ゆうきまさみ「新九郎、奔る!」(第8集)の感想とあらすじは?

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伊勢宗瑞(伊勢新九郎盛時)を主人公としたゆうきまさみ氏による室町大河マンガの第8巻です。

舞台となる文明五年~六年は、中央(京都)と関東で世代交代が中心となった年でした。作品においても多くの紙面を世代交代の描写に使っております。

そして、本書の最終話から、次集から東国が舞台になることが分かりますので、多くの紙面を東国の状況説明にも使われています。

結果として新九郎が活躍する場面は少ないのですが、次集に向けての期待感が高まるものになっています。

第8集で解説されている「享徳の乱」ですが、教科書にはほとんど記載されず、新書を含む歴史概説書・一般書においても多くの場合詳細が書かれていません。

しかし、関東における戦国時代の幕開けとされる大乱で、京都より先んじて関東が戦国時代に突入するきっかけとなった大乱とされます。

この大乱が分かりにくいのです。

享徳の乱が起きた理由を把握するにあたっては、京都と関東の関係、関東の中における公方と関東管領の関係が整理できていないと理解するのが難しいのですが、文章で追っていくと、イメージがつかみにくいのではないかと思います。

そうした点で、本書は理解の大きな助けになります。

そもそも、関東の公方は鎌倉公方だけなのですが、何故か途中で古河公方と堀越公方の二人になります。

これに関東管領の山内上杉家と、同族の扇谷上杉家、上杉家の家宰・長尾家との関係も加わり、さらに話がややこしくなります。

このように関東はややこしい状況なのですが、本書ではうまくまとめて、イメージが付きやすくなっています。とても参考になります。

舞台となる時代については「テーマ:室町時代(下剋上の社会)」にまとめています。

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第8集の基本情報

人物関係

第8集での人物関係を一覧表で整理してみます。ここでは応仁の乱の陣営を念頭に整理しました。

東軍西軍
将軍家足利義政(第8代将軍)
足利義尚(第9代将軍)
足利義視(今出川殿、義政の弟)
伊勢氏伊勢貞親(逝去)
伊勢貞宗(政所執事)
伊勢盛定(父)
蜷川親元(政所執事代)
伊勢貞藤(貞親の弟)
細川氏細川勝元(管領) (逝去)
細川聡明九郎
山名氏山名宗全 (逝去)
山名政豊
斯波氏斯波義敏
朝倉孝景
斯波義廉(管領)
畠山氏畠山政長(管領)畠山義就

関東の状況は次のようになります。

堀越公方側(幕府側)古河公方側
公方足利政知 足利成氏
山内上杉家 上杉顕定(関東管領)
長尾景信(逝去)
長尾景春
長尾忠景
扇谷上杉家上杉政真(戦死)
上杉定正
太田資長(道灌)
今川家(今川範忠:故人)
今川義忠

関係年表

本書の舞台となるのは、文明五~文明六年(1474)年です。新九郎は数え年で18~19歳です。

ーーー第8集はここからーーー

文明5年(1473年)
●将軍:足利義政 ○管領:細川勝元→畠山政長(東幕府)・斯波義廉(西幕府)
◎古河公方:足利成氏 ◎堀越公方:足利政知 ○関東管領:上杉顕定
【京都】山名宗全と細川勝元が相次いで死去

文明6年(1474年)
●将軍:足利義政→足利義尚 ○管領:斯波義廉(西幕府)
◎古河公方:足利成氏 ◎堀越公方:足利政知 ○関東管領:上杉顕定
【京都】山名政豊と細川政元の間に和睦が成立

