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浅田次郎「五郎治殿御始末」の感想とあらすじは?

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明治維新後を舞台にした浅田次郎さんの短編集です。

全ての短編が、武士達がどのように明治維新後の境遇の変化を乗り越えようとしたのかを描いています。

「柘榴坂の仇討」は桜田門外の変を題材とした作品です。この「柘榴坂の仇討」は2014年に映画「柘榴坂の仇討」として公開されました。

桜田門外の変を題材にした小説として下記の作品があります。

  • 諸田玲子:釜中の魚(「其の一日」に収録)

以下はネタバレ満載です。ご注意ください。

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椿寺まで

商人の江戸屋小兵衛と奉公人の新太が主人公です。

小兵衛が新太を連れて旅に出かけるのですが、何やら事情がありそうです。

高井戸の宿場はずれから元御三卿田安家の家人だった追い剥ぎに追われたり、旅の最初から多難ですが、小兵衛は落ち着いています。

新太は途中で、小兵衛が主な宿場を避けているのに気がつきますが、何故そうしているのかが分かりません。

布田五宿で、長州征伐の軍用金を用立てるために、幕府が飯盛旅籠を許し、明治になった今でも繁盛してると聞くと、小兵衛は、ふいに笑顔を閉ざします。

宿で湯に入って新太は小兵衛の背中を見て驚きます。傷痕がみっしりと背負っていたからです。

小兵衛には人に言えぬ過去があるようです。そして、新太は自分が旅のともに選ばれた理由もそこにあるのではないかと思うようになります。

府中の宿場では小兵衛は洋服に山高帽を冠った紳士に「三浦様では」と声をかけられます。

小兵衛は人違いでしょうとそっけなく言います。

府中を出ると、小兵衛は寄り道していくと言います。高幡不動ではなく、奥山の椿寺を目指し始めます。

椿は咲いたままぼとりと落ちる椿を侍は忌み嫌いました。

寺に入ると小兵衛は庵主に挨拶に向かい、新太は大樹の所で休みました。

そこに寺男がやってきて、あたかも新太が全てを知っているかのように話し始めたのです。

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箱館証文

徳島藩の藩士だった大河内厚は新政府に仕えていました。

舞台は廃刀令が出された翌年です。不平士族が下野し、世の中が騒然としている時期です。

その大河内に突然の来訪者がありました。相手は警部の渡辺一郎と名乗っています。

応接間に入ると大河内は息を詰めました。見覚えのある顔です。

男の来意は分かっていました。そして男は巻き紙を取り出して見せたのです。

男は旧会津藩士の中野伝兵衛でした。

大河内は8年前の五稜郭での戦闘を思い出していました。

そこで大河内は中野伝兵衛に助けてもらう代わりに証文を書いたのです。

千両。

大河内は1週間の猶予をもらいましたが、当てがありません。

大河内は役所を休んで牛込払方町で剣術道場を営む師の山野方斎を訪ねました。

すると山野が1枚の証文を取り出してきました。

それを持って二人は外濠を歩き中野の家を訪ねます。

市谷の桜御門、四谷御門が取り壊され、牛込の楓御門が無くなる話が出ていた頃のことでした…

恩讐を忘れて過ぎし日々を語りながら、舟は柳橋から神田川を遡り、浅草橋、浅草御門、筋違橋御門の跡を過ぎ、昌平橋、水道橋へ進みました。

西を向く侍

明治政府は明治5年(1872年)に暦を太陰太陽暦から太陽暦(グレゴリオ暦)へ変更することにしました。

準備期間がないまま、明治5年12月3日が新しい暦で明治6年1月1日とされたため、混乱が生じました。

12月2日が大晦日になるため、商人は急に掛取りをしなければならなくなります。

その様子は札差である浅草御蔵前天王町の近江屋で主人の喜兵衛と末席の番頭である弥助を通じて描かれます。

太陰太陽暦のままだと、明治6年は閏6月があり、1年が13ヶ月ある年になります。

一説には、財政的基盤の弱かった新政府が、明治5年12月分の給与と明治6年閏6月分の給与などの支払いを減らすために強行したと考えられています。

この短編では暦法の専門家である成瀬勘十郎を主人公に、暦の変更時期の混乱を描いています。

暦の変更を知った成瀬は文部省の仮庁舎がある湯島の旧昌平黌に行きます。

門前払いもできるのに、文部省成瀬に会うと言います。しかも会うのは高官ばかりです。

