直江兼続とは?「愛」の兜の前立を持つ上杉家の智将

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直江兼続の兜は珍しい前立て

直江兼続は兜の前立には「愛」の文字が飾られました。

珍しい前立てです。

ですが、この「愛」の意味は、現代的な、相手を慈しむといった意味や、相手のためを思って願うなどといったものではありません。

もちろん、異性に対する思慕の情でもありません。

現代的な意味合いで「愛」の前立をとらえると、とんちんかんなことになりますので注意が必要です。

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「愛」は比較的新しい概念

現代的な「愛」は比較的新しい概念のようです。輸入された概念といわれているようです。

現代的な意味合いでの愛は「仁」という言葉に託されていたようです。

直江兼続が生きていた時代の「愛」は仏教用語として見ることができます。

それは渇愛という言葉に代表されるように、本能的な欲望で貧り執着する根本的な煩悩を指し、決していい言葉とは言えません。

とはいえ、こうした「愛」だけでなく、「和顔愛語」のような汚れのない「愛」という概念もあります。

ですが、こうした場合には「慈悲」と呼ばれていたようです。

この時代の武将としては文の面でも優れていたといわれる直江兼続ですから、こうしたことは分かっていたのだと思われます

「愛」の由来と意味は?

それでも、「愛」の文字を飾っていたわけはなんでしょうか?

愛宕権現説

この時代、武将たちの信仰を集めていたのが、毘沙門天と、勝軍地蔵ともいわれていた「愛宕権現」です。

「愛」はこの「愛宕権現」の最初の文字からとったとも言われています。

よく知られるように、上杉家には有名な旗印「毘」があります。

仏法守護の武神を祀ったもののため武士に信仰された毘沙門天の「毘」からとられています。

これに愛宕権現の「愛」をあわせれば「二重に武神のご加護があるぞ!!」と士気を高めることができるのではないでしょうか。

そうした効果を狙っているように思いますし、策士でもあった直江兼続らしい気がします。

また、上杉家の家中にも、毘沙門天よりも愛宕権現を信仰していた者がいたのかもしれません。

そうした武士達のためにも、毘沙門天の他にも愛宕権現の加護があると鼓舞することで士気をあげようとしたのではないでしょうか。

そもそも、冷静に考えれば、戦場において現代的な「愛」をかざしてどうしたいというのでしょうか?

キリスト教ではありませんが「汝自らを愛するが如く、汝の隣人を愛せ」という考えを戦場で言っていたら、部下からすぐにそっぽを向かれてしまうでしょう。

武将としても優秀だった直江兼続が、現代的な「愛」を戦場に持ち込んでいたとは考えない方がいいと思いますが如何でしょう?

愛染明王説

兜の前立「愛」は「愛宕権現」から採られたという説の他に、「愛染明王(あいぜんみょうおう」から採られたとする説もあるようです。

愛染明王は「煩悩と愛欲は人間の本能でありこれを断ずることは出来ない、むしろこの本能そのものを向上心に変換して仏道を歩ませる」とする功徳を持っている。
愛染明王は一面六臂で他の明王と同じく忿怒相であり、頭にはどのような苦難にも挫折しない強さを象徴する獅子の冠をかぶり、叡知を収めた宝瓶の上に咲いた蓮の華の上に結跏趺坐で座るという、大変特徴ある姿をしている。

wikipedia

………。

武人が信仰する明王ではないように思います。

「愛欲」つまりは色欲を肯定し、水商売や遊女達の信仰を集めたというのですから、武士としては信仰を避けたのではないかと思います。

この「愛染明王」説は「愛」という字が含まれているのと、明王さまだけに忿怒相をしていていかにも強くて恐そうという二点からきているような気がしてなりません。

文にも優れたとされる直江兼続がこうしたことを知らずに前立に「愛」の文字を使うとは思われませんが?

