宮城谷昌光「奇貨居くべし」の感想とあらすじは?

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中国史上ではじめて民主主義をかかげて、皇帝と激しく対立することになる秦の宰相・呂不韋を描いています。

呂不韋は若い頃に商売を行っていたことで知られます。

同じく若い頃に商売を行っていたのに管仲がいます。

管仲は名宰相中の名宰相ですが、これに比肩できる宰相は上古にいたと言われる伊尹(いいん)しかいません。

伊尹は料理人であり、二人とも貴族の生まれではありません。

さて、呂不韋の氏は呂です。とすると、姓は姜となります。太公望と同じ姓です。

前半の三巻は呂不韋の少年時代から青年時代を描いています。

様々な人物達と出会い、成長していく姿が克明に描かれており、この小説の面白い部分はこの前半の三冊に全てが詰まっていると言っても過言ではありません。

後半の二冊は呂不韋が政治家としての道を歩み始めてからのことが書かれるわけですが、正直前半の三作に比べると面白味に欠けるきらいがあります。

それだけ前半の三作が面白いのです。

前半で登場する偉人達は、孟嘗君をはじめとして、魏冄、唐挙などであり、こうした人物は宮城谷昌光氏の他の作品でも見られる人物達です。

異色なのは荀子かも知れません。その荀子が語る言葉に次のようなのがあります。

花をみよ。早く咲けば早く散らざるをえない。人目を惹くほど咲き誇れば人に手折られやすい。人もそうだ。願いやこころざしは、秘すものだ。早くあらわれようとする願いはたいしたものではない。秘蔵せざるをえない重さをもった願いをこころざしという。なんじには、まだ、こころざしがない

宮城谷昌光 奇貨居くべし

他にも数多くの印象的な文言が散りばめられているのが前半の三作です。

例えば、呂不韋が人との交わりについて考えた時に、

水はほとんどにおいがしないのに、水を煮ると、においが生ずる。物がそうであれば、人もそうであろう。人が熱気を帯び、心が沸けば、その人の本当のにおいがする。

宮城谷昌光 奇貨居くべし

と考え、また、己の見識の狭さを鑑みて、次のように述べています。

見聞の豊かさのうしろに知識がないと、見聞を位置づけることも、深めることもできない

宮城谷昌光 奇貨居くべし

商人を目指すことになる呂不韋に対して、人相見の唐挙は

侈傲の者は亡ぶ。貴賤を問わず。(中略)侈傲でありつづければ、三代で亡ぶ。(略)』
続けて『(略)呂氏よ、なんじがいかなる財を成し、いかなる高位にのぼっても、そういう愚行をなしてはならぬ

宮城谷昌光 奇貨居くべし

と忠告を与えます。

呂不韋は驥尾に附すことを好みませんでした。

努力を積み重ねれば、驥に追い付くことができると信じていたのです。

ですから、

人が出会うことも、凶や吉を産む。相手の運気に馮られることもあろう。それゆえ強運をもたぬ者は、自分の幸運を待つよりも、強運の人をさがしあてて、その人に付いたほうが栄誉を得やすい。
「驥尾に附す」
とは、それである。それが世知なのである。

宮城谷昌光 奇貨居くべし

とは思いません。

それでも、

成功には幸運という偶然が付加されている。孟子の言を借りれば、
「天の時、地の利、人の和」
が、成功をつくったのであり、その時、その場、その人がそろっていなければありえぬ成功であろう。(中略)ほんとうの成功をめざすのであれば、他人ではなく自分がやらぬことをやらねばならない。これには過去の成功を古いものとして棄て去る勇気が要る。成功するために培ってきた思考さえこわさなければならぬかもしれない。

