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宮城谷昌光の「孟嘗君」を読んだ感想とあらすじ

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覚書/感想/コメント

前半の一巻から三巻までの主人公は孟嘗君こと田文ではなく、養父となる風洪(のちの白圭)であり、田文の師ともなる孫臏である。

白圭は周の大商人となる人物であり、ここで描かれている期間は雌伏の期間と言ってよい。また、孫臏は孫武と並んで「孫子」として名高い兵法家である。

作品からは、白圭という人物の清々しさというか、侠気というか、そうしたものが伝わってくる。

この白圭を見て育った田文が、後に多くの食客を連れて宰相となるのは、こうした養父の元で育った田文だからであろう。

白圭という人物からもたらされる雰囲気というもののせいかもしれないが、ある部分においては武侠小説的なものも感じられる。

また、白圭が身をおいている立場に近いところに、この時代を生きた偉人たちが数多く登場する点にもそうしたものを感じるのかもしれない。

たとえば、縦横家で有名な蘇秦や張儀の登場のしかた、あるいは孫臏を助けに行く場面などなど。

宮城谷氏の場合に多く見られる傾向だが、偉大な人物を描く場合、その本人だけでなく、祖父、父から描き、本人を描くという手法をとる。

それは、本人だけで人格などが形成されたわけではなく、親子二代、三代かけて表出したものが、偉大な人物という結晶になるということを描きたいためでもあろうかと思う。

さて、孟嘗君の人格に強く影響を与えた白圭は「仁と義」の人である。その商売の信念は「義を買い、仁を売る。利は人に与えるものだと思う。」ということである。

後半にきて、ようやく主人公が田文となる。

この田文だが、「孟嘗君」と呼ばれる。孟嘗とは死後の尊称といわれるが、そうではなく、孟はあざなであり、嘗は田文の食邑の名だという。

あとがきで宮城谷氏は書かれているが、孟嘗君は名ばかりが高く、実態のわかりにくい人だという。

晩年、秦に招かれ、宰相となるが、秦王の変心によって殺されそうになり、その時の脱出劇があまりにも有名で「鶏鳴狗盗」として知られる。

出世自体もわかりづらく、司馬遷の史記をもとに各国の年表をつくろうとすると、必ず筆を投げ出したくなるそうだ。つまり、司馬遷もこの戦国時代というのを整理し切れていなかったということである。これがわかるのも、宮城谷昌光氏が実際に年表をつくったからである。

だから、戦国策の記述を利用したという。孟嘗君=田文の出生についてもそうである。

ここで紹介している四、五巻での孟嘗君=田文の活躍は凄まじい。特に五巻は、孟嘗君=田文の独壇場である。

五巻も最後の方になって登場する一人の食客がいる。馮諼(ふうけん)という。最初は役に立たないと思われていたが、田文が薛に退いてから活躍が目覚ましい。

この人物について、もう少し紙面を割いても良かったのではないかと思ってしまった。

田文は多くの食客を抱えている。「鶏鳴狗盗」などからわかるのは、田文がとんでもない食客を抱えているわけであり、田文は何かの親分のような印象ですらある。

こうした雑多な食客を抱えていた田文を描こうとするのだから、どうしても武侠小説的な要素というか雰囲気が入り込むのだろう。

そうした工夫もあって、宮城谷氏の他の作品とはまた一風変わった感じに仕上がっており、面白くなっていると思う。

さて、孟嘗君と同時代を生きた人物に楽毅がいる。宮城谷氏も「楽毅」を書かれているので、あわせて読まれると面白いだろう。

書籍 孫子については海音寺潮五郎の「孫子」が面白い。

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内容/あらすじ/ネタバレ

槐の木の下を通った中年の男を僕延という。斉の君主の子、田嬰の邸内の清掃を主な仕事としている。僕延は上を見上げて青欄さま、どうなさいましたと呼びかけた。青嵐は田嬰の妾の一人である。

