七福神を巡る|元祖山手七福神

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江戸時代から続く七福神です。

巡る順序によって、受けられるご利益が変わります。

  • 覚林寺から瀧泉寺へと向かうルート:無病息災や長寿祈願
  • 瀧泉寺から覚林寺へと向かうルート:商売繁盛

元祖山手七福神巡りは、だいたい約2時間30分のコースです。

途中休み休みでゆっくりめぐるのがおすすめ。

「東急目黒線不動前駅」と「東京メトロ南北線・都営地下鉄三田線白金高輪駅」の間にあります。

宿泊旅行なら旅行サイトを利用するのが良いと思います。下記をご参考になさってください。
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七福神のルート

不動前駅
(10分)
 ↓↑
瀧泉寺(目黒不動)(恵比寿神)
(20分)
 ↓↑
蟠竜寺(岩屋弁財天)
(10分)
 ↓↑
大円寺(大黒天)
(30分)
 ↓↑
妙圓寺(福禄寿・寿老人)
(10分)
 ↓↑
瑞聖寺(布袋尊)
(10分)
 ↓↑
覚林寺(毘沙門天)
(10分)
 ↓↑
白金高輪駅

恵比寿…瀧泉寺(目黒不動)

恵比寿は瀧泉寺(目黒不動)にあります。

住所:目黒区下目黒3-20-26

弁財天…蟠龍寺(ばんりゅうじ)

蟠龍寺の境内風景

元祖山手七福神。目黒不動の恵比寿様の次に現れたのが弁天様の蟠龍寺です。

蟠龍寺の由緒板

目黒行人坂付近にあった称明院(慶安元年1648年開創)を、増上寺の霊雲上人が浄土宗の戒律を復興するため現在地に移し、江戸時代の宝永6年(1709)霊雲山称明院蟠龍寺と改名再建されました。

次いで、寛政6年(1794)律院となり、「不許辛肉酒入山門」の結界石がその名残りを今にとどめています。

蟠龍寺の入り口

本堂には本尊として「木像阿弥陀如来像」(都指定文化財)があり、天明年間(1781-1788)に東都三番札所となり善光寺式阿弥陀三尊像も祀られています。

「江戸名所図会」にのった境内は、当時の風趣が偲ばれ、元禄11年(1698)建立の地蔵尊があります。

また、山手七福神の一つであり、江戸裏鬼門の鎮守として岩窟内に石造弁財天、弁天堂内に木造弁財天(八臂の天女像)が安置されています。

蟠龍寺の弁天堂

さらに境内には、藍蝋の歌碑や下目黒尋常小学校創立之碑などもあります。

宗派:浄土宗
本尊:木像阿弥陀如来像

大黒天…大円寺(だいえんじ)

大円寺の本堂

目黒不動の恵比寿様の次に現れたのが弁天様の蟠龍寺に続いて大黒様の大円寺(だいえんじ)です。

このお寺が最後で、次が目黒駅です。

大円寺の由緒板

下目黒にある天台宗の寺院で山号は松林山。本尊は釈迦如来。

大黒天を祀り、山の手七福神のひとつ。

江戸時代の寛永年間(1624年 – 1644年)に湯殿山修験道の行者大海が創建したのに始まるとされます。

江戸三大大火の火元

大円寺の入り口

1772年(明和9年)2月に発生した大火(明和の大火・行人坂火事)の火元となった寺であることから、江戸幕府から再建の許可が得られませんでした。

明和の大火(めいわのたいか)とは、明和9年2月29日(1772年4月1日)に江戸で発生した大火災である。
明暦の大火、文化の大火と共に江戸三大大火の一つといわれる。目黒行人坂(現在の目黒区下目黒一丁目付近)から出火したため、目黒行人坂大火とも呼ばれる。

火元
「明暦3年、明和9年、文化3年各出火記録控」によると、出火元は目黒の大円寺。放火犯は武州熊谷無宿の真秀という坊主。火付盗賊改長官である長谷川宣雄長谷川宣以の父親)の配下によって明和9年4月頃に捕縛された。6月22日(1772年7月22日)に市中引き回しの上、小塚原で火刑に処された。

被害
2月29日(4月1日)13時頃に目黒の大円寺から出火した炎は南西からの風にあおられ、麻布、京橋、日本橋を襲い、江戸城下の武家屋敷を焼き尽くし、神田、千住方面まで燃え広がった。一旦は小塚原付近で鎮火したものの、18時頃に本郷から再出火。駒込、根岸を焼いた。30日(2日)の昼頃には鎮火したかに見えたが、3月1日(3日)の10時頃馬喰町付近からまたもや再出火、東に燃え広がって日本橋地区は壊滅した。
類焼した町は934、大名屋敷は169、橋は170、寺は382を数えた。山王神社神田明神湯島天神、東本願寺 (台東区)、湯島聖堂も被災した。
死者は1万5000人、行方不明者は4000人を超えた。老中になったばかりの松平定信の屋敷も類焼した。

wikipedia

江戸時代後期の1848年(嘉永元年)になって薩摩藩主島津斉興の帰依を得て、その菩提寺としてようやく再建されました。

明治に入り隣接した明王院がこの寺に統合されています。

目黒駅西口を下りると急な坂行人坂があり、坂の途中に大円寺がある。この坂は江戸市中から目黒不動尊への参詣路であった。行人坂の名は、大円寺を拠点にする修験道の行者が、この坂道を往来したことによる。寺伝では、寛永元年(1624)出羽湯殿山の修験僧大海法印が大日如来を本尊として道場を開いたのが始まりという。

