宮城谷昌光「香乱記」の感想とあらすじは?

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覚書/感想/コメント

劉邦と項羽と並び立った田氏の三兄弟(田儋、田栄、田横)を宮城谷昌光氏が描きます。中心的に描かれるのは田横です。

秦王朝から漢王朝へ変わる際、描かれるのは劉邦の視点か、項羽の視点かのいずれかが多いと思いますが、田横を主人公にしたのは、第三者的にこの時代を描こうと思ったからなのでしょうか。

それとも、物語りの中で、宮城谷氏の劉邦と項羽への評価が高くはないと感じましたので、この時代を描くために他の人物を借りざるを得なく、それが田横だったのではないかとも感じました。

宮城谷氏はあとがきでこう書いています。

秦末の動乱を項羽と劉邦ふたりだけの動静に収斂しようとしすぎるから、わかりにくさがふえるということに気づくのに時がかかったことはたしかである。後世の目で項羽と劉邦を観ると、ふたりは他を圧するほど巨人であるが、なるべく当時に近づいてみる工夫をしないかぎり、時代と人々の褶曲した力のありかたをつかめない。そういうものーいわば物語にとっての都合の悪いものーをも無視せず棄てないのが歴史小説の正しい姿勢であろう。その点、斉の田氏三兄弟とよばれる田儋、田栄、田横の主義と行動は、秦末の多様性を描くのにふさわしい素材であり、勝者はつねに賢く、敗者はかならず愚かである、という常識に挑戦しうる事績をもっていた。

香乱記 新潮文庫 第四巻 初版 p297

しかし、宮城谷氏は後に劉邦を描くことになりますので、本作では昇華しきれなかった部分があったのかも知れません。

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内容/あらすじ/ネタバレ

世間では田儋、田栄、田横を田氏の三兄弟と呼んでいる。

狄の田氏は名を隠して生きてゆかなければならない時があった。70余年前に大きな不孝が田氏を襲った。

斉の湣王が田氏の祖であるが、楽毅の軍に大破され、湣王は殺されてしまった。子も多くが殺されたが、生き延びたのが田氏三兄弟の祖父であった。

斉が秦に滅ぼされて既に9年が経っていた。田氏三兄弟は秦が好きになれない。

秦王は皇帝を称している。秦王政は中国史上最初の皇帝になったので始皇帝と呼ばれる。

三兄弟は狄へ帰る途中だった。賊に襲われている者を助けたが、秦兵が数多く死んでいる。

6、7年前に皇帝が襲われた事件があった。その時に盗賊団を指揮していた者は張良と言った。三兄弟が出会ったのは張良の配下だった。

助けた者の名は許負といい、人相を観る。許負は3人を観て皆王になると言った。3人は誰も信じずいい笑い合った。

許負は田横に驚くべきことを教えた。それは賊に襲われることが分かっていたのだという。災難を避けることもできたが、災難によって死ぬことがないことが分かっていたので、3人の王に遭うことに関心があったというのだ。

