子母澤寛「勝海舟 黒船渡来」第1巻の感想とあらすじは?

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勝海舟といえば子母澤寛氏でしょう。

本書は子母澤寛氏の代表作でもあり、勝海舟を書いた決定版ともいえる小説です。文庫で全六冊。

子母澤寛氏は勝海舟に限らず、父・小吉のことも描いており、「父子鷹」など勝父子に関する作品が他にもありますので、あわせて読むのがおススメです。

第一巻は表題の通り、黒船が渡来して激動の幕末へと突き進み始める頃を舞台としています。

まだ幼さの残る勝麟太郎(勝海舟)が剣の師・島田虎之助の所で剣を学び、永井青崖の所で蘭学を学ぶ姿が描かれ、そこから長崎伝習所で船の実地を学びに行った三十代半ばまでが描かれています。

勝麟太郎に関しては、政治家としてのイメージが強いですが、世に出たのはその学識からでした。つまり最初は学者として世に出た人物だったのです。

実は本書が扱っている時期に相当する部分は、子母澤寛氏の他の作品によって詳しく書かれています。そのため本書では麟太郎が世に出るまでのダイジェスト番のようなものとなっています。

この第一巻で、後々までずっと麟太郎と強い結びつきを持つ人物達が登場します。

例えば大政奉還をして徳川家が野に下った後も徳川家を支えた大久保忠寛(後の一翁)が早くも登場します。

ですが、この「勝海舟」という作品において最も重要な登場人物の一人であるのは大久保忠寛よりも杉純道でしょう。

後に名を改め杉亨二(すぎ こうじ)といいました。日本近代統計の祖と呼ばれ、法学博士でもあった人物です。

麟太郎の私塾の塾長を引き受けたくらいですから、麟太郎とは相当馬があったのでしょう。

本書を読み進めていけば分かりますが、性格はある面において麟太郎によく似ており、その一方で麟太郎にはない几帳面さや金銭面での才覚があったようです。

この杉がとても勝麟太郎という人間を支えたことが分かります。それは麟太郎本人というよりは勝家を支えたと言ってもいいです。

この杉がいたからこそ麟太郎は好き勝手に出来たという側面があったように感じられます。

杉は万延元年(一八六〇)に幕府の蕃書調所教授手伝となり、四年後に開成所教授となります。この頃に洋書の翻訳に従事し統計学と関わるきっかけを得たようです。

明治維新後は静岡藩に仕え、その後、太政官正院政表課大主記を命ぜられ総合統計書「日本政表」の編成を行いました。明治十二年(一八七九年)には国勢調査の先駆となる調査を行っています。

後進の育成にも力を注ぎ、その最期まで統計学の発展に貢献しつづけた人物でした。

享年九十。勲二等瑞宝章、没後に従四位を追贈。

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内容/あらすじ/ネタバレ

島田虎之助は師匠・男谷精一郎から勝麟太郎を頼まれ剣を教えていた。その麟太郎の父・勝小吉が道場を訪ねてきた。小吉は月代の延びた頭に、腰までの黄色い短羽織を着て、女のような小紋袷の着流し姿だ。

小吉は師匠・男谷精一郎の叔父だ。三十七歳で隠居させられている。

島田は小吉に尋ねられ、剣術遣いにはなれない、剣術遣いになる剣術ではないといった。

小吉は島田を道場から連れ出した。だが、小吉が途中で喧嘩を始めてしまう。いくら四十俵の小禄であっても徳川直参の御家人である。その姿を見て島田はひどいと思った。この人物が、かつては大試合の試合行司を勤めたとは信じがたい。

だが、この小吉も遠くに倅・麟太郎の姿を見るやいなや吹っ飛んで逃げてしまった。

麟太郎と一緒に道場に戻った島田は、麟太郎が蘭学をやるというのに大いに賛成した。だが、剣術も止めるなと言った。剣術は己を捨て直々に神を見て、仏を見る修行だ。

麟太郎は箕作阮甫に師事しようと考えていた。

勝家は岡野の邸内の隅に住んでいる。当主は孫一郎。その隠居が倒れたとの知らせが舞い込んだ。

小吉は隠居の江雪が妾の所で死んだことを知り、その遺骸を屋敷に運んだ。だが、当主の孫一郎の行方が分からない。どこぞでぶらぶらと遊んでいるらしい。とはいえ葬儀をせねばならぬ…。