青欄は男の子を産んだ。文と名付けられたが、田嬰は五月五日に生まれた子は不吉だといって、殺せと命じた。

これを聞いた僕延は私がその子を匿いましょうといった。

僕延は赤子を背負って邸内を出た。僕延の前身は盗人である。そして彼に背負われている赤子こそ、のちに中華では知らぬ者のいないくらいの盛名を得る孟嘗君である。

この都は斉の首都で臨淄である。斉は山東の大国である。この時点で、臨淄の人口は五十万に達していた。

僕延はある家を目指していた。射弥という男がそこにはいた。驚いたことに射弥も赤子を匿っているようだった。わが君のご息女だという。
僕延は射弥から密命を与えられて田嬰邸に潜り込んでいたのだ。

僕延は青欄に文を預けた先を見させてくれと頼んだ。そして見に行ってみると、射弥を初めとして家族が殺されており、赤子二人の姿は消えていた…。

髪を洗っている風洪(ふうこう)の家に女が入ってきた。妹の風麗(ふうれい)だ。異母兄妹である。

風洪は塩の運送の護衛にあたっていた。ふしぎとかれがつきそうと盗賊に襲われることがなかった。一方の風麗は宮中にあがった。

今日、風麗は太子のお手がついたと得意げにいった。懐妊したと誤解され、それを利用して本当に子供を産むことにするという。だから、生まれる頃に赤子を一人捜して欲しいという。

風洪は遊里へ向かった。産みたくもない子を産まねばならぬ女がいると聞いた。いらぬならもらってやろう。そう思っていた。

隣室では射弥という男の家を襲う話しがされていた。そこにいる赤子を殺すというのだ。その赤子をもらおうかと風洪は思った。

そこへなじみの仙泉がやってきた。

赤子が二人いるとは風洪にとって誤算だった。その内の男児を風洪はもらっていった。

もう一人の女児は射弥の家を見に来て惨劇を知った隻真という青年がつれていった。隻真は殺された射弥の妻の弟である。隻真はこの建物を除いているものがいるのに気が付き、後を追った。田嬰の家に入っていったのを見た隻真は田嬰が犯人だと思いこんだ。

風洪は商人の斉巨(さいこ)の商家に入っていった。斉巨のところからすでに荷が魏へ向かって二日前に出発しているという。風洪は明朝追いかけていくことにした。

その足で家に帰ると、風麗が倒れており、腕の中には赤子もいた。さらにもう一人娘がいた。翡媛(ひえん)という。太子にばれたのだという。

風洪は三人を連れて魏へ向かうことにした。風麗も魏へ向かうつもりだったという。

魏には公孫鞅(こうそんおう)がいるからだ。かつて風洪は公孫鞅の世話をしたことがある。今では魏で中庶子になっているそうだ。ほどほどの官職だ。

風洪ら四人は斉巨の荷に追い付いた。宰領は厳建(げんけん)という男だ。風洪を兄と慕っている男・土救もいる。やがて斉巨の荷は無事に魏の安邑に到着し、鄭両という商人の家の蔵におさまった。

公孫鞅は御庶子に昇進していた。その公孫鞅を鄭両の姪であるビン林が連れてきた。公孫鞅は風麗を妻としてもらいたいといった。

公孫鞅は先日あるじの公叔座に、国政をまかせるように君に申しあげるつもりだといわれた。この年で宰相とは驚きだ。

公孫鞅の思想は農戦である。農業と戦争だ。

恵王は公叔座を見舞って驚いた。この時公叔座は公孫鞅を推挙したが、恵王は黙った。その後、公叔座は用いないなら公孫鞅を殺せといったが、恵王はいずれの言葉も死も間近の公叔座のもうろくした言葉として本気しなかった。

