伊勢宗瑞(伊勢新九郎盛時)を主人公としたゆうきまさみ氏による室町大河マンガの第13巻です。
今回の舞台は文明12年(1480年)〜文明15年(1483年)です。舞台は京都です。
この第13集で最も大きい出来事は、関東の「享徳の乱」(享徳3年(1455年)から文明14年(1483年))を終わらせることになる「都鄙和睦(とひわぼく)」が成ったことです。
これにより、関東の実質的な公方として古河公方・足利成氏が統治し、堀越公方・足利政知は伊豆国一国を治めることになります。
しかし、関東にもたらされた和平は、一時的なものにすぎず、その次の動乱へつながっていくことになります。
本書でも引き続き黒田基樹氏が協力者になっています。
舞台となる時代については「テーマ:室町時代(下剋上の社会)」にまとめています。
第13集の基本情報
関係年表
本書の舞台となるのは、1480~1483年です。新九郎は数え年で25〜28歳です。
ーーー第13集はここからーーー
1480(文明12)
●将軍:足利義尚 ○管領:畠山政長
◎古河公方:足利成氏 ○関東管領:上杉顕定
◎堀越公方:足利政知 ○関東執事:上杉政憲
1481(文明13)
●将軍:足利義尚 ○管領:畠山政長
◎古河公方:足利成氏 ○関東管領:上杉顕定
◎堀越公方:足利政知 ○関東執事:上杉政憲
一休宗純が亡くなる
1482(文明14)
●将軍:足利義尚 ○管領:畠山政長
◎古河公方:足利成氏 ○関東管領:上杉顕定
◎堀越公方:足利政知 ○関東執事:上杉政憲
足利義政が東山銀閣寺の造営を始める
1483(文明15) 都鄙合体により幕府と足利成氏と和睦
●将軍:足利義尚 ○管領:畠山政長
◎古河公方:足利成氏 ○関東管領:上杉顕定
◎堀越公方:足利政知 ○関東執事:上杉政憲
【関東】都鄙合体により幕府と足利成氏との和睦が成立。
ーーー第13集はここまでーーー
1484(文明16)
●将軍:足利義尚 ○管領:畠山政長
◎古河公方:足利成氏 ○関東管領:上杉顕定
◎堀越公方:足利政知 ○関東執事:上杉政憲
【京都】畠山政長と畠山義就の軍が宇治で戦う
物語のあらすじ
利息で食う男
家の借財状況を知った弥次郎は伊勢一門の伊勢加賀守貞綱の養子になりました。
8月末。大徳寺。40世住持・春浦宗熙のもとで新九郎は学んでいました。
その帰り道、伊勢頼盛を訪ね、銭を増やす方法の教えを請いました。
そして、東荏原全土の管理権を担保に三百貫文を借りられないかと頼みました。駿河での政治工作に必要だったのです。
12月27日。伊豆堀越。足利政知に双子が生まれました。
不本意な徳政
堀越公方・足利政知の双子の兄の方は茶々丸と名付けられました。
明けて文明13年(1481)。
新九郎の備前守家での財政立て直しは急務でした。
武蔵国川越城。
扇谷(上杉)定正は太田道灌に、ある噂が流れていると話していました。それは越前の朝倉家のように分国をひとつ手に入れるか、主家を取って代わるのではないか、というものでした。
関東管領・上杉顕定も警戒しているという噂もあり、定正は道灌に言動に気を付けるように忠告しました。
この噂話を流したのが新九郎でした。
この年、新九郎は借銭の返済に大わらわでした。そうした中、被官の小林山城守が訪ねてきました。
渡辺帯刀への借銭で首が回らないというのです。新九郎は徳政を申請することを勧めました。
そして、新九郎も徳政を申請しました。
文明13年9月18日付、政所賦引付に徳政申請の記録が残っています。後にも先にも新九郎が申請した徳政はこの1件です。
