伊勢宗瑞(伊勢新九郎盛時)を主人公としたゆうきまさみ氏による室町大河マンガの第12巻です。
今回の舞台は文明11年(1479年)〜文明12年(1480年)です。舞台は京都です。
新九郎が関わっている今川家の家督争いに大きな進展がありました。ですが、これはあくまでも第一歩でしかありません。
関東では「享徳の乱」(享徳3年(1455年)から文明14年(1483年))が続いたままですが、風向きが変わり始めています。
和睦に向けた動きが出てきたのですが、敵味方が入り混じり、複雑怪奇な様相を呈しています。
本書でも引き続き黒田基樹氏が協力者になっています。
舞台となる時代については「テーマ:室町時代(下剋上の社会)」にまとめています。
第12集の基本情報
人物関係
第12集での人物関係を一覧表で整理してみます。ここでは関東の状況を整理しました。
堀越公方側(幕府側) | 古河公方側 | その他 | |
公方 | 足利政知 | 足利成氏 | |
山内上杉家 | 上杉顕定(関東管領) 長尾忠景 | 長尾景春 | |
扇谷上杉家 | 上杉定正 太田道灌(資長) | ||
千葉家 | 千葉輔胤 (千葉孝胤)→ | 千葉孝胤 |
関係年表
本書の舞台となるのは、1479〜1480年です。新九郎は数え年で24〜25歳です。
ーーー第12集はここからーーー
1479(文明11)
●将軍:足利義尚 ○管領:畠山政長
◎古河公方:足利成氏 ○関東管領:上杉顕定
◎堀越公方:足利政知 ○関東執事:上杉政憲
【関東】足利成氏は幕府とも和議を申し出る。
【関東】足利義政は今川家における龍王丸の家督継承を認めて本領を安堵する。
蓮如が山科本願寺を建てる
1480(文明12)
●将軍:足利義尚 ○管領:畠山政長
◎古河公方:足利成氏 ○関東管領:上杉顕定
◎堀越公方:足利政知 ○関東執事:上杉政憲
ーーー第12集はここまでーーー
1481(文明13)
●将軍:足利義尚 ○管領:畠山政長
◎古河公方:足利成氏 ○関東管領:上杉顕定
◎堀越公方:足利政知 ○関東執事:上杉政憲
一休宗純が亡くなる
物語のあらすじ
裁定
譲状の審理が始まりました。大御所・足利義政の申しつけにより譲状の真偽から調べなおしています。
新九郎は自分が描いた花押が見破られるのではないかと心配していましたが、姉の伊都は落ち着いています。
そうは言っても落ち着かない新九郎は悪夢を見ました。
そうした中、第九代将軍・足利義尚の半始ならびに沙汰始の儀が11月22日決まりました。
しかし、その直前に問題が起きました。畠山政長が管領を辞めるというのです。しかし、細川京兆家の細川政元も管領を引き受けるつもりがありません。結局、畠山政長が管領を続けることになりました。
12月3日に細川政元が誘拐されてしまいます。京兆家の内輪もめです。この拉致事件は、翌年3月まで政元が救出されるまで引っ張ることになりました。
足利義政は今川家の家督相続問題について考えていました。
今川新五郎範満を推している取り巻きは、30年前の今川家の内訌の際に、父・足利義教の家督裁定に最後まで最後まで逆らい、新五郎の父の家督相続を望んだ者たちとその息子たちです。
今回の件は、その時の意趣返しなのか…。少し灸を据えなければならない、そう考えました。
12月21日。幕府は譲状を本物と認め、龍王丸の相続が認められました。しかし、守護職補任はそのままとなります。
新五郎の苦渋
文明12年(1480)、正月中旬。新九郎は駿府にいました。
龍王丸の遺領相続を認める御内書が出たことで、新五郎を含めた駿河国内の人心の変化を確かめるために駿府に向かったのです。
新九郎と今川新五郎範満は3年3か月ぶりに会いました。新五郎は上杉治部少輔政憲の娘むめを妻に迎えていました。
新九郎は伊都の名代として、譲状を新五郎に見せました。そして、龍王丸が幼少のため、元服するまで当主代行を続けてもらう旨を伝えました。
小川林叟院には山中才四郎や多米権兵衛らがいました。
龍王丸をすぐに元服させて今川家を取り戻すと考えた新五郎の重臣たちは、引き延ばしの交渉を始めました。
そして、新五郎範満は新九郎に7年後に駿河を返すと約束しました。