公孫鞅はこれを知り、魏を出ることにした。その前に風洪の元へ行き、風麗をもらいたいと頭を下げた。

秦の新君である孝公は変わった人間だという。公孫鞅は秦へ行くことにした。これに風洪も同行することにした。鄭両は秦公の側近である景監に近づくのがいいといった。

公孫鞅、風洪、風麗、翡媛と翡媛に抱かれている田文らが秦の地に立った。風洪はこの年になって無性に学問がしたくなった。

公孫鞅は景監を通じて孝公に会うことになった。公孫鞅は孝公に、君主の道は帝道、王道、覇道とあるが、どの道を歩みたいかと聞いた。

帝道というので、帝道を話し、一回目を終えた。二回目は王道を話し、三回目の覇道で公孫鞅は刑典について話し、これが孝公の興味をいたくひきつけた。

公孫鞅は秦で官職を得、妻となっていた風麗は涙を流して喜んだ。

風洪は斉へ戻るという。学問をしたいというのと、文の身許を探し当てたいというのだ。公孫鞅は学問の師として尸校(しこう)をすすめてくれた。それに尸校を秦へ連れてくれば風洪の抱える問題のいくつかは解決するともいった。

風洪は一年ぶりに臨淄に戻った。隣に住んでいる隻真という若者が風洪の家を手入れしていてくれたらしい。風洪は隻真に自分の家に住んでもらうことにして、尸校を探し始めた。

久しぶりに仙泉に会いに行ってみたら、仙泉は身請けされていた。もしかしたら臨淄に戻る途中で寄った大梁で見かけたのが仙泉だったのかもしれない。この帰り、風洪はいきなり何者かに襲われた。

これを助けたのは龐涓(ほうけん)であり、龐涓は孫子の手を借りた。

風洪は尸校を訪ねはじめた。この途中で風洪は郭縦(かくしょう)と十年後に富比べをしようといわれる。負けたら風洪は郭縦に一家をあげて仕えることになった。

尸校探しは困難を極めた。それは尸校が方々へと移動していると行く先々で告げられたからだ。その度に風洪はその地へと赴いていった。

そしてついに尸校に会うことができた。尸校は再三風洪の目の前にいたのだった。

尸校は公孫鞅との約束を守り秦へ行くことになった。弟子を取ることをやめていた尸校は風洪を客人としてもてなすことにした。

秦へ行く道々で風洪は県回という若者と親しくなり、攸由という尸校の弟子から色々と教わった。

秦へ行く道で、土救が風洪に荷が奪われ斉巨が殺されたといってきた。荷を守ってきた厳建も重傷を負っているという。その旅館に行ってみると龐涓がいた。龐涓は魏で仕官するために斉を旅立ち、途中で異変を感じ取ったのだという。

風洪たちが秦に着いた。

秦では公孫鞅が国民の全てが戦慄するほど峻烈な法令を公布した。風洪は畑を耕し、残りの時間を学問に専心した。翡媛は文の手を引き、当たり前のように風洪を手伝った。

公孫鞅は法令を徹底させるために腐心した。

斉では風麗や翡媛をムチで打った太子が君主になり、琴を教えていた鄒忌(すうき)という者を宰相にしたという。

この頃、風洪は名を白圭(はくけい)と変えることにした。そして翡媛を妻とすることに決めた。

ビン林がやってきた。事件だなと直感した。孫子が龐涓の招きによって大梁を訪れ、そのままどこかへ監禁されたという。白圭(風洪)は孫子を助けに行くことにした。

鄭両の所で白圭は僕延を紹介される。僕延は孫子がひたいにいれずみをほどこされ、さらに両足を切断されたといった。そしてこの僕延から文が斉の公子・田嬰の子であることを知る。

その頃、秦では公孫鞅が太子の駟(し)に対しても刑を及ぼすことにした。公族や貴族には刑が及ばないというのが昔の定めだったが、公孫鞅は厳格に法の適用をした。

やがて、孫子が監禁されている場所がわかり、救出された孫子は名を孫臏(そんぴん)と呼ばれることになる。

田嬰は外交上の力比べをしている。斉と魏が同盟するにしても、どこで会見し、盟約を結ぶかだ。この田嬰の所に孫臏が匿われた。そして、孫臏は斉の田忌将軍に預かってもらうことになった。