許負は田横に七星を見つけろと言った。そうすれば成就するというのだ。

翌日、小珈が血相を変えて田横に告げた。田儋と田栄が捕らえられて獄に送られたというのだ。

家に赭巾が見つかり、赭巾の賊に通じていると思われたのだ。

誰かが田氏をおとしいれようとしている。

田横は華氏を訪ねた。湣王の臣下で、祖父の側近だった家である。華氏は三男の華無傷を引き合わせた。もう1人、田解とも引き合わせた。

田儋と田栄を助けるためには許負を探す必要があった。田横は華無傷、田解と許負を探した。途中で任侠道を歩く田既に助けられた。

田既は田吸宛の書簡を田横に渡した。田吸が助けてくれるはずだという。

田吸は盗賊と戦って負傷していた。末娘の季桐が許負に会ってことのあらましを告げた。そして、田儋と田栄を救うことができた。

田横はすぐさま田儋と田栄に会いたいと思ったが、季桐は我が家に泊まった方がいいと言った。その理由を聞いた田横は季桐の聡明さに驚いた。

だが、田横は行くというので、田吸は陶阪をつけて送らせることにした。

すると季桐の言う通り賊が出た。田横が剣で対応したが、その様子に華無傷は感嘆した。

田横はようやく田既と田栄に会えた。2人は凄まじい拷問にあっていた。田横は田既に他人に打ち明けられない変事が起きたことを感じた。

許負のことばが郡守には届いていなかったことがわかった。それなら何故2人は釈放されたのか。

3人は狄に戻ると私兵を養成し始めた。表向きは自家の警備員の増強である。

田横と小珈の婚儀が取りやめになった。婚姻が潰れた事情は田儋の家に生じた気がするが、さきの冤罪と釈放に関わりがあると思った。

田横は華無傷や田解など弟子5人を連れて3人を陥れた者を探すために臨淄に向かった。臨淄では田光を訪ねた。

田横はもう1人訪ねた。許章である。許章は狙われていると言う。疑念が生じたのは、3兄弟の疑いが晴れなかったからである。許負の郡守宛の筆札も見当たらない。

田横らが賊に襲われた。賊を捕まえると木の札をぶら下げた。赭巾の賊は田角と田間の配下であると。

許章は賊の狙いは田横であると考えていた。それは田横が許負を知っているからだ。

その許負の予見は、皇太子の扶蘇と田横の運命をかすかだが結びつけていた。

許負は田氏の三兄弟は王になることに衝撃を受けていた。秦帝国が続く限り、帝国内には王国は生まれない。だが、扶蘇に会って、愕然とした。扶蘇は皇帝になれない。時代が変わるのを全身で感じた。