交渉の結果は龍王派の堀越源五郎義秀に伝えました。これからの7年間で足場を切り崩していくしかありません。
新九郎は新五郎範満から起請文を預かりました。一方、新五郎側の福島修理亮も伊都からの起請文を要求しました。
新九郎は連れてきた家臣を引き連れ、さっそく堀を埋めるために伊豆に向かいました。
伊豆堀越御所。足利義政の兄・足利左馬頭政知と会いました。
政知は、関東管領の上杉顕定と古河公方の足利成氏が和睦に向かって動いている噂があると言いました。もし本当なら、自分の存在価値がなくなる、と考える政知は和睦をさせてはならない…、とつぶやきました。
複雑怪奇
前年の文明11年7月。
武蔵国の江戸。狐は太田道灌の動向を探っていました。
太田道灌は下総の千葉輔胤、孝胤の親子と干戈を交えていました。千葉氏は古河公方・足利成氏の与党です。
道灌は1月から千葉孝胤が籠る臼井城攻めに取り掛かっていましたが、攻め落とせていませんでした。
古河公方は太田道灌の下総攻めを承認し、援軍すら送ってきていました。関東の情勢の風向きが変わり始めていたのです。
古河公方は本気で和睦を考えていることが分かりました。
太田道灌は弟・太田資忠の陣を引き上げさせましたが、その際に資忠は道灌が得意とする誘い受けで城を攻め落としましたが、討ち死にしてしまいました。太田道灌は右腕を失ってしまったのです。
閏9月、武蔵国児玉郡御嶽城、長尾景春の姿がありました。景春は再起しました。
武蔵国川越城で太田道灌は扇谷(上杉)定正と会っていました。定正は関東管領・上杉顕定が道灌を快く思っていないと伝えました。
そして、現在ーーー
狐は新九郎に関東の状況を話し始めました。
- 古河公方・足利成氏が関東管領・上杉顕定との和議、室町殿との和睦の道を探り始めたこと。
- 古河公方の味方のうち、長尾景春と千葉孝胤は和睦に反対の立場で、古河公方が両者を切り捨てるために太田道灌に近づいたこと。
- それが面白くない関東管領・上杉顕定が和議の話に反応しなくなったこと。
- 長尾景春が蜂起し、太田道灌が退治のために出陣していること。
関東は複雑怪奇な状況になっていたのです。
新九郎は文明12年2月も半ばに京に戻りました。
そして、伊都に駿河で交わした約束を話し、伊勢貞宗にも状況を報告しました。
新九郎が関東に下っている間に、弟・弥次郎が元服し、盛興と名乗りました。烏帽子親は伊勢加賀守貞綱が引き受けてくれました。
新九郎は弥次郎から京兆家の状況を聞きました。
昨年の文明11年12月3日に、陳情のために上洛していた丹波国の被官・一宮宮内大輔が細川政元を野遊びに誘い、そのまま一宮の館に幽閉されてしまったのです。
一宮宮内大は政元を手元に置くことで、守護代内藤との争いを有利に運ぼうと考えていたのです。
こうした中、京兆家では細川兵部大輔勝久が京兆家家督相続の動きを始めていました。細川一門は一枚岩ではなかったのです。
関東では京兆家と連絡が取れない堀越公方・足利政知がいらだっていました。
同じく、古河公方・足利成氏は足利義政への和睦申し入れを関東管領・上杉顕定の取次によって働きかけようとしていましたが、取次が行われないことに業を煮やしていました。
その機会をとらえて動き出したのが長尾景春でした。
それぞれの道
文明12年(1480)3月23日。
細川政元救出のため、庄伊豆守元資、安富新左衛門元家が動き始めました。
ですが、その日に、一宮宮内大輔親子は一族の一宮賢長の裏切りに会い、これをきっかけに、庄・安富の勢力により攻め込まれます。
細川政元は同月26日に帰京しました。
新九郎は駿河の様子を見るために再びの下向を考えていましたが、将軍・足利義尚はそれを許しませんでした。
4月14日。足利義尚の婚儀が執り行われました。日野家からの輿入れです。
新九郎は庄伊豆守資元を会いました。資元は備中へ下向するところでした。所領の草壁荘でのんびりするというのです。
小笠原政清邸。
新九郎は父・正鎮が借りていたものを返しに来ていました。ぬいとも久々に会いました。
5月2日。
小川弟での酒席のことで足利義尚が出家すると、髻を切ってしまいました。
渡辺帯刀へ借金の返済の帰り、宗長に出会いました。一休宗純和尚を送る最中でした。
新九郎は宗長の紹介で大徳寺に座禅に通うようになります。