海音寺潮五郎の「悪人列伝3 近世篇」を読んだ感想とあらすじ

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覚書/感想/コメント

「日野富子」は才気のある女性であったが、一面では一番大事なところが欠けている才女ともいえる。子供に対する盲愛に駆られて大乱のもとをつくったこと。

世が困窮している中で、物欲に駆られて、高利貸しや米の買い占めなどを行って人々を一層苦しめたこと。肝心なところで人として欠けているものがあった。

だが、当時の時勢を考えれば、この様な者が大勢いたのだ。彼女はその一人でしかなかったともいえると評している。

「松永久秀」については人間らしい温かさを感じることが出来ず、明るさも愛嬌もみることが出来ないと述べている。だが、成り上がりでもあり、茶の湯に長じ、連歌にも長じていたというから、愛嬌のある人物に違いないはずだとも述べている。梟雄とはこうしたものなのかもしれない。

さて、神様信仰にも流行があるようだ。八幡信仰の盛んな時期、天神信仰の盛んな時期。松永久秀が生きていた時代は愛宕信仰が盛んだった。

愛宕の本尊は勝軍地蔵で天狗信仰と結びついている。そのため武勇を司る神様と考えられていた。そのため、信仰する武人が多かったようだ。後世まで続き、福島正則の家来・可児才蔵などは、自分は勝軍地蔵の化身と信じていたそうだ。

「陶晴賢」は悪人の素質のない人であったようだと海音寺潮五郎は評している。武将としては優れていたようだが、癇癪持ちで思慮の浅いところがあった。しかも、対する相手となったのが毛利元就である。役者が違ったようだ。

「宇喜多直家」の生涯は陰湿で腹黒い術策に満たされている。しかも、それは暗殺であったり毒殺であったりするという不愉快なものばかりである。こうした生涯をみて、海音寺潮五郎は小悪人の典型をみる。

松永久秀や斎藤道三は徹底した悪人だったが、性根の座りには一種痛烈な味があるが、直家は大勢力に囲まれきょときょととおちつかない。小悪党としか評価できないと述べている。

「松平忠直」は自分が将軍になれなかった不平と、時代の荒々しい空気、わがままいっぱいに育ったことなどの複合要素が絡み、これに嗜虐趣味のある美女一国を寵愛することで日本史上類を見ない暴悪な主君となったのだという。こんな人物が現代の日本にいなくて良かったと思う。

「徳川綱吉」は相当以上に賢く、気性も優れていたようだが、徳川家に時折視られる極端に走る素質を持ち合わせていたようだ。しかも、幕府の権力が絶頂にあり、一人として批判するものがない時代に天下人になってしまったのだから、ああいう形になるのは必然であるというが海音寺潮五郎の見方である。

内容/あらすじ/ネタバレ

日野富子

富子は日野家の支流裏松重政の娘として生まれた。日野家は足利将軍家と縁が深く、義満が日野家から二人も夫人をめとってから、多くの夫人がこの家から出ている。

足利義教が赤松満祐に殺され、継いだ義勝も幼くして死ぬと、義政が継いだ。これも九つの幼年将軍だった。やがて成人すると、遊楽三昧にふけるようになる。そして、はやばやと引退しようとした。跡継ぎに義視をたて、後見人として細川勝元を定めた。

だが、これに対して妻の富子は自分の生んだ義尚に将軍職を継がせたくて仕方がない。だが、義視には細川勝元がついている。対抗しうる人物を探すと、山名宗全がいる。こうして、家督相続の争いの起るべき条件がそろう。

その中で畠山家の家督争いが起きた。やがて、これが発展していき、世は戦国時代に入っていく。

松永久秀

松永久秀は氏素性のわからない人物である。いつの頃からはっきりしないが、阿波の三好家に仕えるようになった。阿波の三好家は、甲斐源氏武田家の分かれ信濃の小笠原家から出ている。阿波に来て三好を名乗るようになる。

歴史に名を出す頃には、三好家の最も有力な家臣として、京都所司代の役目をさせられている。皇室もあり、公家もいるから学問や才弁がある人間でなければならない。そうして人間だったようだ。また、堺の代官もしていたようで、富をみるみる築いていった。

大和の国を治めるようになり、信貴山に城郭をこしらえ、さらに多聞山にも城を築く。この多聞山の城こそ、後年の城の形となる。

陶晴賢

周防の大内家は朝鮮の王族の子孫であるようだ。足利時代になってから勢力を増した。そして、義隆の時代には七カ国の守護を兼ね、絶頂を迎える。陶氏はこの大内家の一族である。

陶晴賢ははじめ五郎隆房といった。美貌であったため、男色で義隆に愛されるようになったらしい。だが、五郎隆房は武勇でもそれなりに秀でたものを持った人物であった。

これが反逆者となったのは、相良武任という成り上がりものとの不和であると伝えられている。五郎隆房が晴賢と改名したのは義隆を弑してからまもなくのことであるらしい。

宇喜多直家

備前の宇喜多氏は三宅姓の氏族であることは間違いないようだ。長いこと聞こえた人物がいなかったが、直家の祖父能家に至ってやっと名が聞こえている。知勇優れた人物だったようだ。だが、殺されてしまう。

能家の息子・興家が死んだ時、直家は五つ、弟二人は三つと当歳だった。やがて、三郎右衛門直家と名乗って、浦上宗景に仕えるようになる。知行は少ないのに、家臣は多かったようで、譜代の家臣である岡、長船などは若いころには生活のために夜盗かせぎしたという。

直家の身代が大きくなったのは、同じ浦上家臣の松田の所領をうばってからである。このあと、権臣二人を倒してその所領を我がものにし、浦上家随一の勢力となる。となると邪魔なのは主家の浦上家である。

松平忠直

忠直の父秀康は家康の二男である。だが、家康はこれを長い間認知しなかった。秀康の生母・お万の素行に家康が疑惑を持っていたためのようである。

やがて子としては認知するものの、長男信康が信長により切腹させられると、秀忠をあとつぎにした。依然として心にこだわりがあるのだ。秀康が不平だったであろうことは容易に想像がつく。忠直にもその傾向がある。

秀康は忠直が十三の時に死んだ。引継いだのは越前六十八万石である。だが、秀康の時代に豪骨の大身の武士が多く召し抱えたため、その気風が残り、越前は騒がしい国となる。やがて、忠直の乱行暴悪が目に余るようになる。

徳川綱吉

綱吉は家光の庶子である。十六で上州館林の城主となった。利発で気性の優れた子であった。館林時代には聖人の道を一身にも政治にも実践しようとした情熱に燃えた賢公子だった。

もっとも、後年を考えると、館林家の家臣が悪いところを上手く隠して、良いところだけを見えるようにしたのかもしれない。

やがて、四代家綱が死ぬと、五代将軍として幕府の主となる。三十五の時である。綱吉は老中すら名前だけのものにし、側用人を使った。将軍の独裁権を確立したのだ。

そして、後年最大の罪悪、生類憐み令を出して強行する。

本書について

海音寺潮五郎
悪人列伝(三)
文春文庫 約二六〇頁
室町時代江戸時代

目次

日野富子
松永久秀
陶晴賢
宇喜多直家
松平忠直
徳川綱吉

登場人物

日野富子
 日野富子

松永久秀
 松永久秀

陶晴賢
 陶晴賢

宇喜多直家
 宇喜多直家

松平忠直
 松平忠直

徳川綱吉
 徳川綱吉

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