大本山成田山新勝寺の参詣記-歴史と見どころは?(千葉県成田市)真言宗智山派大本山のひとつ

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年間参拝者数が全国有数の寺院として知られます。

年間で約1,300万人、初詣で約300万人が訪れます。

成田山新勝寺への参拝は電車で行くのがおススメです。

とはいえ、都内からですと、距離があるので、車で参拝したい方の方が多いのだと思います。

周辺にそれなりの駐車場はあるのですが、時期によっては駐車できませんので…。

成田空港からも近いので、海外の観光客も多く見かける場所です。

宿泊旅行なら旅行サイトを利用するのが良いと思います。下記をご参考になさってください。

本尊は不動明王。不動明王信仰の寺院のひとつです。「成田不動」の名で知られます。

真言宗智山派の関東三大本山のひとつで、高尾山薬王院、川崎大師平間寺とともに真言宗智山派の三大本山として知られます。

不動明王(ふどうみょうおう)は密教特有の尊格である明王の一尊。

大日如来の化身とも言われます。五大明王の中心となる明王です。

五大明王は、不動明王、降三世明王、軍荼利明王、大威徳明王、金剛夜叉明王。真言宗をはじめ、天台宗、禅宗、日蓮宗等で幅広く信仰されています。

成田山新勝寺の縁起・歴史

平将門

成田山はその縁起から平将門と密接な関係にあります。

朝廷は平将門を調伏するために、いろいろな手を打っており、各地の寺社でも調伏の祈祷が行われていました。

成田山新勝寺の縁起もそうした流れの一環のものです。

天慶3年(940)に朱雀天皇の命を受けた寛朝僧正が空海が彫ったとされる不動明王像を持って下総に赴き、賊徒調伏を祈願しました。

平将門の乱が平定されたのち、都周辺で調伏の祈祷を行っていた寺社には朝廷から土地が与えられたりしています。

不動明王像はそのままとどめ置かれ、不動明王を祀る堂宇が築かれたのが新勝寺の始まりとされます。

その始まりとされる成田の不動塚です。最寄り駅は京成線の公津の杜駅になります。

成田山新勝寺は平安時代中期に起きた平将門の乱の際、939年(天慶2年)朱雀天皇の密勅により寛朝僧正を東国へ遣わしたことに起源を持つ。寛朝は京の高雄山(神護寺)護摩堂の空海作の不動明王像を奉じて東国へ下り、翌940年(天慶3年)、海路にて上総国尾垂浜に上陸。平将門を調伏するため、下総国公津ヶ原で不動護摩の儀式を行った。新勝寺はこの天慶3年を開山の年としている。乱平定の後の永禄年間(1566年(永禄9年)頃と考えられるが未詳)に成田村一七軒党代表の名主が不動明王像を背負って遷座されて伽藍を建立された場所が、現在の成田市並木町にある「不動塚」周辺と伝えられ成田山発祥の地と言われている。「また新たに勝つ」という語句に因み新勝寺と名づけられ、東国鎮護の寺院となった。その後、新勝寺は戦国期の混乱の中で荒廃し、江戸時代までは寂れ寺となっていた。

wikipedia

不動信仰

目黒不動(瀧泉寺)

目黒不動(瀧泉寺)の参詣記-歴史と見どころは?(東京都目黒区)目黒不動から目黒駅への散歩

目黒不動から目黒駅への散歩道。目黒不動の紹介と写真の掲載。この日は、目黒不動前→目黒駅までを散歩。通称「目黒不動」。瀧泉寺(りゅうせんじ)は、天台宗の寺院。山号は泰叡山(たいえいざん)。不動明王を本尊としている。江戸五色不動の一つ。

等々力渓谷の等々力不動尊(満願寺の別院)

等々力渓谷の等々力不動尊(満願寺の別院)の参詣記-歴史と見どころ紹介(東京都世田谷区)桜の名所
等々力不動尊(満願寺の別院)の紹介と写真の掲載。豊富な水量を流す等々力の滝を見て、霊地と悟り、不動堂を創建したのが始まりとされる。不動像は1300年前の作といわれている。

承平天慶の乱を扱った小説

平将門の乱と藤原純友の反乱と合わせて「承平天慶の乱」と言われます。

平将門

海音寺潮五郎の「平将門」を読んだ感想とあらすじ(面白い!)

