松本清張の「柳生一族」を読んだ感想とあらすじ

この記事は約7分で読めます。
記事内に広告が含まれています。
スポンサーリンク

覚書/感想/コメント

八編の歴史小説短編集。昭和三十年(一九五五)に柳生一族、通訳、廃物、疵が発表され、翌年に残りの四編が発表されている。

松本清張初期のころの作品である。

全体的の分量も少なく、かつ、短編それぞれも短く、読みやすい。

それぞれの短編は、それなりに知られた逸話を主題としているため、本作を読んでおけば、後日に同じ題材で書かれた小説を読む際にはスラスラと行けるのではないかと思う。

逆に、逸話などを知っている者にとっては物足りない内容かもしれない。

スポンサーリンク

内容/あらすじ/ネタバレ

柳生一族

神陰流の祖・上泉伊勢守は上州の人で諸国回歴の時に柳生谷を訪ねた。このとき伊勢守は甥の疋田文五郎を連れていた。

柳生宗巌と試合したのは文五郎であった。だが、この文五郎に宗巌はかなわず、その場で入門した。

同じ入門者の中に松田織部之助がいた。松田は柳生と同国である。

その後、宗巌は柳生流を唱え、織部之助は松田新陰流を称した。

ある日、筒井順慶から宗巌に使いが来て出陣が言い渡された。その途中で織部之助に連絡をすることをしなかった。織部之助はそれを不服とした。

天正十年。柳生の領分について隠田があると豊臣秀長に密告した者がいる。そのため所領没収となった。密告したのは織部之助であろうが、織部を斬るよりも家の再興の方が大切である。

宗巌には三人の息子がいる。長男新二郎巌勝、二男又衛門宗矩、三男五郎衛門である。

柳生は離散の運命となった。

慶長三年。徳川家康は柳生宗巌を召しだそうと考えたが、宗巌は宗矩を推挙した。

関ヶ原の戦いののち、柳生宗矩は旧領柳生の庄を回復した。すると、宗巌が生前言っていた言葉を思い出した。織部之助のことである。宗矩は父の愛弟子・庄田喜右衛門を呼んだ。

宗矩は剣の道一つだけでは知れていると考え、勢い権力に近づこうとした。表芸の柳生流の兵法は将軍家指南として権威化に成功した。

この宗矩に三人の子がいる。十兵衛三巌、飛騨守宗冬。刑部少輔友矩である。

兄弟の中で三巌が武術では最も出色のできである。しかし三巌は二十歳の折、飄然と家を出てしまった。

三巌は十一年間の流浪で、少しずつ父・宗矩の気持ちがわかるようになっていた。

通訳

徳川吉宗には二人の子がいる。家重と宗武である。家重は世継ぎであったが、小さいころから言葉がつかえた。やがて家重は癇癖の強い人間となった。

一方の宗武は出来がよく、それが家重の苦痛でもあった。

世の中にたった一人だけ、家重の難解な言語を解する者がいた。大岡忠光である。

忠光は言語を逐語的に理解したというよりも、早くから家重の側近でいたため、性質や癖を心得、推測したに違いなかった。

大岡忠光は側用人になった。忠光は正確には「通訳」である。将軍の言うことを老中に通詞して聞かせるのである。

誰もが彼の翻訳した言葉を疑わぬし、彼も疑わなかった。その彼が突然辞任した。

その朝、忠光は雲丹を食べていた。その日、一人の大名が帰国の暇に将軍にあいさつをすることになっていた。雲丹をくれた大名である。

家重がとつぜん発生した。忠光は、はっとした。とっさのことで家重の言うことが分からない。忠光は雲丹のことを思い出して、そのことをほめているといった。だが、実は家重は雲丹が嫌いであることが判明した。

廃物

大久保彦左衛門忠教が八十歳を一期として静かに死の床に横たわっていた。寛永十六年二月の午後である。

枕もとでは先刻から忠教が最後の三河武士であろうという話題で持ちきりだった。

それを夢うつつの中で忠教は聞いていた。おれの皮肉で一徹なことを話しているらしいが、ほんとの気持ちは分かりはすまい。

おれは以前に子孫に残すつもりで覚書を書いた。先祖一族と徳川家の主従の関係因縁を知らせておくつもりだ。

先祖は三河国松平郷について以来仕えた譜代だ。およそ二百年の間だ。譜代譜代と言っても、主君一途に奉公しとおしてきた者ばかりではない。その中でも大久保一門だけは、ばか正直に働いてきている。

