準備をしつつ、事の真相を追求し、それが朝廷のなかの世話係が噂を聞いたのが発端だという。その噂とは、天璋院が本丸御殿を占有しているので、和宮はやむなく召使いの部屋に住んでいるという物であった。全くの事実無根である。

天璋院の思いは噂が根も葉もないことなら、なぜ和宮自身が出向いて自らの口で釈明しないのかというものだった。今度の件で、和宮の心が京都に向いていることを改めて知らされたのだった。そして、天璋院の和宮への不満もさることながら、まわりの勧行院、庭田嗣子、土御門藤子などに対しても腹に据えかねる思いがあった。

二の丸に移った天璋院はその後大奥の催しごとには一切顔を出さなかった。だが、大奥からさまざまな報告があり、以前通りに天璋院の指示が必要であった。

本丸が炎上した。天璋院は清水屋形へ非難した。火は本丸の半分を焼き、二の丸を全焼した。十日ほど将軍と和宮と天璋院は生活をともにし、和宮との仲にも曙光が見え始めていた。

本丸と二の丸の再建が検討されたが、時局の緊迫の度を加えつつあることで、本丸の再建はされることなく、建造中の西の丸を完成させて明治の皇居へと引き継がれていった。

家茂が二度目の上洛を終え、慶応元年には第二次長州征伐に踏み切ることとなった。この出発の前に家茂は滝山に、跡目に田安亀之助を定めたい旨をいいのこした。そして家茂は江戸に帰ることがなく、京都で二十一歳の生涯を閉じた。

再びの継嗣問題となったが、家茂の言い残した言葉に反して、和宮は一橋慶喜を推した。天璋院には驚くほど意外なことであった。天璋院は慶喜が嫌いである。それは初対面の時からで、二言ある男として警戒しつづけてきた。家茂は慶喜によって毒殺されたのだと思い、水戸の執拗な野望の前に徳川本家が乗っ取られてという口惜しさがあった。

和宮は静寛院宮の院号を賜った。そしてこの年、宮が頼む兄・孝明天皇が崩御する。

慶応二年慶喜は十五代将軍宣下を受ける。これによって、新しい御台所の大奥移転についての相談があったが、天璋院は慶喜が田安亀之助までのつなぎであり短いのだから御台所が大奥に移っては混乱を招くとして受け入れを拒否した。これには慶喜も従った。

慶喜による開港勅許奏請の強行は討幕と王政復古の運動を促進した感じがあった。そして慶喜はついに大政奉還をしたが、これで国内の動乱が収まるかに見えたが、討幕の勢力が強く、征夷大将軍の辞表も提出することになる。

討幕の密勅には様々な噂がつきまとい、宮の側の不安をかき立てた。天璋院にも薩摩から引き取りの話が来たが、これを断固としてはねのけた。

天璋院は、皇妹とはいえ、結婚して徳川の者となった者が戦雲急と見るや、実家に帰りたがる様子を見て、大奥を守る思いがますます強くなった。

こうしたなか鳥羽伏見において先頭の火蓋が切って落とされた。ところがそのすぐ後に慶喜が江戸に戻ってきたとの報を受け城中は驚きに包まれた。

幕兵を大坂城に残したまま、あわてふためいて一人だけ軍艦で逃走してきたのだ。天璋院は憤怒に耐えられず、慶喜から引見を求められたが拒否した。

ようやく引見を認められた慶喜は天璋院に顛末を詳しく語り、京都への朝敵ご赦免の願いを頼んだ。

天璋院は宮を入れ、慶喜と三人で話しあいを行い、早急に朝廷への嘆願の使者を立てることになった。

新政府は東征軍を進発させており、嘆願は無視されたかたちとなった。だが、嘆願書を先鋒総督の西郷に手渡し、ここにようやく江戸城の総攻撃が中止された。大奥を天璋院がよく束ね、一人の脱走者もいなかったという。

天璋院と本寿院は一橋家、静寛院宮と実成院は清水邸に移ることになった。この時、天璋院は虚偽の進言により身を一橋邸に移したため、身の回りのもは大奥へ残したままであった。

慶喜が隠居し、田安亀之助が徳川宗家を継ぐことになり、駿府に七十万石をもらうことになる。宮は京へ戻ることになった。こうしたなか、天璋院は、初めて西郷と会うことになる。

亀之助が駿府に発ち、天璋院は一橋家の下邸に移り、青山の紀州邸、尾州下邸の戸山邸、赤坂の相良邸と、千駄ヶ谷の住居ができるまで目まぐるしく転々とした。

版籍奉還がなされ、千駄ヶ谷に移り住む時に天璋院は唐橋とも別れることになった。千駄ヶ谷には実成院、本寿院をともなって移り住んだ。移り住んでからの天璋院は徳川家達と名を改めた田安亀之助の養育に心血を注ぐこととなる。

宮が再び東京と名を変えた江戸に戻ってくることになった。それは天皇皇后が京を去り、皇太后まで東京に来たことによるものであった。

そして再開を果たすのであった。このときには瓦解前の険しい表情はなく、誰の顔にも笑みが漂っていた。そして宮は徳川一門とも気軽に行き来するようになった。天璋院も度々宮と町の見物に出るようになった。大奥の仕来りと、幾重隔てた女中たちを取り除いてみると、お互いに徳川家の女同士という感じであった。その宮が脚気衝心で俄に薨去した。三十二歳だった。

この頃の天璋院は三度ほど天皇に拝謁し、勝海舟との交流もあった。

天璋院は家達の婚儀を見届けた後、四十八歳の生涯を閉じた。弔問に訪れた人の数は多く、天璋院の影響力を世間にあらためて認めさせたという。遺骸は上野寛永寺、家定と同じ墓所に葬られた。

本書について

宮尾登美子
天璋院篤姫
講談社文庫 計八〇五頁
江戸時代

目次

出立
入輿
継嗣
降嫁
動乱
余生
書き終えて
対談「天璋院篤姫」について 綱淵謙錠・宮尾登美子

登場人物

天璋院(篤姫)(於一(おかつ)→敬子(すみこ))
幾島…老女
重野
滝山…大奥総取締役
唐橋…御台所付き女中の総帥
徳川家定…十三代将軍
本寿院…家定の生母
おしが…側室
梅野井…将軍付き上臈年寄
三芳
さと姫…天璋院の愛猫
徳川家茂…十四代将軍
実成院…家茂生母
小倉…家茂付き年寄
碓井…中臈
和宮
土御門藤子…和宮の上臈頭
庭田嗣子…宰相典侍
勧行院…和宮生母
徳川慶喜…十五代将軍
徳川家達(田安亀之助)
島津斉彬…薩摩藩主
英姫(ふさひめ)…斉彬の正室
向井新兵衛…御側御用人
堅山武兵衛…用人
広川…若年寄
小の島…三田藩邸御年寄
藤野…三田藩邸老女
関勇助…儒学者
西郷吉兵衛(隆盛)…
島津安芸忠剛…実父
お幸…実母
忠冬…長兄
峯之助…三兄
於才…妹
菊本…奥老女
しの
島津周防久光(晋之進)…重富家
於哲…娘
阿部正弘…老中
松平春嶽
伊達宗城
水戸斉昭
堀田正睦…老中
近衛忠煕…養父
島津斉興
お由羅
島津重豪

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