風野真知雄の「われ、謙信なりせば 上杉景勝と直江兼続」を読んだ感想とあらすじ

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覚書/感想/コメント

表題では上杉景勝と直江兼続を描いた作品のように思えるが、メインは直江兼続。

直江兼続は幼名を樋口与六といった。父・樋口惣右衛門は台所まわりの仕事をかまされていおり、その嫡男だった与六は幼い頃から聡明で、十になった時、謙信の姉で景勝の母・仙洞院が近習として召し抱えた。以後、かわることなく景勝を支えてきた。

直江兼続は独特の兜をかぶっていた。兜の前立には「愛」の文字。

これは一つには上杉謙信が、大将の心根は、人を愛すること善を施すことといったことにちなんでいる。もう一つは勝軍地蔵ともいわれて武士の信仰を集めた愛宕権現の最初の文字からという。

上杉家にはあまりにも有名な旗印「毘」がある。仏法守護の武神を祀ったもののため武士に信仰された毘沙門天の「毘」からとられている。

武人としては同じく武士の信仰を集めた愛宕権現にちなんだものとして兜の前立を「愛」にしたと考える方が辻褄が合うように思われる。

上杉家の武士達の中にも、毘沙門天よりも愛宕権現を信仰していた者がいたのかもしれない。そうした武士達のためにも、毘沙門天の他にも愛宕権現の加護があると鼓舞することで士気をあげようとしたのではないか。

人を愛する善を施すというのは戦の場に置いては似合わない。のちに上杉家が米沢三十万石に減封されたあと、執政・直江兼続の見事な治世からなされた後付の解釈だろう。

一つのクライマックスが「直江状」に端を発する上杉征伐。

この時の家康の軍は強くはないと書いている。最後に戦ったのが小牧・長久手の戦いだ。それから十六年。北条攻めでもろくな戦はしておらず、朝鮮の戦場にも出ていない。

確かにその通りだ。軍として修羅場を潜っていないから、相当弱体化しているはずだということなのだろう。

対する上杉軍、北条攻めを経験しているが、朝鮮戦役では上杉軍は全くといっていいほど貢献をしていない。朝鮮にいる間に兼続が行ったのは書物の渉猟だった。

「附釈音周礼注疏」四十二巻、「中庸章句大全」四巻、「宋名臣言行録」七十五巻、「大明一統志」九十巻、「新編古今事文類聚」二百二十一巻など。

…上杉も長い間本格的な戦をしていない。ある意味、上杉軍も徳川軍とどっこいどっこいなのかもしれない。

修羅場を潜っていれば強いかというと、必ずしもそうではない。

関ヶ原の戦いでは、負けた西軍に朝鮮の戦場で修羅場を潜った大名が相当数いた。軍勢としては西軍有利と見られていた。

だが、わずか一日にして西軍は敗走する。敗走する中でも激烈だったのは朝鮮の戦場で修羅場を潜った島津軍だ。それでも、脱出に成功した時は主の供回りはほとんどいなかったという。

部隊としての兵の調練は重要かもしれないが、それ以上に大将の気力・気迫が勝敗を決するような事もあるのだ。

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内容/あらすじ/ネタバレ

慶長三年(一五九八)。伏見城の中では太閤秀吉が死の床についていた。もう少しで徳川家康の首根っこを押さえる者がいなくなる。

天下をつかむ最大の機会が訪れている。誰を取り込み、誰を潰すか。家康が考えるのはその事だ。ひとりの大老の顔が浮かんだ上杉景勝。あの男はいい。それに、直江兼続。あの男もいい。上杉家の執政として下手したら景勝よりも評価が高い男だ。

米沢城。この時、直江兼続は四十に一つ足りなかった。兼続は執政と呼ばれる立場になってから二十年経つ。「旦那さま」と山田喜右衛門が呼んだ。

上杉家では景勝を殿さまと呼び、直江兼続を旦那さまと呼ぶのが習わしとなっている。兜職人の弥助が来たというのだ。兜の前立に「愛」の文字が飾られている珍しい意匠だ。

この後すぐに伏見の石田三成から密書が届いた。太閤秀吉が死んだのだ。越後にいるときに太閤が亡くなっていれば、天下取りも望めたかもしれない。兼続はそう思った。上杉は越後から移封されて会津百二十万石の太守となっている。