宮城谷昌光 奇貨居くべし

とも考えるのだから面白いです。

さて、前半では斉の孟嘗君の他に「戦国四君」の内、楚の春申君が重要な登場人物として登場します。

春申君とは黄歇のことです。

他の二人、趙の平原君、魏の信陵君は後半の二冊において登場します。

「合従連衡」という言葉があります。世界史で習ったことのある人も多いと思います。

ですが、この言葉は地理的な把握をしていないと分かりづらい言葉です。

横に結ぶと秦、韓、魏、斉となり、これが連衡です。これは地理的にこの様に国が並んでいると想像すればいいです。

ですから、合従の縦というのも地理的な繋がりであり、それがどのようなものになるかは、歴史地図などを持ち出して調べてみると面白いと思います。

文庫版あとがきで、この本をつねに座右に置いて苦しさを凌いできたという読者を紹介しています。

宮城谷昌光氏もこれに感動したようですが、私もこれを知り、とても感動しました。

その位、この本には訴える力があります。

後半の二冊では呂不韋が政治家の道を歩み始める所から始まります。

呂不韋の行った大きな事業の一つに「呂氏春秋」の編纂があります。八覧、六論、十二紀にわかれ、二十余万字の書です。呂不韋が個人で為した文化大事業です。

これは決して傲りから為した事業ではありませn。

宮城谷氏は呂不韋を傲慢な人間とは決して捉えていません。

それは、

運には盛衰がある。しかし徳には盛衰がない。徳はかたちのない財だ。その財を積むにしかず、だ

宮城谷昌光 奇貨居くべし

と言わせているとおりです。

さらに、呂不韋の政治が性急な考えの基に行われたわけではないことも強調しています。

次の言葉なんかは印象的であり、現在においても考えさせられることが多いでしょう。

急進的な改革は、ほとんど失敗している。
歴史が教えていることとは、そういうことである。古昔、短期間に大改革を成功させたのは、鄭の子産がいるのみで、その事績は奇蹟の色あいをもつ。

宮城谷昌光 奇貨居くべし

日本の場合に置き換えてみても、同じことがいえます。

時代小説や歴史小説を良く読む人ならば、江戸時代における改革の内で、寛政の改革、天保の改革が頓挫したことを知っているでしょう。

急進的な改革を成功裡におさめれば、歴史に名を刻むことができるかも知れませんが、それは上記に書かれたように奇蹟の色合いがなければなし得ないものではないかと思います。

政治家が奇蹟をあてにするようでは国民としては困るわけで、とすれば、奇蹟の色合いがなければなし得ないような急進的な改革を行おうとしない方が国民のためであると思います。

最後に。

「奇貨居くべし」の文庫本は春風篇、火雲篇、黄河篇、飛翔篇、天命編と五冊あり、この順なのですが、ハッキリ言ってこのタイトルでは順番がわからないです。わかるはずもありません。

