弥生時代が縄文時代の次に設定されたのは、弥生土器が縄文土器の上の層から出土したり、青銅器とともに出土することが確かめられ、弥生土器が用いられた時代という意味でした。
しかし、縄文土器と弥生土器は技術の点から、本質的な変化はなく明確な区分ができません。いずれもロクロを用いず、野焼きであるためです。
そのため、土器を時代の区分のための指標にするのはふさわしくないと主張され、縄文時代と弥生時代は、採取経済か濃厚経済かという経済基盤の違いをもとに区分されることになりました。
そして、それぞれの時代の土器を、縄文土器、弥生土器と呼ぶのが一般的になりました。
縄文文化
完新世に入ると、日本列島の気候は暖かくなり、氷河が溶け、小形の動物が増え、食料が豊かになります。
この時代に土器を伴う新しい文化が生まれます。縄文土器です。最古の土器は約12,000年前と推定されています。
この文化は縄文文化と呼ばれ、新石器時代に属します。
竪穴住居に住み、自然現象や自然物に信仰を求めるアミニズム、土偶、石棒などの習俗が残されました。
抜歯の風習があり、埋葬方法は屈葬が見られました。環状列石も残されました。
代表的な遺跡が三内丸山遺跡などです。
道具
縄文土器
- さまざまな形と文様
- 低温で焼かれた
- 厚手の黒褐色、茶褐色
- もろい
石器
- 打製石器
- 磨製石器(石槍、石鏃、石斧)
狩猟
- 弓矢
- 骨角器(釣針、銛)
貝塚の研究からわかる縄文カレンダー
- 春から初夏 潮干狩り
- 秋から冬 土器作り、狩猟
- 冬から春 漁労
弥生文化
紀元前4世紀ころ、九州北部に水稲耕作と青銅器・鉄器を特徴とする農耕文化が生まれます。
弥生土器を伴うことから弥生文化と呼ばれます。3世紀頃まで続きます。
大陸では漢民族が東方に伸びる時期にあたり、この頃に朝鮮半島から多くの人々が渡来したものと考えられています。
弥生土器
- 薄手
- 赤褐色
- 硬い
- 2017年阪大:更新世(洪積世)から完新世(沖積世)への移行にともなって自然環境が変化し、日本列島には豊かな縄文文化が育まれました。自然環境の変化と関連付けながら、縄文時代における採集・狩猟・漁労のあり方について問われました。
- 2007年京大:考古資料(遺構や遺物)を具体的な証拠として示して、縄文時代と弥生時代の主要な生業の違いが問われました。
- 1982年東大:弥生時代のある集落の遺跡について紹介文を読み、自然環境から想像して集落がたどった興亡の歴史が問われました。
水稲耕作
水稲耕作は100年ほどで近畿地方まで広がります。
紀元前後には関東地方から東北地方南部に広がります。
2世紀頃には東北地方北部まで広がります。
低湿地を利用した湿田
↓
やや高い地にも広がる
籾は直播き
静岡県の登呂遺跡
用具
- 木製農具(木鋤、木鍬、田下駄)→鉄の刃先をつけた鋤、鍬
- 稲を刈り取る石包丁→鉄鎌
- 脱穀の木臼、竪杵
- 1997年京大:稲作農耕は弥生時代の始まりを示すひとつの重要な事象ですが、その始まったばかりの米作りの作業は比較的完成された形態をとっていたと考えられています。播種から収穫までの当時の米作りのようすを、知られている農耕具の名を具体的に3つ用いて描写することが問われました。
- 1979年一橋:4世紀から17世紀にいたる間の、水田稲作農業の技術的発展について、下線の部分に即して具体的に記すとともに、その農業に従事していた農民たちの村落組織の変化を、その技術的発展との関連で問われました。
縄文時代から弥生時代への人口の推移
- 縄文早期 紀元前6100年 20,100
- 縄文前期 紀元前3200年 105,500
- 縄文中期 紀元前2300年 261,300
- 縄文後期 紀元前1300年 160,300
- 縄文晩期 紀元前900年 75,800
- 弥生時代 200年 594,900
縄文時代は人口の地域差が大きく関東と中部が多く、特に南関東が多かったと考えられています。
縄文中期では中部以東の東日本では96%を占めており、激減した縄文後期でも86%を占めていました。