始皇帝は扶蘇に蒙恬将軍の監督をするよう命じた。このことが秦王朝を隕墜させた。

扶蘇が北方の郡へ遷ったころ、田儋、田栄、田横の3人は田吸と娘の季桐、陶阪、田既、猿歌、華氏、田光、許章、華無傷、田解を迎えて宴を催した。

そこに役人が踏み込んできて田横に阿房宮での仕事を命じた。

小珈が姿を現した。そして県令の妾にさせられることを知った。県令は令徐と呼ばれていた。

田横らは阿房宮に向かった。引率は柳亘と汪代だった。

途中で田角と田間の一味に襲われた。田横は窮地に立たされて吊り橋から落ちた。

その田横を保衣と蘭が助けてくれた。そして田横は2人の護衛となった。2人も田横と同じく咸陽に行く予定だった。

咸陽に入ると保衣が李斯の家を探して欲しいと言ってきた。田横は驚いた。李斯は秦の宰相と言ってよいからだ。

田横は蘭が身分の高い者であると見て、吊り橋から落とされたことや、狄の県令の陰謀などについて語った。

蘭と保衣は李斯に会った。実は蘭の父は扶蘇であった。それを知って李斯を訪ねてきた。だが扶蘇は上郡にいる。

蘭は上郡に向かうことにした。その前に田横の家のものたちの様子を李斯に調べてもらった。

田横は蘭とともに上郡へ向かった。蘭を狙った騎兵が現れた。

撃退した一行は扶蘇に会えた。そして扶蘇と蘭の親子の対面が果たせた。扶蘇は蘭が女の子であることを知り驚いた。蘭は男の子として育てられてきたのだった。

田横と保衣は扶蘇にも仕えることになった。田横は蒙恬将軍に会った。

始皇帝は東南に天子の気が上がったのを見て愕然とした。無論、この時点で劉邦と項羽が立つことを誰も知らない。

始皇帝が旅に出た。出遊はこれが最後となり、生きては帰れぬ旅行となった。

田横はようやく離れ離れとなってしまっていた家人と再会することができた。

小珈が自害したことを藺林が知らせてくれた。田横は小珈への知らせが遅れた事を悔やんだ。

始皇帝が崩御した。

李斯は真相を告げる使者を扶蘇に出したが、趙高の策謀が上回った。

すでに扶蘇は自殺し、蒙恬は囚人になっていた。蘭は外出で居なかった。

このままでは胡亥が皇帝になってしまう。陰謀は順調すぎるほどに進んでいた。

蘭と保衣が居なくなった。父・扶蘇の仇を討ちたいのだろう。田横は自分が誘われなかったことに寂しさを感じた。

だが、田横は蘭を助けるために咸陽に向かった。そして途中で合流することができた。

二世皇帝になった胡亥の信任を得た趙高は蒙恬と蒙毅を死に追い込んだ。

胡亥は残虐だった。胡亥と趙高の2人を早く消すのが人民の益である。趙高の進言で気に入らぬ大臣と公子を誅殺した。

7月になった。時が動いた。陳勝と呉広が叛乱を企てた。占わせたところ、成功するが、死ぬだろうと言われた。陳勝と呉広は喜んだ。

これ以前に叛乱が各地であったはずなのに、記録されていない。陳勝と呉広の挙兵は奇蹟と言ってよい。

同じ頃、李斯の別宅にひそんでいた田横は危機に遭遇した。田横は展成に助けられた。逃げた田横は大乱を耳にした。

展成と藺林が田横に従うことになった。

周文の軍が咸陽まであと数日というところに迫るまで二世皇帝は叛乱の事を知らなかった。

王離に率いられている主力の30万の兵は北方にいる。二世皇帝は秦王朝の危機を直視した。

群臣に軍事の天才がいた。章邯という。強制労働に従っている70万人を兵にしてしまおう、という。

章邯の望みは一度で良いから万を超える兵の指揮をしてみたいというものであった。その望みが突然かなった。

田横は田吸、季桐、陶阪と再会した。狄へ戻って兄達と起つつもりであることを話した。そして、扶けて欲しいと頭を下げた。

その頃、狄では田儋の家に田栄、田光、許章などが集まり密談を行った。田氏にとって運命の日が始まった。田儋が斉王として起ったのだ。戦いの中で田横と田栄が再会した。

章邯の軍が陳勝を追い詰め、陳勝が死んだ。

1人の男が会稽に着いた。召平という。この男が秦王朝を滅亡へ導く。

召平は会稽の中心である呉に向かった。呉には項梁がいる。甥が項羽である。項梁の軍が呉を出発した。黥布が項梁に合流してきた。

田横は許負に言われたことを考えていた。星を7つ見つけなければならないという。たれが七星なのだろうか。

季桐がつねに田横の近くにいる。父の田吸は季桐が田横を敬慕していることを知っているが、同じ田氏では結婚が許されない。

田横は情報収集のため出かけた。そして会稽から北上してくる項梁の軍の存在を知った。田横は、まさか、と思った。田栄の客となり、田横に剣術を教えてくれたのが項梁だった。

章邯を牽制している小勢力がいた。劉邦の軍である。この劉邦が6年後に皇帝になることを誰も予想していなかった。この劉邦のもつ不思議さに気付いたのが張良だった。

4年前、許負を助けた時、田儋は許負の正体を知らずに、昔人相見に臨斉の近くで殺される話をした。今、田儋は兵を率いて臨斉に向かっている。

田横は乱世を好んでいたわけではない。二世皇帝は多くの民を殺しているが、それよりも多くの人を殺した者が勝者となり覇者となり王者となる。天は本当に祝賀するのだろうか。

斉と魏の連合軍が臨済に向かっていた。しかし章邯は迫り来る敵への備えをしていない。

章邯は裏をかくつもりでいた。章邯は正確に田儋の位置を把握していた。

章邯は一昼夜で斉軍と魏軍を大破し、斉王の田儋を敗死させた。それを知り、田横は膝から力が抜けていくようであった。

臨済は開城した。

斉の王朝のある臨淄で叛乱が起きた。叛旗を翻したのは田角と田間の兄弟だった。

田横は項梁に使者を送って辛くも味方を得ることができた。

章邯の強さは、たれをも恃まない強さである。皇帝と王朝のために戦ってきたわけではない。自分自身のために戦っているのであり、戦いには善も悪もなく、同義的な色合いがない。章邯は孤独に戦っている。負ければ帰るところがない。

その章邯が項梁と項羽・劉邦の軍に挟撃されてた。負けるとはこういうことか、章邯ははじめて呆然とした。

田横は田栄と話をした。田儋の後継の斉王についてである。田儋の子・田市を斉王に立てるべきだが、田栄は田市が人としての実が乏しいことを懸念していた。田光に教導を任せて、田市を斉王に立てた。

咸陽では李斯を含めた皇帝を補佐する三公が消されていた。消したのは趙高である。そして、自分の悪事が皇帝の耳に入らないように、皇帝を移した。

中原で大事件が起きた。汚名を雪がなければ処刑される章邯は兵を集めて項梁を襲って斃した。

項梁の死は項羽にとって衝撃的な凶報だった。すぐさま章邯軍への反撃を考えたが、劉邦、范増の説得により一旦退却することにした。

鉅鹿の落城が迫っていた。包囲しているのは章邯である。だが歴史が大きく変わるときは、信じがたい奇蹟のようなことが起きる。章邯を上回る軍事の天才が近づいていたのである。その天才とは項羽である。

項羽の軍は3、4万にすぎなかったが、この時代の最強の兵であった。その軍がいきなり秦軍のど真ん中に現れた。

歴史を変える一戦であった。項羽の軍が20万の軍に圧勝した。鉅鹿城の北で観戦していた諸将は呆然とし、つぎに全身が恐怖で震えた。諸将は項羽に平伏して、すぐさま秦軍を攻めた。

章邯は驚いていた。気魄で項羽に負けている。動けなかった。

章邯は一旦兵を退き、再び項羽と対峙した。戦線は膠着した。だが、その状態に皇帝が苛立ち始めた。実情が皇帝に届かない。このままでは勝っても負けても殺されると思った章邯は項羽に降った。

この知らせが咸陽に届くと、趙高の骨髄を震動させた。このままでは己の身が危うい。

咸陽では蘭が復讐の機会を窺っていた。宦官の永波が助けてくれている。何故、永波が助けてくれるのかは分からない。秘めたものがあるようだった。

復讐の好機が訪れた。だが、この時、趙高の配下の閻楽が賊を追いかけている体で皇帝に近づき、自死を迫った。なかなか自死をしない皇帝を殺したのは永波だった。蘭はこの混乱の最中に脱出していた。

