ゆうきまさみ「新九郎、奔る!」(第1集)の感想とあらすじは?

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一般的に北条早雲として知られる伊勢宗瑞(伊勢新九郎盛時)を主人公としたゆうきまさみ氏による室町大河マンガです。

後北条氏ファンのみならず、応仁の乱から戦国時代初期にかけての時代が好きな方にはたまらないマンガだと思います。

伊勢宗瑞に関する近年の研究成果のみならず、応仁・文明の乱や、それに先んじる関東での大乱に関する研究成果を存分に反映しています。

こうした点において学習マンガでもあるのですが、…まぁマニアック過ぎて受験にはほとんど役に立たないでしょう。

また、東京大学史料編纂所教授の本郷和人氏が考証の協力をしており、マンガにより一層の緻密さを与えています。

舞台となる時代については「テーマ:室町時代(下剋上の社会)」にまとめています。

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第1集の基本情報

伊勢宗瑞に関する設定

「新九郎、奔る!」では、伊勢宗瑞(=北条早雲)の出自を、近年主流となっている説、伊勢氏支流の備中伊勢家説を採用しています。

生まれも康正2(1456)年生まれの享年64歳説です。そのため、最初に登場する伊豆国・堀越御所討入時に38歳、物語の実質的な始まりである応仁の乱の前年が数えで11歳です。

父親は近年の通説の、室町幕府の幕府申次衆の伊勢盛定としています。

ここまでは近年の通説を採用しています。

母親については、通説の盛定の正室で伊勢宗家当主・伊勢貞国の娘(本作では須磨)説を採用していません。

「北条五代記」に準じて盛定の側室、堀越公方被官・横井掃部助の娘(本作では浅茅)説を採用しています。

当初から伊豆との繋がりを持たせた方が、話の流れが自然になるという判断でしょうか。

生まれ育った場所についても、備中国荏原郷ではなく、京都および山城国としています。

生まれ育った場所を京都および山城国にしたのは、応仁の乱を描きやすかったからでしょう。

人物関係

物語は応仁・文明の乱(=応仁の乱)が起こる1467年の前年から始まります。

この応仁・文明の乱の原因は複雑で、昔の教科書では将軍家の家督争いと理解されていますが、そのこと自体は副次的なものであり、本質的な原因は他にあると考えられるようになってきています。

マンガにもそれが反映されており、人間関係がややこしくなっています。

頭がこんがらがるので、第1集での人物関係を一覧表で整理してみます。ここでは応仁の乱の陣営を念頭に整理しました。

東軍西軍
将軍家足利義政(第8代将軍)
足利義視(今出川殿、義政の弟)
伊勢氏伊勢貞親(政所執事)
伊勢貞宗(貞親の嫡子)
伊勢貞藤(貞親の弟)
伊勢盛定(
蜷川親元(政所執事代)
細川氏細川勝元(管領)
山名氏山名宗全
斯波氏斯波義敏斯波義廉(管領)
畠山氏畠山政長(管領)畠山義就


