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宮城谷昌光「楽毅」の感想とあらすじは?

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あの諸葛亮孔明が敬慕した名将・楽毅(がっき)。

日本人好みの将です。

寡兵で大軍に挑むところなどは、日本でいえば楠木正成や源義経、山中鹿之助といったところと同じでしょう。

ただし、楽毅は単なる軍人ではなく、外交の才や内政の才もあり、作中では名将として名高い呉起や孫武よりも、将としても優秀で外交・内政にも秀でた管仲に近い素質を持っていたと描かれています。

第一巻、第二巻では楽毅が中山国(ちゅうざんこく)にいた頃を舞台にしています。

隣国の大国・趙が中山国を攻めてくるのですが、この防衛戦で、楽毅が活躍する井陘の塞を巡る攻防は圧巻です。

楽毅の生きた、戦国時代とは群雄割拠の時代です。英雄がおらず、攻めたり攻められたりと限りない争いが続きました。

そして君主は人を求めず、利を求め、地を求めました。それがゆえに、武力で奪い、武力で守ろうとします。人心を得た方がはるかに早いにもかかわらずです。

こうした世の中で、異彩を放っていたのは孟嘗君でした。

孟嘗君は本書で早い段階で登場します。孟嘗君について宮城谷昌光氏は「孟嘗君」という本を書いています。

「孟嘗君」を読んでから本作を読まれると面白さが倍増するのは間違いありません。

楽毅が仕えた中山王というのは、プライドだけが高く、現実を客観視できない人物です。会社の上司や首脳がこのタイプだと非常にマズイです。

本書で宮城谷氏は、すぐれた君主に仕えればすぐれた臣になり、運の良い人と付き合えば、自分の運もよくなる、といった意味のことを書いています。

こうした観点からは、楽毅は恵まれていたとは思われませんが、他に楽毅の才をきちんと見ている者がいました。

孟嘗君もそうした一人ですが、燕の昭王もそうした一人でした。そして、この昭王との出会いが楽毅を歴史上に名を残させることになります。

後半では、中山国が滅び、楽毅は燕の昭王に仕え、斉を滅亡の淵までに追いやり、歴史に名を刻むことになります。

燕の昭王の下に郭隗という人物がいます。「隗より始めよ」という有名な諺を言った人物です。

郭隗は大才ではありません。ですが、そんな自分ですら重用されるのなら、自分よりも素晴らしい人物が集まるはずです。そこで、先ず隗より始めよ、といいました。

燕の昭王は父を殺した斉に復讐を考えていました。ですが、燕兵は弱兵であり、辺境の小国でもあり、人物が集まりません。さらには、斉からは属国扱いを受けています。

口惜しくてならない昭王は、国を強くするためには優秀な人間を集めねばならないと考えています。「千里を走る馬」が必要なのです。

やがて、「千里を走る馬」を燕の昭王は手に入れました。楽毅です。

後半では、中山国滅亡間近の中、三千七百の兵で十万の趙軍を相手にした呼沱の戦いや、燕に仕えるようになってからの戦いなどが描かれており、楽毅の将としての才能が余すことなく描かれています。

いずれの戦いも手に汗を握るものばかりで、その面白さは抜群です。

実は、楽毅の前半生というのはよくわかっていないらしいです。

歴史の表舞台に立つのは、燕に仕えるようになってからであり、中山国に仕えていたのかすらも判然としていないようです。

ですが、何の実績もない人物が将軍となるのも変な話であり、楽毅の先祖が中山国の人間であった所からも、やはり、本書のように中山国に仕えそれなりの活躍を見せたと考えるのが筋のような気がします。

