岳宏一郎の「群雲、賤ヶ岳へ」を読んだ感想とあらすじ

この記事は約8分で読めます。
記事内に広告が含まれています。
スポンサーリンク

覚書/感想/コメント

「乱世が好き」→「軍師 官兵衛」と改題を経て、加筆して改題されたのが本書。主人公は黒田官兵衛。

「群雲」の付くシリーズ第二弾であるが、「群雲、関ヶ原へ」のように無数の諸大名の視点から描かれるというスタイルではなく、普通の歴史小説である。

ただし、「群雲、関ヶ原へ」と同じく、黒田官兵衛にまつわる有名なエピソードは網羅されている感じなので、最初に黒田官兵衛を知るにはいい本ではあると思う。

黒田官兵衛の人生の中でもっとも苦難に見舞われたのは、織田信長に謀叛した荒木村重を説得に行って、そのまま一年拘束されてしまったことであろう。

この拘束中について、外で起きている状況の変化というのを荒木村重の口から官兵衛に語らせるという手法を用いて描いているのが工夫だろうか。

この荒木村重の登場人物としての重要性の高さというのが本書の特徴ともなっている。

織田信長に謀叛をしたといえば明智光秀もそうである。

これについて、明智光秀が飼い主の手にかみついたのは、主人の寵が消えたことを知ったからだという。寵を失うといつ佐久間信盛の二の舞を演じさせられるかわからない。それで夜も眠れなくなり、ついには暴挙に出たという。

明智光秀の謀叛については、昔から多くの作家が様々な説を展開してきたが、時代とともに説の流行というのは推移しているように思う。

その視点から歴史小説を読み比べるのも面白いのではないか。

意外と知られているようで知られていないのが、黒田官兵衛は死ぬまでキリシタンだったということであるかと思う。

キリシタンになったのは天正十三年説、十一年説の二つがあるという。動機はつまびらかでないが、秀吉との関係悪化に求めるものが少なくなかったようだ。

最後に、黒田家について。

黒田家の事跡が明るくなるのは、高政という人物が出てからだ。永正八年(一五一一)に軍令にそむき逃げた。目薬「玲珠膏」を販売して糊口をしのぎ、志半ばで没する。

継いだのが黒田官兵衛の祖父・重隆である。重隆は備前福岡を去り、竜野の赤松政秀に短期間仕え、姫路へ移った。黒田家がもっとも零落した時代だった。だが、重隆は広峰大明神という播州一円の人々が参詣するといわれる神様のお墨付きを得て「玲珠膏」を売った。

重隆はわずか数年で近隣第一の物持ちとなり、およそ六、七千石の所領を持つことになる。そして小寺家に家老として迎えられたのだ。

スポンサーリンク

内容/あらすじ/ネタバレ

天正三年(一五七五)七月下旬。播州御着(姫路)の中堅大名・小寺政職の重臣・小寺(黒田)官兵衛が美濃岐阜に入った。官兵衛は商家の中庭に屋根より高く積み上げられた塩の山をみて織田軍団の強大を感じ取っていた。

織田信長の側近・武井夕庵から信長は眠るために城に戻ると聞いて、信長は家臣団の不意の造反を恐れていることを知った。

対面した信長の顔は、精神の荒廃をこれほどあらわにしたものは見たことがないというものだった。その信長は本願寺を片づけたら播州へ羽柴秀吉を遣わすという。それまではげめというのだった。

官兵衛は羽柴秀吉に会いに行った。

官兵衛は二つの鬱屈を抱えていた。一つは友人の荒木村重が中国方面軍司令官争いで羽柴の後塵を拝したことであり、もう一つは、織田に帰属することが利益にかなっていたかどうかということだった。

小寺家では新織田派に不利な状況で、毛利よりの意見が多かった。

播州には三十六の有力豪族がいる。大きいのは別所氏、小寺氏、赤松氏であった。この状況の中で、小寺政職は今の所領十万石を奪われるのが嫌で我慢ならなかった。

官兵衛は城を見るのが好きだった。城をみれば、その人物、性格、賢愚、器量の大きさもわかってしまった。

長浜城の主は大いなる野望の持ち主であるに違いなく、抗いがたいほどの魅力の持ち主であるに違いない。狡い男に違いない。

羽柴秀吉は今後の予定について率直に物語った。残念ながら播州入りはすぎには実現しない。越前、加賀を平定して、その後だという。二年は待てと言った。

九月。越前一揆掃討作戦の話が伝わってきた。

十月。信長の招きに応じて、小寺政職、別所長治、赤松広秀の三人が京へ上った。

天正四年は信長にとって受難の年となった。

丹波の明智隊が波多野秀治の造反に遭い敗北を喫している。

五月には明智光秀救援を荒木村重に命じたが命令拒否をされた。荒木村重はわりに合わぬと思っていた。一万四、五千の兵を動員する力を持ち、半年で播磨、但馬をとることもできた。

越後では本願寺顕如によって一向一揆との講和が成立して壁が消滅していた。織田包囲網の一つに加わったのだ。

毛利軍はすぐさま動き、姫路を衝かせた。織田の影響を排除しようとする動きだ。

天正五年九月。官兵衛は一子・松寿を連れ、安土へ向かった。人質である。

信長の統一事業はここ二年間後退した感さえあった。北陸戦線にいるはずの秀吉は長浜で謹慎中だった。その秀吉に播磨の切り取りが許され、四千の兵で明石に印したのは十月のことだった。