麟太郎は箕作阮甫が江戸人を侮っていることに腹を立て師事することを止めた。

その代わりに、黒田家の永井青崖に師事することにした。青崖は学問に江戸人も西国人もないという。命がけでぶつかっていくだけだと。

麟太郎は島田虎之助の代稽古として野州烏山侯の大久保佐渡守の屋敷に行った。

やがて麟太郎は島田から免許皆伝を頂いた。これを聞いた小吉は鳶が鷹を生んだと喜んだ。

島田虎之助は老中・水野越前守から呼ばれての外出が多くなった。他に男谷精一郎、御徒町の伊庭先生も呼ばれているそうだ。

そうした中、筑前へ帰っていた永井青崖が江戸に帰ってきたとの知らせを受けた。この青崖の所で講義を受けている中、六十余の老人が入ってきた。

都甲市郎左衛門といい、元公儀の馬役だった。蘭学では青崖のずっと先輩で、たいそうな学者だという。それが麟太郎に遊びにおいでといった。

武州徳丸ヶ原で高島秋帆の西洋火術演習が行われたのを、麟太郎は島田虎之助について見に行った。

島田は火術そのものよりも、整然と行われる洋式訓練に恐るべきものを感じていた。同じ演習を見に来ていた都甲市郎左衛門も同様の意見を述べた。

この頃の麟太郎は多忙を極めていた。

麟太郎に代稽古に来なくていいという屋敷が増えてきた。それは麟太郎が蘭学をやっているせいである。

島田虎之助は気にするなと言うが、道場の評判が落ちていくのは麟太郎にとって耐えられないことである。麟太郎は道場を去ることにした。

弘化二年。麟太郎は二十三歳。

麟太郎はあることで知り合った君江と親しくなっていた。君江は本所元町の炭屋の娘で辰巳芸者。また、この頃に一番組纏持ちの岩五郎と兄弟分になっていた。

母・お信は麟太郎が君江にその気があることを知り、君江も麟太郎を憎からず思っていることから、外堀を埋めてから小吉にこのことを話した。

君江は本名が「おたみ」である。そのおたみが勝家の嫁に入った。

佐久間象山が蘭学は遅れているから洋学を始めたという噂が伝わってきた。麟太郎は象山にてらっている印象を受けている。

その麟太郎の勝家はひどい貧乏をしている。小吉の働きはいっぱいだし、麟太郎はまず一文の収入もない。が、麟太郎はそんなのは平気である。やり口が小吉に似てきている。自分はただただ学問に一生懸命だ。

この貧乏の中、女の子が生まれた。お夢と名付けられた。

麟太郎は徹夜して「和蘭事彙」を書き写している。

その中、小吉が急病で倒れたとの知らせがきた。どうやら軽い中風のようだ。

出来上がった「和蘭事彙」二部の内一部を売った。

麟太郎は商用で出府していた蝦夷函館の渋田利右衛門と親しくなった。

おたみが第二子を妊娠した頃のことである。生まれたのは女の子。今度は小吉がお孝と名付けた。麟太郎は病父の言葉にほんとうに心から逆らわなかった。

麟太郎は久しぶりに都甲市郎左衛門を訪ねた。そして蘭学の塾でも始めろといわれる。この都甲市郎左衛門はしばらくして江戸を去ってしまった。

麟太郎は塾を開いた。だが、ものすごいぼろ屋だから、親しい者達がとにかく書生達が出入りの出来るような家にでっち上げてくれた。

だが、麟太郎はいやいやな顔をしながら教えている。この勝塾に杉純道と名乗る若者がやってきた。

小吉が又倒れた。これで四度目だ。そして小吉が四十九歳で亡くなった。嘉永三年庚犬九月四日のことである。

麟太郎には三人の妹がいる。だが、この三人は両親や兄たちと一緒に暮らすことが出来なかった。生まれるとすぐに小吉の本家・男谷家が連れて行ってしまったのだ。

だが、その内の一人お順が父の訃報に駆けつけてきた。そしてそのまま勝家に居候することになる。

麟太郎の代わりに塾を切り盛りするようになった杉純道は万事なかなか抜け目なくやってくれる。おかげで、おたみの懐に収入が増えていった。

そして初の男の子が生まれた。麟太郎三十歳。小鹿と名付けられた。麟太郎が山中鹿之助が滅法好きな所から名付けられたのだ。

佐久間象山がひょっこりと勝塾を訪ねてきた。その象山は勝に、これからの日本は海軍だ、海軍をやるがいいといった。

象山が帰った後で、おたみは象山がお順に執心だという。象山は四十二、一方のお順は十七である。おたみの勘違いだと言ったが、おたみはそんなことはないという。

小笠原佐渡守から勝へ用が来た。鉄砲をあつらえて欲しいというのだ。これを聞いたおたみと杉は涙を流した。勝が世に出ることになる、一流の学者として世に出るからだ。

麟太郎は岩次郎を訪ね、腕のいい鍛冶屋を紹介してもらった。鉄五郎という。この鉄五郎が命を賭けて麟太郎の仕事を請け合った。

この頃に島田虎之助が亡くなった。

お順が佐久間象山の嫁に行くことになった。この象山が麟太郎に横額を贈ってきた。それには「海舟書屋」と書かれている。麟太郎に海軍をやるようにとの気持ちが込められている。