本書は前半のかなり早い段階から孟嘗君が登場するので、是非とも「孟嘗君」を読んでおきたい所です。

また、後半では秦の魏冄(ぎぜん)、白起の名が登場します。二人は秦が始皇帝の手によって中国を統一する直前の秦で活躍した人物達です。

二人は始皇帝の父とも言われる呂不韋を描いた「奇貨居くべし」で重要な登場人物として描かれています。

「奇貨居くべし」には楽毅の名も登場し、孟嘗君も登場するので、本書の続きとして読まれることをオススメします。

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内容/あらすじ/ネタバレ

中山国の宰相の嫡子・楽毅(がっき)。楽毅が少年の頃に、中山の君主が王を称えた。それが破綻のもととなった。

中山国は河北にある。東の国境は燕に接し、南北と西の国境は趙に接している。

成人となった楽毅は、中山が斉と国交を断絶したことに困惑を覚えた。斉で学問をしたかったからだ。諸子百家の時代である。

留学が許され、斉の首都・臨淄の孫子の門をくぐった。伝説の人孫臏(そんぴん)は世を去っていたが、弟子の一人に入門した。

そこで知り合ったのに田氏である。名は知らない。その子、田単は未来に立ちふさがる敵将となる。

この時の斉の宰相は田文(でんぶん)、すなわち孟嘗君(もうしょうくん)である。

臣の丹冬が迎えに来た。留学が終わろうとしている。

その丹冬が容易ならぬことを言った。趙王が中山を望見したというのだ。望というのは、呪いを込めてみることをいう。すなわち攻め取るということだ。

楽毅は明年までに中山を攻めてくるだろうと予想した。斉との断交状態を改善できれば、趙王の野望はやむはずだ。

楽毅は薛公、すなわち孟嘗君を訪ねてみることにした。

孟嘗君にあった楽毅は、その威圧に圧倒された。そして、楽毅は孟嘗君に中山国はすがることだと思った。孟嘗君は趙王の向こうを張って、同盟した者は死ぬまで守り抜くという。信義の現われである。

趙の国から戦雲がおころうとしていた。

趙の首都・邯鄲に入った楽来と丹冬は楽池邸を訪ねた。その楽池から、趙王が中山を攻めていると聞かされ、心に戦慄を覚えた。武霊王が中山を望見してから今年が三年目である。

楽毅は中山の首都・霊寿にむかった。

趙軍は中山国を真っ二つに割るように縦断したことが分かった。中山軍は進撃を妨げた形跡がない。

楽毅は父に孟嘗君に縋るべきだといったが、それはできない。今は魏に頼った方が無難である。そう信じた父は、中山王に魏への使者を立てることを進言した。だが、中山王には自国の防衛に対する危機感が全くなく、難色を示した。

こうした状況を打破したのは太子であった。その太子が魏への使者として赴くことになった。楽毅が同行することになった。

魏の君主は襄王である。

この襄王にとって、中山と趙の紛争は手に余ることである。おさめることができるのは、秦と斉しかない。だが、秦は君主が亡くなり、乱れに乱れている。

戻った太子に、中山王は労をねぎらうことをせず、非情な言葉で迎えた。

趙の武霊王が果断をおこなった。胡服騎射である。騎馬軍団の増強である。だが、これは中国の文化から離れるということを意味し、群臣の反対にあっていた。それを押し切ったのだ。

中山でも騎馬軍を創設し、楽毅に預けられた。楽毅はさっそく商人の周袖から大量の弩を買うために狐午にあった。狐午には狐祥という娘がいる。

太子を狙う者がいると楽毅の父はいう。

太子が狙われた時、助け出したのは龍元である。以後、龍元は太子の股肱の臣となる。

孟嘗君は太子を亡命させてはどうかといってきた。孟嘗君は中山が滅亡すると見ている。

これを太子に進言したが、太子は子を斉に亡命させてくれないかといった。

趙が攻めてきた。武霊王はこの一回の遠征で、中山と三胡を降伏させようとしている。だが、中山の思わぬ抵抗にやむなく撤退することにした。

武霊王は中山の抵抗には驚かされた。今までとは違う。一体何者が現われたというのか。

秦の内乱がおさまった。のちに昭襄王と呼ばれる王が就くことになる。

武霊王の攻略は中山一国に絞られた。南北から攻める。

太子は北辺に配され、楽毅の父は東垣を、そして楽毅は井陘の塞を守ることになった。太子が北辺に回されたのは問題である。もし霊寿が陥落し、王が死ねば、太子が間髪入れず即位しなければならない。それが困難になるからだ。