少なくとも番号を振って、その後に「なになに篇」とつけて欲しいです。

読者にとって不親切きわまりないです。これは出版社の責任です。

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内容/あらすじ/ネタバレ

十五歳になった呂不韋(りょふい)は、三十になったばかりの鮮乙(せんいつ)と彭存(ほうそん)と旅に出させられていた。鮮乙は呂不韋の父の店で働いているものである。

呂不韋には母がいない。義母はいるが、兄や弟に対する態度と呂不韋にむけられる態度とは明らかに異なる。

旅に出ることになったのは、彭存がやってきてからである。父にいわれ、鉱山をおしえてもらえというのだ。

道中で韓と秦が連合して斉を責める軍を目撃した。秦と連合しているのは、韓だけでなく、魏も趙も燕もそうらしい。斉の湣王(びんおう)の驕慢が招いた結果であった。

三人が見たのは、斉を滅亡寸前に追いこむ軍の一部であった。

この年を境に、秦と斉の二強の時代が終わり、秦の一強時代がはじまることになる。

旅は呂不韋という内向の少年を変えつつあった。

彭存がめざしていたのは、黄金の山だった。岩を採取し、それを邯鄲にもってゆき、黄金の含有量を調べることになる。

彭存は黄金の山には気が立つという。そして、黄金の気は地から立つばかりではない。人からも立つという。

その黄金の気が呂不韋に立っているのを見た。

彭存と別れ、呂不韋と鮮乙は邯鄲を目指した。途中で舞子の小環(しょうかん)と知り合う。

二人は真っ直ぐには邯鄲を目指さず、鮮乙の妹がいるという中牟を目指した。妹の名は鮮芳(せんほう)という。今は親戚の養女になっているという。

鮮乙の親戚は冥氏という。呂不韋は冥氏に良い印象を持たなかった。

この時。秦の前の宰相を穣侯という。姓名は魏冄(ぎぜん)という。今の秦王を生んだ宣太后の異父弟であり、真の実力者である。

呂不韋と鮮乙は邯鄲を目指した。鮮乙の妹・芳も邯鄲にいることが分かった。

その途中で二人はあることから「和氏の璧」と呼ばれる楚の国宝を持つことになってしまう。

この旅は鮮乙にとっても驚きの連続であった。彭存は呂不韋に黄金の気があるといい、冥氏に向かって呂不韋は鮮乙を家宰にするといい、途中では「和氏の璧」を手にし、雀氏は呂不韋と親交しようとする。

呂不韋には並はずれた気があるようだ。そうした人物に、人も物も寄り集まるのである。

邯鄲に着き、二人は鮮芳の家を訪ねた。

呂不韋と鮮乙は和氏の璧について話した。そして楚が趙と結ぼうとしていることが読取れた。

この鮮芳の家を藺相如(りんそうじょ)が訪ねてきた。連れがいる。楚人である。藺相如のこの時の身分はたいしたことなかった。連れの楚人は黄歇(こうけつ)といい、後の春申君であった。

この黄歇こそが本来「和氏の壁」を持っているはずの使者であった。呂不韋は「和氏の璧」を返すことで黄歇の知遇を得た。

呂不韋は藺相如の客となることになった。邯鄲にとどまり、見聞を蓄え、学問もしたいと思ったのだ。趙には仕官するつもりはないが、帰るのは三年先になるだろうと思っていた。

その頃、秦の宰相・魏冄は陀方(たほう)に会い、報告を受けていた。

魏冄は「和氏の璧」が趙王に渡ったことを昭襄王に伝えた。そして、魏冄は一計を案じた。

十五の城をさしあげるから、「和氏の璧」を寄こしなさいという使者を趙へ送ったのだ。すでに「和氏の璧」のことを知られていることに趙王・恵文王は恐れおののいた。

秦の要求を飲むための使者が往くことになった。

藺相如が秦への使者となった。出発の際に藺相如は「完璧帰趙」と明言した。これに呂不韋が従者の一人としてついていくことになった。
藺相如は秦が十五の城を割譲するつもりがないことを見定めた。

孟嘗君が動いたという知らせが魏冄の元に届いた。

この中、藺相如は奪い返した「和氏の璧」を呂不韋に託し、藺邑に逃げて欲しいと頼んだ。

呂不韋は何とかたどり着いたものの、すぐさま病に倒れた。それを救ってくれたのは僖福(きふく)であった。

この後、藺相如が帰還した。奇蹟といってよかった。

病が快復した所で、呂不韋は邯鄲にもどるように藺相如にいわれた。だが、その矢先に秦軍が藺邑を攻めてきた。将軍は白起(はくき)である。

捕虜となった呂不韋は奴隷として穣へ連れて行かれることになった。この時、呂不韋の側に雉(ち)という少年がいた。

もう一人、知人ができた。孫という。姓名は荀況である。いわゆる荀子である。戦国末期にあらわれた思想界の巨人である。この荀子から呂不韋は数多くのことを学んだ。

魏冄が突如として趙の宰相となった。慌てたのは秦の昭襄王であった。魏冄を宰相に復位させ、さらには陶を与えた。破格の待遇であった。

魏冄は楚を滅亡させるつもりでいた。

呂不韋は輜重兵となり軍需を運んでいた。これを楚軍が襲った。この混乱の中で、呂不韋と雉は離ればなれになってしまう。

楚軍の隊長は黄歇の臣下であった。呂不韋は黄歇に再会し、桑衣(そうい)というものをつけてくれた。その桑衣が別れの時に、栗(りつ)というものをつけてくれ、呂不韋は東へと向かっていった。