平将門の乱は、藤原純友の反乱と合わせて「承平天慶の乱」と称される。平将門の乱は、藤原純友の反乱の時期的に近く、伝説として平将門と藤原純友が比叡山で共同謀議して起こしたものだと言われてきている。真実は不明だが、本書は共同謀議説を採用していない。

海と風と虹と

海音寺潮五郎の「海と風と虹と」を読んだ感想とあらすじ
藤原純友の反乱は、平将門の乱と合わせて「承平天慶の乱」と称される。これに関しては、海音寺潮五郎はすでに「平将門」を記している。だから、本書は「平将門」の姉妹篇といって良いものである。ただし、「平将門」を記してから十年以上の月日が流れてから本書を書いているため、その間に生まれた新たな学説も取り入れ、一部設定を変えている。

絶海にあらず

北方謙三の「絶海にあらず」を読んだ感想とあらすじ
「絶海」とは極めて遠い海を指します。通常、距離的な遠さを指しますが、本書の題名は距離的なものではありません。それは、海が権力者のものとなり、一般大衆の手の届かないほどに遠いものという権力構造上の遠さを指しているような気がします。それが「あらず」なので...。

出開帳と市川團十郎

江戸時代には、本尊の不動明王を遠方に持ち出して信徒に拝ませる出開帳が度々行われ、名が広まりました。

また、成田山新勝寺が人気を集めるようになったのは、歌舞伎役者の市川團十郎が関係しているのは有名な話です。

市川團十郎は成田不動に帰依して「成田屋」の屋号を名乗りました。現在でも、市川家の屋号が成田屋なのはこのためです。

市川團十郎が、不動明王が登場する芝居を打ったこともあり、成田信仰の人気に拍車がかかることになります。7代目市川團十郎ゆかりの地として、近くに延命院旧跡があります。

江戸から程よく遠い距離だったのも人気だったのでしょう。江戸から東へ向かう際の人気スポットになったということなのではないでしょうか。

不動信仰ということなら、江戸の南方面は、秦野にある大山不動尊も人気だったようです。

境内には広大な成田山公園があります。また、釈迦堂前の小高い丘の上には出世開運稲荷があります。

年中行事

開山以来、一日も欠かさずに続けられているのが護摩祈祷です。年中行事も盛大に行われ、2月3日の節分会には、力士や芸能人が参加して盛り上がります。

成田山新勝寺の見どころ

参道

成田駅から参道を歩いていくと、途中から下り坂になります。

この坂の途中には、有名なうなぎ屋さんが軒を連ねています。

成田山薬師堂

JR成田、京成成田の駅を降りて、成田山新勝寺へ向かう参道の途中にあります。

参道を歩いて、三叉路を右下へ下っていくと総門にたどり着きますが、この三叉路のところにあるのが薬師堂です。

薬師堂は、光明堂が本堂になる前の旧本堂です。江戸時代の1655年(明暦元年)に建立され、2度の移転で成田山境内を離れ、1855年(安政2年)に現在地に移転しました。

成田山新勝寺の建物としては、現存する中で最も古い建物であるが、創建当時の構造材は少ないそうです。 2011年から2013年にかけて保存修復工事が行われました。

また、薬師堂は江戸元禄期に初代市川團十郎が子授けを祈願し成就させたといわれる御堂としても知られます。

薬師堂は明暦元年(一六五五)に建立された旧本堂で徳川光圀公や初代市川團十郎が参拝した成田山現存最古のお堂です。

元禄十四年(一七〇一)の本堂「現光明堂」再建の折、この御堂は新本堂の後方に移築され、約一五〇年にわたり伽藍の一端を担いました。

安政二年(一八五五)の本堂「現釈迦堂」建立を機に明暦の旧本堂を薬師堂と改称、この地に移築し現在に至ります。

薬師堂にある案内板

千葉県成田市上町562

延命院旧跡(7代目市川團十郎ゆかりの地)

延命院旧跡の石柱

成田山新勝寺へ向かう途中の参道沿いにある。目立たないので、見過ごしがちです。

江戸時代の天保13年(1842年)。老中・水野忠邦による天保の改革により、7代目市川團十郎は江戸十里四方所払いとなり、代々信仰していた成田の地へ身を寄せていました。その場所がここです。

市川團十郎は、成田屋七左衛門と改名して延命院に身を寄せました。延命院には成田屋の三舛の紋があしらわれています。

延命院旧跡の門
延命院旧跡

住所:千葉県成田市仲町359

総門

仁王門

三重塔

大本堂

鐘楼

釈迦堂

額堂

光明堂

三社

奥之院

この洞窟は奥行き約十一メートルあり、正面に不動明王の本地仏である大日如来が安置され毎年当山祇園会の日(七月七、八、九日)に限り開扉される。入口左右の板碑は考古学上貴重なものである。

