鈴木由紀子の「花に背いて 直江兼続とその妻」を読んだ感想とあらすじ

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覚書/感想/コメント

小説としてはたいして面白くないが、直江兼続とお船の業績を知るのには手頃な本だろう。特に晩年のお船まで描いているのは他にないのではないだろうか。

小説としての面白みが欠けるのは、遊びの部分が少ないからである。直江兼続かお船を中心とした上杉家の視点から歴史上の出来事を眺めているだけで、変化がないのが一つの原因だろう。

上杉家とは異なる視点を交えたり、架空の人物を登場させて狂言まわしのように登場させることなどで視点の変化をつければ、ズイブン変わったのではないかと思う。もちろん、そうすることで枚数が増えたではあろうが…。

結果として、小説というよりは解説書に近い感じの仕上がりになっている。もちろん解説書ではないのだが、ひどく無愛想な歴史小説なので、そうした印象を持つ。

直江兼続といえば、独特の前立に目がいきがちである。「愛」の一字を前立にしているからだ。

この「愛」にはいくつかの説がある。愛宕大権現説、愛染明王説、愛民説である。

鈴木由紀子氏は愛染明王説を採っている。

さて、本書では多くの豆知識が披露されているが、その中でも気になったものをいくつか。

越後は日本海海運と琵琶湖水運を通じて、経済的にも文化的にも京都の交流が盛んだった。今となっては信じられないが、当時の海運の中心は太平洋ではなく日本海だった。

忘れがちなことであるが、戦国期の大名で強かったといわれる大名の全てが経済力もあったという事実を見逃してはならない。

その中でも、群を抜いた経済力をもっていた大名の一つが上杉謙信だった。この経済力の強さが、上杉謙信を幾度も戦陣に送り込むことが出来た理由である。

毘沙門天に帰依していた謙信には派手はイメージというのは似合わないが、この謙信がマントのような外套をつくって、戦陣にも羽織っていった。陣羽織の原型とされるものだ。

織田信長だったらすぐに納得するが、謙信が最初というのは意外な感じがしないでもない。

南化和尚から直江兼続に贈られたものとして、宋版の「史記」「漢書」「後漢書」がある。現在は国立歴史民俗博物館所蔵となっている国宝である。

上杉家は謙信の時代から読み書きに熱心であり、上杉謙信も養子の上杉景勝も相当な知識人であった。

直江兼続の関連小説

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内容/あらすじ/ネタバレ

お船(おせん)と侍女のなおが見知らぬ二人の少年に出会ったのは春日山城であった。

一人は十五歳くらいの恐ろしく無愛想な小男である。もう一方は人なつっこい美少年である。

無愛想な少年は謙信の甥・喜平次(のちの上杉景勝)であり、もう一人の美少年は樋口与六(のちの直江兼続)と名乗った。二人は上田庄から来たばかりである。与六は十歳であった。

お船は直江大和守景綱の娘である。直江景綱は謙信の家督相続を実現させた股肱の重臣である。越後三島郡の与板城を領しており、内政から外交、軍事の全てにわたり辣腕をふるっている。