新九郎の父・伊勢備前守盛定は伊勢氏庶流で、備中国荏原荘の田舎領主でしたが、宗家に出仕して当家に見込まれて婿になります。

伊勢氏の宗家は、伊勢伊勢守貞親です。京都伊勢家当主で、室町幕府政所執事になります。新九郎には伯父にあたります

伊勢家は代々、幕府の財政を仕切ってきた一族です。

時代背景

本書の舞台となるのは、文正元(1466)年8月末~応仁元(1467)年5月です。

元服前の新九郎は千代丸と名乗り、数え年で11歳から12歳のころです。

応仁・文明の乱がまさに始まろうというところまで描かれています。

京都では応仁・文明の乱がまさに始まろうというところですが、関東では享徳の乱が進行中でした。

享徳の乱は応仁・文明の乱より早く始まり、遅く終わりました。応仁・文明の乱は11年、享徳の乱は28年です。

鎌倉公方(関東公方とも)と関東管領の対立から端を発し、関東全域を巻き込んだ騒乱となった享徳の乱は、応仁・文明の乱の遠因になったとされます。

関東の騒乱状況は、物語の中で少しずつ語られますが、関東で伊勢新九郎盛時が活躍することになる下地はできつつありました。

関係年表

永享9年(1437年)
●将軍:足利義教 ○管領:細川持之
◎鎌倉公方:足利持氏 ○関東管領:上杉憲実
【京都】畠山持国の子・義夏(後の畠山義就)が生まれる。

嘉吉元年(1441年)
●将軍:足利義教 ○管領:細川持之
◎鎌倉公方:空位 ○関東管領:空位
【京都】「嘉吉の乱」6代将軍足利義教が殺される。

文安5年(1448年)
●将軍:空位 ○管領:細川勝元
◎鎌倉公方:空位 ○関東管領:上杉憲忠
【京都】畠山持国が弟・持富を廃嫡して義夏を家督につける。

享徳3年(1454年)
●将軍:足利義政 ○管領:細川勝元
◎鎌倉公方:足利成氏 ○関東管領:上杉憲忠
【京都】畠山氏内紛。畠山義就が家督継承者になる。
【関東】「享徳の乱」鎌倉公方・足利成氏が関東管領・上杉憲忠を謀殺。成氏は古河城を本拠地とし古河公方と呼ばれた。

享徳4年(1455年)
●将軍:足利義政 ○管領:細川勝元
◎古河公方:足利成氏 ○関東管領:上杉房顕
【京都】畠山持国が死去。畠山義就が畠山氏の家督を相続。

長禄2年(1458年)
●将軍:足利義政 ○管領:細川勝元
◎古河公方:足利成氏 ◎堀越公方:足利政知 ○関東管領:上杉房顕
【京都】足利義政は斯波氏の当主を斯波義敏から息子の松王丸(義寛)に替えた。
【関東】足利義政は異母兄の政知を正式な鎌倉公方として関東に送る。鎌倉に入ることが出来ず、堀越公方と称した。

長禄3年(1459年)
●将軍:足利義政 ○管領:
◎古河公方:足利成氏 ◎堀越公方:足利政知 ○関東管領:上杉房顕
【関東】太田庄の戦い。五十子の戦い。上杉房顕が陣没。上杉房定の次男・上杉顕定が後継者となった。

寛正元年(1460年)
●将軍:足利義政 ○管領:細川勝元
◎古河公方:足利成氏 ◎堀越公方:足利政知 ○関東管領:上杉房顕
【京都】足利義政によって畠山政長の畠山氏家督が認められ、義就が追放される。

寛正2年(1461年)
●将軍:足利義政 ○管領:細川勝元
◎古河公方:足利成氏 ◎堀越公方:足利政知 ○関東管領:上杉房顕
【京都】足利義政は斯波氏の家督を松王丸から、斯波義廉に替えた。
【関東】岩松持国・次郎父子が従兄の岩松家純に謀殺される。

寛正4年(1463年)
●将軍:足利義政 ○管領:細川勝元
◎古河公方:足利成氏 ◎堀越公方:足利政知 ○関東管領:上杉房顕
【京都】足利義政の母日野重子が没す。大赦により畠山義就、斯波義敏ら多数の者が赦免。

寛正5年(1464年)
●将軍:足利義政 ○管領:細川勝元→畠山政長
◎古河公方:足利成氏 ◎堀越公方:足利政知 ○関東管領:上杉房顕
【京都】義尋が還俗し、名を足利義視と改め、細川勝元の後見を得て今出川邸に移る。

寛正6年(1465年)
●将軍:足利義政 ○管領:畠山政長
◎古河公方:足利成氏 ◎堀越公方:足利政知 ○関東管領:上杉房顕
【京都】足利義政と日野富子との間に足利義尚(後に義煕と改名)が誕生。

ーーー第1集はここからーーー

文正元年(1466年)
●将軍:足利義政 ○管領:畠山政長
◎古河公方:足利成氏 ◎堀越公方:足利政知 ○関東管領:上杉房顕→上杉顕定
【京都】「文正の政変」伊勢貞親、季瓊真蘂、斯波義敏、赤松政則ら将軍近臣が失脚する。側近を失った足利義政の影響力が低下し斯波家の家督は斯波義廉に戻される。

文正2年(1467年)後に応仁に改元
●将軍:足利義政 ○管領:畠山政長→斯波義廉
◎古河公方:足利成氏 ◎堀越公方:足利政知 ○関東管領:上杉顕定
【京都】御霊合戦(上御霊神社の戦い)。上御霊神社で畠山義就軍と畠山政長軍が衝突。