この孫臏に白圭は文を預けた。

一方で、殺された斉巨の仇討も済んだ。仇を討ったのは後を継いだ斉召と斉巨の兄である鄭両たちであった。

田文と白圭の別れがせまってきた。白圭は後事を孫臏に託し、孫臏は田文を田嬰のもとにもどし、嫡子にして見せましょうといった。白圭の方は周へ行き、周で商売をはじめるつもりでいた。

白圭は田文に真実を告げなければならなかったが、文はすでに知っていた。

田文は孫臏によって古典を教えられている。この中で、白圭の中にある「仁」というものを感じることができるようになった。

田忌将軍は田嬰から孫臏を天才として推挙されたが、重く用いることはなかった。競馬の催しがあり、そこで孫臏が将軍に大金を儲けさせてやろうといい、事実その通りとなった。なぜ勝てたのかを孫臏に聞いた田忌将軍はうなった。

これを聞いた威王は孫臏の才にひかれ、孫臏は無冠ながら威王の顧問という形になった。

各国の動きが複雑になっている。

斉は趙を助けることになり、援軍の将は田忌となり、孫臏が付いていくことになった。攻めてくる魏には龐涓がいるはずである。

「桂陵の戦い」が始まり、田忌が孫臏を恐ろしい男だと思った。魏軍は文字通りの大敗を喫し、三万以上の兵が戦死した。

田文に従者ができた。夏侯章という。そして白圭が久しぶりに姿を現した。田文は白圭を周の父上と呼んでいる。

この田文が田嬰の元に戻ることになったのは十三才になった時だった。

田嬰の所には食客が多い。田文は自室にいるよりも食客たちの部屋にいることの方が多くなった。田文の器量は、年が経つに連れて家臣の目に明らかになってきている。

成人まであと一年。この年、孫臏の名が不朽のものとなる

西方の秦からのうねりが来ている。これに反応したのが魏である。韓軍が馬陵で敗れたことによって秦の戦略が頓挫した。この時期、秦と魏と楚の勢力が屹立していた。その頃、斉では孫臏の指示により、軍の改変と訓練が行われていた。

ついに、斉と魏がぶつかることになった。斉は二軍。一軍が八万で、計十六万である。

この戦いが田文の初陣でもあった。文は孫臏の近くに配属された。また、田文にくっついていく食客も多かった。友の夏侯章もいる。泥で人形を作るのが上手い曹敏、口まねの上手い祝舟などだ。

斉は一度敗れてみせることにした。大魚を釣る前に小魚を与えるようなものだ。

一方で魏の龐涓にとっては斉軍がことごとく予想の外を動いているのに嫌な感じがしている。そして、孫臏はある木に「龐涓死干此樹之下」と彫らせた。

田文の初陣は斉軍のすさまじい大勝となった。

馬陵の戦いを境に魏は衰弱の道をたどりはじめる。翌年秦が動いた。

一方、田忌は凱旋将軍となった。それを見た孫臏は鄒忌の動きを気にした。そう思っていたら、鄒忌は一人の男と巫女を使って田忌を謀反人にしたてようとしているらしい。

田文は戦場で二十歳を迎えた。田忌はとうとう楚へ亡命せざるを得なくなった。この頃の田文のまわりには様々な食客たちがいる。

田文は宮中に入り込んだ隻真と関係のある隻蘭をあぶりだすため、食客の一人で女装に長ける遠芝を送り込むことにした。この遠芝には眠り薬を渡した。

隻蘭は田文たちの手には渡らなかったが、ひょんなことから田文たちのすぐそばに隻蘭が姿を現した。隻蘭は王の子を身籠っていた。

田文は隻蘭を周の父・白圭にまかせることにした。田文は周を目指している。白圭は商売のための時機を捉える天才といわれた。そのため、商人ながら司馬遷の「史記」や「孟子」「韓非子」などに名と業績が記録されている。