年齢の近い三人はたちまち意気投合した。

お船と喜平次と与六の三人は毘沙門堂の前で待ち合わせをしていた。この毘沙門堂で武禘式とよばれる謙信の出陣の儀式が行われる。

永禄十二年(一五六九)、武田信玄の駿河進攻を契機にして、上杉家と北条家との同盟が結ばれた。

翌元亀元年に謙信は北条氏康の七男氏秀を養子に迎えて、景虎と名乗らせ、姪の千代姫とめあわせた。景虎は景勝の一つ年上である。

景虎夫婦の間には翌年にははやくも男児・道満丸が生まれている。仙桃院は娘夫婦の屋敷に入りびたった。

このころ、お船の婿が決まった。総社長尾氏の長尾顕景の次男・景孝である。結婚して名を信綱とあらためた。

天正六年(一五七八)。上杉謙信が倒れた。関東への出陣直前のことだった。

謙信が倒れたことを知っているのは近臣だけであり、景勝に心を寄せる重臣ばかりだという。

お船は血筋の上からも景勝が家督を相続するのが当然だと思っている。だが、古志長尾氏は、上田長尾氏の景勝が家督を継ぐのに難色を示しており、油断がならない。

景虎側にさとられぬように先手を打たねばならない。お船と母は何喰わぬ顔を装って本丸に急いだ。

謙信の枕元にかけつけると、すでに昏睡状態である。この席でお船は十年ぶりに樋口与六の姿を見た。十年の間に与六は生意気な美少年から凛々しい青年武将になっていた。

お船の母は謙信の耳元で声高に問うた。家督は景勝におゆずりですね。

謙信は意識を回復することなく、四十九年の生涯を閉じた。

与六は謙信の逝去を秘して、出陣の中止命令を出し、ただちに実城を占拠しようという。茫然自失の重臣たちは我に立ち返った。

謙信の逝去により均衡のとれていた越後に全土を巻き込む騒乱の危機が迫っていた。

実城は春日山城においても難攻不落の堅城であるばかりでなく、莫大な金銀財宝や食糧・武器などがおさめられており、ここを占拠した景勝側が有利であった。だが、景虎側もひかず、両者のにらみ合いが続いた。

景虎側は小田原の北条氏政や甲斐の武田勝頼に救援を依頼していた。

この後、景虎側は前関東管領の上杉憲政の館に逃げ込んだ。これによって謙信の正当な後継者であることを印象づけ、これに同調する動きが出始めた。景勝側にとっては大きな打撃となる。

甲斐の武田勝頼が軍を動かしてきた。お船は外交戦略で対処するように与六に進言した。そして目論み通りにこの外交交渉は成功した。

一方で遅れて出陣してきた北条氏政の軍は晩秋の越後の寒さに震え、早々と退却してしまう。

こうした状況を受け、景虎は景勝に降伏しようと決意をした。この時に交渉の使者となった上杉憲政と景虎の息子・道満丸が殺された。景勝の指示である。そして景虎も自害して「御館の乱」はひとまずの決着を見る。

甲斐の武田勝頼の妹・菊姫が景勝に嫁いできた。

お船は菊姫が嫁いできてから毎日のように訪れていた。お船には妹のように思えて、なにかと世話を焼きたくなる。

景虎が自刃しても、越後の内紛が収まったわけではなかった。背景には古志長尾氏と上田長尾氏の長年にわたる勢力争いがある。お船の夫・信綱も景勝側につき奮闘していた。

越後の平定がなされたのは天正八年(一五八〇)のことであった。この頃には加賀、能登に勢力を伸ばしている織田信長の動きから目が離せなくなっている。

樋口与六の景勝の側近としての地位は揺るぎのないものになっている。だが、こうした上田衆の伸張に不満を抱くものがいる。こうした状況の中発生した事件に巻き込まれて、お船の夫・信綱が命を落した。

その四十九日が過ぎた頃、景勝はお船に、直江家を断絶させることは忍びないので、樋口与六を養子として直江を相続させるといった。

天正十年(一五八二)、お船は与六改め兼続とはじめての正月を迎えた。

屠蘇気分が吹っ飛んだのは、次々と武田勝頼に襲いかかる衰運である。いったん落ち目になると、もはやとどめようがない。そして天正十年三月一日、甲斐源氏の名門・武田家が滅んだ。

武田を滅ぼした織田信長の越後進攻が開始された。この頃、越中の魚津城は柴田勝家らに囲まれ落城寸前だった。それを助けるために景勝は軍を発した。

その間隙を縫って、滝川一益と森長可が侵入してきた。景勝は魚津城を見捨てるより他なかった。天正十年六月三日のことだった。

ところが、前日の六月二日に織田信長は明智光秀によって本能寺で弑されていたのだった。

信長の後継をめぐり、秀吉から景勝に提携の申し入れが来た。だが、今は信濃の仕置と新発田の叛乱を片づける方が先であり、秀吉に援軍を送ることはなかった。上杉にとっての急務は領国の統一である。

