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村上元三の「岩崎弥太郎」を読んだ感想とあらすじ

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覚書/感想/コメント

三菱財閥の創業者である岩崎弥太郎の生涯を描いた小説。弥太郎は本来「彌太郎」と書く。

岩崎弥太郎は土佐の地下浪人の子として生まれた。地下浪人とは土佐藩特有のもので、郷士株を売ってしまった者を指す。つまりは元郷士ということであるが、完全に士分から離れたわけではないところに、この制度の複雑さがある。

その後幕末の動乱期を経て、土佐藩の有する資産等を引き継いで事業を拡大していく。

最初は藩の出先機関である土佐商会から始まる。その後、土佐商会は徐々に藩から離れる形になり、その過程で土佐藩の有する資産を引き継ぐ。

主なものに汽船がある。つまりは船事業である。三菱の発祥はこの船事業にあるのだが、この船事業というのは同じ土佐藩の坂本龍馬が海援隊でやっていた事業を引き継いだという見方もできる。

この船事業は現在でも会社として残っている。日本郵船である。

とはいえ、日本郵船ができたのは弥太郎の死後のことであり、それまで三菱会社と共同運輸会社が競争していたのをやめ、和解成立後、合併して日本郵船会社となる。

会社名として三菱になるのはだいぶ後になるのだが、三菱マークはこの時代に作られている。

土佐山内家の紋が「三つ柏」であり、岩崎家の家紋は「三階菱」であった。これらに似たマークとして作られたのが「三菱」である。

後半では本格的に海運王としての道を歩む岩崎弥太郎の姿が描かれる。

だが、描かれる姿は決してきれいなものではない。三菱が成長した背後には台湾出兵や西南の役などでの大きな儲けがある。いわば戦争商人の側面もあるというのである。

『(前略)戦争というのは、おびただしい人間が死ぬ代わり、それで利益を上げる人間たちが多いのだから、これから先も戦争というのはやむまいな。』

こうして築いた資産がそのまま三菱財閥の基礎となる。

幕末の動乱期を過ぎ、新たな安定した時代に入ると、弥太郎も次のように考えたようだ。

『おれは自分の一代、思う通りの生き方ができるという自信はあるが、久弥の代になったら、そうは行かんだろう。三菱の組織も、やがては世の中の移り変わりに応じて、変えて行かんけりゃあなるまい。おれのやり方は、おれ一代で終るだろう。それは、お前にもようわかっていると思う』

考えの変化というのは、教育にも力を入れた点にも表れている。

今はないが、弥太郎は商業学校の三菱商業学校を設立し、商人の育成に努めた。この学校は明治義塾というかたちで承継されることになる。ちなみにこの明治義塾も現在はない。

さて、この三菱創業期を支えたのが石川七財、川田小一郎、森田晋三、近藤廉平らである。

彼らが弥太郎の右腕・左腕・右足・左足となって働いたからこそ、巨大な財閥を形成するに至るのである。

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内容/あらすじ/ネタバレ

檜笠東之助が江戸へあと一歩という品川宿で雨に降られ、脇本陣に入った。そこで京都への往復一ヶ月の旅の疲れを休めていた時、品川支配代官の竹垣三右衛門がやってきた。土佐守様奥方の用いる品物を京から持ってきたそうだが、一応長持ちの中身を拝見できないかという。

これを東之助は突っぱねた。だが、もしも相手が中を調べると頑張っていたら、無事ではすまされない場合であった。主君・山内土佐守豊信の正室・正子の養父・三条実方から書状が入っている。直に渡してくれたのは実方の子・実美であった。