だが、領民達は上杉になじんでいない。何かあったら、兵力は越後の半分と見るべきだろう。

兼続は主・景勝と今後のことを相談していた。上杉はどうするか。それよりも、豊臣家の中に火種がくすぶっているのが気になる。上杉は、特に直江兼続は石田三成と仲がよい。だが、これがために、上杉が石田の味方となるわけではない。肩入れするつもりはないのだ。

徳川家康は本多正信とともに上杉主従の上洛を心待ちにしていた。その間、二人は上杉が天下を望むとしたらどのような方策を踏むかと語り合った。

本多正信は、自分なら何もしないといいのけた。景勝はまだ若い。家康には嫌なことだ。何とかしてあの主従と気脈を通じておきたい。そう思った。

一方、直江兼続は会いたい男になかなか会えなかった。それは石田三成だ。石田にあって確かめたいことがある。それは太閤の治世を受け継ぐ気があるかだ。そしてその差配をどのようにしていくつもりかだ。返答次第では石田のすることを傍観せざるを得ない。

本多正信が兼続に接触してきた。上杉の動静を探りに来たのだ。

慶長四年。五大老五奉行が集まり今後の治世について話し合われた。兼続は控えの間にいたが、妙な気分だった。いま、全国に割拠している武将達のほとんどが互いに顔見知りということだ。

秀吉が統一したからであるが、これによって、相手に対する好悪が今後大きく影響するのではないかと思ったのだ。

兼続の所に家康が加藤清正らと結びついたというのだ。それ以上に兼続が言葉を失うほどに驚いたのが、家康が四組の縁組みをいっきょに勧めたというのだ。

また、朝鮮征伐の論功行賞にまで手を付けたという。主の景勝は完全に苦り切っている。家康は一体何を考えているのか?

家康が襲われるという噂が流れ、徳川軍に緊張が走る。他にも似たような情報が市中を駆けめぐっていた。やがてこの騒ぎは家康によって巧みな外交戦へと持ち込まれていった。

そうした中、前田利家が逝った。保たれていた均衡に亀裂が入った。石田三成は隠居に追い込まれ、いったん表舞台から姿を消した。

上杉主従は会津へ帰還した。直江兼続は途中佐和山城に立ち寄り、石田三成と語り合った。

慶長五年。会津では築城のための工事が始まっていた。また、三千人近い浪人を雇っていた。前田慶次郎利大や上泉泰綱などがいた。

やがて家康から使者がやってきた。これに対して、兼続はのちに直江状と呼ばれる書状をもって返事とした。この書状を読んだ家康は、これほど無礼な書状をもらうのは初めて、というほどに怒り、会津征伐を決めた。

だが、家康には不安があった。

家康軍との直接対決を目前に控え、直江兼続のもとに石田三成挙兵の報が飛び込んできた。家康の所にも同様の報が飛び込んできた。家康は大急ぎで評定を開いた。のちに小山評定として知られるものだ。

兼続は信じられなかった。目の前で家康が引き返していく。なぜだ。これを追撃するか?だが、景勝は「大義」はどこにあるという。

作戦は大転換を余儀なくされた。越後の奪還などに焦点が当てられることになったのだ。

だが、程なくして、北の関ヶ原といわれた長谷堂城攻めの真っ最中に、とんでもない知らせが飛び込んできた。美濃関ヶ原で両軍あわせて十五万が激突し、しかも一日で勝敗が決したというのだ。勝ったのは徳川家康。

上杉はこの戦を切り上げて退却を余儀なくされた。

関ヶ原の戦いの後、上杉に対する処置は遅れていた。

本書について

風野真知雄
われ、謙信なりせば 上杉景勝と直江兼続
祥伝社ノン・ポシェット 約三九〇頁
戦国時代

目次

序章 あてになる奴、ならぬ奴
第一章 謙信の長い影
第二章 謀臣たち
第三章 盟友失脚
第四章 直江無礼状
第五章 遙かなる関ヶ原
第六章 もう一つの関ヶ原
終章 晩年の花

登場人物

直江兼続
お船…妻
上杉景勝…上杉家当主
山田喜右衛門
弥助…兜職人
華渓院…景勝の妹
前田慶次郎利大
上泉泰綱
車丹波
石田三成
島左近
徳川家康
本多正信
高台院(ねね)…秀吉の妻

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