田文は隻蘭に本当の仇が鄒忌であることを教えた。そして隻蘭は洛芭と名を変え、生まれ変わった。

白圭は人民のために黄河の氾濫を防ぐ堤防をつくる事業に乗り出していた。工事費は白圭の私財で行われる。

孟子は言説によって人民を救おうとしたが、白圭は自らの手で仁義を表現した。人によって儲けさせてもらった金だから、人に返すのは当たり前だということだ。

この事業に田文が自ら関わることになった。

洛芭が子を産んだ。男の子だ。子は鄭両の子として育てられることになった。

斉では鄒忌の専制が進んでいた。

秦では公孫鞅が殺された。田文は食客たちを率いて蜀を目指した。道案内に鹿速という蜀人がついた。蜀を目指すのは公孫鞅の妻である風麗たちが蜀へ脱出したためである。そこから風麗たちを買い取れという話が来たので、急いでいるのだ。

洛芭が子を産んだ。田文はそれが自分の子であることがわかっていた。だが、当の洛芭が行方不明となってしまった。

紀元前三三六年。斉の威王、魏の恵王、韓の昭侯が会合した。場所は平阿の南である。田嬰は外交の独壇場にいた。その頃、田文は各国を駆けめぐっていた。田嬰は宰相の地位に就いた。

田文が嫁をもらった。西周姫である。だが、これこそは洛芭であった。洛芭との結婚に反対だった田嬰はあぜんとした。すべては白圭が仕組んだことだった。

田文は洛芭を正妻に迎えてから十年間、家宰とともに父を補佐してきた。この頃の田嬰の食客や説客は千人を超えた。これを統轄していたのが田文だった。

田文は領土や家財には執着しなかったが、唯一執着したのが人であった。

薛(せつ)という国が誕生した。田嬰がもらった土地に立てた国である。その一部の嘗を田文がもらうことになった。この時から田文は孟嘗君となった。

薛の人口が増えた。孟嘗君人気のせいである。

孫臏が亡くなった。遺言があった。

鈞台はこの世にひとつしかないが、それはそこにはない。

というものだった。

孫臏は天下の宰相となれといっている。白圭もそうだった。田文は諸国聘問に出かけることにした。

田文は楚にはいった。出迎えたのは屈原だった。

田文が楚を出ないうちに、斉では異変の芽が萌えようとしていた。笊音という琴つくりの職人を訪ねてきたものがいる。鄒忌だった。斉王を殺すための琴を注文しにきたのだ。

斉の威王が死んだ。継いだのは宣王だ。

当初、宣王は鄒忌を信じ、田嬰を退かせたが、やがて鄒忌から聞かされてきたことと天と地ほどにも違う事実を聞かされ、愕然とした。

田文は魏の大梁へ向かっていた。

魏は困難の中にある。田文はここで襄王に謁見し、五年という約束で国政を預かることになった。田文が歴史に登場した瞬間である。

秦が韓を攻めた。田文は魏と韓の国境を固めたが、秦軍にさんざんに破られる。後に修魚の役と呼ばれる戦いである。

田文はこのあと国力を回復させるために外交手段を通じて戦争を回避するようになる。やがて諸国の有識者が田文の異彩に気づき始めた。

約束の五年が来たが、襄王にほだされあと二年魏のために働くことになった。

田文は斉へ戻り斉の宰相となった。斉の宰相となっても魏の襄王の信頼は篤く、魏と斉の親交が深まった。

この田文の盛名が秦王の耳に届いた。

秦が田文を宰相にと迎えに来た。戦国の世は斉と秦を中心に回っているようなもので、その二つを調整できれば、天下が安定すると思い、田文に秦の宰相への道を選ばせた。

だが、秦で待っていたのは、田文最大の危機であった。

田文は食客たちと急いで秦を脱出した。だが、関を通るには符だが必要であり、そのために一度田文は復職しなければならなかった。そこで秦王の妃妾の一人幸姫に近づくことにした。

幸姫は狐白裘を求めた。この狐白裘はかつて田文が持っていたのだが、秦王に献上してしまった。食客の一人がこれを盗み出し、幸姫に渡すことができ、田文は復職した。

符を手に入れた田文一行は函谷関を急いで目指した。着いたのは夜半である。規則で夜明けまで開かないことになっている。食客の一人が鶏の鳴き声の真似をして、一行は関を通り抜けた。辛くも逃げ切った感である。

