九尾の狐の伝説の地
九尾の狐の伝説は、那須野が原で討たれて終わります。
この「那須野が原」という言葉がもたらすのは、広々とした草原かもしれません。
しかし、実際に殺生石があるのは、那須岳への中腹です。
つまりは、那須高原のど真ん中なのです。観光エリアより上の方です。
殺生石に近づくにつれ、硫黄の匂いが立ち込めるので、目的地に近づいているのが分かります。
隣には那須温泉神社があります。
ここには松尾芭蕉も訪れており「おくのほそ道」に書かれています。おくのほそ道の風景地として国の指定名勝となっています。
九尾の狐の討伐
九尾の狐がこの地で討たれる前段が大田原市の玉藻稲荷神社にあります。
伝説では、那須野で九尾の狐が悪さをしているとの噂が宮中に伝わり、鳥羽上皇は討伐軍を那須野領主・須藤権守貞信のもとへ送りました。
軍勢は8万。三浦介義明、千葉介常胤、上総介広常が将軍、陰陽師・安部泰成が軍師でした。
三浦介義明が追っている中で九尾の狐を見失います。
今の玉藻稲荷神社内にある鏡ケ池のほとりであたりを見まわしたところ、桜の木の枝に蝉の姿に化けている九尾の狐が写ったとされます。
これでバレてしまった九尾の狐がこの地まで逃げてきて討たれてしまうのです。
玉藻稲荷神社の紹介と写真の掲載。那須には九尾の狐にまつわる伝説がある。もっとも有名なのは、那須岳の殺生石。この神社はひっそりと、それと知られていない、隠れた「九尾の狐」伝説にまつわる神社。
玄翁
九尾の狐は、討たれた後に殺生石になり、石になっても毒を出して、人々や生き物の命を奪い、住民を悩ませました。
至徳2年(1385年)に殺生石を砕いたのが玄翁です。この時に殺生石は各地に飛び散ったとされます。
玄翁によって砕かれた殺生石が飛来したとされる地は3か所の「高田」とされます。
候補地は複数あり、そのいずれかとされます。
- 美作国高田(岡山県真庭市勝山)
- 越後国高田(新潟県上越市)
- 安芸国高田(広島県安芸高田市)
- 豊後国高田(大分県豊後高田市)
- 会津高田(福島県会津美里町)
飛び散った殺生石の異説
また、異説もあります。飛騨では牛蒡種という憑物になり、四国に飛来したものが犬神という犬霊の憑物になり、上野国(群馬県)に飛来したものがオサキという狐の憑物になったといいます。
岡山県真庭市勝山の玄翁の開山による化生寺境内には、殺生石の石塚があります。
玄翁が開山したとされる福島県白河市表郷中寺常在院境内には、殺生石の破片と言われる石が祀られています。
遺骸は宇治の宝蔵に?
さらに、これらの伝説とは別に、九尾の狐の遺骸が宇治の宝蔵に納められていると言われています。
遺骸が別のところにあるとすると、殺生石は九尾の狐の「何」が変じたものなのでしょう?
殺生石が割れる
残念なことに、2022年3月5日、殺生石は真っ二つに割れました。以前からヒビが入っており、自然現象によるものと見られています。
奇しくも上総介広常と千葉常胤が登場している「鎌倉殿の13人」が放映されている時期でした。
割れた3月は上総介広常と千葉常胤がまだ出ている時期でした。
長い年月を耐え、数々の自然災害にも耐えてきた殺生石が、上総介広常と千葉常胤が登場する「鎌倉殿の13人」放映年に割れたのは、何か因縁めいたものを感じます。
殺生石の風景
遠方からの風景。
看板
殺生石と白面金毛九尾の狐伝説
殺生石の由来
地図
住所:栃木県那須郡那須町湯本
那珂川沿い
那須岳山麓を源としひたちなか市と東茨城郡大洗町の境界部で太平洋に注ぐ那珂川沿いは歴史街道でもある。
東山道と那珂川が並走していたとみられる一帯には重要な史跡・遺跡が点在している。
そして、那珂川を下っていくと、河口の南側と北側に格式の高い名神大社が鎮座している。北にあるのが酒列磯前神社で、南側にあるのが大洗磯前神社である。祭神は酒列磯前神社がスクナヒコナで、大洗磯前神社がオオクニヌシである。国造りの神である。