山本博文ほかの「山本博文教授の江戸学講座」を読んだ感想

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覚書/感想/コメント

時代小説も書いている逢坂剛宮部みゆきの二人が生徒となり、東京大学史料編纂所の山本博文教授にいろいろ質問するというスタイルを取っている。

両作家の興味のある分野を中心に話題が展開されている。思っていたい以上に、このスタイルは読みやすくて面白い。

他の作家も交え、第二弾、第三弾が出るのを楽しみにしたい。

以下、本書で興味の惹かれたところをピックアップ。

Ⅰ武士と奥女中のサバイバル・ゲーム

奥女中の「中」は老中の「中」と同じく敬称。奥に勤める女性を敬していうのが奥女中ということになる。大奥の場合、御目見得以上の女中は旗本の娘だが、御目見得以下の女中には商家や農家の娘も採用されていた。大名家の奥でも同じだったらしい。

また、結婚して奥を離れた後、離婚したので再び奥勤めに戻るということもあったようだ。

大奥の主な役職…上から役が高い

御目見得以上
 上臈御年寄(公家の娘)…御台所の側近くに仕える
 御年寄(旗本の娘)…大奥の最高責任者
 中年寄(旗本の娘)
 御客会釈(旗本の娘)
 御中臈(旗本の娘)…将軍や御台所の身辺の世話役
 御錠口(旗本の娘)
 御表使(旗本の娘)
 御右筆(旗本の娘)
 御次(旗本の娘)
 御切手書(旗本の娘)
 呉服の間(旗本の娘)
 御広座敷(旗本の娘)

御目見得以下
 御三の間(商家・農家の娘)
 御仲居(商家・農家の娘)
 御火の番(商家・農家の娘)
 御使番(商家・農家の娘)
 御末(御半下)(商家・農家の娘)

上の役職で将軍のお手が付いていいのは将軍付の御中臈だけだったそうだ。

そして、大奥では全ての仕事を女性が行っていたので、例えば駕籠を担ぐのも女性だったとか。

実権を持っていたのは御年寄で、老中と同格だった。

旗本の出世コース(一部省略。詳細は本書にて要確認)…上が役としては高い

 大目付
  ↑
 【奉行】町奉行、勘定奉行
  ↑
 【下三奉行】普請奉行、作事奉行、小普請奉行
  ↑
 【遠国奉行】長崎奉行、京都町奉行、大坂町奉行、奈良奉行、堺奉行、駿府町奉行、伊勢山田奉行、日光町奉行、佐渡奉行
  ↑
 目付
  ↑
 使番、小十人組頭、徒頭
  ↑
 【両番】小姓組、書院番
  ↑
 家督相続

幕府の組織はもともと軍事組織。それを平時の政治組織に転用したため、どの部署にも軍事的な要素があるのだとか。

この中でも、目付と使番がエリートコースとなっているそうだ。

学問吟味は早い段階から行われていたのかと思っていたが、松平定信の寛政の改革の一環として行われるようになったという。江戸後期の寛政四年(一七九二)である。

基本的に四書五経を全部読み解けなくてはいけなく、朱子学に基づいた解答をすることを要求されていた。

対策本も出回っており、遠山の金さんで有名な遠山金四郎の父・遠山景晋の「対策則」が有名だった。ちなみに、第二回目の主席が遠山景晋だったそうだ。

譜代大名の出世コース(一部省略。詳細は本書にて要確認)…上が役としては高い

 大老(井伊家)
 老中(三万~十二万石の城主)
  ↑
 京都所司代、側用人
  ↑
 大坂城代、若年寄
  ↑
 寺社奉行
  ↑
 奏者番
  ↑
 譜代大名の中の詰衆(雁間席)

老中になれたのは三万石以上の城主で、上は十二万石くらいまでだった。彦根藩の井伊家は二十五万石だが、大老を出す格式の家であるため、老中は務めなかったという。

藩邸の周囲に、塀を兼ねて長屋が建てられていた。外側の窓は道に面していたそうだ。藩邸が勤番長屋で守られているかたちになっていたことになる。

Ⅱ治安維持と災害対策

町奉行所は現在でいうと、都庁と警視庁を併せたような組織だった。

南北二つの町奉行が月番制になっており、それぞれに与力二十五騎、同心百二十人が配置されていた。この人数だけでは足りないので、岡っ引き、下っ引きを使っていた。岡っ引きは吉原では目明かしと呼ばれていた。