奥之院前の案内板

平和の大塔

弁財天堂

弁財天を祀る勧請年代は不明だが、内外丹塗宝形造りの現在の堂は元禄年間に建立された、成田山境内では最古の建築物である。

弁財天堂前の案内板

成田山新勝寺の概要

項目内容
山号成田山
院号
正式名成田山 金剛王院 神護新勝寺
開基寛朝僧正…創建年 940年(天慶3年)
宗派真言宗智山派
本尊不動明王(大聖不動明王)
別称成田不動・成田山
備考寺格 大本山
札所等 関東三十六不動尊霊場三十六番札所

文化財

重要文化財

  • 建造物5棟(仁王門、三重塔、釈迦堂、額堂、光明堂)
  • 木造不動明王及び二童子像

成田市指定文化財

  • 鐘楼
  • 一切経堂
  • 薬師堂
  • 清滝権現堂
  • 輪転経蔵

ホームページ

大本山成田山新勝寺 – 成田山新勝寺 千葉県成田市成田1

住所&地図

所在地: 〒286-0023 千葉県成田市成田1
電話: 0476-22-2111

成田山公園

成田山新勝寺内にある公園。桜の季節にやってきましたが、公園内を散策して思ったのは、梅の季節の方がいいのかもしれません。

成田山の境内には、東京ドーム約3.5個分 (16万5000m²)にも及ぶ広大な公園が整備されています。公園は仏教の生きとし生けるものすべての生命を尊ぶという思想が組み入れられ、不殺生を表す尊い生命をはぐくむ場となっております。また、公園内各所には松尾芭蕉や高浜虚子など著名な文人たちの句碑があり、先人の足跡を感じることができます。

https://www.naritasan.or.jp/tour/other.html

小泉岩吉氏の銅像。小泉純一郎元首相の祖父の弟。

高浜虚子の句碑。「凄かりし 月の団蔵 七代目」

清滝権現堂

成田山 洗心堂。雄飛の滝のそばにあります。修行道場とのことです。

雄飛の滝

公園内に文殊、竜樹、竜智の3つの池があります。放生(ほうじょう)の場として、生きとし生けるものすべての生命を尊ぶという仏教思想があらわされています。

中山義秀文学碑

中山義秀氏は一時期成田中学(現成田高校)の英語教師でした。公園内には、鈴木三重吉氏の文学碑もあります。

成田山公園の地図

所在地: 〒286-0023 千葉県成田市成田1

出世開運稲荷

釈迦堂前の小高い丘の上

成田山新勝寺をお参りしたら、こちらにも立ち寄りたい場所です。

鳥居の隣の売店で油揚げと蝋燭などの売っています。お稲荷様なので、好物の油揚げと蝋燭を捧げるとご利益が得られると言われています。蝋燭は灯明した後に持ち帰って自宅で灯明してご利益をいただくことができます。

出世開運稲荷は、釈迦堂前の小高い丘の上に位置します。
御本尊は、江戸時代に成田山を篤く信仰した佐倉藩主・稲葉丹後守が寄進された御尊像で、「出世開運稲荷」と称されて、火難消除・開運招福・商売繁昌のご利益があると伝えられております。

オフィシャルサイト

八代目市川團十郎の灯篭。

こちらは七代目市川海老蔵の灯篭。

紫と紅白の旗

明治21年に再建された総欅造りのお堂。

お堂の正面には出世稲荷の本地仏である荼枳尼天(だきにてん)の彫刻が施されています。

仏教における荼枳尼天(だきにてん)が本地仏として祀られているのは、稲荷信仰が神仏習合思想によるものです。

神仏習合については、義江彰夫「神仏習合」に詳しいです。

出世開運稲荷の地図

成田権現神社

成田山新勝寺の管理ですが、境内は立ち入り禁止。

祭神は牛頭天王のようです。

JR成田駅を降りて京成側の交番の真裏に鎮座しています。

神社なのですが、入るなという忠告と共に、高い柵で囲われて、人を寄せ付けません。

成田祇園祭は、権現神社のお祭りとして始まったようで、権現神社前で総踊りがあるのですが、人を寄せ付けない神社です。

何なんだココは???という不思議スポットと化しています。

〒286-0033 千葉県成田市花崎町

成田祇園祭

成田権現神社のお祭りとして始まった成田祇園祭ですが、今では成田山新勝寺の奥之院の祭礼になっています。

成田祇園祭では、10町内の山車・屋台が登場しますが、全ては撮れませんでした。

屋台・山車めぐり

東町の屋台

この屋台は二代目で、1978年6月に完成しました。
正式には「引き廻し屋台」と言います。
総欅造り、銅板瓦葺き、総漆塗り仕上げで、屋台正面は武家屋敷かご寄せ玄関を思わせる唐破風造りになっています。
2006年、屋台の四方に獅子、鳳凰、恵比寿大黒、昇り龍などの立派な彫刻が施され、より重厚で威厳のある屋台になりました。