ーーー第1集はここまでーーー

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物語のあらすじ

明応2(1493)年

伊豆の鎌倉公方の御所。

足利茶々丸の首を取りに来たものがいました。

室町幕府の奉公衆、伊勢新九郎盛時です。時に38歳。後年、北条早雲として知られる男です。

  • この場面に登場する「左近次」とは誰のことなのでしょうか?
  • 新九郎が心の中で思う『明日からは俺の主は俺だ!」と言うセリフは、再びお目にかかるセリフです。

伊勢守の戦い

文正元(1466)年8月末、山城国宇治。

さかのぼること27年。

当年11歳となった伊勢千代丸(のちの新九郎盛時)と傅役の大道寺右馬介が土一揆の様子を見ていました。

この時に出会ったのが「狐」です。

大道寺の館に戻り、千代丸は今日の出来事を右馬介の長男・太郎(11歳)に話します。

後北条氏に仕えた大道寺氏、多目氏、荒木氏、山中氏、荒川氏、在竹氏ら6名の重臣を総称して御由緒六家(ごゆいしょろっけ)と呼びます。

大道寺太郎は後年大道寺重時として知られ、御由緒六家の一人です。

翌日、伊勢家の宗家へ向かいました。

宗家の敷地内には父・盛定をはじめとして、正妻で伊勢貞親の妹の須磨、須磨の実子で千代丸の兄と姉になる八郎貞興(16歳)、伊都らが住んでいます。

盛定が千代丸を呼び寄せたのは、今日からここに住まわせるためでした。

ゆくゆくは八郎を助けなければならないので、伊勢家一門としてすべきことを学ばせるためです。

新九郎の兄・伊勢貞興についてはほぼ何も分かっていないようです。今後の研究で分かることもあるでしょうが、分かっていない分、自由な設定ができます。

伊勢貞親邸。

伊勢貞親や長男・伊勢兵庫助貞宗、弟・伊勢備中守貞藤、千代丸の父・伊勢盛定らが現状の確認をしていました。

三管領のうち、斯波家は斯波義廉から斯波義敏になり、畠山家は畠山政長が管領を務めているが従弟との家督争いを抱えています。

細川家は結束が固いうえ、京に斯波義廉の軍勢が入り込んでいるため、細川家と味方になった方が良さそうです。

将軍家の家督相続も問題になってきていました。

世継ぎに恵まれなかった8代将軍足利義政は弟を還俗させて後継と定めました。今出川殿こと足利義視です。これを細川勝元が後見しています。ですが、昨年、世継ぎの春王が生まれました。