父子は別れた。そしてこれが永遠の別れとなった。

井陘の塞を攻めてきたのは趙与の軍である。激戦が展開される。

やがて、中山が趙と講和したと知らされる。四邑を献ずることで、趙軍は撤退した。楽毅は井陘の塞を守りきった。

国難の中山を司馬熹が率いることになった。楽毅は父が戦死したことで喪に服している。

その間に朝廷では重大な議決がなされた。講和のための使者の選定だ。司馬熹は楽毅を推した。

その司馬熹が楽毅を訪ねてきた。楽毅は司馬熹に激しく心を打たれた。中山にも見事な人がいる。使者として立つことを決意した。

楽毅は随行者に郊昔を入れた。井陘の塞で見つけた男だ。楽毅は郊昔にこの使いは失敗すると告げた。

この頃、武霊王は太子の廃替を考えていた。

武霊王は楽毅を殺す決心をしていた。

その楽毅を迎えたのは井陘の塞で戦った趙与である。趙与は楽毅に好意を持った。

武霊王は予想通りの難癖をつけてきた。楽毅は趙与を盾にして逃げることにした。楽毅は趙与に助けられたというべきであった。

だが、難関はこれだけではなかった。新たな塞が築かれており、この突破に智恵を働かせたのは郊昔だった。

もともと失敗することが分かっていた使者であるが、復命した楽毅に中山王は自殺を命じようとした。

武霊王の内命を受け、李兌は魏の大梁に住む戦国期最高の人相見である唐挙に会いに行った。

武霊王は太子の廃替を考え、唐挙に未来を占ってもらいたかったのだ。廃替は決まったようなものだが、唐挙は李兌に、九年後に訪ねてこいと言う。次の太子になる公子何は、父を殺すと言うのだ。

趙の第四次中山攻伐が始まった。中山は防衛に終始し、反撃に出られない。東部は捨てるしかない。

東部はあらかた趙の支配下になった。武霊王は勝つべくして勝っている。

楽毅は臣の丹冬に命じて、孟嘗君に智恵を授かってもらうことにした。

一方で、喪の明けた楽毅に中山王は昔陽を攻め取れと命じた。果たすまでは帰還するなともいう。中山王は趙兵に楽毅を殺させるつもりのようだ。

だが、昔陽を攻めさせようとしていたのは、中山王の考えではなく、司馬熹の考えだった。

司馬熹にとって、昔陽は重要で、中山の余命にかかわっているらしい。司馬熹は霊寿が陥落しても、中山が滅びないような策を練っているらしい。

昔陽攻めに、太子の子・尚が従軍することになった。太子が楽毅に託したのだ。

昔陽を攻め取った楽毅は、すぐれた守城の才だけでなく、行政にも凡庸でないことを示した。

昔陽は斉に近い。孟嘗君との連絡もしやすくなっている。楽毅は太子の子・尚を斉へ亡命させることにした。

趙軍が起った。霊寿を陥落させるまで引かない覚悟だ。二十万の兵が中山を目指した。そして五年にも及ぶ長期戦が始まる。中山は滅亡の淵にいる。

急使がやってきた。中山王と司馬熹が死に、太子がすでに王となっているというのだ。

斉の昌城と昔陽を交換することが決まった。

楽毅は王を扶柳に移し、自らは山河を城と堀にして趙軍と戦う決意をしていた。楽毅は城は幻に過ぎないと考えていた。楽毅に従うのは千五百騎である。

霊寿の陥落を見た武霊王は中山を取ったと思ったが、中山王の死が確認されない。

中山の抵抗は、西と東で行われた。東の中心に扶柳の城があり、いまや王となった尚がいた。

楽毅は自ら燕に行き、中山の窮状を訴えることにした。訪ねる先は、郭隗である。

燕の昭王は即位した時に、父と国の仇である斉を討つことを誓っていた。斉に勝つにはどうするか。それを郭隗にはかった。

この時の郭隗の答えが不朽の名言となった。「王必ず士を致さんと欲せば、先ず隗より始めよ。」

そうすれば、隗よりも賢い者が千里を遠しとせずにやってくるだろうというのだ。

郭隗は楽毅が訪ねてきたことを知り驚いた。楽毅は郭隗に「唇亡歯寒」という。中山という唇が亡くなれば、燕は趙の脅威を直接に受けることになる。それは得ではないということである。

