長谷川平蔵宣以の同僚
松平左金吾定寅(まつだいら・さきんご・さだとら)
寛保2年(1742年)―寛政8年(1796年)
江戸時代の旗本。松平定蔵の子。子に花菖蒲の育種家で有名な松平定朝がいます。
左金吾、織部。初名定浄(さだもと)。家督相続前は定虎。室は森可敦の娘。
法名は高松院殿徳岩紹勇居士。墓所は品川区北品川の東海寺定恵院。
生涯
堀帯刀のあとを継いで火付盗賊改の本役に就いたのが、それまで助役だった長谷川平蔵宣以でした。
その助役として松平左金吾定寅が就きます。本役の長谷川宣以とは確執がありました。
松平左金吾定寅は老中首座の松平定信と同族の久松松平氏(徳川家康の実弟の家系)です。
それを鼻にかけて同僚との話に、気安く松平定信の名を出すので、同僚からは敬遠されていました。
家格は2,000石で、一方火付盗賊改は1,500石の家格以下の役職であるため、その監視役に抜擢されたと推察されます。
ただ、カブキ者の一面があり、番方旗本のトップになる火付盗賊改の本役に就くことを願っていたようです。
演説好きで理屈っぽいことでも知られていましたが、屁理屈であることが多かったようです。
また、大身旗本ならではの金銭感覚の持ち主でした
火盗改としての初仕事の日、与力・同心を集めたのですが、11名が病気等を理由に欠勤しました。
聞いてみると、家族が多くて困窮のため、出勤もままならぬ状況であることが分かりました。
すると、左金吾定寅は、金で解決することを考え、11名に3両ずつ与えたのです。
また、五ツ(午前8時ころ)前に出勤すれば、朝食を与えることにしました。
本役の長谷川平蔵宣以はもちろん、他の先手頭も与力・同心の扱いに困ることになるのですが、そうした配慮はありませんでした。
就任当初は市中見廻りを暮れと晩の2回行っており、いずれは町奉行になるだろうと評判が高かったそうです。
しかし、4年にわたり3度の助役を務めるうちに評判も落ち、3度目の助役の時には、誤認逮捕が多く、また、取り調べが厳しいために嫌われました。
同族の松平定信に依怙贔屓されることなく、寛政四年に助役を解任されます。
略年表
- 明和2年(1765年)兄・松平定栄(さだなが)が病床だったため、将軍にお目見えして嫡男となる。
- 明和8年(1771年)父・松平定蔵が亡くなり、家督を継ぎ寄合に列する。
- 天明8年(1788年)先手鉄砲組組頭(筒組8番)。同年、火付盗賊改方加役(助役)。
- 寛政元年(1789年)再び火付盗賊改方加役(助役)。
- 寛政8年(1796年)先手弓鉄砲組組頭を辞し寄合となる。同年、55歳で没する。