その一族の親類縁者兄弟どもを討ち死にさせ、辛苦を重ねて生死をくぐりぬけてきたおれが今もらっているものはなんだ。わずか二千石の扶持と厄介者扱いではないか。

だから、主君に忠節をつくし、わき目も振らずに奉公した者は出世もできず知行も少ない、子孫も栄えぬ。物事がみんな逆なのだ。

破談変異

寛永八年の春。

目付豊島刑部は目を止めたのは老中井上主計頭正就の娘である。刑部の相役に島田越前守というものがいる。それに息子がおり、嫁がいないかと頼まれていたのを思い出した。

同じ娘に目を付けた人間がいた。春日局である。

豊島刑部は井上主計頭に話を切り出した。主計頭はいったんは断ったものの、豊島刑部の三河者らしいかたくなな性格の前に折れた。

縁談はめでたくまとまったかに思われたが、主計頭のもとに春日局から使いがあって、よい縁組を見つけたから世話して進ぜるという。

困ったのは主計頭である。結局豊島刑部の話を断ることにしたが…。

栄落不測

天和元年正月。喜多見重政が大名にとりたてられた。重政には何の功労もない。

この弟の茂兵衛が飲んだくれで困っていたのだが、徳川綱吉の愛妾にお伝の方がおり、このお伝の方の実兄・堀田将監と仲が良かったのだ。だが、この将監は素行が悪い。

茂兵衛のところに浅岡縫殿が赦免となり戻ってくるとの知らせが来た。茂兵衛は妹・せきの亭主・縫殿が戻ってくることに都合の悪さを感じていた。

できるだけ会わないようにしている内に、縫殿が逆上して…。

富高与一郎はふさいでいた。二か月前まで帰国を楽しみにしていたのだ。帰れば結婚が待っているからだ。だが、今は江戸に残っていたかった。

与一郎がその夜鷹と会ったのが二月前のことだった。その夜鷹からたちの悪い病気をもらった。

やがてそのことがもとで与一郎の神経がとげとげしくなっていった。

参勤交代の行列の前にお茶壺の一行が立ちはだかった。

お茶壺の一行は何かと難癖をつける。そして今回もそうだった。行列の前に蓆を置いたのだ。

それを見た与一郎は夜鷹の蓆を思い出し…。

五十四万石の嘘

寛永三年。加藤清正の子・加藤忠広が本国熊本におり、その子・光正が江戸の屋敷にあった。

光正は毎日が退屈でしかたがない。唯一の楽しみは茶坊主の玄斎を脅すことである。玄斎は無類の臆病者である。

日夜新趣向の案出に頭脳を絞り、それが単調な毎日の唯一の刺激となった。ある宵、光正は絶妙の妙案が浮かんだ。

光正は玄斎が伺いに来るたびにふさいだ顔色となった。心配する玄斎に対して光正はそっと語った。

光正は将軍家に対して弓矢を持って手向かうことにしたというのだ。玄斎は仰天した。

それをみて光正は愉快でならなかった。

一方の玄斎は度を失って長屋に帰った。そして、それを見た母親に詰め寄られて、たやすく一切を話してしまった。母は殿の戯れだといった。

翌日、玄斎は元気になって出てきた。それを見た光正はもっと脅かしてやれと意地になった。

黒田長政が筑前福岡に国替になって間もなくのころ。

長政は木谷太兵衛を討つことにした。その仕手に申し出た者がいる。高月藤三郎だ。女のような細い体を眼に浮かべて呆れた長政だったが、これが木谷を討った。

だが、討ったのが木谷の衆道の趣味に付け込んでのことだったことがわかり、長政は不機嫌となった。

その後、高月藤三郎が逐電した。去る前に藤三郎は、藤三郎にも一分がございます。何をするか見ていていただきまする、と言い放った。

二年後。海賊の手当てをした医師がいた。

その医師の話を総合して聞くと、どうやら藤三郎ではないかということになった。

これを最後に高月藤三郎の消息は絶えた。

承応二年。黒田藩の若い武士が吉原で遊んだ帰り、ある屋敷に厄介になった。河野左門と西本市太郎といった。

二人を出迎えたのは六十ばかりになった主人だった。屋敷は大身旗本の下屋敷のように見える。

そしてそこで二人がきいたのは…。

本書について

松本清張
柳生一族
光文社文庫 約二三〇頁

目次

柳生一族
通訳
廃物
破談変異
栄落不測

五十四万石の嘘

登場人物

柳生一族
 柳生宗巌
 松田織部之助
 柳生宗矩
 庄田喜右衛門
 土井大炊頭利勝
 柳生十兵衛三巌

通訳
 大岡忠光
 徳川家重

廃物
 大久保彦左衛門忠教

破談変異
 豊島刑部
 井上主計頭正就
 島田越前守

栄落不測
 喜多見茂兵衛
 お伝
 堀田将監
 浅岡縫殿
 せき


 富高与一郎

五十四万石の嘘
 加藤光正
 玄斎


 高月藤三郎
 河野左門
 西本市太郎

タイトルとURLをコピーしました