呂不韋は小環と再会していた。小環は十六歳。呂不韋は十九歳であった。呂不韋は寿春の春平(しゅんぺい)の所を目指した。

ここで希代の人相見である唐挙(とうきょ)と出会った。唐挙は呂不韋と小環を見て、倓慶(たんけい)に対して、呂不韋は三十五年以内に位人臣を極めるといい、小環には至上の色が見え隠れしているという。

唐挙がとどまっている間、訊ねてくるものが後を絶たなかった。その中に田焦(でんしょう)がいた。唐挙は田焦にたいして、農業が適しており、秦へ向かってはとすすめた。

呂不韋は南芷(なんし)と名乗る女性とも知り合った。唐挙にはこの南芷が王后になる姿が見えていた。

小環を唐挙が預かることになった。呂不韋は伯紲(はくせつ)への使いを頼まれた。

倓慶はこの使いのために、弟子の一人で高告の子・高睟(こうすい)をつけてくれた。向かう先は慈光苑と呼ばれているらしい。そこで伯紲は孤児や寡婦などをひきうけて養っているようだ。

呂不韋はここで農学者の黄外(こうがい)と出会う。そしてこの慈光苑に雉がのがれてきていた。

慈光苑に一人の老人がいた。呂不韋はこの老人に気に入られたようだった。この老人こそ、孟嘗君(もうしょうくん)であった。

呂不韋には食客の中で最も上位の代舎が与えられた。賓客として扱われたのだ。

呂不韋は薛におよそ一年おり、ここで成人になった。実家を出てから五年が経っていた。

慈光苑にいるときに、孟嘗君が薨じたと知った。そして、このことにより孟嘗君の子の間で争いが起き、慈光苑もこれに巻き込まれる。
食客の段季(だんき)は孟嘗君の死とともに薛を去った。

呂不韋は同じく食客であった申足、申欠(しんけつ)親子に頼み事をした。それは慈光苑の民を救い、伯紲と黄外を救うものである。そのために、秦の魏冄を頼るしかない。側近の陀方(たほう)への連絡を頼んだのだ。