だが、秀吉が柴田勝家を破ったとの知らせを受けた直江兼続は、さすがに顔を青くした。

天正十三年(一五八五)。大坂からしきりに景勝の上洛をうながす使者が来る。そしてついに天正十四年、景勝は四千人余りの兵を従えて京に向かった。

この一行を倶利伽羅峠を越えた加賀国で石田三成と前田利家が迎えた。景勝と兼続が二人にあったのは初めてであった。

秀吉政権の傘下にはいることで、上杉氏の地位が保証された。そして天正十五年には秀吉公認ももとに新発田重家らを討伐し、懸案だった領国の統一を果たす。

景勝は再び京へ行くことになった。同行する兼続にお船は、京の文化を堪能されよといった。この頃の兼続は執政としての地位を不動のものとしている。

三ヶ月ほどの京の滞在の間、兼続は学僧や文人とも広く交流を深めた。南化和尚からは貴重な書籍を譲り受け、西咲承兌和尚の知遇も得た。

そして、連歌の席で前田慶次郎と出会った。

三ヶ月ぶりに戻ってきた兼続を見てお船は目を瞠った。

兼続が戻ってから程なくしてお船は女の子を出産した。松と名付けられた。

天正十七年。出羽荘内三郡を得ていた景勝は、兼続の指揮の下に佐渡を平定し、ほぼ九十万石を領有する大名となっている。

翌十八年には小田原北条氏征伐に参戦する。この時に、二人目の女の子が生まれた。名を梅とした。

文禄元年(一五九二)。秀吉は朝鮮へ出兵した。この時に上杉家も海を渡っている。

兼続は将士たちに掠奪を禁じ、戦火で焼失しかねない貴重な書籍を収集させた。同時に銅製活字を持ち帰り、後に我が国最初の活字印刷による出版を行った。

兼続不在の間にお船は嫡男・竹松を生んだ。

菊姫が伏見に行くことになり、これにお船も同行することにした。秀吉はこの頃には相当衰えていると洩れ聞こえてきている。

お船は北政所と前田利家室・まつの知遇を得た。

この滞在の中で、直江家の屋敷を訪ねてくるようになったのが前田慶次郎である。そしてその慶次郎が連れてきたのが結城秀康であった。結城秀康は徳川家康の次男である。

お船は二人が来ても客扱いをせずに、勝手に放っておいた。それが結城秀康などにはたまらなく気持ちが良いらしい。

慶長三年(一五九八)。上杉景勝は突然、会津に国替えを命じられた。石高は九〇万石から一二〇万石に増えるから喜ぶべき栄誉だが、父祖伝来の地を離れることの衝撃は大きかった。秀吉の狙いは、力のある大名の戦力を削ぐことにある。