吉田元吉に君公に拝謁する前に自分に会いたいというのはあらかじめ東之助も覚悟していたことである。

吉田元吉、号を東洋。山内家譜代の侍ではなく、山内家入国前の長宗我部家の侍である。家格を重んじる山内家にあっては、異例の昇進をおくっている。

主君の山内土佐守豊信は、この嘉永七年、二十八歳だった。もともと分家の生まれである。それが相続したのには、薩摩の島津斉彬や幕府の阿部伊勢守正弘らの運動があった。

分家ゆえに、最初のころは思うように政務をとれなかった。だが嘉永六年になって、政治改革に手を付けた。そうした中で吉田元吉を抜擢している。

この年の三月。幕府とアメリカとの間に日米和親条約が調印された。

一年くらい前までは山内豊信は鎖国攘夷論者であった。だが、水戸の藤田東湖などの話を聞いて、悟るところが多かった。他に中浜万次郎から海外の事情を聴くなどして、攘夷への考え方が変わったのだ。

土佐藩は他の大名家と違い、侍たちの足並みが揃うようで揃わない。山内家譜代の上士階級と長宗我部家の遺臣を祖先とする郷士ら下士階級は事あるごとに反目し合っている。

奥宮慥斎という人物が檜笠東之助の同僚になることになった。この奥宮の供の中に岩崎弥太郎という若者が加わっており、これから先の長い年月を、地下浪人出身の弥太郎と仇敵のような間柄になる。

吉田元吉の改革が国許に大きな動揺を起こし、使者の往来が激しい。そういうなか、旗本で山内家の親類でもある松下嘉兵衛が客として招かれた。この席で元吉が松下を殴りつけてしまう。

結局、元吉は仕置家老を免ぜられ、土佐に戻って謹慎を命じられた。

檜笠東之助の岩崎弥太郎に対する印象は最悪のものであった。上士階級の東之助への遠慮もなく、むしろ横柄な言い方をする。

この弥太郎の家は父の弥二郎も母のみわもところの百姓とはそりが合わないようである。

その弥太郎がある日、形のあるものの繁栄は絶頂を過ぎれば次第に衰えるもので、徳川の天下も同様だといった。

弥太郎は洒落や冗談で言ったのではなく、本心から言ったのだろう。後悔の色を見せず、傲岸で尊大な態度を見ていると東之助は怒るのを忘れてしまいそうだった。

しばらくして、弥太郎が東之助の長屋を訪ねてきて、安積艮斎の塾に入門することになったという。

安政元年。土佐一円で大きな地震があった。翌年早々に山内豊信は土佐に戻った。東之助もこれに同行して帰る。それを弥太郎が見送っていた。

弥太郎は安積艮斎の塾の学費をおさめていなかった。その代わりに甥の今七という青年の守りをしている。

七月。同郷の岩崎鉄五郎の息子・馬之助が弥太郎を頼って江戸に出てきた。それから弥太郎は今七の守りや雑用などを馬之助に押しつけてしまった。

そんな折、安政の大地震が起きた。

弥太郎が土佐に帰らなくてはならなくなったのは、母のみわからの手紙が届いたからである。父がさんざんに殴られて身動きができなくなってしまったらしい。徒歩で二十七日から八日かかるところを十七日間で郷里に帰った。

井ノ口村の者は一騒動起こるのではないかと思っていたが、年が明け安政三年(一八五六)の三月頃まではおとなしくしていた。

だが、郡奉行所に呼ばれて、訴訟を引っ込めるように言われたから、腹の虫がおさまらない。結局、弥太郎は牢屋に入れられてしまった。

牢の中で知り合った安蔵、通称江戸安を使って弥太郎は江戸を出る前に考えていたことを実行に移し始めた。江戸安の子分たちを通じて上質の鰹節を買い占めたのだ。

八月にアメリカの総領事ハリスが下田に領事館を定めた。

山内豊信は絶えず江戸や京都と連絡を取って問題の研究を怠らない。一つは将軍の継嗣問題であり、一つは幕府の条約問題であった。

使者を往復させていることを幕府にかぎ付かれたと悟ると、目立たない使者を選ぶことにした。それが奥横目の檜笠東之助であった。

江戸の奥目付を務める東之助が豊信と内々で話し合っているのは、国家老たちの神経を刺激した。

江戸安が弥太郎に鰹節の買い占めの一件で、才谷屋の坂本おとめがいかさまだと言っていると告げた。弥太郎はむっとして、坂本おとめに会いに行った。この時に出会ったのが坂本龍馬だった。