縄文後期の人口減少が最も大きく、弥生時代への転換にあたって人口学的な激変があったことがうかがえます。
近年これを裏付ける研究成果が発表されています。
縄文時代の終わりから弥生時代にかけて急激な人口減少があった DNA解析で判明
縄文時代の終わりに急激な人口減少があった—。約2500年も前のこうした興味深い現象を東京大学の研究グループが現代の日本人男性のDNA解析から明らかにした。寒冷化により狩猟生活をしていた縄文人の食料が減ったことが原因らしいという。研究成果はこのほど英科学誌「サイエンティフィック・リポーツ」に掲載された。
(略)
約2500年前の縄文時代晩期から弥生時代初期にかけて、人口が大幅に急減していたことが明らかになった。男性の人口だけでなく女性を含めた全人口が急減したと推定できるという。この時期は、日本を含み世界的に気候が寒冷化しており、気温が下がったことで食料供給の減少が人口減につながったとみられる。研究グループによると、その後人口が増加したのは、気候が再び温暖化し、渡来系弥生人がもたらした水田稲作技術によって、安定した食料供給が可能になったためと考えられるという。
縄文後期の人口減は遺跡の発掘などで推定されていたが、遺伝子解析からも裏付けられた形だ。
縄文時代の終わりから弥生時代にかけて急激な人口減少があった DNA解析で判明 2019.06.25
三内丸山遺跡の衰退は寒冷化が原因
縄文文化の常識を覆したことで知られる三内丸山遺跡を当時の縄文人が放棄せざるを得なかった理由は、寒冷化による植生の変化であることが東京大学の研究者たちによって突き止められた。
(略)
三内丸山遺跡が栄えた約5,000年前は、遺跡付近の海水温は今より2.0℃ほど温かったが、4,200年前に突然寒冷化したことが分かった。2.0℃の水温差は、当時の遺跡付近の気温・海水温が230キロ南、今の仙台あるいは酒田付近の気温・水温だったことを意味する。現在、大きな実のなるクリ林は、山形県あるいは宮城県南部以南に限られるが、当時は三内丸山遺跡付近でも大きなクリが採れたことを裏付けるこれまでの遺跡発掘調査結果とも符合する。
川幡教授らは、三内丸山の集落が成立したと言われている約5,900年前に陸の気温が急に上昇し、特にドングリやクリなどが繁茂したほか海産物も豊富に採れるようになったことが三内丸山のような大集落を可能にした、と見ている。
日本全体の人口は縄文時代最初期(12,000年前)の約2万人から三内丸山遺跡が存在した縄文時代中期にはピーク(約26万人)に達した後、晩期には再び減少(約8万人)している。これは三内丸山遺跡の盛衰と合う。さらに三内丸山遺跡付近が急に寒冷化したのとほぼ同時期(4,000-4,300年前)には、中国の長江周辺や西アジアのメソポタミアなどの文明も衰退しており、アジアの中緯度域でほぼ同時に見られたこれらの現象は、寒冷化あるいは乾燥化などの影響が原因かもしれない、と同教授らは言っている。
(略)
三内丸山遺跡の衰退は寒冷化が原因 2010.01.04
参考文献
テーマ別日本史
政治史
- 縄文時代と弥生時代 本ページ
- 古墳時代から大和王権の成立まで
- 飛鳥時代(大化の改新から壬申の乱)
- 飛鳥時代(律令国家の形成と白鳳文化)
- 奈良時代(平城京遷都から遣唐使、天平文化)
- 平安時代(平安遷都、弘仁・貞観文化)
- 平安時代(藤原氏の台頭、承平・天慶の乱、摂関政治、国風文化)
- 平安時代(荘園と武士団、院政と平氏政権)
- 平安時代末期から鎌倉時代初期(幕府成立前夜)
- 鎌倉時代(北条氏の台頭から承久の乱、執権政治確立まで)
- 鎌倉時代(惣領制の成立)
- 鎌倉時代(蒙古襲来)
- 鎌倉時代~南北朝時代(鎌倉幕府の滅亡)
- 室町時代(室町幕府と勘合貿易)
- 室町時代(下剋上の社会)
- 室町時代(戦国時代)
- 安土桃山時代
- 江戸時代(幕府開設時期)
- 江戸時代(幕府の安定時代)
- 江戸時代(幕藩体制の動揺)
- 江戸時代(幕末)
- 明治時代(明治維新)
- 明治時代(西南戦争から帝国議会)