このことが「鶏鳴狗盗」といわれるようになる。

斉に戻った田文は再び宰相の地位に就いた。田文は秦を討つ気になっていた。

本書について

宮城谷昌光
孟嘗君
講談社文庫 五冊計約一六五〇頁
戦国時代 前4世紀後半~前3世紀

目次

(全五巻分)
消えた赤子
流れ雲
大望の道
西方の風
決断
天下往来
東西南北
尸子
大改革
乱流
謎の花館
脱出
決闘の時
東方の風
斉の軍師
桂陵の戦い
再会
馬陵の戦い
それぞれの道
父と子
流別
壮者の時
靖郭君
徐州の戦い
海大魚
諸国漫遊
魏相の席
間雲
斉の宰相
函谷関

登場人物

風洪(ふうこう)=白圭(はくけい)
翡媛(ひえん)=翠媛(すいえん)
超文(田文)…後の孟嘗君
夏侯章…田文の従者
公孫戌(こうそんじゅ)…田文の臣下
曹敏…泥の人形を作る
祝舟…口まねが上手い
李滑…身軽な男
隼登(しゅんとう)…白圭の店のもの
斉巨…斉の商人
斉召…斉巨のあとつぎ
厳建…荷の運送の宰領
開九
土救(どぎゅう)
鄭両…魏の商人
ビン林(ビンの字は日に文と書く)…鄭両の姪
培逸…鄭両の秦の店の者
辰斗…鄭両の大梁の店の者
公孫鞅(こうそんおう)
風麗(ふうれい)…風洪の妹、公孫鞅の妻
公叔座
僕延(ぼくえん)
杞可(きか)…僕延の妻
威王…斉公
田嬰(でんえい)
青欄
貌弁
田忌(でんき)…将軍
鄒忌(すうき)…斉の宰相
田肦(でんはん)…将軍
仙泉…遊女
隻真(せきしん)
射弥(えきや)…司寇
恵王…魏公
孝公…秦公
駟(し)…太子
景監(けいかん)
尸校(しこう)
県回…県祜の息子
呂勝(りょしょう)
攸由(ゆうゆう)
県祜(けんこ)
孫臏(そんぴん)
龐涓(ほうけん)
鬼谷子…龐涓の師
恢蛍…韓の悪徳商人
郭縦(かくしょう)…商人
公孫頎(こうそんき)
呉立子…風洪の剣の師
蘇秦
張儀

後半

田文…孟嘗君
夏侯章…田文の友
公孫戌(こうそんじゅ)…田文の臣下
曹敏…泥の人形を作る
祝舟…口まねが上手い
李滑…身軽な男
小虎(しょうこ)…大刀をつかう
毛笛…超人的な視力の持ち主
養参…弓術に優れる
魚何…呪術師
遠芝…女装に長ける
柏左…もと行商
僕羊…僕延の息子
馮諼(ふうけん)
威王…斉公
田嬰(でんえい)
田忌(でんき)…将軍
鄒忌(すうき)…斉の宰相
公孫閲
田肦(でんはん)…将軍
貌弁
孫臏(そんぴん)
張丑
宣王
白圭(はくけい)
翠媛(すいえん)
土救(どぎゅう)
隼登(しゅんとう)…白圭の店のもの
僕延(ぼくえん)
杞可(きか)…僕延の妻
斉召…斉巨のあとつぎ
厳建…荷の運送の宰領
開九
鄭両…魏の商人
鄭至
ビン林(ビンの字は日に文と書く)…鄭両の姪
培逸…鄭両の秦の店の者
辰斗…鄭両の大梁の店の者
公孫鞅(こうそんおう)
風麗(ふうれい)…風洪の妹、公孫鞅の妻
隻真(せきしん)
隻蘭=洛芭…田文の正妻
恵王…魏公
襄王…魏公
尸校(しこう)
県回…県祜の息子
攸由(ゆうゆう)
呉立子…風洪の剣の師
蘇秦
張儀
鹿速
鹿朴…鹿速の兄
屈原
笊音