足利義政は、もし男子が生まれても将軍位は足利義視とすると約束していたため、足利義視は後継の座を返していませんでした。これに御台所の日野富子も異を唱えていません。

義視は中継ぎの将軍になるはずでしたが、間が悪いことに先月足利義視にも男子が生まれます。

将軍位を足利義視が継げば春王に将軍位は戻らず、足利義視の子に引き継がれます。

そうなると、将軍近臣として力をつけてきた伊勢家の力は落ち、足利義視を後見する細川勝元に権力が奪われます。

伊勢貞親は足利義視こと今出川殿に退いてもらう方策を考えねばならないと考えていました。

文正の政変

伊勢家は礼法を大名や小名に教え、味方を増やしてきた家柄でした。

千代丸は京に住むようになってこうした礼法を学んでいました。

伊勢兵庫守貞宗が千代丸に母に会ってこいと言いました。横井の屋敷も遠くはないのです。

千代丸は傅役の大道寺右馬介と共に横井の家へ向かいました。その途中で再び「狐」に遭遇します。

狐は追いかけられていましたが、匿うと京で流れている噂を教えてくれました。

それは伊勢貞親が新たに迎えた新妻の色香に迷って、斯波義敏の復権を聞き入れ、斯波義敏も貞親の新妻をあてにしっぱなし、というものでした。

京雀の目にはそのように見え、斯波家は義敏が復権し、義廉が廃嫡されます。収まらないには義廉で、これを山名宗全が後押しをしているのです。

そこで流れている噂が物騒なのです。

今出川殿こと足利義視が謀反を企てているという噂が立っていました。

その晩、千代丸は伊勢貞親が将軍・足利義政に今出川殿謀反の疑いがあることを伝えたことを知りました。そして、足利義政は切腹を申しつけると言ったというのです。

伊勢貞親は廃嫡された斯波義廉も畠山義就も今出川殿の存在を頼ってうごめいていると判断していました。

しかし事態は急変します。

伊勢貞親邸が包囲されたのです。貞親は失脚しました。

囲んでいる兵も攻め入る気配はありません。春王がいることと、御所の目の前だからです。

急変に貞親の弟・貞藤も駆けつけました。

午後になると状況が判明します。今出川殿謀反の話は貞親による誣告とされ、貞親が切腹を申しつけられそうなことが分かりました。

貞親は逃げることを決意します。千代丸の父・盛定も一緒に落ち延びます。伊勢家は兵庫守貞宗に託されました。

同日、斯波義敏も蓄電し、将軍御所から伊勢貞親の影響力は一掃されます。

翌日、貞親の長男・兵庫守貞宗が政所執事に就任しますが、逆風は吹き荒れていました。

新たな逆風が襲いかかり、山名宗全が伊勢家一門を全て政務から外して追放するように迫ったのです。しかし、伊勢家一門を外せば政が立ち行かなくなります。

前管領の細川勝元が動きました。

応仁前夜

伊勢貞宗が細川勝元を訪ねました。伊勢家の惣領である貞宗がこれほどまでに低姿勢で頼ってきたことから、勝元は貞宗の頼みを引き受けます。

それは大名たちによる伊勢家排斥の動きを止めることです。

連絡係として千代丸が選ばれました。

貞宗は邸宅に戻ると八郎貞興を呼び、今出川殿に仕えるよう命じました。貞宗は、この度の事件は伊勢家の者が1人も今出川殿に仕えていなかったことが元にあると考えていました。

平身低頭仕えることで今出川殿の許しを乞うしかなく、今出川殿の後見人である細川勝元に口添えをお願いした旨を伝えました。

貞興は納得できませんでしたが、全てを飲み込んで今出川殿に仕えることを承知しました。

翌日。

千代丸は堀越公方被官の横井掃部助の京屋敷に実母・浅茅を訪ね、初めて実弟の弥次郎と会いました。

傅役の大道寺右馬助は横井家の婿という設定です。ここにも関東とのつながりがあります。

千代丸が細川勝元邸宅にいると、騒々しくやってきた者がいました。

山名宗全入道です。

25年前の嘉吉の乱の追討戦で目覚ましい活躍をし、没落した赤松家の領土を得て大大名となりました。

山名宗全は養女の亜々子を訪ねてきたのでした。

千代丸はひょんなことから遭遇した山名宗全と碁を打つことになりました。

その後、細川勝元と山名宗全との話し合いでどう転んだのか、伊勢家排除の声が間もなく消えました。

季節は冬。

大道寺太郎が伊勢家邸宅にやって来ました。久しぶりに千代丸と太郎とで語り合いました。

その頃…

関東の武蔵国五十子の関東管領・山内上杉邸で家宰の長尾左衛門尉景信が上杉龍若を迎えていた。越後守護上杉定房の次男で、上杉房顕の跡を継ぐことになったのでした。13歳の関東管領です。

文正元(1466)年、年待ちになろうかという時期、前管領・細川勝元に長男が生まれました。

この年の年末に畠山義就が足利義政の許可を得ぬままに上洛しました。目的は一つ。家督争いを続けて来た従弟の現管領・畠山政長を引きずり下ろすことです。

義就は山名宗全邸に入りました。それを聞いて伊勢貞宗は細川と山名が割れると踏みました。

明けて文正2年1月。管領・畠山政長邸が燃えました。政長は管領を罷免され、家督は義就に移っていました。

戦になるー…

畠山政長は上御霊社に陣取りました。

応仁元年

畠山政長は御所の目の前の上御霊社に陣取り、畠山義就を迎え撃つつもりでした。

こうしたなか、伊勢貞藤が将軍義政の命を受け、細川勝元、山名宗全らに畠山家の争いに加勢しないことを誓わせました。

畠山政長の後ろ盾となって政を進めて来た細川勝元にとっては苦しい決断でした。

上御霊社の戦は終わりました。畠山政長は死んだと思われました。そして、細川勝元はこの度受けた屈辱を忘れませんでした。

細川勝元の長男は聡明丸名付けられました。

元号が文正から応仁に変わりました。

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