絶望している慈光苑の中に、維(い)という少女がいた。

張苙(ちょうりゅう)という謎の男が慈光苑にやってきた。向夷(きょうい)という従者を従えている。陀方の手のものであった。

呂不韋は雉の下にいる畛(しん)らの助けによって慈光苑を脱出することができた。慈光苑を脱出した呂不韋や黄外や民は陶へ入った。紀元前二七九年のことである。

黄外らは農業を良くするので厚遇された。秦は農業に力を入れている。

受け入れた陀方は陶の司寇(警察長官)である。招かれた呂不韋は黄外を助ける人物として田焦を招聘したいと述べた。

この旅に向夷が同行することになった。

盗賊に襲われて逃げた童子にあった。童子は旬(じゅん)といった。

旬の姉と祖父が襲われたのだ。この姉は楚の王女らしい。だが、それを知った呂不韋はこのことを胸の中にしまった。姉の名は袿(けい)といった。

田焦を探す中で、栗が強制労働に従っていることを知った。そして田焦も居場所も突き止めた。

実りの多い旅だった。呂不韋はこれから歩かねばならぬ道を見定めたことが特に大きかった。

陀方は呂不韋に食客になれといったが、呂不韋は商人の道を歩む決意を固めていた。

鮮乙と再会した呂不韋は資金を魏冄にださせるつもりでいると語った。

小環が疫病で死んだとの知らせを受けた。

藺相如が呂不韋を招いた。藺相如に会った栗は刎頸の交わりについて語った。藺相如は上卿となっている。

その藺相如が呂不韋に伴侶のことを問うた。実は僖福に子がいるからであり、それが呂不韋の子であることを知らせた。

呂不韋は本拠を衛の濮陽にすえることにした。

呂不韋が留守にしている間に、中間において秦が韓を大破し、魏を壊乱させた。指揮をとったのは魏冄だった。

この魏冄に黄金のある場所を教え、呂不韋は商売の資金を得た。商売を好まぬ魏冄だったが、呂不韋に乗ることにした。そして、呂不韋は鮮乙を迎えに行った。

途中、申欠と再会することとなる。また、慈光苑で生死不明だった高睟の消息を知ることにもなった。

濮陽での商売はすんなりとはいかなかった。最初において軽くつまずいてしまったのだ。このとき、かつて孟嘗君の食客であった段季と再会する。

呂不韋は鮮乙、雉、栗らを得て、ひたすらに商売に打ち込んだ。

呂不韋は申欠の情報収集能力の高さを買い、配下を養わせて情報の収集にあたらせた。

華陽の戦いとよばれる大戦がすぎて六年後。呂不韋は三十二歳となっていた。

陀方から知らされたのは、秦の太子が魏で亡くなったという。次代の秦王が客死したのだ。

魏冄にも勢威のかげりが見えてきている。最近では秦王にとりいっているものがいる。范雎(はんしょ)である。これが昭襄王に知恵をつけていた。

魏冄が宰相を辞めさせられ、穣侯の印を返納させられた。そして生母の宣太后をも追い出した。

呂不韋にとっては憂慮すべき事態であった。

秦の太子が決まった。安国君である。

呂不韋は邯鄲へ荷をとどけるために向かった。この邯鄲で呂不韋は大路に突然黄金の気が立ったのを見た。

趙には人質になっている秦の公子がいる。公子は安国君の子で異人(いじん)という名である。

呂不韋は公子異人をみて「奇貨居くべし」と思った。

呂不韋は一世一代の投機をすることにした。そのため、本拠を邯鄲に移した。

幸いなことに太子・安国君は嫡子を決定していない。正室の華陽夫人に子がいないためである。

呂不韋は異人に会い、とくとくと説明した。異人は愚人かもしれないが、悪人ではない。それに、愛すべき所がある。辛酸に満ちた過去をへらへらと冷笑するようなことはしないだろう。