都鄙和睦(とひわぼく)
新九郎は弥次郎に誘われて細川政元を訪ねました。
政元は新九郎から伊豆の堀越公方・足利政知の様子を聞きたがっていたのでした。
政元は足利政知に公方の座を空けよと言ったらごねるか聞いてきました。
ここにきて古河公方・足利成氏と大御所・足利義政との和睦の話が動き始めたのです。
7月に政元の後見人・細川右馬頭政国のもとに古河公方・足利成氏から和睦を求めた書状がまとめて届けられたというのです。古いもので2年前の日付から、最近のものまでありました。
取次には関東管領・上杉顕定の父・上杉房定から、下は長尾景春まで関わっています。
書状は幕府に届けられ、大御所・足利義政の耳にも達しています。和睦がなれば、古河公方・足利成氏の地位は保全されています。
京の大乱が終わり、この和睦の話は夜を太平に戻す良い機会です。
しかし、正式な公方は堀越公方・足利政知です。
細川政元は政知の人柄を聞くことによって、名を惜しんで兵を挙げるのか、実を得るために交渉ができるのかを知りたがったのです。
細川政元は堀越公方・足利政知が納得いくような見返りを約束しました。
10月20日。大御所の足利義政が小川の御所を抜け出し、長谷の聖護院に奔りました。例によって親子喧嘩です。
伊豆の堀越御所では、足利政知が上杉政憲に戦支度を命じました。和睦が成立する前に古河公方・足利成氏を討ち果たせば、公方の座は安泰だからです。
明けて文明14年(1482)春。
細川政元は古河公方・足利成氏が和睦を求めるなら、御料所のいくらかは返上すべきだと考えていました。望ましいのは、伊豆の御料所すべてです。
そして、関東管領・上杉顕定にも罪があると考えていました。鎌倉殿(=堀越公方・足利政知)を補佐すべき立場にありながら、鎌倉殿と争い、鎌倉殿の暴挙を自力で止められなかったからです。
この調停案で、古河公方・足利成氏も関東管領・上杉顕定も納得しました。伊豆は堀越公方・足利政知の主になったのです。
11月27日。大御所・足利義政の了承で、幕府と古河公方・足利成氏との和睦が決まりました。「都鄙和睦」です。
新九郎の家に、小笠原政清の娘ぬいが来るようになりました。伊都の娘かめの遊び相手です。
新九郎、就職す!
新九郎の邸に小笠原政清がやってきていました。ぬいが来ている日です。
この日、伊都がかめの教育のために歌の教授を冷泉大納言為広にお願いし、ぬいが御相伴していました。
正鎮は明ければ28歳になる新九郎が役にもつかず、嫁も取れないことを心配して、小笠原政清に愚痴をこぼしていました。
伊勢貞宗邸で、新九郎は小笠原政清が足利義尚を心配して相談に来たことを聞かされます。
貞宗は新九郎に足利義尚の奉公衆として仕える気はないかと聞いてきました。貞宗は新九郎をねじ込み、申次に考えていました。
文明15年。春。
新九郎はなかなか申次になれないでいました。大御所・足利義政の機嫌が悪かったからです。
足利義尚が御台を追い出してしまい、実家日野家の面目が丸つぶれ、叔母・日野富子がかんかんになり、大御所・足利義政の機嫌が悪くなったというのです。
伊勢貞宗の家でも頭の痛い問題が持ち上がっていました。伊勢兵庫助貞陸に縁談が持ち上がっていたのです。
相手は亡き三条公綱卿の末娘ひわです。足利義尚が寵愛していた相手でした。
6月27日。大御所・足利義政が住まいを正式に東山浄土寺跡に移し、義政は「東山殿」、義尚が「室町殿」と呼ばれるようになりました。
文明15年10月10日。陸奥国から伊達成宗が上洛して来ました。そして、新九郎に申次衆に加わる沙汰がおりました。