楽毅は名を偽って燕の昭王に拝謁することになった。だが、結局は燕の援助を得られることはできなかった。

楽毅に会った昭王は、楽毅を千里の馬だと思った。昭王は是非とも楽毅を臣下に欲しいと思った。

武霊王の中山攻略で残されたのは西と東の一部だけである。先に中山王尚のいる東を攻めることにした。

本拠に戻った楽毅は郊昔らを交えて模擬戦を行い、新たな砦を作ることを決定した。

孟嘗君が秦に招聘された。

そして、武霊王が引退したという。国を太子の何に譲り渡したが、実権は握り続け、主父と呼ばれるようになる。

孟嘗君が秦から逃げた。斉に戻った孟嘗君は秦に対して兵をおこすつもりのようである。

その間に主父(武霊王)は中山王尚のいる扶柳をつぶさねばならない。楽毅はそれが早い段階で行われることを予想した。

こうした中、楽毅の子を狐祥が産んだ。楽間という。

楽毅は隠密理に扶柳に入り、その代わりに中山王尚を呼沱に逃がした。扶柳がすでに空なのを主父(武霊王)は知った。

呼沱では激戦が行われ、楽毅が指揮をして、寄せてきた十万の趙軍を散々に悩ませていた。わずか三千七百の兵で十万を相手にしたのだ。

趙軍には趙与もいた。趙与は楽毅を侮ることはしない。

だが、十万の兵に頼った趙軍には策というものがなかった。

西方では斉、韓、魏の連合軍が孟嘗君の指揮の下、秦軍を撃破していた。依然として趙軍は中山を攻略しきれていない。

だが、中山王尚が趙の降伏条件を受け入れたことで、中山国は滅びた。紀元前二九六年のことである。

楽毅は妻子のいる邯鄲に向かった。邯鄲は趙の首都である。それを知った趙与は楽毅を主父に推挙したいと考えた。

だが、趙では安陽君と恵文王(公子何)との間で主導権争いが起きており、それどころではなかった。

楽毅は斉か魏で仕えたいと考えていた。

やがて、趙で異変が起きる。それは恵文王と安陽君の主導権を巡る争いの中で、恵文王が主父を殺してしまうのだ。沙丘の乱と呼ばれる。

李兌はかつて唐挙が予言したことがあたったのを目の当たりにして、恐れおののいた。そしてその唐挙は李兌に百日以内に李兌が政権を握ると予言した。

楽毅は魏を目指した。ここで楽毅は条有、季進、単余といった者を召し抱え、また里袁や里袁の甥・里昉らを召し抱えた。

こうした中、斉で田甲事件と呼ばれる事件が起き、孟嘗君が魏にやってくることになった。そして、その孟嘗君が楽毅を訪ねてきた。

孟嘗君は楽毅を魏王に謁見し、魏の使者として燕へいくことになった。そして、このことが天下の情勢を激変させることになる。

燕の昭王は自ら楽毅を出迎えた。なんとしてでも楽毅を燕が貰い受けたいという気持ちがある。

そして楽毅を貰い受けることになった。これは孟嘗君も考えていた結果であったかも知れない。

楽毅は妻子を魏に人質として残したまま燕に仕えることになった。

昭王は斉に対する復讐心でいっぱいである。

楽毅は趙を敵に回さず、趙に五国連合の主導権をあたえるなどが必要だと昭王に説いた。小国の悲しさである。

昭王は楽毅に全幅の信頼を置いているが、子の太子はしきりに楽毅を中傷しているという。この太子は戦国時代をはじめからさいごまでみわたしても、最悪の貴人の一人であった。