なにはともあれ、呂不韋は異人の名を高め、本国に聞こえるようにしなければならなかった。

呂不韋は秦都へゆくことにした。これで全てが決まる。

呂不韋は嫡子決定のため華陽夫人周辺から攻めることにしたが、驚いたのはこの華陽夫人は南芷であったことである。

そして呂不韋の説得が功を奏し、異人が安国君の嫡子となった。成人した異人は名を子楚(しそ)と改めた。

鮮芳が小環の遺児・小梠を呂不韋に引き合わせた。

この小梠を子楚が見定めた。余りにも強く執心するので、呂不韋は子楚に愛想を尽かしつつあり、いったん側を離れてしまう。こうした時期に藺相如が亡くなったことを知った。

藺氏を弔問で訪れ、そしてそのまま楚へ向かい、黄歇の世話になった。その頃、邯鄲では小梠が子を産んだ。政(せい)と名付けられた男の子こそが後の始皇帝である。

黄歇のところで呂不韋に付いてきている申欠が高睟の姿を見た。その高睟の手のものが呂不韋を襲ってきた。

どうやら、秦の公子である子楚か、その傅である呂不韋を殺したいものがいるようだ。

邯鄲に戻った呂不韋をみて、子楚は涙を流して喜んだ。

秦軍が邯鄲に攻め寄せてきた。

子楚への風当たりが強くなり、呂不韋は子楚を脱出させることにした。ついに人質生活から抜け出せた子楚であるが、邯鄲には妻子を残すこととなってしまう。

西周が滅んだ。翌年、紀元前二五五年から秦の時代となる。

魏冄が死に、陶が魏に攻められ滅んだ。この時期、呂不韋に関係の深かった人物達の死が相次いだ。

呂不韋は魏冄が白起を見つけたように、未知の将器を探し出さねばならないと考えていた。

申欠は一人いるという。蒙驁(もうごう)という。

昭襄王が死んだ。太子が秦王となり、子楚が太子となる時が来たが、驚くべき事態が待ち受けていた。就いたばかりの秦王が死んだのだ。在位わずか三日であった。

すぐさま子楚が即位した。荘襄王である。

小梠と政が呼び戻された。

十歳の政は呂不韋に対していい感情を持っていない。それを感じ取り、呂不韋は軽い失意を覚えた。

呂不韋は丞相となった。すぐさま蒙驁のもとにいき、軍を率いてもらう旨を伝えた。不遇な老臣は感激した。

韓と東周が秦の邑を攻撃したとの知らせを受け、呂不韋は見くびられたものだと思った。韓王は荘襄王が静座していた意味合いを取り違えていたのだ。

すぐさま蒙驁に兵を率いさせた。そしてこの出陣で、韓の最大の軍事都市二つを攻め落とした。それはかつて秦の武将でなし得たものがいない偉業だった。

秦の軍は捕虜と住人を無下に扱うことがなくなっていた。こうした噂はすぐさま各地へと駆け抜けてゆく。

蒙驁が攻め落とした邑は十を超えている。恐ろしいくらいの進撃のはやさは、秦軍が乱暴をはたらかないということが大きかった。邑が頑強な抵抗を示さなくなったのである。

だが、ここに信陵君が立ちはだかることになる。

荘襄王が亡くなった。秦王政が立ったのは紀元前二四七年である。

この頃に一人の論客が呂不韋を訪ねてきた。李斯(りし)である。

李斯は政に上手く取り入った。陰謀家である政と李斯は信陵君を策で排除した。

政は陵墓を造営し始めた。呂不韋は無益なことをすると批判的であった。

やがて政が呂不韋から実権をはぎ取ろうとしていることを知り、身をひこうかと考えた。

そうしたときに、鄭国がやってきて灌漑のための大規模な用水路を造ってはどうかと提案してきた。後世に語り継がれる「鄭国渠」のことである。

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本書について

宮城谷昌光
奇貨居くべし
中公文庫 5冊計約一七八〇頁
戦国時代 紀元前3世紀

目次

金山への旅
黄金の気
邯鄲への道
和氏の璧
邯鄲
ふたりの客
若い食客
道家入門
秦への使者
章台
怒髪衝冠
草廬の老人
明暗のかなた
流下
孫先生
別れの戦場
変転
暮愁
春水のかなた
唐挙の予言
遠雷
夜の佳人
活人剣
慈光苑
薛の邑
異変の秋
慈光苑の危機
それぞれの去就
謀略
逃避行
夢の遺産
無用の長物
盗賊
悪夢のあと
黄河のながれ
旅情
初雪
去来する人
渠水工事

刎頸の交わり
空中の舟
最初の関門
時代の魂
濮陽の難
路傍の花
衛の帰趨
時勢の人
太子の死
魏冄(ぎぜん)の失脚
車中の貴人
新しい道
祥風起つ
天啓の時
招引の舞
崖下の賊
脱出
秦の時代
陶の滅亡
昭襄王の死
ひとつの金貨
文信侯
成皋の陥落
夢幻泡影
鄭国渠
善戦の人
無声の声

登場人物

呂不韋


維…妻


小琦…畛の姉
鮮乙
鮮芳…鮮乙の妹
小環…舞子

恵文王…趙王
藺相如…趙人
僖福
芊老
高告
黄歇(後の春申君)…楚人
桑衣

孟嘗君
段季
申足
申欠

魏冄(穣侯)…秦の宰相
宣太后…魏冄の異腹姉、昭襄王の母
昭襄王…秦の王
陀方
葉芃
葉偲
白起…将軍
張苙
向夷

西袿…旬の姉

范雎
安国君…太子
華陽夫人(南芷)…安国君の正室
子楚(異人、荘襄王)…安国君の嫡子、太子
小梠…小環の子
政…後の始皇帝
申陸(申六)
蒙驁…将軍
李斯

恵文王…趙王
藺相如…上卿
廉頗…将軍
僖福
碧…僖福の子
黄歇(後の春申君)…楚人

孫(荀子)…戦国期の思想家
慎氏…道家
唐挙…人相見
倓慶…剣術の達人
春平…寿春の商人


田焦
南芷
伯紲
叔佐
高睟…高告の子
黄外
蔡沢
鄭国

馬…少年
雀氏
東姚…呂不韋の義母
呂孟…呂不韋の兄
呂季…呂不韋の弟
彭存

黄外
田焦

戚芝…衛の商人
甘単…衛の商人
竿

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