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ゆうきまさみ「新九郎、奔る!」(第6集)の感想とあらすじは?

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伊勢宗瑞(伊勢新九郎盛時)を主人公としたゆうきまさみ氏による室町大河マンガの第6巻です。

伊勢宗瑞は備中伊勢氏出身とされますが、それを裏付ける史料とされるのが「平盛時禁制」です。本書でその 「平盛時禁制」 が出てきます。

平盛時禁制
禁制
長谷法泉寺
一 甲乙人等乱入狼藉事
一 山中傍尒之内竹木切事
一 於寺邊致殺生事
右条々令堅禁制事
若於背成敗輩者可處
罪科也仍状如件
天正二年甲戌迄百十二年歟
文明三年辛卯六月二日 平盛時

舞台となる時代については「テーマ:室町時代(下剋上の社会)」にまとめています。

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第6集の基本情報

人物関係

第6集での人物関係を一覧表で整理してみます。ここでは応仁の乱の陣営を念頭に整理しました。

東軍西軍
将軍家足利義政(第8代将軍)足利義視(今出川殿、義政の弟)
伊勢氏伊勢貞親(政所執事)
伊勢貞宗(貞親の嫡子)
伊勢盛定(父)
蜷川親元(政所執事代)
伊勢貞藤(貞親の弟)
細川氏細川勝元(管領)
山名氏山名宗全
斯波氏斯波義敏
朝倉孝景 ⇐西軍から東軍へ
斯波義廉(管領)
畠山氏畠山政長(管領)畠山義就

関係年表

本書の舞台となるのは、文明三(1471)年です。新九郎は数え年で16歳です。

この年で最も重要なのは、朝倉孝景が東軍に寝返ったことでした。

文明2年(1470年)
●将軍:足利義政 ○管領:細川勝元(東幕府)・斯波義廉(西幕府)
◎古河公方:足利成氏 ◎堀越公方:足利政知 ○関東管領:上杉顕定
【西国】大内教幸が反乱を起こす。陶弘護に撃退される。
【京都】東西両軍の戦いは膠着状態。京都の市街地は焼け、荒廃した。
【地方】上洛していた守護大名の領国にまで戦乱が拡大。

ーーー第4集はここからーーー

文明3年(1471年)
●将軍:足利義政 ○管領:細川勝元(東幕府)・斯波義廉(西幕府)
◎古河公方:足利成氏 ◎堀越公方:足利政知 ○関東管領:上杉顕定
【京都】西軍の主力・朝倉孝景が東軍側に寝返る
【関東】足利成氏方の千葉氏、小山氏、結城氏らが伊豆へ侵攻。上杉顕定らはその間に古河に出陣。

ーーー第7集はここまでーーー

文明4年(1472年)
●将軍:足利義政 ○管領:細川勝元(東幕府)・斯波義廉(西幕府)
◎古河公方:足利成氏 ◎堀越公方:足利政知 ○関東管領:上杉顕定
【京都】細川勝元と山名宗全の間で和議の話し合いがもたれ始める。