嘉永六年。アメリカのペルリが軍艦四隻を引き連れて浦賀に現われた。この年、将軍の代替りがあった。十三代家定になったのだ。

年がかわって、正月そうそうにペルリが再びやってきた。

佐久間象山が町奉行に呼び出されて戻ってきていない。それを心配したお順が麟太郎を訪ねてきた。罪が定まったのは九月になってからのことで、松代で蟄居となった。お順も松代に行くことになった。

大久保忠寛が麟太郎に呼びかけた。五つか六つ年上で、家定公お気に入りの天下の目付だ。この頃は海防御係。後の一翁である。

それと話している内に、麟太郎は次第に忠寛を叱りつけるような調子になった。なにせ海防策は麟太郎の一番のお得意だ。

あだ名を「もののふ」という忠寛は、お務めにいささかの邪もない。それを感じた麟太郎は、軍艦が必要なのだと説いた。同時に海軍生の養成が第一だと言った。

忠寛が帰った後、母もおたみも岩次郎も喜んだ。一介の小普請を幕府の顕官が訪問したのだ。

二男が生まれ、四郎と名付けられた。

大久保忠寛から使者が来た。天文の蕃書和解御用の局が洋学所と名を変え、そこに出ろという。麟太郎はその御用出役になったのだ。

これを聞いた杉純道は飛び上がって、塾生達に報告に行った。この杉も嫁をもらっていた。おきんという。老中阿部伊勢守の御側役をしている中林勘之助の妹だ。

大久保忠寛と一緒に岩瀬修理もいた。そしてその二人から海防係御目付役御用になってもらいたいといわれた。

麟太郎は断った。老中阿部伊勢守の内意とはいえ、洋学所にいれば新刊の蘭書がどんどん読め学問が進む。いい修行所である。それを役人の下っ端になってしまうなんて飛んだ馬鹿な話しである。

麟太郎は亡き師・島田虎之助の遺児・虎吉を産んだお筆のことを心配していた。

麟太郎の弟子に伊沢謹吾がいる。ペルリ応対で名をあげた浦賀奉行伊沢美作守の二男だ。この伊沢の家に呼ばれた。

日本海軍生を養成しようということになった。岩瀬修理と大久保忠寛の推挙によって勝麟太郎に白羽の矢が立った。

麟太郎は長崎へ行くことになった。杉純道も長崎に行きたがったが、阿部伊勢守に乞われて江戸にとどまることになる。

麟太郎は矢田堀景蔵らとともに長崎に船で向かった。だが、麟太郎はとんと船に弱い。ひどい船酔いで寝たきりとなってしまう。

江戸で大地震があったことが知らされた。この時に藤田東湖などが死んでいる。だが、不思議にもぼろの勝塾は何の被害もなかった。これには塾生達も目を見合わせた。

長崎では長崎御目付で海軍伝習所取締の永井玄蕃頭が出迎えてくれた。麟太郎も知っている相手である。船が用意され、観光丸と名付けられた

やがて永井は伝習生一同を連れて阿蘭陀屋敷に向かった。伝習生の教育班長はペルスライケン大尉である。

伝習生にはまだ二十一の榎本釜次郎や浦賀与力の中島三郎助、伴鉄太郎もいた。

この長崎で麟太郎は一人の女性と親しくなった。姓は梶、名をお久という。

麟太郎は長崎で二度目の正月を迎えた。安政四年。三十五歳となった。

永井玄蕃頭の後任に木村図書喜毅が来ることになった。

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本書について

子母澤寛
勝海舟1 黒船渡来
新潮文庫 約四九五頁
江戸時代

目次

開眼
天悠々
火焔

旅語
月明
送りまぜ
春の花
犬蓼
同胞
菊花
離合
散花賦
壬子図
津走魚
風浪
阿修羅琴
菊月
紅い花
夏風
残る鳥

登場人物

勝麟太郎
おたみ(君江)…麟太郎の妻
お夢…長女
お孝…次女
小鹿…長男
四郎…二男
勝小吉…麟太郎の父
お信…麟太郎の母
お順…麟太郎の妹
杉純道
おきん…杉の嫁
岩次郎…一番組の纏持ち
三公
小林隼太
丑松
岡野孫一郎…勝家の大家
長谷川…禰宜
中村多仲
島田虎之助…勝の剣の師
大野文太…島田の内弟子
島田鷲郎…虎之助の兄
島田伊十郎…虎之助の兄
お筆
虎吉…虎之助の子
永井青崖(助吉)
都甲市郎左衛門
渋田利右衛門
高野長英
鉄五郎
佐久間象山
大久保忠寛(一翁)…目付海防係
岩瀬修理…目付海防係
伊沢謹吾
矢田堀景蔵
佐藤与之助
榎本釜次郎
中島三郎助…浦賀与力
伴鉄太郎
松平金之助
永井玄蕃頭…長崎御目付
木村図書喜毅
ペルスライケン大尉
梶お久

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