ーーー第8集はここまでーーー

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物語のあらすじ

文明五年

文明四年に細川勝元と山名宗全は和平交渉を試みましたが、はかばしくない結果に終わりました。

細川家の嫡男を山名宗全の外孫・聡明丸に替える約束ができなかったためのようです。

細川勝元には苦難が続きます。

幕府・関東管領軍に攻められて没落していた古河公方が復活して猛攻撃をし、対関東政策の責任者である細川勝元の面目は丸潰れになるからです。

これらのことに将軍・足利義政は機嫌を悪くしたようでした。

和睦も関東の乱も収まらず、意を決した細川勝元は嫡子の勝之を巻き込んで隠居を図ります。この結果、家督は聡明丸に転がり込みます。

この後、山名宗全の切腹未遂事件が起き、夏には家督が山名政豊に譲られます。

乱を引き起こした両名が一線を退いたのです。

文明五年になり、若狭に隠居していた伊勢貞親が没しました。その報が新九郎のもとに届いたのは約一月後でした。

四十九日の法要に間に合えば良いとのことでしたが、伊勢盛頼が一足早く上洛すると聞いてすぐさま出立することにしました。

上洛した新九郎は伊勢貞宗から山名宗全が長くはないことを聞きます。

文明五年三月十八日に山名宗全がなくなります。

そして続け様に五月十二日に細川勝元が亡くなりました。

新九郎は弥次郎とともに聡明丸を弔問に訪ねました。

聡明丸に会った時の様子を新九郎は伊勢貞宗に話しました。聡明丸が家督を継いだことで、和睦に進むことを期待しています。

貞宗によると、伊瀬貞親と細川勝元は犬猿の仲だったそうです。

ただし両人とも足利義政の権威を高め、世に安泰をもたらすために尽力する点では一致していました。

その頃、武蔵国五十子陣で、12年にわたって山内上杉家の家宰を務め、上杉顕定と関東管領を支えた、長尾景信が没しました。

京では聡明丸が足利義政お目見えし、正式に細川京兆家の家督が認められました。

駿河今川義忠の居館では、今川義忠と小鹿新五郎範満が関東出兵に関して話していました。

足利義政から関東出兵を命じられていますが、今川義忠は乗り気ではありません。

そうした中、伊都が今川義忠の子を産みました。龍王丸と名付けられました。

新九郎は父・盛定がこしらえた借金の額を確認するために丁字屋を訪ねました。そこに伊勢盛頼が現れました。

新九郎と盛頼は帰り道を一緒にしながら話しました。戦は、備後を含めて終わる気配がありません。関東も同様でした。

五十子陣で関東管領方が古河公方・足利成氏の猛攻にさらされていました。全軍の指揮官であった長尾景信の死により、陣内では動揺が収まっていない中での防戦でした。

防戦の中で扇谷家の当主・上杉政真が討ち死にします。太田資長と長尾景春は、上杉定正に扇谷家の家督を継いでもらうことにします。

上杉政真の死はすぐさま今川家にも伝えられました。

小鹿範満は今川義忠にすぐさま五十子陣への援軍を進言しますが、京からの命令がなければ動けないと退けました。

その代わり足利義政から御教書が下され、来年には遠江に出兵することになったと告げました。

その頃、京では新九郎が貞宗から駿河に行って内情を見てきてもらいたいと言われていました。

富士の裾野にて

文明五年十二月中旬に伊勢国から海路で駿河国を目指し、小川湊(焼津市小川)に着きました。

出迎えてくれたのは小川の代官を務める長谷川次郎左衛門でした。

翌日には新九郎一行は今川義忠居館に着きました。今川義忠へ龍王丸の誕生と遠江国懸革荘の代官就任祝いの挨拶を済ませると、姉・伊都と久しぶりに会います。

夜には宴が催され、その席で小鹿範満は足利義政に近い新九郎に関東の状況について知ってもらいたいと考え、伊豆あたりまで足を伸ばさないかと誘いました。

新九郎達が出立してからまもなく春王が元服し、同時に将軍宣下を受けます。第九代将軍・足利義尚の誕生です。

足利義政は室町御所から亡き細川勝元が建てた小川新邸に居を移します。

足利義尚の新体制になりますが、補佐すべき管領が不在での船出でした。

新九郎達一行は伊豆へ向かっていました。目指すのは鎌倉公方・足利政知の堀越御所です。

途中、修禅寺に立ち寄り、温泉に浸かって旅の垢を落としました。

温泉には先客がいました。武蔵国の源六左衛門を名乗りましたが、湯治に来ていた太田資長です。

鎌倉公方は足利尊氏の次男・基氏から始まります。

東国の統治を委ねる機関として鎌倉に置き、補佐として関東管領の上杉氏を配置しました。

第4代の持氏は室町幕府への反抗心が強く、関東管領対決し、果ては幕府とも対決して上杉憲実に滅ぼされています。

第5代で持氏の子の鎌倉公方・足利成氏が関東管領・上杉憲忠を殺害し、関東管領へ宣戦布告します。

成氏は上杉との私闘であり、幕府への謀反ではないと主張しましたが、足利義政は謀反と断じました。

こうして関東全土を巻き込む「享徳の乱」が始まります。

成氏は緒戦で勝ちまくり、関東管領を追って下総国の古河に来ましたが、その隙に今川範忠によって鎌倉が占拠されたため、帰還できなくなった成氏は古河を拠点とします。

これにより「古河公方」と呼ばれるようになります。

ここで足利義政が一景を案じて、庶兄の清久を還俗させて足利政知として鎌倉に送り込んで鎌倉公方にしようとします。

ところが伊豆に来たところで、関東の諸将が新しい鎌倉公方を歓迎せず、他の政情もあり、鎌倉に入れず、15年伊豆の堀越に留まり「堀越公方」と呼ばれるようになります。

その足利政知との対面が終わった新九郎は伊豆を巡りました。堀越御所の周辺は執権・北条氏発祥の地でもありました。

一矢

文明六年(1474)年、山名政豊と細川聡明九郎が対面し、両家の和睦が成立しました。

しかし、講和は細川と山名の単独講話にすぎず、大乱の幕を引くものではありませんでした。

畠山義就、大内政弘らの戦意は旺盛であり、越前では斯波義廉が朝倉孝景の返り討ちにあっていました。

斯波義廉も義敏も越前では手一杯の状況のためだと、今川義忠にとっては遠江に進軍する千載一遇のチャンスでした。

関東では不穏な空気が流れています。長尾景春が山内上杉家の家宰に就けないからです。関東管領の山内上杉顕定が認めないのです。家宰になったのは長尾忠景でした。

秋風が立ち込める頃、今川義忠が遠江に出陣しました。そして、京の命令を無視して領地を増やしてしまいます。

文明七(1475)年、幕府は西軍の管領・斯波義廉の守護代・甲斐敏光を東軍に引き込み、遠江守護代として送り込みます。甲斐敏光は伊勢貞宗の母の兄です。

初夏になり、今川義忠は再び遠江に出陣します。

京では東軍の支配地になっている遠江を攻撃している今川義忠を逆徒とみなします。

今川義忠は味方を攻撃しているという事態を知ってか知らずか、甲斐敏光を追放してしまいます。

そして、この戦の中で今川義忠が討ち死にします…

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