高橋典幸、五味文彦編「中世史講義ー院政期から戦国時代まで」の感想と要約は?

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ちくま新書の歴史講義シリーズは大学の半期の講義と同じく、一冊で15回分の講義が収録されています。

本書に収録されている時代については次にまとめています。

  1. 平安時代末期から鎌倉時代初期(幕府成立前夜)
  2. 鎌倉時代(北条氏の台頭から承久の乱、執権政治確立まで)
  3. 鎌倉時代(蒙古襲来)
  4. 鎌倉時代~南北朝時代(鎌倉幕府の滅亡)
  5. 室町時代(室町幕府と勘合貿易)
  6. 室町時代(下剋上の社会)
  7. 室町時代(戦国時代)
  8. 安土桃山時代
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中世史講義シリーズ第一弾

本書は「中世史講義」シリーズの第一弾です。

はじめに書かれていますが、本書は中世史の最新成果のうち15のテーマを選び、伝えるために企画されたものです。

また、前後の古代と近世とのつながりを意識し、最終講では近世への見通しを立てました。

中世は平安時代から戦国時代まで続きますが、時期区分も絶対的ではなく、境界がハッキリとしていません。

この中世に家などの社会単位、院政などの政治組織、浄土宗や禅宗などの宗教、能や茶などが始まりました。

ちくま新書の歴史講義シリーズ

  1. 考古学講義
  2. 古代史講義
  3. 古代史講義【戦乱篇】
  4. 古代史講義【宮都篇】
  5. 古代史講義【氏族篇】
  6. 中世史講義─院政期から戦国時代まで 本書
  7. 中世史講義【戦乱篇】
  8. 近世史講義─ 女性の力を問いなおす
  9. 明治史講義【テーマ篇】
  10. 明治史講義【人物篇】
  11. 昭和史講義─最新研究で見る戦争への道
  12. 昭和史講義2─専門研究者が見る戦争への道
  13. 昭和史講義3─リーダーを通して見る戦争への道
  14. 昭和史講義【軍人篇】
  15. 昭和史講義【戦前文化人篇】
  16. 昭和史講義【戦後篇】上
  17. 昭和史講義【戦後篇】下
  18. 平成史講義
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要約