弥太郎と龍馬が喧嘩しているのを檜笠東之助が見た。この龍馬という若者は、家業を継ぐ意思もなく、山内家の禄を食んで奉公する気持ちもないらしい。土佐には変わり者が多いが、坂本龍馬は目立つ存在なので、東之助も注意して見ていた。

弥太郎に門下生ができた。饅頭屋の長次郎である。のちの近藤長次郎。それを檜笠東之助は紹介された。

このころ吉田元吉と会っている内に、出来る若者を何人も教えてもらっていた。その中に後藤保弥太(後藤象二郎)という二十歳の若侍がいる。

山内豊信が容堂の号を用いるようになった。

弥太郎は鰹節の売買で五十両ほどのもうけを得ていた。そして今度目を付けたのが紙の売買であった。だが、これは睨まれた。

その中、弥太郎は吉田元吉の正式な門人となった。後藤保弥太の紹介であった。すでに池内蔵太や饅頭屋長次郎などが弥太郎を師匠のように扱っている。

吉田元吉のところでの教えは長くは続かなかった。というのは元吉が蟄居から赦免され、再び仕置家老として江戸に行くことになったからである。

弥太郎は城下に出るたびに、才谷屋を訪ねおとめと話し込んだりした。だが、龍馬という男は嫌いであった。

安政五年。井伊直弼が勅許を待たずにアメリカとの通商条約に調印した。徳川慶福が将軍世子に決まり、将軍家定が世を去った。その直後から井伊直弼による安政の大獄が始まった。慶福は名を改め、十四代将軍家茂となった。

この年、弥太郎は檜笠東之助から呼ばれ、吉田元吉の推挙により、下許武兵衛と二人が長崎へ派遣されることになったといわれた。

長崎に着くまでの間、弥太郎と下許武兵衛との間にいざこざがあったが、長崎に着いてその独特の雰囲気の前に二人の息が合うようになってきた。

丸山の廓に通うようになってから、弥太郎は丹波の商人六兵衛と知り合いになった。そしてもう一人、出会ったのが井筒という源氏名の遊女である。

この頃には、下許武兵衛と二人で使い込んだ公金は二百両に及んでいる。

六兵衛が長崎では樟脳が十斤で金一両で売れると教えてくれた。酔いがさめる話である。樟脳ならば土佐の特産品でもある。だが、この商売はすぐには実行に移せなかった。

そうこうしている内に、大老の井伊直弼が殺されたとの知らせが舞い込んできた。

隠居している山内容堂は、この頃には形式的な攘夷論から脱却して、尊皇の実を挙げ、その一方で幕府を助ける、公武合体を実現しようと考えていた。

井伊直弼が死んだ今、山内家の下士の間で勤王派の結束を強くしようという動きが見えている。容堂はそうした動きが表面化するのを好んでいない。

檜笠東之助はこうした暴発寸前の若者たちを寄合に集めて忌憚のない話をした。

春ごろから弥太郎は井ノ口村の堤防改修の仕事をしていた。

あくる文久二年。弥太郎が所帯を持った。相手は吾川郡御畳瀬村の医者の養女・きせである。

弥太郎が長崎で仕入れてきた樟脳の話はようやく藩の仕事してとりかかろうとしている。

同じ年、武市半平太が高知に帰ってきた。それまで薩摩や長州、京都へのぼって尊攘派の志士たちとあっている。満を持しての帰国であった。

半平太は正式に吉田元吉に目通りを願って自説を述べた。檜笠東之助も隠居・容堂の側用人並という資格で同席した。

東之助の見る限り、会見は何回重ねても二人の意見が近づくことはないだろう。

武市半平太は吉田元吉を殺そうと考えていたわけではない。重傷を負わせ、しばらく政治活動ができないようにすればいいと考えていた。だが、刺客たちによって吉田元吉は殺された。そしてすぐさま吉田一派が藩政から一掃された。