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物語のあらすじ

一触即発

新九郎は急いで伊勢九郎盛頼の館に向かいました。盛頼は那須家との小競り合いに備えて武装していました。

原因は先日取り決めたにも関わらず、領域の境目で喧嘩が起きて死者が出たためでした。

しかも、戸倉館の対岸の山中に那須家が砦を築いており、狩り小屋と言い張って検分の申し入れを拒否しています。

新九郎は那須資氏を訪ねて打開策を探ろうと考えていましたが、九郎盛頼は頑として話を聞くつもりがありません。

新九郎を名代として侮る九郎盛頼に新九郎は家督を継いだ事を告げました。九郎盛頼に驚きの表情が浮かびます。

いったんは新九郎の顔を立てて、場を収めることになりました。

東荏原の高越山城では新九郎の家督相続が祝われました。

大道寺太郎が「狐」がやってきて鎧の代金が貰えないなら帰ると言って、鎧を持ち帰った事を話しました。

新九郎はなぜ払わなかったのかを聞くと存外に高額を請求して来た事分かりました。

翌朝、新九郎は又次郎を残して皆で那須家が築いているという砦の検分に行きました。

途中、長谷山法泉寺に立ち寄り、父が建てた寺の創建時からの記録を見ました。その中にお目当ての記録お見つけました。

那須家の領地に足を踏み込んだ一行はつるの弓矢の出迎えを受けます。

新九郎はつるに、狩り小屋を設置した場所は法泉寺の寺領なので、撤去するように告げました。

そして、新九郎はつるに対して、法泉寺の権益を守るために来たと言い、争うつもりはないと言いました。

翌日、新九郎は改めて法泉寺を訪ねて礼を述べました。

住持からこれを機に禁制を出してくれないかと頼まれます。新九郎はもとよりそのつもりでした。

禁制は部下や家臣による乱妨・狼藉を禁じる、いわば安全保証書です。

禁制を出して、新九郎は九郎盛頼を訪ねて事のあらましを話しました。

翌日から那須家が狩り小屋を撤去し始めました。

撤去作業の中で新九郎は汚れた顔を拭くために沢におりました。そこでつるが肌を出して汗を拭っているのを見てしまいます。

その晩、「狐」が新九郎に前に姿を現しました。銭が払えない事を言うと姿を消しました。何とか銭の工面をしないと…

その頃、那須家ではつるが昼間の出来事を資氏に話していました。

那須資氏と伊勢九郎盛頼の仲裁に細川勝元の細川京兆家内衆の庄伊豆守元資が入り、元資の顔を立てて双方の武装を解くことになりました。

九郎盛頼は近々盛景が戻ってくるので、家督相続の祝宴を開いたらどうかと提案しました。

新九郎も妙案だと思いましたが、高越山には銭が無いと言います。父・盛定が酒宴や贈答に使ってしまったからです。

この度の備中伊勢家と那須家との領地争いの元凶となったものが斬られました。しかし斬られたのは身代わりでした。

那須側は和解条件を果たしましたが、九郎盛頼は納得していません。那須家に条件を出していました。

新九郎らは祝宴をいかにして開くか頭を悩ませていました。

そして伯父の伊勢掃部助盛景が戻ってきました。盛景は状況を聞いて九郎盛頼を叱りました。

盛景は関東の大乱が終わりそうだと話しました。勝つのは上杉との見立てです。

そうすれば御所や細川勝元らは西の大乱の収拾に全力を尽くせるので、備後の戦のための往来が減り、荏原領内での騒ぎに目くじらを立てるものはいなくなります。

事を起こすならそこからが良いと言いました。

関東の大乱とは「享徳の乱」です。

古河公方・足利成氏と関東管領・上杉氏との争いです。享徳3(1454)年から始まり、すでに17年目に突入していました。

旗色の悪かった上杉勢は文明3(1471)年に大攻勢に転じて足利成氏を追い詰めます。

上杉勢は足利荘、佐野荘を奪取し、北から古河公方に圧力をかけつつありました。

こうした中現れたのが関東管領・家宰・長尾景信の嫡男・長尾景春と相模国守護・扇谷上杉氏の家宰で江戸城主の太田資長でした。

この2人の事蹟がやがて新九郎を関東へ誘うことになります。

宴の後

武蔵国の最北部に五十子(いかこ)陣があります。関東管領・上杉氏の拠点です。

文明3(1471)年に味方の勝利の報が届けられていました。

長尾景春が活躍して勝利した戦でしたが、関東管領の上杉顕定は認めませんでした。このことに長尾景春は不満を溜めていきました。

その頃、備中荏原の高越山城主館ーー

新九郎は祝宴を開かざるを得ない状況に追い込まれていました。

銭の工面をどうするか悩んでいた時に、京からの使いが到着しました。

母・須磨がお金を送ってくれ、笠原らも借銭を用意して祝宴の目処が立ちました。

西荏原の掃部助家と那須家の和議が成立した日に祝宴が開かれました。

祝宴に呼ばれた庄伊豆守元資が最近の京と関東の動向を知らせてくれました。朝倉孝景が東軍に寝返ったと言うのです。

そこにつるがやって来ました。新九郎はいつもと雰囲気の違うつるに目を見張りました。

宴が盛り上がっている中、庄伊豆守元資が伊勢盛景と那須資氏と別室で話し合いを始めました。

館内でつるを探していた新九郎は馬小屋でつるを見つけました。

新九郎はつるに、自分はつるに魅かれている事を打ち明けます。思わぬ話につるも驚いていましたが、嬉しく思います。そして二人はーー

文明3年6月。

下野国の長尾景信の陣所では古河公方を取り逃がし、しかも拠点の古河城をおとさないで引き上げることに太田資長が怒っていました。長尾景春も同様でした。

その頃、備中荏原では九郎盛頼が新九郎を呼び出し、つるが妻になる事を告げましたーー