岳宏一郎「群雲、関ヶ原へ」の感想とあらすじは?

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物語は上杉景勝の会津移封からはじまります。その後、豊臣秀吉が死んで、関ヶ原にいたるまでの諸大名の悲喜こもごもを描ききった、文字通りの「大作」です。

こういう描き方もあるのだ、と思わず唸ってしまう構成になっています。

主要な登場人物だけで五十人以上いるといいます。その多さは、目次の多さと一対です。つまり、各章ごとに主役が入れ替わるのです。

特定の人物の目を通して、この関ヶ原にいたるまでの時間軸を眺めているわけではありません。

特に目まぐるしくなるのは、秀吉が死んでからです。

有力で有能な大名はそれぞれの思惑が入り乱れ始めます。そして、小大名達は右往左往し始めます。

その視点の切り替えが後半にいたって物語にスピード感と緊張感を生み出すことに成功しています。

また、人物の好悪をあらわすことなく、淡々と物語が進んでいくところも素晴らしい点です。特定の人物に肩を入れないため、全体として乾いた感じの文章となっています。

淡々と描かれている本書ですが、比較的好意を持って書かれているように感じるのは大谷刑部吉継です。特に大谷刑部吉継の最期は感動的です。

主要な登場人物だけで五十人以上いるとはいっても、その中でも比較的登場回数が多く重要度の高い登場人物というのはいます。

徳川家康と石田三成はもちろんのことであるが、上杉景勝・直江兼続の上杉主従も重要度の高い登場人物として扱われています。

そのことは、始まりを上杉景勝の会津移封、終わりを上杉景勝の帰国にしている点からもよく分かります。

主要人物だけではなく、この関ヶ原にいたるまでの間に起きた様々なエピソードというのもふんだんに盛り込まれています。この時期を扱った小説を読んだことがある人には馴染みのエピソードが目白押しです。

逆に、この時期を扱った小説をあまり読んだことのない人は、本書で主要なエピソードはほぼ網羅されていますので、一度手に取ってみるのがいいと思います。

その上で、この時期を扱った小説を読めばすんなりと読んでいけるのではないかと思います。

さて、本書では伊達政宗などに「横着者」という言葉を使っています。怠け者とか、ずるい奴と一体見合いではなく、ずうずうしい奴という意味です。この場合の「横着者」には、一種の感嘆と賛美の意味合いが含まれています。

この伊達政宗に対して同じように評しているのが、海音寺潮五郎氏である。氏の「伊達政宗」でも度々そのように表現されています。

最後に。

目次が細かく設定されているので、色々な読み方ができるでしょう。一気に読むのも良いでしょうし、数章だけ読んでいくというのも良いです。

そして、読み終えたあとは、いっぱしの関ヶ原通になっているのは間違いなありません。

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内容/あらすじ/ネタバレ

蒲生秀行が会津を召し上げられて、宇都宮に移封されたのが慶長三年(一五九八)のことだった。蒲生家は父の氏郷が病死したあとごたごたが続いていた。会津から蒲生が追い出されたのは、徳川家康の背後を突くには、秀行が幼すぎたからだ。だが、この左遷劇には意外な邪魔が入った。

前田利家が動き、また秀吉の甥で関白の秀次が署印を拒否したのだ。移封は暗礁に乗り上げた。秀吉に助け船を出したのは家康だった。

問題は会津の後任に誰を持ってくるかである。家康は縁起でもない人物の顔が浮かんだ。越後の大名上杉景勝だ。家康と景勝は互いに足を引っ張りあう時期もあり、寡黙な青年は諸侯の間で人気が高かった。蒲生氏郷が死んでから、大老となり、いまは家康と並んでいる。

さらに家康にはろくでもない知らせがもたらされた。それは佐竹義宣が祝にと上杉に祝儀を贈ったのだ。徳川と佐竹は円滑を欠くことが少なくなかった。一方で、佐竹と上杉は先代から仲がよい。会津と常陸は隣国である。

家康は会津の向こうにいる伊達政宗と仲良くせねばならぬと思っていた。

上杉が会津へ移封することが決まると、歴史の歯車がひとつ回転したかのような印象を諸侯に与えた。移封には二人の能吏があたった。上杉家の直江兼続と、秀吉子飼いの石田三成だ。二人は桶狭間の合戦が行われたとしに生まれた。

太閤秀吉が病に倒れた。思えば、天下統一がなると、秀吉は猛将や策士を遠隔の地に追った。彼らの出番は終わったのだ。かわって近江出身の行政官が主役の座に着いた。官僚たちの時代がやってきたのだ。