檜笠東之助は弥太郎が好きではないが、吉田元吉一派として見られている事を気にして、故郷を離れろと忠告した。

一端は高知を離れた弥太郎だったが、江戸へ行く途中で吉田一派が殺され、それを見た東之助は弥太郎に再び高知に戻れと指示をした。

いずれにしろ、片腕ともいうべき吉田元吉を殺され黙っている隠居・容堂ではない。

文久三年は尊皇攘夷派にとって厄年となった。岩崎弥太郎にとっても全くの雌伏の年であった。

慶応元年になり、弥太郎は金にもならない仕事を続けていた。この年、武市半平太らが切腹を命ぜられた。

同じ年、きせが男の子を産んだ。久弥と名づけられた。これが幸運を呼んだか、官有林の払い下げの許可が下りた。

高知の城下では開成館が設けられ殖産業の仕事を開始している。総裁は後藤象二郎で、弥太郎は象二郎に呼ばれて開成館の仕事を手伝えと言われたが断った。

その前年、後藤象二郎は長崎に行き、坂本龍馬と会って海援隊を組織する下話がまとまっていた。その前提の上で、後藤は弥太郎に大坂と長崎に土佐商会を作るから長崎に行けという。

弥太郎が長崎についてうんざりしたのは、後藤象二郎が長崎で二十万両近くの借財をこしらえ、取引がうまくいっていないことであった。そして、好かぬ坂本龍馬と一緒に働かなくてはならなかった。

弥太郎は長崎で仕事を進めるために外国商人の中に友達を作るのが第一と考え、イギリス商人のトマス・グラバと親しく付き合うようになった。

十二月五日。一橋慶喜が征夷大将軍となった。

情勢は深刻さを増していた。薩摩と長州が手を結び、幕府は体面を維持することだけに努めている。王政復古の機運が強くなっていた。

そうした中、長崎では紀州藩との間に面倒な事件が起きていた。それは坂本龍馬の乗っている汽船いろは丸が紀州藩の船に沈められてしまったことである。

岩崎弥太郎は丸山の遊女・青柳と割りない仲になっている。その青柳が朝鮮の商人・伯楽性を紹介した。その伯楽性は弥太郎を気にいって、国の事情をいろいろ話してくれた。

慶応三年(一九六七)。

檜笠東之助が弥太郎にもうすぐ王政復古の建白書を将軍に出すことになっていると語った。そろそろ大坂に行って大坂の土佐商会を手伝えという。願ってもない話だ。

この年、坂本龍馬が暗殺された。このことは弥太郎にとって打撃だった。いくら向こうが自分を悪く言っていたとしても、弥太郎のことをちゃんと理解していたのは龍馬だったからである。

ウマの合う間柄ではなかったが、弥太郎も龍馬の仕事がよくわかっていたし、龍馬も弥太郎のやり口を合点していてくれた。

幕府に見切りをつけた外国商人が大坂商人を通じて大名の台所へ食い込もうとしている。このままでは立ち遅れそうである。弥太郎は長崎へ急いで戻ることにした。

慶応三年十二月九日。王政復古の大号令が発せられた。

長崎から幕府の勢力が一掃され、長崎の政治は諸藩の代表たちによって行われることになった。弥太郎は埒外に置かれた。それでも不平はなかった。

明治元年。檜笠東之助がふいに長崎に姿を現した。旧海援隊士をまとめて大阪に引き上げるようにという命令を出すためだ。

弥太郎には後藤象二郎から大阪の土佐商会の仕事に専念するようにというお達しだ。そして、ついでに土佐藩財政の尻拭いをせよという。

東之助はぼんやりと遠くを見て、もうじき侍のいらなくなる世の中が来る、といった。

長崎土佐商会の残務整理をして外国商人への負債を勘定して見ると、明治二年正月の時点で五十万両を越えていた。

弥太郎はこの頃個人の信用というものを考えていた。これまでは山内家二十四万石の力を背景に商売をしてくれた。相手もそれを承知で対等に付き合ってくれた。それが無くなった場合の自分の信用というものがどの程度なのか、それが弥太郎にも分からなかった。