ちなみに愛染明王以外の「明王」の代表としては不動明王、降三世明王、軍荼利明王、大威徳明王、金剛夜叉明王、大元帥明王、孔雀明王、烏枢沙摩明王、馬頭明王などがいます。

この中で武人達の信仰にも関わりが強そうなのは「金剛夜叉明王」と「大元帥明王」です。

「金剛夜叉明王」は日本で古くから敵を打ち破る「戦勝祈願の仏」として信仰され、「大元帥明王」は国土を護り敵や悪霊の降伏に絶大な功徳を発揮すると言われたそうです。

直江兼続略年表

年齢は数え年
永禄三年(一五六〇)一歳。

  • 越後国坂戸城(新潟県南魚沼市六日町)の城下に坂戸城主長尾政景の家臣樋口惣右衛門兼豊の嫡男として生まれます。母は、信濃の武将泉弥七郎重蔵の娘といわれます。幼名は樋口与六(以下「直江兼続」)。
  • 桶狭間で織田信長が今川義元を破る。
  • 石田三成生まれる。
  • 〔外国〕イギリス:エリザベス女王の治世(1558-1603)

永禄四年(一五六一)二歳。

  • 長尾景虎が鶴岡八幡宮で関東管領山内上杉家を相続し上杉政虎と改名。同年、十三代将軍足利義輝の一字を賜り、輝虎と改名。
  • 第四回川中島の戦い。
  • 〔外国〕マドリッドがスペインの首都に定まる(フェリペ2世)

永禄五年(一五六二)三歳。

  • 兼続の弟・樋口与七(のちの大国実頼)誕生。
  • 〔外国〕フランス:ユグノー戦争(~一五九八)

永禄六年(一五六三)四歳。

  • 〔外国〕北方七年戦争始まる(スウェーデンvsデンマーク)

永禄七年(一五六四)五歳。

  • 長尾喜平次顕景(後の上杉景勝、以下「上杉景勝」)が上杉謙信の養子となる。
  • 坂戸城主長尾政景と琵琶島城主宇佐美定満が野尻池で舟遊び中に溺死。
  • 第五回川中島合戦

永禄八年(一五六五)六歳。

  • 足利義輝、三次三人衆に殺害される

永禄九年(一五六六)七歳。

  • 毛利元就、尼子氏を滅ぼす

永禄十年(一五六七)八歳。

  • 織田信長、美濃攻略

永禄十一年(一五六八)九歳。

  • 直江兼続が上杉景勝の近習となる。
  • 足利義昭が室町幕府第十五代将軍となる。
  • 〔外国〕オランダ独立戦争始まる

永禄十二年(一五六九)十歳。

  • 〔外国〕リトアニアがポーランドに併合される

元亀元年(一五七〇)十一歳。

  • 上杉輝虎が、北条氏康の七男・氏秀を養子として迎える。氏秀は「景虎」と改名。長尾政景の娘を景虎の室とし、春日山城二の郭に置く。
  • 上杉輝虎が法号を「謙信」と改める。
  • 金ヶ崎の戦い、姉ヶ崎の戦い