中世史総論 高橋典幸

中世は新たな人々や集団の動きが活発になります。

武士の登場が代表です。また天皇の位を退いた太上天皇(上皇)による院政もあります。

中世は宗教の時代でもありました。鎌倉新仏教が次々に現れました。

親鸞の教えを信仰する一向宗は強く団結し、戦国時代には加賀国で約百年自治が行われました。

団結する動きは庶民の世界でも見られ、商人や職人による座が結成されました。

農村においても独自の掟を定め、自立的・自治的な村が現れます。惣村と呼ばれ、鎌倉時代から戦国時代にかけて近畿地方を中心に展開しました。

これら新たな動きの背景にあるものとして、古代の氏(ウジ)から中世の家(イエ)への転換が指摘されます

氏は祖先を共通にする人々によって構成される同族集団です。

古代では氏が社会制度の基本単位とされ、財産も氏によって管理されていました。

氏は朝廷に奉公する政治集団でもあり、氏ごとに特定の所掌や政治的地位が決まっていました。

氏から分立・成長したのが家ですが、親子で構成される日常の単位が、独自で財産を管理し、政治的な地位や職掌も家ごとに決まるようになります。

それらは父から子へ継承されていくことになります。

こうした特徴を持つ家を、単なる家族と区別し、「イエ」もしくは「中世的な家」と呼びます。

イエが氏に代わって政治や社会の基本になるのが中世でした。

イエの成立は朝廷・貴族社会から始まりました。

院政が天皇の地位を父から子へ継承させようという動きと深く関わっていました。

白河天皇の登場以降、皇族の中に天皇の地位を継承するイエ、すなわち天皇家が成立することになります。

天皇家の成立に連動して貴族社会でもイエの形成が進みます。

摂政や関白の地位を継承する摂関家が生まれ、他の藤原氏や源氏の子孫からさまざまなイエが成立します。

こうして成立したイエにより家格や家職が成立していきます。

武士の成立もイエの形成と深く結びついていました。

貴族社会の中で武芸を家職にしていったのが、清和源氏や桓武平氏などの武家の棟梁のイエです。

武勲を重ねたイエの継承者であることが、武士にとっての最大のアイデンティティだったのです。

貴族や武士に遅れて農民の間でもイエが成立します。

中世の農村では農民の逃亡が相次ぎ、村が消滅することもありましたが、惣村の成立で生活が安定すると、イエが成立し始めます。

イエの成立が進むと、朝廷そのものがイエの複合体としての性格を帯びるようになります。

武家政権は、はじめからイエの連合体の性格を強く持っていました。

将軍のイエと武士のイエが主従関係によって結ばれることで成り立っていたからです。

中世の特徴として、もう一つ指摘されるのが、社会の多元性と分権性です。

保元元(1156)年に後白河天皇が荘園整理令を発しました。

専制的、高圧的に聞こえますが、荘園の存在を認めるもので、律令制が機能していないことを示しました。

国土の全てを天皇や朝廷が均質的な支配することができないことを物語っているのです。

鎌倉時代になると新興勢力である武士が新たな政治権力と朝廷は向き合います。

注目すべきは鎌倉幕府と朝廷が東西で並び立つようになったことです。

日本列島の東西には古くから生活や文化の違いが横たわっていました。

それが中世には政治権力の東西分裂として現れるようになったのです。

承久の乱後は新たに西国に所領を獲得した幕府の御家人たちは、しばしば現地の住人や荘園領主と紛争を起こすようになります。

年貢の取り分をめぐる権益争いでもありましたが、東西の慣習や文化の衝突という側面もありました。

東西の交流も生まれます。東国から西国に移住するものも現れます。

北条泰時は朝廷から律令などの統治理念を学んで御成敗式目をまとめました。御成敗式目は対象が武家から、次第に公家社会でも参照されるようになります。

室町幕府になると将軍が京都を拠点としたため公家と武家の交流が進みます。

しかし東西の政治的分裂は止まりませんでした。

室町幕府は東国統治機関として鎌倉府を組織し、首長として将軍一族を鎌倉公方として派遣します。

鎌倉公方と京都の将軍はしばしば対立し、享徳の乱後は東国全体に戦乱が広がりました。

15世紀前半から室町幕府は東国や九州、四国の一部の遠国について多少は将軍の命令通りでなくとも大目に見る方針を取っていました。

多元性や分権性は、あらゆる場面で見ることができました。公権力は幕府や朝廷に一元化されず、さまざまな集団や階層で分有されました。

こうした社会では自力救済が重要でした。利害を共にする人が一団結した一揆もそうしたことの一人です。一揆的な結合が日常化したのが惣村です。

中世的に特徴的な宗教者に聖がいます。どの寺院、どの組織にも属さないからこそ、さまざまな組織や集団に働きかけられる存在でした。

院政期の政治と社会 佐藤雄基

現在では院政期を中世の始まりと考えるのが一般的ですが、絶対的なものではありません。

院政は、天皇の親である院が、天皇の父権を根拠にして政治を主導することです。

院政を行う院を「治天の君」と呼びます。

鎌倉時代の前、白河、鳥羽、後白河の三人によって院政が行われた時代を院政期と呼びます。

諸説ありますが、後三条天皇が即位して親政を開始した1068年、もしくは白河天皇が譲位して院政を開始した1086年あたりから治承・寿永の中から鎌倉幕府が成立する1180年代までの約110年間を指します。

かつて中世は武士の主従制に基づく「封建制」の時代と考えられていました。そのため、院政といえば古代貴族政権の末期的な姿と考えられて「古代末期」とされていました。

しかし現在では中世は単に武士=在地領主が農民を支配する時代というだけでなく、公家・寺社やそれに連なる職農民など多様な社会集団が活発に動き、新たな社会秩序や文化を生み出した時代でした。

古代の律令国家が集権的・一元的な支配を志向しましたが、中世は多元的・分権的で、地方社会・地域社会成長を遂げた時代でした。

一方で中世は異なる国に分裂することなく、院政期に成立した荘園制を基盤として、京都が政治・経済・文化的に求心力を持ち続けました。

荘園領主である公家・寺社、武家などの諸権門が互いに依存しながら国家の機能を分担する国家体制を「権門体制」と呼びます。

中世は顕密仏教と呼ばれる寺社勢力が存在感を発揮した「宗教の時代」でもありました。

たびたび強訴により政治的な主張を行ってきました。

院は寺社の強訴に対応するため武士を起用し、武士は荘園制と王権・諸権門と結びつくことで成長しました。

かつて武士は地方で土地を開発した在地領主が武装化したものと考えられていましたが、近年では都の貴族社会で武装を専業とする中下級貴族の軍事貴族に起源を持つと考えられています。「職能」論、「京武者」論と言います。

貴族的と考えられてきた平氏政権も、鎌倉幕府に先立つ最初の武士政権として位置づけなおされています。

院政開始のきっかけは皇位継承問題でした。天皇家の家長として政権を担いつつ、自らの子孫への皇位継承を確実にするのが当初の院政の姿でした。

かつては、院政のもとで摂関家は抑圧され、衰退したと考えられていましたが、近年の研究では摂関家は院政期に確立すると考えられています。

院政期に外戚関係の有無に関係なく藤原道長の嫡流子孫が継承するポストになり、家格としての「摂関家」が成立します。

しかし院政・鎌倉期には「家」継承をめぐる紛争が引き起こされ、天皇家も摂関家も分裂し、政情が不安定になり内乱の原因となります。

中世の基本的な特徴に荘園制があります。かつては在地領主が寄進する寄進地系荘園の枠組みで理解されてきましたが、現在では立荘という手続きによって王家荘園が成立する立荘論で理解されています。