秦の天下王朝はここに終焉を迎えた。

三代目皇帝になった嬰は趙高を殺し、趙氏の三族を粛清した。翌年、嬰は劉邦に降伏する。

蘭は斉を目指した。田横に会いたい。

咸陽では劉邦と項羽が対峙したが、劉邦が項羽に頭を下げた。鴻門の会である。

項羽は咸陽の宮殿の美女、財宝を独り占めにして悪評にまみれた。そして、項羽は楚王を殺す。

田横は項羽の天下の主宰者としての経営感覚の稚さをきぐした。必ず項羽と戦うことになる、と予感した。

田横は田市が田栄を殺して項羽に降るつもりであることを知り、情けなくなった。逃げた田市は更に田横と田栄を失望させることを行う。市は王にふさわしくない。

後世の人々に、不屈、というものを誨えたのは田横の生き方であった。田横の精神が中国人の思想と行動の根幹に生き続けたことは確かであろう。いかなる強者にも屈しないという国家と個人の志行の淵源は田横にあると言って差し支えない。

いまや天下の主宰は項羽であり、その命令に遵わぬ田栄と田横は叛逆者とみなされている。つい数ヶ月前までは、項羽が叛逆者であった。

田栄が斉王となった。田栄は許負の予言の恐ろしさがわかった。田栄は己が死んだら子の田広を王にしないでくれと田横に頼んだ。

西方で激変があった。劉邦が韓信の献策を受け入れて東へ進むことを決意したのである。劉邦は盟約を破ったのだった。

彭城に帰還してからの項羽の軍事的反応が鈍い。

項羽に不屈の旗を揚げた斉の田栄が田都、田安を攻めても援助を行わなかった。劉邦が関中に進出しても反応が鈍く、やったことといえば旧主の義帝を殺害させ、韓王成を誅し、鄭昌うぃ王にしたくらいである。

項羽の外交と軍事が的を外し始めたのは、鴻門の会からであった。

劉邦は積極的に軍事行動を行い、領土を広げた。斉は項羽だけでなく、劉邦にも目を配らざるを得なくなった。

田横は漢と楚の戦いの勝負は見えてると思っている。

そして田栄が項羽との決戦に備えているという知らせが届いた。蘭林はこの度の戦いには加わるなと述べた。そして田栄の子の田広が即位したら斉に戻れという。

田横の目の力が萎えた。良薬は苦いものだ、それを飲まなければならないのか。

斉は項羽の軍に大敗した。田栄が死んだ。項羽の軍が斉を蹂躙した。田横は斉の国民を保護すべき王族の1人として言い訳はできない。

だが、斉の国民をすべて敵に回した項羽は掠奪が困難になり、兵糧の補給に支障が生じた。さらに田横の指示で楚軍の補給路を完全に断った。

田横は項羽の本陣を目指した。そして項羽と直接刃を交えたが、剣は項羽に届かなかった。何かが項羽を守ったかのようだった。

項羽が田横を迎えたいと言ってきた。田横が斉を統べれば良いとも言ってきた。だが、田横は断った。項羽の招待は受けぬ。

彭城を劉邦に取られた項羽は激怒し、すぐさま彭城に向かった。劉邦は項羽に粉々に打ち砕かれた。

斉から楚軍が慌ただしく退去していった。斉は楚に勝ったと言って良い。

田横は田広に即位を促した。田広は固辞したが、重臣の意見を聞き、田広が王となり、田横が宰相となった。

田横は項羽にも劉邦にも媚びるつもりはなかった。それよりも国の復興が喫緊である。

田横家を訪ねる客の数がにわかに増えてきた。みな項羽と劉邦に失望したのだ。項羽は殺すだけの人であり、劉邦は騙すだけの人だからである。

斉は復興しつつあった。斉には戦争がない。項羽と劉邦が中原で戦い続けているからである。斉王の田広と田横の関係も良かった。

展成は田横の能力の高さが行政にも司法にもあることに驚いていた。管仲以来の名宰相かもしれない。

田横は血や骨まで老子の思想に染まっている。政治において「無為」を実現しようとしているのかもしれない。存在しないかのような透明さを持って治世を成す者こそ、至上の為政者であろう。

斉は漢に降ることにした。田横は田広を護り育てるために漢との戦いを回避したのだ。だが、漢は田横らを騙した。

漢との戦いの中で田広が死んだ。漢の軍に次々と城を落とされていくが、まだ抵抗している城がある。田横は斉のために王に就いた。

項羽が破れて劉邦が皇帝の位に即いた。楚漢戦争では中国の人口が半減したと言われている。そして、漢にも楚にも付かなかったのは田氏のみであった。

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