明和9年(1772)寺より火を発し、江戸市中628町に延焼した。振袖火事、車町火事と並ぶ江戸三大火事の一つになり、行人坂火事として安永元年と年号も改められた 幕末になって薩摩藩島津氏の菩提寺として再興された。門を入った左手にある五百羅漢の石像(都有形)は、この大火の犠牲者供養のために当時につくられたものと伝える。

境内左側釈迦堂の本尊釈迦如来立像(国重文)は、鎌倉初期の清涼寺式生身の釈迦像であり、胎内に五臓六腑がおさめられている。正面本堂には、江戸城裏鬼門にあたる為徳川家康をモデルに大黒天を祭る。山手七福神の一つで、今日でも参詣者を集めている。

阿弥陀堂には弥陀三尊が祭られお七地蔵の木彫もある。

墓地に西運の墓がある。西運は江戸初期、隣の明王院(現在の雅叙園の位置)に住し、行人坂の修築などを行った。門前にその時の行人坂敷石造道供養碑がある。西運は八百屋お七の恋人吉三の出家後の名である。

また境内に江戸時代の庚申塔が3基あり、会津八一の歌碑も残されている。

行人坂を下ると目黒川にかかる橋がある。雁歯橋とも太鼓橋とも呼ばれ、今は後者が橋の名になっている。その当時使用された石材は寺の境内に置かれている。太鼓橋の往時の景観は、広重の錦絵「名所江戸百景・目黒太鼓橋より夕日の岡」に残されている。明王院、大円寺一帯は夕日の岡といわれ、紅葉・桜の名所でもあった。

https://www.tendaitokyo.jp/jiinmei/6daienji/
大円寺の境内風景
大円寺の境内風景

宗派:天台宗
本尊:釈迦如来

東京都目黒区下目黒1丁目8−5

福禄寿・寿老人…妙圓寺

江戸時代初期元和元年(1615)に開かれました。

福禄寿と寿老人の像が祀られています。

本堂右手の妙見堂。妙見大菩薩を中心に、寿老人、福禄寿が両脇に立っています。

山号 誠瀧山
寺号 妙円寺
住所 港区白金台3-17-5
宗派 日蓮宗

布袋尊…瑞聖寺

江戸時代の寛文11年(1671)に開かれた黄檗宗の寺院です。

大雄宝殿は、宝暦7年(1757)に再建と推定されており、東京大空襲の被害にあった東京で、江戸時代から残る仏教建築として貴重な存在。国指定の重要文化財にも指定。

布袋像は、この堂宇の右側の仏壇に祀られています。

紫雲山瑞聖寺は、江戸で最初の黄檗宗(おうばくしゅう)の寺院で、寛文十年(1670)から建設に着手し、翌年諸堂が完成しました。 創建伽藍は亨保十一年(1726)と延亨二年(1745)の二回の火災で大きな被害を受けましたが、文化年間(1804~18)に再び整備されました。 大雄宝殿は黄檗宗寺院の中心的建物で、身舎(もや)の外側に裳階(もこし)を廻らせ、身舎の屋根は入母屋造、本瓦葺きで、寺格にふさわしい雄大な規模を持つ黄檗建築の仏殿です。 棟札から宝暦七年(1757)の再建と推定され、その後、何度か修理が行われました。 二重屋根の外観や細部意匠に黄檗建築の特徴を保ちながら、組物の簡略化、正面吹放(ふきはなち)部分の化粧軒裏天井、背面一間通りの吹放、内部の両脇に畳敷床を設けるなどの特徴があり、江戸市中に残された数少ない本格的な仏堂建築として貴重な存在です。 昭和六十年(1985)から六三年にかけて解体修理が行われ、仏壇回りを除いて往時の雄大な姿が再現されています。 瑞聖寺大雄宝殿(ずいしょうじだいおうほうでん) 国指定重要文化財(建造物) 指定 1992年 8月10日(平成四年八月十日)

https://www.zuisho-ji.or.jp/

山号 紫雲山
寺号 瑞聖寺
宗派 黄檗宗系単立
住所 港区白金台3-2-19

毘沙門天…覚林寺

「清正公」との愛称で親しまれています。

名前のとおり、加藤清正公ゆかりの、日蓮宗の古刹。

加藤清正の守護仏である釈迦牟尼仏を本尊とし、境内に加藤清正を一緒に祀っています。

毘沙門天は、山門を入った左手のお堂に安置されています。

山号 最正山
寺号 覚林寺
住所 港区白金台1-1-47
宗派 日蓮宗

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他の七福神一覧

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