武功を誇りとする闘将たちは、当然のように三成を毛嫌いした。それは加藤清正を中心とする尾張出身の男たちにはなはだしかった。

豊臣家の人気はさんざんだった。朝鮮への出兵により働き盛りを根こそぎ農漁村から持ち去っていたし、物不足による物価の高騰もはなはだしかった。一連の失政の結果、人心は自然に徳川に集まっていた。徳川は外征に批判的な良識派として写っていたのだ。

家康には突如として天下が向こうからやってくるような感じがした。太閤が倒れた。夢は正夢になりそうだった。

秀吉は何とかして家康を封じ込めたかった。その一環として大老と奉行制を導入したのだ。これにあたって、頭を痛めたのは浅野長政の処遇である。浅野長政は正室ねねの妹婿だ。有能な戦士であり行政官だった。それもすばらしく有能だった。だが、秀吉は好きになれなかった。

秀吉の最晩年の数年間はいかにねねと長政から権力を剥奪するかに費やされた。それほど長政が目障りだった。石田三成も浅野長政が嫌いだった。

秀吉は死を間近にして、前田一族に大きな権限を与えた。傅役、奏者、親衛隊長という三つの要職を独占させたのだ。

この後、生前の形見分けが行われた。加藤清正と黒田長政は太刀の選に洩れた、これ以上に不運だったのが黒田如水と吉川広家だった。広家はこれに猛烈に腹を立てた。この遺恨は豊臣家にとってひどく高いものについた。

太閤秀吉が死んだ。

八月下旬。高麗にとりのこされた将兵に撤退する命が下った。この時期、小西行長の行動というのに時代が象徴的に集約されているといっても過言ではなかった。その行長がもどってきた。

この小西行長と犬猿の仲だったのが、加藤清正である。豊臣家が内蔵していた亀裂や対立というのは清正と行長に余すことなく体現されているといえそうである。

上杉景勝が伏見に到着したのは秀吉の死からおよそ五十日経ってからである。同じ知らせが黒田如水のところに届いた時、如水はやれやれという表情をした。この如水と毛利の参謀・吉川広家とは親密な関係にあった。

秀吉が軍師の謀才を必要としたのは天下を取るまでだった。取ってしまえば邪魔でしかなかった。

徳川家康は石田三成が博多へ行っている間に活発に動いた。本多正信もそれに賛同する。本多正信は直江兼続に近い才の持ち主かもしれない。戦が上手いのかは家康にも分からなかった。そうした機会を決して与えなかったからだ。だが、三河一向一揆で自分に何度も地獄を覗かせた男が戦下手では辻褄が合わなかった。

まずは島津家である。次に細川忠興邸に幽斎を訪ねた。家康は幽斎の覇権の行き先をいち早く見抜くその目を尊敬していた。

慶長四年(一五九九)。伏見から大坂へ秀頼を移すことになった。秀頼が大坂に移れば諸侯は全員伏見を出て行ってしまう。江戸の大老の立場はおそろしく喜劇的なものになってしまう。だが、家康は秀吉の遺言により伏見を動けなかった。

こうした中でも、家康は動いた。禁を破り、諸侯との婚約を次々とまとめていったのだ。そうした中に福島正則の名前もあった。石田三成は正則を大いに尊敬していた。正則は家康を政権の内部に取り込むことによって、野望を封じ込め、それによって豊臣家の延命を謀ろうと考えたのかもしれない。

家康に対して問罪使が派遣された。やがて問題はこじれていくが、家康は勝ちをもぎ取った。

最後の仕上げは前田利家を跪かせることである。この為に奔走したのが細川忠興である。細川のことを思い出したのは本多正信だった。忠興は関白秀次が追われる時に金を借りたことで窮地に陥ったことがあった。これを助けてくれたのが徳川家康だった。その恩を忘れていなかった。忠興は交渉相手として利家の長男利長を選んだ。

前田利家が死んだ。石田三成は加藤清正らに狙われる状況にあり、すぐにどこかへ非難しなくてはならなかった。佐竹義宣は伏見の徳川家康のところへ逃げ込めというが、気が進まなかった。

家康も飛び込んできた石田三成をどうあつかっていいか困っていた。本多正信が石田を匿うように進言した。石田を殺してしまえば、諸侯の憎悪は霧散して、再び豊臣家の忠臣に戻ってしまうと。金の卵を産む鶏は生かしておくべきであるのだ。金は天下を意味していた。