http://www.nrtk.jp/enjoy/shikisaisai/gion-festival_01.html

本町の山車

1902年製作された江戸山車で、三代目村田正志・百雲正山本鉄之に依頼し、車輪・台座は神田紺谷町の川口家の製作です。
人形は将門討伐や大ムカデ退治で有名な藤原秀郷(俵藤太)で製作は山本福松。
山車は上中下三段構造の上段迫り上がり式で町内が狭いため、上中段が360度回転するのが特徴です。2000年には車輪を新調しています。
お囃子は新宿区無形文化財の萩原彦太郎社中による江戸囃子です。

http://www.nrtk.jp/enjoy/shikisaisai/gion-festival_01.html

仲之町の山車

1900年、東京神田にて製作された成田最古の華麗な江戸型山車です。
作者は村田政親と百雲正山本鉄之による共作です。
人形は「神武天皇」。作者は初代山本福松によるものです。
正面の額は、成田山中興第15世石川照勤大僧正によるもので「妍哉得國」です

http://www.nrtk.jp/enjoy/shikisaisai/gion-festival_01.html

成田山交道会の山車

1988年、成田山開基1050年祭を記念し五世宮惣が5年の歳月をかけ製作した本格的江戸型山車。
全体を漆で仕上げ金色の彫刻金具、極彩色の木彫り、西陣織の刺繍幕、特に腰枅の螺鈿、四君子の柱隠しの華麗さには目を見張ります。
人形は川本喜八郎氏製作の日本武尊です。

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上町の屋台

江戸時代の後期に千葉町院内の宮大工によって造られた純然たる彫刻踊り屋台。2002年に一世紀振りの大改修を行い、屋根は唐破風一層造り、屋根・柱・土台・彫刻は全て本ケヤキで、一枚彫り抜きの上町扁額をはじめ双竜・朱雀・伎芸天・唐獅子・波に十二支・青龍・白虎・玄武・力神・極楽鳥・鳳凰等々を新たに加え、迫力有る彫刻屋台となりました。
上壱番町としての長い歴史を現在に伝える重厚な屋台です。

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幸町の山車

2011年度製作の山車となります。
二重高欄欅漆塗り、前面に欄間仕立ての踊り屋台があり、左右の前柱に唐獅子と中央に鳳凰と雲の金箔張り。
丹精な彫りの字額「金剛」は、成田山中興第21世橋本照稔大僧正の直筆。
人形は平安時代中期、平将門の乱が起きたとき、追討の軍を送った「朱雀天皇」。新勝寺建立にゆかりの人物です。

http://www.nrtk.jp/enjoy/shikisaisai/gion-festival_01.html

花﨑町の山車

1976年の作、江戸型の山車で前部は囃子台に唐破風の屋根、後部は三層からなる鉾で最上部はせり上がり式になっている。
山車には昇龍や牡丹、腰廻りには波に鯉、懸魚は鳳凰、さらに下高欄下には八幡太郎の説話三題の彫刻が施され、重量感のある造りです。
人形は、平安時代の武将、武勇の誉れ高い源氏の棟梁八幡太郎義家。

http://www.nrtk.jp/enjoy/shikisaisai/gion-festival_01.html

囲護台三和会の山車

囲護台三和会は囲護台・新町・馬橋の三区で構成され、現在の山車は成田山開基1070年に合わせて区民の親睦と融和を願い新造されました。
製作は印西市の棟梁正木寛氏によるもので、二層式屋台の形式をとり、柱と梁を繋ぐ木組みや、上下の高欄を支える多くの斗供など、伝統的な社寺建築の技法により建造され、精徽な彫刻が山車を飾ります。
人形は成田山のお不動様とゆかりの深い「嵯峨天皇」で、製作は八千代市の彫刻家田島義朗氏によるものです。

http://www.nrtk.jp/enjoy/shikisaisai/gion-festival_01.html#sanwakai

周辺の立ち寄りたいところ

JR成田、京成成田からの参道には土産屋や食べ物屋が軒を連ねています。

成田山の参道は鰻の名店が並んでいます。 川豊、近江屋 などの老舗が並んでいます。少し離れたところの新川も穴場でおすすめです。

「栗羊羹」を初めて発売したなごみの米屋總本店も一度は訪れておきたいお店です。

車で訪れたなら、ちょっと足を延ばして郊外の「麦の薫り」でスイーツもおススメです。

近くに式内社があります。由緒ある古社です。

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