元亀二年(一五七一)十二歳。

  • 〔外国〕レパントの海戦
  • 〔外国〕スペイン、マニラ建設

元亀三年(一五七二)十三歳。

  • 三方が原の戦い

天正元年(一五七三)十四歳。

  • 織田信長が足利義昭を追放し、室町幕府滅亡。

天正二年(一五七四)十五歳。
天正三年(一五七五)十六歳。

  • 上杉謙信、養子の喜平次顕景に加冠し景勝と改名させ、上杉弾正少弼を称させる。
  • 長篠の戦い。織田・徳川連合軍が武田勝頼を破る。

天正四年(一五七六)十七歳。

  • 織田信長内大臣となる。翌年右大臣。

天正五年(一五七七)十八歳。

  • 直江景綱、与板城で没する。享年七十歳。

天正六年(一五七八)十九歳。

  • 上杉謙信没。享年四十九歳。上杉家の家督をめぐって景勝と景虎との間で御館(おたて)の乱がおこる。
  • 上杉景勝が武田勝頼の妹・菊姫と婚約。

天正七年(一五七九)二十歳。

  • 上杉景虎が鮫ヶ尾城で自刃。享年二十六歳。
  • 上杉景勝が武田勝頼の妹・菊姫と結婚。

天正八年(一五八〇)二十一歳。

  • 上杉景勝は御館の乱の論功行賞として直江兼続に河海免除の船一艘を与える。
  • 直江兼続が佐藤庄左衛門と皆川式部丞に御館の乱の論功行賞として知行状を交付(兼続署名の初見)。
  • 〔外国〕スペインがポルトガルを併合(~一六四〇)

天正九年(一五八一)二十二歳。

  • 新発田城主新発田重家、織田信長に通じ景勝に背く。
  • 直江信綱と山崎秀仙が毛利秀広に殺害される。直江家の断絶を惜しんだ上杉景勝の命で直江景綱の娘で直江信綱の妻であったお船(せん)の方(二十五歳)の婿として結婚し、直江家を継ぎ、越後与板城主となります。
  • 〔外国〕オランダ独立宣言

天正十年(一五八二)二十三歳。

  • 織田信長の侵攻により上杉家は危機に瀕す。
  • 本能寺の変により、織田軍勢の上杉攻めは中止となる。
  • 直江兼続の弟・樋口与七が天神山城主小国三河守重頼の家を相続する。
  • 〔外国〕グレゴリウス暦制定

天正十一年(一五八三)二十四歳。

  • 直江兼続は山城守を称する。
  • 羽柴秀吉が賤ヶ岳において柴田勝家を破る。

天正十二年(一五八四)二十五歳。

  • 狩野秀治が病に倒れ、直江兼続が内政・外交の取次のほとんどを担う。狩野秀治の死後、兼続は単独執政を行なう。
  • 小牧・長久手の戦い。

天正十三年(一五八五)二十六歳。

  • 羽柴秀吉関白となる。
  • 長宗我部元親、四国統一、秀吉の征伐

天正十四年(一五八六)二十七歳。

  • 羽柴秀吉太政大臣となり豊臣の姓を賜る。
  • 直江兼続は、主君の上杉景勝と共に初めて上洛し、豊臣秀吉と会見。上杉景勝が従四位下左近衛権少将に昇叙転任し、直江兼続も従五位下に叙せられる。
  • 上杉景勝、新発田重家征伐のため出陣。豊臣秀吉が景勝と重家の調停をさせるが、不調に終わる。
  • 島津義久、九州統一

天正十五年(一五八七)二十八歳。

  • 新発田重家討伐で武功を挙げる。
  • 豊臣秀吉が九州を平定。聚楽第築造。

天正十六年(一五八八)二十九歳。

  • 直江兼続は豊臣秀吉から豊臣の姓を授けられる。兼続は従五位下山城守に叙任される。
  • 直江兼続の父・樋口兼豊が伊予守に任ぜられる。
  • 豊臣秀吉が刀狩令を発布。
  • 〔外国〕スペイン:無敵艦隊が敗れる。

天正十七年(一五八九)三十歳。

  • 佐渡征伐。
  • 〔外国〕フランス:ヴァロワ朝断絶し、ブルボン朝となる

天正十八年(一五九〇)三十一歳。

  • 小田原征伐。前田利家らの軍勢と共に上野国松井田城、武蔵国鉢形城、武蔵国八王子城を攻略。
  • 庄内藤島一揆起こる。

天正十九年(一五九一)三十二歳。
文禄元年(一五九二)三十三歳。

  • 文禄の役
  • 上杉家の朝鮮出兵。主君の上杉景勝と共に参陣。直江兼続が豊臣秀吉の乗船小鷹丸に乗り、上杉景勝に従って渡韓。釜山浦に着岸し、熊川城(慶尚南道鎮海市熊川洞南山にある倭城)を修築。