国替えになっても、お船たちは伏見にとどめおかれた。こうした中、前田慶次郎が上杉家に仕官した。

慶長三年八月十八日。豊臣秀吉が死去した。

この後、徳川家康の独断専横ぶりが目立つようになる。これを苦々しく思っていた景勝は会津に戻ることにした。

会津に戻って、道路の修理、城の普請などを矢継ぎ早に行い、浪人も多く召し抱えた。

前田利長を屈服させた徳川家康の矛先が上杉景勝に向かった。この時の家康の問責使に対しての返事が有名な「直江状」である。

伏見にいるお船の所に結城秀康が飛び込んできて、いよいよ会津討伐が行われるという。

お船は会津に向かうことにし、菊姫は安全な所で匿って貰うことにした。

会津攻めに対して、上杉家は準備を怠らない。関東の表玄関である白河口に兵を集中し、背後を狙う伊達政宗と最上義光の動向にも目を光らせなけらばならなかった。

だが、この上杉軍と徳川家康が刃を交えることはなかった。石田三成が西で兵を挙げたと聞くやいなや、家康が軍を西に転じたからである。これを上杉軍は追撃しなかった。

家康の軍を追わずに、上杉軍は背後の伊達政宗と最上義光を相手にすることにした。兼続は最上攻めの全権を任された。

兼続はわずか数日で長谷堂城をのぞく西方の城を落した。この長谷堂城を攻撃した九月十五日、遠く関ヶ原で東西両軍の激闘が展開され、わずか一日で東軍の大勝利となった。一方、上杉軍は山形まで後一歩の所まで来ていた。

関ヶ原の知らせはお船を茫然とさせた。

急ぎ最上領からの撤退が命ぜられた。追撃をかわしながら、二万の軍を退かせるのは至難の業である。だが、兼続はみずから殿軍の指揮をとり、全軍を米沢城に帰還させた。見事な撤退作戦だった。

いったん和睦と決まってからの兼続の行動ははやく、家康の側近である本多正信や本多忠勝、榊原康政らを頼った。

慶長六年(一六〇一)。上杉景勝は家康に謝罪し、上杉家は石高を四分の一の米沢三十万石に減封された。

家臣団の移住は困難を極めた。石高は四分の一になったものの、人こそ国の宝と考える兼続は召し離しを行わなかった。そして少ない石高を補うため、兼続は農業指導を行った。

上杉家を守るため、側室をもたなかった景勝に側室をもたせた。そして側室が懐妊した。景勝との間に子のない菊姫の心痛を思うとお船はやりきれなかった。果たして菊姫は痩せ衰え、変わり果ててしまった。そして亡くなった。

慶長九年。上杉家の跡継ぎが生まれた。玉丸と名付けられた赤子の母は産後の肥立ちが悪く、帰らぬ人となる。お船の腕には母の死を知らない玉丸の姿があった。

この年、長女・お松が本多正信の次男・政重と婚礼を挙げることとなった。

玉丸にしたがって江戸に出たお船は前田家の芳春院に久々にあった。

大坂城攻めなどを経て、元和五年(一六一九)十二月十九日、直江兼続は六十歳の生涯を閉じた。

お船は髪を下ろして貞心尼と称した。お船にはまだ成すべき事がある。それは上杉家の世嗣・千徳が元服して奥方を迎えて若君の誕生を見届けることである。

千徳は元服して定勝と名乗った。この元服の後、景勝が六十九年の生涯を閉じる。

定勝は鍋島勝茂の娘・市姫との縁組を命じられた。お船はようやく肩の荷を下ろした気になった。母を知らぬ定勝にとって、お船は肉親に優る存在であり、これに三千石の破格の高禄を与えた。

お船は定勝に嫡子徳松が誕生したのを見届け、寛永十四年(一六三七)、八十一年の生涯を閉じた。

本書について

鈴木由紀子
花に背いて 直江兼続とその妻
幻冬舎文庫 約四八〇頁

目次

山城の春
御館の乱
信玄の娘
二度目の婿
存亡の危機
裏切り
転機
奥羽の覇者
伏見屋敷
かぶきもの
選択
東北の関ヶ原
米沢三十万石
母のない子
深謀なる縁組
愛しきもの

登場人物

直江兼続(樋口与六)
お船
直江信綱
なお…お船の侍女
片桐右衛門
弥助
高梨外記
お喜代…老女
美弥
上杉景勝
菊姫…景勝の正室、武田勝頼の妹
安田信清…菊姫の異母弟
西村久左衛門…近江商人
仙桃院…景勝の母
上杉謙信
上条政繁
上杉景虎
千代姫…謙信の姪
上杉憲政
豊臣秀吉
石田三成
前田利家
芳春院(まつ)…利家の妻
高台院(北政所)
淀殿
南化和尚
西咲承兌和尚
前田慶次郎
結城秀康…徳川家康の次男
徳川家康
本多正信
本多政重…本多正信の次男

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