閏三月。家康が伏見城を無血占拠した。石田三成は佐和山へ去り、表向き、舞台から姿を消していた。ついで狙ったのは、伏見、大坂から諸大名を一掃することである。高麗から引き上げて領国に帰っていない者も多いのが幸いした。諸侯はわれ先に帰国を開始した。

家康を暗殺する謀議が行われたという。前田利長や浅野長政、細川忠興ら五名だ。杜撰な計画だ。裏には石田三成がいるようだ。どうしても前田と戦わせたいらしい。家康は乗ることにした。

これに割を食ったのが浅野長政と細川忠興だ。だが、浅野長政は積極的に領国没収などの罰を申し出た。動機は切実だった。長政の目には征夷大将軍となった家康の姿がはっきりと映っていた。その世に浅野が生き残っているのか。生き残るために、浅野家は政争の圏外にいるべきとの判断を下したのだ。

家康は家康で前田をどうかするつもりはなかった。ただ決してそむかない保証が欲しかった。つまりは人質だ。欲しいのは前田家の守り本尊、おまつこと芳春院である。前田家を脅迫しつつ、家康は細川を締め上げていた。これによって細川と前田の付き合いは途絶えた。再開するのは九十九年後のことである。

慶長四年の初冬、大坂には徳川を掣肘するいかなる勢力もなかった。

帰国して三ヶ月。上杉主従は新領土の整備に余念がなかった。会津入封と同時に諸城の修築を急がせ、新規の召し抱えを積極的に行った。
徳川牽制のため、選ばれた大名の中で、無傷なのは上杉と毛利だけとなった。家康の時代はすぐそこまで来ていた。家康はそのために、上杉か毛利のどちらかを叩くか、自陣営に取り込んでしまえば良かった。

慶長五年(一六〇〇)。地獄の大釜の蓋が開いた年である。

上杉の戦支度の真の目的を家康ははかりかねた。まずは詰問するための特使を派遣した。これにたいして返事が来た。世にいう直江状だ。

家康は正直頭が痛かった。東征はあくまでも罠である。予定通り石田三成がたってくれればよい。だが、観望を決め込まれたら、徳川は否応なく上杉相手に不毛な合戦を始めなければならない。だが、家康は立上がらざるを得なかった。

およそ八十名の諸侯があつまった。だが、福島、細川、両加藤、黒田、池田、浅野の七将と伊達、最上、堀、京極、藤堂といった新徳川派を除けば小粒な大名が多かった。意外だったのは佐竹義宣の存在である。

伏見を出立するにあたり、家康は鳥居彦右衛門元忠を呼んで伏見の守将を頼んだ。だが、この役目は必ず死ぬことになる。そして、死んでもらわなければならなかった。

石田三成はすぐに動いた。その一つとして、東征に従っている大名の妻子を押さえることである。すぐにその情報は家康の元に届けられた。のちに、人質を巡る悲喜劇が起きる。

家康は家康で不安があった。功名心さかんな者が現れて、上杉と先端を開いてしまったら、家康の描いた構想はその瞬間に音を立てて崩れ落ちる。だから、家康は抜け駆けを禁じた。

鍋島勝茂は父・直茂の指示に従い、遅くに大坂を出発したため、石田三成に行く手を阻まれることとなった。直茂は天下の帰趨は家康にあると考えていた。この直感は、己が主家簒奪の大先輩であるところから導かれたものであった。

直茂はかつて太閤秀吉にこう評された。天下を取るには大気、勇気、知恵の三つがなければならない。だがこの三つを備えた男はいない。二つを兼ね備えたのなら三人いる。上杉の直江兼続は大気と勇気があるが、知恵はない。毛利の小早川隆景は大気と知恵はあるが、勇気に欠ける。竜造寺の鍋島直茂は勇気と知恵はあるが、大気はない。

黒田如水は思っていた。大乱になってくれなければ困る。簡単に三成に負けてもらっては困るのだ。最後は家康が勝つだろうが、三成にも健闘してもらいたかった。できうるなら、家康が容易に立ち上がれぬほどの深手を負わせてもらいたい。