燕は斉を憎んでいるが、その実、斉の下にいる。だから、斉が宋を攻める兵をおこした時は、これに従わざるを得なかった。

斉は宋へ三回侵略しこれを攻め滅ぼすことになるのだが、力を蓄えたい燕にとっては兵を失いたくないという切実な思いがある。

楽毅は斉の宋攻めに魏と楚をくわえさせることによって燕が加わる必要のない状況に持っていく。そして宋が滅亡した後、斉、魏、楚が争う場をつくれば、燕は一兵も使わずに斉を窮地に追いこむことができる。

燕で軍政改革が始まった。そして、こうした中、郊昔が楽毅のもとにやってきた。

紀元前二八八年。秦の昭襄王、斉の湣王がそれぞれ帝にたち、西帝、東帝と称し、二大王朝がひらかれた。が、これはわずかに二ヶ月で終焉を迎えることになる。

斉の湣王が秦を攻めると決め、燕に兵を出せといってきた。楽毅が出陣し、連合軍の兵を率いることになる。

途中で孟嘗君と打ち合わせをし、孟嘗君は秦に恨まれるほどの大勝はするなと忠告した。

その戦いで、楽毅は邑をわずかに一日で陥落させるなどの武功を上げる。

機はまさに熟していた。斉からの出兵要請が来た時に楽毅はそう感じた。

楽毅は突如として斉軍の一部隊を攻撃した。そして、この時から斉の栄光は崩落し始めた。

斉は大敗し、楽毅の雷名は西方にもとどろき、昭王の大望も後一歩で実現する所まで来た。

楽毅が霊丘を攻め落としたことは、かなりの衝撃を持って受け入れられた。燕兵は斉兵に二度も勝った。

こうして、秦も斉を討つ気になり、秦、韓、魏、趙、燕の五国の軍が斉を攻めようと動き始めた。この連合軍を楽毅が指揮することになった。

楽毅は仰天するような作戦を決行する。それは、わずか五千の騎兵で斉の首都・臨淄をつくというものだった。

だが、楽毅には勝算があった。

この奇襲はまさにはまり、楽毅は臨淄を落した。以後、燕軍の快進撃は止まることを知らず、斉の守る城はわずかに二城となった…。

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本書について

宮城谷昌光
楽毅
新潮文庫 四冊計約一七四〇頁
戦国時代 前4世紀後半から3世紀

目次

中山の若人
孟嘗君との会見
父子の選択
魏への使者
火と煙
胡服騎射
蛇の道
黎明の奇襲
勝利の謀計
四方の敵
井陘の塞
火兵
雨中の攻防
喪中の使命
武霊王の迷い
幽明の門
暗闘
予言
喪中の風雲
昔陽攻略
中山の余命
さいごの酒宴
開城
霊寿陥落
危急存亡
隗より始めよ
黄金台
千里の馬
疾走する影
扶柳の雪
呼沱の戦い
炎の塞
滅亡の日
憂愁の季
栄衰の影
迷路
闇動く
沙丘の乱
主父の死
大梁の家
前途の光
再会
燕への使い
大望
雪の路
一家の春
昭王の謀計
軍政改革
西帝と東帝
起道と止道
無形の陣
霊丘攻略
臨淄の門
莒と即墨
望諸君

登場人物

楽毅
丹冬…臣
超写…臣
郊昔…武将
楽乗…楽氏の一門
恵泛
里袁…魏の民
司馬熹…宰相
中山王…中山の君主
太子
龍元
尚…太子の子
周袖…商人
狐午
狐祥…狐午の娘
孟嘗君(田文、薛公)
僕羊
李滑
武霊王…趙の君主
公子何…武霊王の子
公子勝(平原君)…武霊王の子
公子成…武霊王の叔父
趙与…武将
趙ショウ(ショウはころもへんに召)…武将
李兌
楽池
昭王…燕の君主
郭隗
襄王…魏の君主
唐挙…人相見
田単