高官の中には文部卿の大木喬任や、かつての幕府天文方の上司・日高与右衛門もいました。

成瀬は自分の意見を余すことなく述べました。それを聞く高官に新しい時代を造ろうとする真摯な情熱を感じます。

遠い砲音

西を向く侍では暦の変更に伴う混乱を描きましたが、遠い砲音では時刻の変更がテーマとなっています。

太陽暦に変更となった明治6年に、時刻も不定時法から24時間の定時法へ変更となります。

日の出、日の入りに合わせていた時刻からの変更です。

主人公は土江彦蔵、数え年40の明治政府の近衛砲兵営の陸軍中尉です。息子の長三郎がいます。

二人は長門清浦藩の下屋敷に住んでいます。毛利の支藩ですが1万石の大名で、当主の毛利修理大夫は豊後日出藩木下家からの養子で、主家と血縁がありません。

向島の下屋敷には修理大夫と土江親子しか住んでいませんでした。

この日も彦蔵は訓練に遅刻しました。代わりに中隊の指揮をしてくれたのは教官のロラン大尉でした。

合同調練で実弾を使用することになりました。撃つのは彦蔵の中隊です。

正確な時刻を共有していなければ事故が起きます。彦蔵は西洋の定時法が苦手でした。

彦蔵を庇ったのはロラン大尉でした。ロラン大尉は修理大夫の語学教師です。

彦蔵の隊は旧本丸内天守跡で空砲を撃つことになりました。

屋敷に戻ると彦蔵は修理大夫から20セカンド遅れていたとお小言を頂戴します。これに関したオチがちゃんと用意されています。

柘榴坂の仇討

安政7年3月3日に起きた桜田門外ノ変によって時が止まってしまった2人の男を描きます。

井伊直弼に仕えていた御駕籠回りの近習を務めていた志村金吾は、明治になっても、暗殺当日の光景が夢に出てきます。

生き残ってしまった志村は彦根藩を追い出され、暗殺者の1人でも仕留めるように命ぜられましたが、その機会が訪れないまま明治維新を迎えてしまいます。

妻のセツには苦労しかかけていない。

志村は元幕府の評定所御留役で、司法省に勤めて、今は非常勤の警部の秋元和衛を訪ねました。

志村は秋元から当日の詳細を聞き、逃亡した一人の男の消息を聞きました。

新橋の駅前で車夫の直吉は新聞を読んでいました。

明治6年2月7日、政府は太政官布告で仇討ちを禁止にしました。

直吉は客を乗せました。客は行く宛はないと言います。

道々、客は直吉に年齢や肉親のことを聞いてきました。直吉は親は自分の不孝で亡くした旨を話しました。客も同じく親不孝をし、いまだに妻に苦労させていると話しました。

客は直吉に名を聞きました。今の名ではなく、元の名です。

直吉は佐橋十兵衛と名乗っていたと告げました。

高輪の薩摩屋敷を右に折れると、楠の大樹に被われた柘榴坂があります。

旧藩の広大な下屋敷のあるこの辺りなら目立たない。

直吉はかつて同志とはぐれ東海道の薩摩屋敷の辻に佇んだことがありました。冬の柘榴坂を登り、有馬屋敷の椿垣が命を繋ぎ止めたのでした。

客は降りると志村金吾と名乗りました。

直吉は志村が本懐を遂げられるようにと考え自刃しようとしましたが、志村は勝手は許さないと自刃を止めます。

直吉は悟りました。志村は13年の間、仇を探してきたのではないと。ただ、桜田門の雪の中に立ち尽くし、歩むことも、遁れることも、死ぬこともできなかったのだと。

そして直吉は、己もずっと柘榴坂の椿の垣根のきわに座り続けていたのに気づきます。

酒場で働いているセツにお酌をお願いした客がいました。志村金吾です。

志村からこれからのことを聞かされたセツはたまらず笑いながら泣きました。

五郎治殿御始末

明治元年生まれの曽祖父・半之助が、子供の頃に話してくれた内容が忘れられません。

岩井家は桑名藩十一万石松平越中守の家来でした。

明治になり、桑名藩逆賊として、半之助の父は北越の戦で死にました。

半之助を育てたのは祖父の五郎治でした。五郎治は禿げ上がっていたので、付け髷をちょこんと載せていました。

明治4年の廃藩置県で五郎治はお役御免となります。五郎治は旧藩士のクビを切る辛い仕事をしていたのですが、それも終わりました。

五郎治が帰ってくると半之助に母の元へ行けと言います。しかし、半之助は五郎治と一緒にいると言ったのです。

2人は桑名から熱田へ向かい、宿場外れに着きました。五郎治は死場所を探していたのです。

ですが、2人を助けた者がいました。尾張屋忠兵衛です。

尾張屋忠兵衛は少し前から五郎治らを見かけただならぬ様子に跡をつけていたのでした。

五郎治は半之助を尾張屋に預けてどこかへ行ってしまいました。

明治十年、西郷征伐の年、若い陸軍少佐が備前屋を訪ねてきました。