この日は、目黒不動前→目黒駅までを散歩しました。最初に向かったのは目黒不動尊です。
通称「目黒不動」。瀧泉寺(りゅうせんじ)は天台宗の寺院。山号は泰叡山(たいえいざん)。不動明王を本尊としています。江戸五色不動の一つ。ほかに、江戸三十三箇所第33番札所、関東三十六不動尊霊場第18番。
一説には「目黒」の地名は目黒不動に由来するらしいです。青木昆陽の墓があります。
目黒不動の歴史
寺伝によると、808年(大同3年)慈覚大師円仁が下野国から比叡山に赴く途中に不動明王を安置して創建しました。
東国には円仁開基の伝承をもつ寺院が多く、本寺の草創縁起もどこまで史実を伝えるものか不明です。
慈覚大師円仁が開山、再興したと伝えられる寺は、関東に209寺、東北に331寺余あるとされる。有名なのが、瀧泉寺(目黒不動)、山形市の立石寺、松島の瑞巌寺、平泉中尊寺、浅草の浅草寺。
860年(貞観2年)清和天皇より「泰叡」の勅額を下賜され、山号を泰叡山としました。1615年(元和1年)本堂が火災で焼失しました。
1630年(寛永7年)寛永寺の子院・護国院の末寺となり、天海大僧正の弟子・生順大僧正が兼務するようになった時、徳川家光の庇護を受けました。
1634年(寛永11年)50棟余におよぶ伽藍が復興し、「目黒御殿」と称されるほど華麗を極めました。
1812年(文化9年)「江戸の三富」と呼ばれた「富くじ」が行われました(他は湯島天満宮、谷中感応寺)。富くじ興行は1842年(天保13年)天保の改革により中止となっています。
寺名の由来となった境内の独鈷の滝(とっこのたき)を浴びると病気が治癒するとの信仰がありました。
江戸時代には一般庶民の行楽地として親しまれ、江戸名所図会にも描かれています。
落語の目黒のさんまは、この近辺にあった参詣者の休息のための茶屋(爺が茶屋)が舞台だとされます。
目黒不動の見どころ
目黒不動の本堂
目黒不動の本堂を拝みます。
そこから、下へ向かう途中にあるのが、銅造役の行者倚像(目黒区指定有形文化財)。
鷹居の松跡(たかすえのまつあと)。徳川家光が寛永年間(1630年頃)。狩猟中に、かわいがっていた鷹が行方不明になったため、不動堂別当の実栄という僧に祈らせたところ、鷹はここにあった大きな松の枝に飛びもどってきたと伝えられています。今はその松の跡だけが残り標石としてあります。
目黒不動の「独鈷の滝」と「水かけ不動明王」。本堂へと登る石段下の左手に池があり、2体の龍の口から水が吐き出されています。
伝承では、円仁が寺地を定めようとして独鈷(とっこ、古代インドの武器に由来する仏具の一種)を投げたところ、その落下した地から霊泉が涌き出し、今日まで枯れることはないそうです。
「水かけ不動明王」。身代わりに水を浴びてくれるために作られたものです。
目黒不動の概要
目黒不動の文化財
- 青木昆陽墓 史跡(国指定)
- 龍泉寺前不動堂(東京都指定有形文化財)
- 瀧泉寺勢至堂(目黒区指定有形文化財)
- 銅造大日如来坐像(目黒区指定有形文化財)
- 銅造役の行者倚像(目黒区指定有形文化財)
- 木造弁才天及び十五童子像(目黒区指定有形文化財)
江戸三富
浄瑠璃・歌舞伎のモデル
目黒不動の仁王門のすぐそば。仁王門は三間一戸の朱塗りの楼門で、昭和37年(1962年)再建。
そのそばに権八(ごんぱち)・小紫(こむらさき)の比翼塚(ひよくづか)があります。
こういう話があります…。
江戸の初め、鳥取藩士平井権八は父の同僚を殺害して江戸に逐電しました。
吉原三浦屋の遊女小紫と馴染となりましたが、金が続かず、浅草日本堤で通行人から殺人強盗を重ねていました。
ある時、僧・随川にかくまわれ、改心した権八は死ぬ前にもう一度両親に会いたいと思い、虚無僧となって郷里鳥取に帰りましたが、すでに両親とも他界していました。
権八は江戸に戻って自首し、鈴ヶ森で処刑されました。
随川によって遺骸は東昌寺に葬られましたが、小紫が吉原から抜け出てきて権八の墓の前で後追い心中をしました。
二人を哀れみ建てられたのが、この比翼塚だそうです。
平井権八の話は、浄瑠璃や歌舞伎に脚色され、白井権八のモデルとなります。「お若えの、お待ちなせえやし」の名科白が有名。
山手七福神
目黒不動(瀧泉寺)の境内にあります。山手七福神の一つ。ちなみに目黒不動は恵比寿です。
山手七福神
- 蟠竜寺(ばんりゅうじ)(岩屋弁財天)
- 瀧泉寺(りゅうせんじ)(目黒不動)(恵比寿神)
- 大円寺(だいえんじ)(大黒天)
- 妙圓寺(みょうえんじ)(福禄寿・寿老人)
- 瑞聖寺(ずいしょうじ)(布袋尊)
- 覚林寺(かくりんじ)(毘沙門天)