文禄二年(一五九三)三十四歳。

  • 上杉景勝、直江兼続の主従が名護屋に帰陣。
  • 本庄繁長の子・主馬長房が兼続の養子となり与次郎と改名。だが、のちには理由あって生家に帰る。

文禄三年(一五九四)三十五歳。

  • 直江兼続、上杉景勝に従って上洛し、豊臣秀吉の命により伏見城総構堀普請に従事。
  • 上杉景勝が従三位権中納言になる。
  • 直江兼続に嫡男・平八景明誕生、幼名竹松。

文禄四年(一五九五)三十六歳。

  • 上杉景勝が五大老となる。

慶長元年(一五九六)三十七歳。
慶長二年(一五九七)三十八歳。

  • 慶長の役

慶長三年(一五九八)三十九歳。

  • 上杉景勝が越後から会津百二十万石に加増移封。直江兼続には出羽米沢に寄騎を含めると三十万石を与えられる。
  • 豊臣秀吉没。
  • 〔外国〕ナントの勅令。

慶長四年(一五九九)四十歳。
慶長五年(一六〇〇)四十一歳。

  • 兼続が徳川家康に「直江状」を送りつける。会津征伐。
  • 関ヶ原の戦い。出羽国羽前の最上義光を攻めるが、西軍の敗戦により米沢城に退却。
  • 〔外国〕イギリス:東インド会社設立。

慶長六年(一六〇一)四十二歳。

  • 上杉景勝とともに上洛して徳川家康に謝罪する。上杉家は出羽米沢三十万石へ減移封。

慶長七年(一六〇二)四十三歳。

  • 直江兼続の父・樋口兼豊死去。
  • 直江兼続、景勝の名代として江戸登城。

慶長八年(一六〇三)四十四歳。

  • 徳川家康が征夷大将軍となり江戸幕府を開く。
  • 〔外国〕イギリス:エリザベス女王死去によりチューダー朝断絶し、スチュアート朝になる

慶長九年(一六〇四)四十五歳。

  • 上杉景勝の妻菊姫、京都で死去。
  • 直江兼続が本多正信の二男左兵衛政重を養子とし娘の婿とする。

慶長十年(一六〇五)四十六歳。

  • 直江兼続の長女於松、次女病死。
  • 徳川秀忠が二代将軍となる。

慶長十一年(一六〇六)四十七歳。

  • 徳川秀忠から上杉景勝に桜田邸右向かいの鱗屋敷を賜い、直江兼続が住居する。

慶長十二年(一六〇七)四十八歳。

  • 〔外国〕イギリス、ヴァージニア植民地建設

慶長十三(一六〇八)四十九歳。

  • 直江兼続、重光と改名(ここでは以下も直江兼続)。米沢城下に堤防を築いて町を整備し、殖産興業・鉱山の開発を推進。米沢藩の藩政の基礎を築いた。
  • 〔外国〕フランス、ケベック植民地建設

慶長十四(一六〇九)五十歳。

  • 幕府、上杉藩に十万石の役銭を免除。
  • 直江大和守勝吉、安房守と改名。直江兼続、弟・大国実頼の娘を養女に迎えて勝吉に嫁がせる。
  • 直江兼続の嫡男・景明が本多正信の媒酌で近江膳所城主戸田氏鉄の娘と結婚。

慶長十五(一六一〇)五十一歳。

  • 徳川家康が信濃松代城主松平忠輝を福島城主に任命。

慶長十六(一六一一)五十二歳。

  • 直江兼続の養嗣子、直江安房守勝吉が上杉家を去り本田正信のもとへ帰る。のちに前田利光に仕え、本多安房守政重と称する。

慶長十七(一六一二)五十三歳。
慶長十八(一六一三)五十四歳。

  • 〔外国〕ロシアロマノフ朝成立

慶長十九年(一六一四)五十五歳。

  • 大坂冬の陣において上杉家は徳川方として参戦。直江兼続も従軍。
  • 上杉軍は鴫野口の合戦で後藤基次(後藤又兵衛)軍に勝利。
  • 〔外国〕オランダ、ニューネーデルランド植民地建設