後藤象二郎が東京に転任になるそうだ。大阪で強い後押しを期待していた弥太郎はため息をついた。

そして、版籍奉還の動きがあるという。そうなると土佐二十四万石の力も薄らぐことになる。

第一心配しなくてはならないのは、これまで発行してきた藩札の始末だ。藩の債務は百五十万両、外国商人に払わなければならないのが五十万両ある。

十五年ぶりに東京と名の変わった江戸の町に足を踏み入れた。弥太郎は初めて山内容堂に目通りがかなった。

土佐藩では藩札の額が太政官札の発行以来値打ちを失い、七割か八割になっている。

この頃、明治政府は三百年続いた徳川幕府の制度を一気に壊そうとしていた。商業の組合を解体させ、薩摩・長州と密な関係にあった大商人に通商と為替の会社を設けさせようとしている。これは土佐商会のような藩会社と真向にぶつかることになる。

今はまだ藩の力がある。その力があるうちに土佐商会の名で派手に仕事をしろといわれた。

弥太郎の目付として始めつけられていた石川七財と、藩の会計方の川田小一郎が弥太郎の両腕として働き始めた。これに土佐商会の役人をつとめていた森田晋三が加わり、弥太郎には三人の信頼できる部下が揃った。

同じころ、檜笠東之助が嫁を貰った。お袖という。そして新たな仕事を始めるようでもあったが、内容を明かそうとはしなかった。

弥太郎が諸藩と外国商人の間に立って貿易の仲介をやったのが明治二年の秋であった。

弥太郎は久しぶりに土佐に戻ることになった。藩札引替を行う必要があるからだ。だが、この藩札引替は失敗するとわかっているだけに明るい気持ちにななれなかった。

この帰国の時、弟の弥之助が仕事を手伝いたいといった。

十一月。後藤象二郎と板垣退助が戻ってきた。藩札は二百二十万両発行している。たいして今回支払いできる金は二十万両しかない。

一計を案じて、弥太郎らは夜逃げ同様に大阪へ引き上げた。そして結局、人を騙すに似た所業を行うことになる。

山内容堂は土佐藩の商売の権利をことごとく弥太郎に譲ってはどうかなと、檜笠東之助にいった。

そうした中、弥太郎は後藤象二郎の娘・早苗を弟・弥之助の嫁にくれといった。

弥太郎は土佐屋善兵衛の名で土佐開成商社を設立した。これは土佐商会とは別のもので、個人の資格で三隻ほどの船を運用する。坂本龍馬の海援隊のまねである。その後、土佐藩の商売の権利を全部承継する。つまりは容堂の考えの通りに動くわけである。

明治三年。土佐開成商社は九十九商会と改称した。商標は三角菱である。

明治四年。廃藩置県が実施される。

これまでに藩から払い下げてもらったのは、三隻の汽船だけでなく、ほかにも八席の藩船があり、大阪藩邸、蔵屋敷、製糸場、樟脳製造所などがあり、他にもまだ払い下げの予定があった。

檜笠東之助が新たに始める商売について弥太郎は初めて聞いた。人力車をやろうというのだ。

そのための資金作りに土佐に持っている山林を売ろうと考えている。そしてそれを弥太郎に買ってもらおうというのだ。

明治五年。九十九商会から三川商会に改称した。

大阪に戻った弥太郎はいくつかの航路や支店の設置などでめまぐるしく動いていた。また政府が郵便蒸気船会社で大々的な定期航路を始めるのがわかっており、張り合いのある競争相手である。

檜笠東之助の仕事の目鼻が付いてきたという。一方で後藤象二郎は明治政府の中心から離れている形であった。

弥太郎が東京に滞在している内に、山内容堂が亡くなった。容堂が亡くなったのを機に、独立できるという覚悟が座った。商会の紋を菱を三つ並べたものにし、商会の名を三菱商会と変えた。