小寺家では主君・政職と官兵衛の亀裂は拡大するばかりだった。その官兵衛は居城の姫路城を秀吉に差し出した。官兵衛は金銭の出納に細かい人間だったが、有利な投資のためなら、即座に全財産を投げ出す度胸を持っていた。今回もそれだった。

秀吉の主要な家臣の中で官兵衛の興味を強くかき立てたのは、竹中半兵衛だった。

秀吉は姫路に入ってから十数日で播磨の大小名ほとんどすべてから人質を徴収してしまった。次いで但馬へ向かった。

天正六年。秀吉は七千五百の兵を率いて播州へ帰任した。加古川城で評定が行われたが、顔を見せなかった大名が二人いた。小寺政職と別所長治である。別所長治は代理を寄こしてきたが、けんか腰だった。

秀吉と官兵衛らは別所一族の造反を前提として事態にどう対処するかを話し合った。

別所一族が公然と籠城の準備をしている頃、越後で上杉謙信が死んだ。この訃報が届いた頃に三木城を巡る攻防戦が始まった。そして尼子の残党が籠る上田城が毛利・宇喜多連合軍五万に囲まれたとの知らせが届く。

四月。三木城の郭外まで迫っていた秀吉はいったん囲みをといて書写山へ退いた。東には戦意盛んな別所氏、西には毛利・宇喜多連合軍五万がいた。

荒木村重が一万五千の兵を率いて到着。明智光秀らの二万が合流し、織田の兵は四万を超えた。

秀吉は信長から上田城を見捨てろとの一言を引き出していた。

三木城攻めは羽柴隊七、八千で落すことになった。立て籠るのはほぼ同数だ。秀吉は兵糧攻めを行うことにした。

この中、官兵衛は宇喜多直家調略に手をつけ、成功を収める。空前絶後の大功だったが、信長は官兵衛に恩賞を与えなかった。

天正六年十月。荒木村重が謀反を起こした。

官兵衛の主・小寺政職は動転した。織田がひっくり返ると思った政職は毛利に寝返ったが、官兵衛が説得に来ると思い、官兵衛には荒木の説得に向かわせることにした。荒木には官兵衛の始末を頼む。これで身の保全が図れるはずだ。

官兵衛は荒木村重の説得に向かったが、拘禁されてしまった。この知らせはすぐに姫路城に届き、官兵衛の父・宗円は官兵衛を捨てる決意を固めた。荒木村重の謀叛は失敗すると観たのだ。

荒木村重討伐のために信長の動員した織田兵は十余万にのぼった。

官兵衛が有岡城から救出された頃、御着城から小寺政職と一族の姿が消えた。

官兵衛は満一年の入牢で右膝がくの字に曲がり、自力で立つことができなかった。有馬温泉で体力の回復を図り、そのあと秀吉のもとへ戻った。

天正八年一月。秀吉は三木城へ開城勧告の書状を送った。三木城ではあらゆるものを食べ尽くした感があった。城兵は死ぬ以外に、飢餓から解放される方法がなかった。

別所長治の切腹によって城兵は救われた。

織田信長は右大臣の職を辞した。意味は明かであった。禁裏はもはや利用価値がなくなったのだ。

官兵衛は小寺姓を捨て本姓の黒田に戻していた。また一万石の大名となっていた。

天正十年。織田信長は武田勝頼を滅ぼした。秀吉も二万の兵を率いて備中高松城へ向かった。

官兵衛は水攻めの着想を得ていたが、不可能だと思っていた。だが、これを聞いた秀吉は実行するという。

銭で六十五万貫文と米が六万五千石である。

銭一万貫文というのは永禄十一年に修築した禁裏の総費用がそれである。そのおよそ七十倍の巨費だった。

信長が死んだ。

羽柴軍は約三十里を三日で走破した。前途にはまばゆい栄光が待っている。

柴田勝家と滝川一益は天下争奪戦から脱落した。四国征伐を命ぜられている丹羽長秀と織田信孝は兵が逃亡してしまって途方に暮れている。

秀吉は清洲会議を成功裡に乗り切った。

官兵衛は秀吉から山崎に一城を構えるように命ぜられた。そこに荒木村重がふらりと現われた。

天正十一年。秀吉と官兵衛は姫路城で正月を迎えた。姫路城で官兵衛は諸大名への書状に汗を流した。賤ヶ岳の合戦はある意味外交戦でもあった。重要視したのは本願寺顕如、小早川隆景、上杉景勝の三人だった。

滝川一益が動き、ついで柴田軍が江北に出陣したとの知らせが秀吉の本陣に飛び込んできた…。

本書について

岳宏一郎
群雲、賤ヶ岳へ
光文社文庫 約五六〇頁
安土・桃山時代

目次

密使
二年待て
約束
中国入り
風の中
明るい場所へ
迷走する季節
闇の底
希望
冬の花
天正十年初春
積乱雲
不慮の死
飛翔
虎奔る
助走
賤ヶ岳
栄光のために
流星のごとく
関ヶ原

登場人物

黒田官兵衛
黒田長政(松寿)…息子
照福院…妻
宗円…父
栗山善助
羽柴秀吉(豊臣秀吉)
竹中半兵衛(重治)
蜂須賀彦右衛門(正勝)
荒木村重
たし…荒木村重の側室
加藤又左衛門
中川瀬兵衛
高山右近
小寺藤兵衛政職
別所長治
別所吉親(賀相)…別所長治の叔父
照姫
織田信長
武井夕庵
清水宗治
小早川隆景
吉川元春
安国寺恵瓊
柴田勝家
前田利家

タイトルとURLをコピーしました