元和元年(一六一五)五十六歳。

  • 大坂夏の陣において上杉景勝、直江兼続は徳川方として参戦。
  • 直江兼続の嫡男・平八景明死去。

元和二年(一六一六)五十七歳。

  • 徳川家康死去。享年七十五歳。
  • 〔外国〕中国:後金の建国。

元和三年(一六一七)五十八歳。
元和四年(一六一八)五十九歳。

  • 〔外国〕三十年戦争勃発(~一六四八)。

元和五年(一六一九)六十歳。

  • 直江兼続病死。

直江兼続を描いている本

火坂雅志「天地人」

火坂雅志の「天地人」を読んだ感想とあらすじ
題名の「天地人」だが、見出しの後に書かれている「北越軍談付録 謙信公語類」から取ったようだ。輝虎(謙信)公の曰く。天の時、地の利に叶い、人の和ともに整いたる大将というは、和漢両朝上古にだも聞こえず。

藤沢周平「密謀」

藤沢周平「密謀」の感想とあらすじは?
上杉家中で随一の知将である直江兼続を主人公とした小説。直江兼続は秀吉にその能力を認められ、秀吉から見れば陪臣にもかかわらず、所領を与えられる。後の米沢藩の所領である。

童門冬二の「小説 直江兼続 北の王国」

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覚書/感想/コメント 上杉景勝を支えた直江兼続を描いた小説。 直江兼続の幼少期のことはよく分かっていない。なので、本書もそこは書かれていない。よく分かっていないが、景勝には幼い頃から側にいたようである。推挙したのは上杉謙信の姉・仙洞院だとい...

永岡慶之助「上杉謙信と直江兼続」

永岡慶之助の「上杉謙信と直江兼続」を読んだ感想とあらすじ
前半三分の一が上杉謙信で、後半三分の二が直江兼続である。そもそも「上杉謙信」としかつけなかった題名に相当問題がある。本書の題名の方が相応しいのはいうまでもない。

風野真知雄「われ、謙信なりせば 上杉景勝と直江兼続」

風野真知雄の「われ、謙信なりせば 上杉景勝と直江兼続」を読んだ感想とあらすじ
表題では上杉景勝と直江兼続を描いた作品のように思えるが、メインは直江兼続。直江兼続は幼名を樋口与六といった。十になった時、謙信の姉で景勝の母・仙洞院が近習として召し抱えた。以後、かわることなく景勝を支えてきた。

鈴木由紀子の「花に背いて 直江兼続とその妻」

直江兼続をめぐる人物関係

-直江兼続
-お船の方…兼続の妻
-お松…兼続の娘、本多政重と婚姻
-上杉景勝
-菊姫…上杉景勝の正室、武田勝頼の妹
(上杉家)
-直江景綱
-樋口華豊…実父
-上杉謙信
-長尾政景…坂戸城主
-仙桃院…謙信の妹
-上杉憲政…関東管領
-上杉三郎景虎…北条氏康の七男
-華姫…景勝の妹
(北条家)
-北条氏綱
-北条氏康
-北条氏政
(武田家)
-武田勝頼
-高坂弾正
(真田家)
-真田昌幸
-真田幸村
-初音…真田昌幸の娘
(豊臣家関連)
-豊臣秀吉
-石田三成
-前田利家
-前田慶次郎
-千利休
-お涼…千利休の娘
-南化玄興…妙心寺長老
立花宗茂
(徳川家)
-徳川家康
-本多正信
-本多政重…本多正信の息子
-伊達政宗

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