また自治的な組織が発達しており、町ごとに町名主がいた。さらに、町の一区画ごとに家守がいた。

武家地を守っていたのが辻番、町人地を守っていたのが自身番、町の入り口にあって夜回りをしていたのが木戸番。取り調べをするのは、江戸に六、七ヶ所あった大番屋。

江戸は火事が多かった。それも不審火によるものが多かった。

というのも、火事で焼け野原になると、家の建て替えで仕事を得られる人が増え、景気が上向く。なので、景気が悪くなると放火が増えたといわれている。

江戸の三大火事は、明暦の大火(一六五七)、目黒行人坂の火事(一七七二)、丙寅火事(一八〇三)。

明暦の大火後、江戸の大半が焼けるが、江戸は急速に発展した。

この明暦の大火は放火といわれており、放火の容疑者も捕まっているが、釈放されている。このいきさつが不自然で、さらに、火元とされる本妙寺が移動させられている。罰を受けることもなく、かえって寺格が上がったそうだ。

被害の方といえば、このときに江戸城も二の丸まで焼け天守閣が焼け落ちた。以後天守閣は再建されなかった。

安政大地震は安政二年(一八五五)に発生。直下型の地震で、大きな被害が出た。

御曲輪内、小川町、小石川、下谷、浅草、本所、深川などの低いところの被害が大きく、青山、麻布、本郷といった高台は比較的被害が少なかった。

被害を大きくしたのは、百五十年ほど大きな地震に見舞われなかったこと、幕末も近く家屋が密集して造られていた。人口も百三十万~百四十万くらいおり、半数に当たる町人が狭い町人地に押し込められていたのも被害を大きくした。

大名家でも被害を出したが、南北町奉行所は被害を免れたため、治安の維持に当たることが出来たようだ。

Ⅲ旅と海外貿易

参勤交代で荷物を持つのは六組飛脚問屋という株仲間が請負っていたそうだ。

西国の大名は瀬戸内海を船で大坂まできて、京都まで川船で上り、あとは江戸間で陸路だった。これは、当時の技術では太平洋を船で渡るのは危険だったためであるそうだ。

主要街道は二間(約三.六メートル)から三、四間あったそうだ。ただし、中山道の山道では一メートルもないところもあったという。

これって、獣道じゃないの?

「鎖国令」は、家光の時代にキリスト教の布教を怖れて出した一連の法令をよんだもの。

鎖国という言葉自体が使われたのは享和元年(一八〇一)で、日本沿岸に外国船が出没するようになってから、日本は鎖国していたのに気が付いたのだという。

つまり、それまでは鎖国をしているという意識がなかったのですねぇ。

交易ルートは長崎が中国・オランダの窓口、薩摩藩を介した琉球貿易、松前藩を介した北方との交易、対馬藩を介した朝鮮との交易の四つがあった。

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本書について

山本博文 逢坂剛 宮部みゆき
山本博文教授の江戸学講座
PHP文庫 約二五〇頁
解説書

目次

Ⅰ武士と奥女中のサバイバル・ゲーム
第一章 奥女中は憧れの職業
 大奥勤めはスッチーか、女子アナか
 新入りは裸踊りをさせられる?
 働き蜂と側室候補
 老人ホームもあった
 外に出られるのは数年に一度?
 意外にかかる交際費
第二章 現代顔負けの就職戦争
 家禄で基本給が保証されていた
 まずは養子先を見つけることから
 役職を得るための涙ぐましい努力
 「学問吟味」は注目を集める絶好のチャンス!
 試験のマニュアルが出回っていた
 合格してからもラクじゃない
第三章 大名・旗本の出世競争
 老中になりたかった譜代大名
 官職と位階はワンセット
 昇進にかける男たち
 専門職の生きる道
 私生活も査定の対象
 左遷・辞任も紙一重
第四章 勤番武士の日常生活
 藩邸は長屋で守られていた
 江戸詰家老はナンバー2
 まずは言葉でカルチャー・ショック
 酒井伴四郎の勤務スタイル
 一日百文で名所めぐり
 みやげ片手に国許へ
Ⅱ治安維持と災害対策
第五章 八百八町の犯罪白書
 町奉行所はスリムな組織
 番所はたくさんあるけれど…
 与力にも、いろいろありまして
 火盗改の家計は火の車
 広域捜査も行われていた
第六章 明暦の大火 そのとき江戸は
 火元が偽装されていた?
 天守閣も焼け落ちた
 火消人足が一万人?
 噴火と大雨による甚大な被害
第七章 安政の大地震 そのとき江戸は
 手抜き住宅がもたらした災い
 意外に大きかった大名家の被害
 陣頭指揮を執った町奉行
Ⅲ旅と海外貿易
第八章 武士の転勤・公務出張
 参勤交代は公共事業?
 安全はお金で買えるもの
 本陣経営者と大名の絶妙な駆け引き
 優良旅館のリストがあった
第九章 お伊勢参りは一生に一度
 商人たちも地方をめぐる
 御師は優秀な添乗員
 子供たちだけで「抜け参り」
 関所を抜けるのは簡単だった?
 飯盛女は過酷な労働
第十章 鎖国の意外な実態
 キリスト教が怖かった?
 四つの交易ルート
 出島や唐人屋敷に出入りできた人たち
 抜け荷の手口あれこれ
 役人だらけの長崎の町
 聞役が情報ネットワークの要だった

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