当面は政府の運送会社との競争である。それとアメリカの太平洋会社である。

東京茅場町の支店に入社してきた青年に近藤廉平というのがいた。二十四歳だった。

台湾征討軍が派遣されるという噂が流れる中、三菱商会の本店を東京茅場町に移した。

弟の弥之助は戦争を機会に金もうけをたくらむことに良心がとがめるらしいが、弥太郎はそんな感情などない。それよりも、ここで一気に半官半民の日本郵便蒸気船会社を叩きつぶし、アメリカの太平洋汽船会社と肩を並べようと考えていた。

結局、軍隊と物品の輸送にあたったのは、日本郵便蒸気船会社と三菱商会であった。これで政府の高官からの実績も認められるようになった。

台湾出兵でどのくらいの儲けがあったのかは分からない。弥太郎、川田、石川、森田、それに新しく首脳部に加わった近藤廉平たちが知っているのみである。

東京の新聞の中には、三菱のやり口を攻撃し戦争成金と呼ぶ者もいた。

三菱商会は三菱汽船会社と改称して政府から十八隻の汽船を無償で下された。三菱商船学校を作るのも政府からの条件だった。

やがて東洋航路に翻っていたアメリカ国旗が消え、三菱汽船の独占事業となった。社名を郵便汽船三菱会社とした。社則はそのままとし、会社は岩崎一家の事業であり、社長の弥太郎が全権をおさめることをはっきりとさせた。

明治八年は四十二歳の弥太郎にとって幸運の年だった。

明治九年。三菱は三十七隻の汽船を有しており、明治十年には社長以下の月給が復元した。

そこへ西南戦争が勃発した。

明治十一年。後藤象二郎が長崎に出かけた。蓬莱社が管理していた高島炭坑に関係することだ。これが三菱に関わっていることを知っているのを知っているのはわずかな人間しかいない。

この年、弥太郎は西南の役の功績で勲四等に叙せられ、三菱商業学校も設立して長男の久弥を入学させた。

明治十二年には弥之助夫婦のところに長男の小弥太が生まれた。

本書について

村上元三
岩崎弥太郎
人物文庫

目次

山内家御用
京白粉
二十四万二千石
土佐の鰹節
売言葉に買言葉
土の匂い
筋違見付
五両二分
井ノ口村

狂人の守り
安政の大地震
郡奉行所
蒸気船の模型
高知城
才谷屋の女仁王
土佐っぽ
君側の奸
馬と舟
長崎坂道
浪華楼の井筒
ぶらぶら節
玳瑁の櫛
海晏寺
二つの生き方
檜笠説法
堤防工事
吉田屋敷
第三組の刺客
東洋暗殺
長堀川
赤い手拭
鳴かず飛ばず
政変
長崎便り
海援隊
英商グラバ
いろは丸事件
英人斬り
ライフル小銃
おくんち
大坂土佐商会
龍馬の死
長崎騒動
時変転変
明治元年
明治二年
小鬢の白髪
容堂談義
三羽烏
手結の餅
歳の市
お愛お鯉
隅田川の風
容堂の馬
大阪新景
土佐屋善兵衛
三角菱
士農工商
ご馳走政策
大阪の夏
家族問答
ドンドン節
三菱
大阪東京
無届旅行
戦雲
台湾派兵
月給半減
西南の役
高島
後藤の溜息
勲四等
政変
大岩小岩
長崎の夢

登場人物

岩崎弥太郎
きせ
岩崎弥二郎…父
みわ…母
岩崎馬之助…親類
安蔵(江戸安)
長二郎(近藤長次郎)
池内蔵太
井筒
檜笠東之助
吉田元吉(東洋)
後藤保弥太(象二郎)
山内豊信…土佐藩主
正子…豊信の正室
小南五郎衛門
奥宮慥斎
下許武兵衛
中沢寅太郎
松下嘉兵衛重元…山内家の親類
安積艮斎
今七…艮斎の甥
坂本龍馬
坂本おとめ
武市半平太
岡田以蔵
六兵衛…丹波の商人
トマス・グラバ…イギリス商人
オールト…イギリス商人