如水は唖然とする老臣達を尻目に、近国を征服すると申し渡した。主力は長政と一緒に行っている。だから、如水は金を惜しまず夥しい数の浪人を急遽募った。

島津氏の迷走は三成が挙兵する三ヶ月ほど前から始まっていた。島津義弘は三成が挙兵して困ったことになったと思った。

総大将は毛利輝元に決まった。実戦の指揮権は宇喜多秀家が握ることになった。

秀家の動きは素早かった。細川幽斎の立て籠る丹後田辺城と鳥居元忠の籠る伏見城をすぐに攻め始めた。

家康は三成の挙兵を喜んだ。気を揉んでいるのは福島正則が「帰る」と言い出さないかである。正則がそういってしまえば、半分の客将は一緒に帰りかねなかった。

遠征軍は下野の小山についた。誰が言いだしたか、佐竹義宣が後方から襲いかかって来るという噂が仕切りだ。家康は危なくてこれ以上は前に進めなかった。家康は小山で完全に立ち往生した。

家康はあることを考えていた。そのためには黒田長政が必要だった。

そのころ、真田昌幸は姻戚関係にある大谷刑部が大坂方につけばそう簡単には負けないだろうと思っていた。

山内一豊は一体東西のいずれにつくのか思案ができていなかった。もうすぐに小山会議がはじまるというのにである。その一豊の前に堀尾忠氏の姿があった。一豊は忠氏と話をして、ある策を授けられた。

小山会議のあと、対上杉戦の大将として結城秀康を残して、西へと向かった。この知らせはすぐに上杉軍にも届いた。だが、上杉景勝は追撃することはなかった。

九鬼嘉隆を家康は嫌いだった。真田昌幸も嫌いだったが、九鬼嘉隆に対するものは遙かに大きかった。家康は大地の信奉者であった。だから、海を生活の糧とする九鬼嘉隆とは対極にあった。

この九鬼嘉隆に対して、家康は嘉隆の息子である守隆をあてることにした。

小山から反転した第一陣が清洲城に入ったのは八月十一日のことだった。だが、ここから家康はなかなか動こうとしなかった。福島正則らは腹を立てていた。一方、家康は江戸を動くわけにはいかなかった。今江戸を動けば無傷の上杉軍が動き出す。自分が上杉でもそうするはずだ。

清洲城には村越茂助を送って言上を述べさせることにした。

西の西軍は戦うたびに敗れたが、東の話は別だった。東国の東西対決は西軍の圧勝だった。

そうした中、家康は九月一日、本隊を率いて西征の途についた。

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本書について

岳宏一郎
群雲、関ヶ原へ
光文社文庫 計約一三三〇頁
安土・桃山時代末期

目次

足音
悪縁
佐竹冠者
かぶき者
春雁
饗宴
邂逅
秀吉と家康
落陽
政局動く
夢のあと
倭人伝のくに
鬼上官
冬の伏見

ふたたび、客
綱をひく
遷都
黒髪
賭け
白いカラス
結婚
轍鮒の急
信長との恋
奔流
幸福な死
逃げる
飛翔
乗っ取る
帰国
陥穽
太陽
辣腕
蹉跌
財吏の嘆き
風雲
嗅覚
脱走
雲のように
人間模様
仮面
北へ
運の矢
安国寺
幸せな一日
毛利来たる
前夜祭
不貞
悪戯
夢を食う

心変わり
旅人たち
帰郷
人なき森の如く
福島太夫殿御事
真田

反転
夏の湖
彦兵衛の城
嫡孫
九鬼

伊勢
美濃の二人

竹ヶ鼻
焦燥
東部戦線
西へ
斑猫
南船北馬
秘密
誤算
二つの流れ
曲がり角
おごそかな誓い
決断
関ヶ原
緒戦
博物誌
恩寵
足を舐める
待ち合わせ
背中
転落
明暗
ふたたび、足音

登場人物

徳川家康
本多正信
鳥井元忠
井伊直政
本多忠勝
榊原康政
池田輝政
結城秀康
徳川秀忠
村越茂助
上杉景勝
直江兼続
佐竹義宣
佐竹義重…佐竹義宣の父
伊達政宗
藤堂高虎
石田三成
島左近
大谷吉継
増田長盛
宇喜多秀家
小西行長
毛利輝元
安国寺恵瓊
北政所(ねね)
浅野長政
福島正則
加藤清正
京極高次
田中吉政
前田利家
前田利長
芳春院(おまつ)
黒田長政
黒田如水
吉川広家
島津義弘
鍋島直茂
鍋島勝茂
細川幽斎
細川忠興
真田昌幸
真田信幸
山内一豊
堀尾忠氏
伊藤彦兵衛
織田秀信
田丸直昌
九鬼嘉隆
九鬼守隆
氏家行広
豊臣秀吉

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