長谷川平蔵宣雄とは?火付盗賊改から京都西町奉行に栄進した鬼平・長谷川平蔵宣以の父

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長谷川宣雄(はせがわ・のぶお)は江戸時代の旗本で、鬼平こと長谷川平蔵宣以の父です。

通称は平蔵(へいぞう)。この通称は息子、孫へと引き継がれました。

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生涯

火付盗賊改

長谷川平蔵宣雄が火付盗賊改に命じられたのは、明和8年(1771年)でした。

この年は、「江戸っ子」という言葉が生まれた年で、約60年ぶりに「お蔭参り」が流行した年でもありました。

伊勢神宮には4か月で200万人を超える人が押し寄せ、この熱狂が鎮まる頃に長谷川平蔵宣雄は火付盗賊改となりました。53歳のことで、先手弓頭を7年務めてからのことでした。

翌年、明和9年(1712年)田沼意次が老中格から正式に老中となります。老中首座は9代将軍家重以来25年老中を務める松平武元(まつだいら・たけちか)です。

長谷川平蔵宣雄は二人の老中に能力を認められ、引き立てられていきます。

目黒行人坂の大火

この年、目黒行人坂の大円寺から出火しました。

瞬く間に火は燃え広がり、幅4キロ、目黒から江戸城をかすめて日本橋、上野、浅草、千住までの20キロを焼き尽くします。

死者1万4700人にも及ぶ大被害となった「目黒行人坂の大火」です。

「明暦の振袖火事」「文化期の車町火事」とともに「江戸の三大火事」と呼ばれています。

火事の原因が放火とはっきりしていて、犯人が捕まったのは、目黒行人坂の大火だけでした。

長谷川平蔵宣雄はすぐさま大火の原因を付け火とみて、大円寺一帯に与力・同心を投入します。

すぐさま武蔵熊谷無宿・長五郎を捕まえます。長五郎は真秀と名乗る願人坊主です。

長五郎は10歳を過ぎに武家奉公に出されましたが、14歳の時に屋敷に放火して衣類を盗んで逃げています。

親元に戻っても、素行は改まらず、勘当され、江戸に出て無宿の群れに入り、願人坊主の真秀と名乗りました。

この日、ボヤに紛れて盗みをしようと大円寺で火をつけたのですが、あっという間に燃え広がり、手が付けられなくなって逃げたのです。

長谷川平蔵宣雄はこうした自供をとりながら、真偽を確かめるために長五郎を連れて大円寺での現場検証をしました。

大円寺の住職にも出火時の状況を聞こうとしたのですが、あいにく勧進・廻国の巡礼に出ており、裏付けの話が聞けませんでした。

そのため、長五郎の自供だけで火罪にすることをためらい、老中・松平武元に町奉行の判断を願い出ます。

松平武元は取り調べが行き届いていることから、町奉行の判断には及ばずとして、火罪とします。

京都西町奉行

明和9年は、この大火のほかに、九州から関東にかけて暴風雨や洪水がおき、農作物の実りが3年連続で不作に終わったため、年の終わり近くに改元して安永になります。

この改元の一月前に長谷川平蔵宣雄は火付盗賊改を免ぜられ、京都西町奉行に抜擢され、従五位下・備中守の官位を与えられました。

赴任に当たっては27歳になっていた嫡男の平蔵宣以も妻子を伴って従います。

京都には東町奉行所と西町奉行所があったが、西町奉行所のほうが格上とされていました。

門跡寺院や寺社がかかわる争訟は西町奉行が管轄したためです。

着任して8か月。安永2年、突然亡くなった。家督相続の末期願いは、京都東町奉行の酒井善左衛門忠高が処置をしました。

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略年表

  • 延享5年(1748年)従兄・長谷川宣尹が死去したため、末期養子で家督を継いだ。
  • 同年(改元があったので寛延元年(1748年))に西城御書院番。
  • 宝暦8年(1758年)小十人頭。同年に布衣の着用を許された。
  • 明和2年(1765年)御先手弓頭。
  • 明和8年(1771年)火付盗賊改加役。
  • 明和9年(1772年)明和の大火で犯人の真秀を捕らえ、火刑に処した。
  • 安永元年(1772年)京都西町奉行に転任、同年に従五位下備中守に叙任される。
  • 安永2年(1773年)奉行在任中に京都で死去。享年55。

同時代人

  • 松平武元
  • 田沼意次

参考文献

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