現地では荘域確定や経営に参画する在庁官人や在地領主の存在は不可欠でした。

中世は地方社会が形成された時代でもありましたが、中央の政局と意外と連動していることが明らかにされています。

院政期に成長した地方の最たるものが奥州藤原氏でした。動向は院近臣などを介して院政や摂関家、中央の政治情勢と深く結びついていました。文化も単なる模倣ではなく、主体的な選択がなされていました。

越後の城氏も国衙から相対的に自立した勢力となります。

東国では対蝦夷の後背地であり、軍事貴族が住み着き有力な武士団を形成していました。武士団の調停者として源義朝の河内源氏が南関東で武家の棟梁の権威を築きます。

こうした地方社会の成長が初めての列島規模での全国内乱の背景にあります。荘園制を媒介にしながら、京都の権門と地方武士が結びついたネットワークが影響したのです。

日宋・日元貿易の展開 榎本渉

平安中期から南北朝前期には遣唐使・遣明使のような定期的な国家使節の往来がありませんでした。民間貿易船が交流を担っていたため、中央の史料に記録されることが多くありませんでした。

そのため鎌倉・南北朝期の文献史学者にとって、日宋・日元貿易は不可知の世界でした。

状況を変えたのが、1970年代以降の考古学の成果です。

平安・鎌倉期の博多について文献史料から11世紀末以降に宋海商が居住していたことが知られていました。研究史上は博多綱首と呼ばれます。

鎌倉前期には九州の寺社や荘園と帰属関係を結んでいました。また中央の大寺社や権門は九州の寺社を末寺・末社化したり、博多周辺に荘園を獲得したりして、貿易に関与するツテを得ます。

これにより博多綱首と九州の寺社・荘園と中央の大寺社・権門の三者が組織的に結びつき、効率的な貿易品の流通が実現します

宋から元に代わり日本と軍事的に対立するようになると日宋貿易ほどには発展しませんでした。

しかしクビライから孫のテムルになると現実的な路線へ切り替えられ、日宋貿易の盛況が戻ります。

蒙古襲来前後の時代を比べると、前の時代では寺社・権門と関係を結んだ博多綱首の活動が見出されます。後の時代では海商の具体例がほとんど挙げられなくなります。

武家政権の展開 西田友広

地方・中央の両方で武力行使を家業とする家が成立する中で、地方の武官は官職・位階を求めて中央と結びつき、中央の武士は受領やその郎党として地方に下り、一部が地方の武士と婚姻などを通じて結びつき、中央と地方を結ぶネットワークができました。

こうして多くの武士の家が成立します。多くは京都と地方に拠点を持ち、両者を往来したり、一族で活動地域を分担したりしていました。

京武者・軍事貴族の中で成長したのが河内源氏でした。しかし河内源氏は源義家以降弱体化し、代わりに伊勢平氏が成長します。

貴族間の勢力争いに武士の武力をつかって決着した保元の乱は武士の政治的発言力を強めました。

次いで起こった平治の乱で平清盛が最有力の武家となります。

平清盛はすぐに太政大臣を辞任しますが、嫡子の重盛には、東山、東海、山陽、南海の諸道の賊徒の追悼を命じる宣旨が下されます。

重盛は武官の地位にはなく、より高位にありました。この宣旨は朝廷の官職と関わりなく全国の賊徒追討を命じることで、軍事・警察機能の担い手として位置付けたものと評価されます。

平氏は武家の長としての地位を獲得したのです。

こうした平氏の下で始められたのが内裏大番役でした。国衙を介した一国単位の公役とされますが、動員形態や動員範囲に異論が出ています。

状況が変わるのが治承3(1179)年の政変です。

平清盛の娘の盛子と重盛が相次いで亡くなります。すると後白河上皇が国政への関与を強め、摂関家領を藤原師家に相続させ、重盛の知行国の越前国を院分国のします。

これに対して平清盛は数千騎を率いて上洛し、官職の解任や知行国の取り戻し、後白河上皇を幽閉して院政の停止を行います。

平氏は既存の政府の組織を自らの勢力で占めることで平氏政権が成立しました。

この政変で高倉天皇が親政を始め、翌年には院政を開始します。高倉院政の開始によって皇位継承の可能性を失った以仁王は源頼政と平氏打倒を企てます。

以仁王の企てをふまえ平氏政権が諸国の源氏の追討を命じますが、各地で反乱が起きます。

反乱の背景は、武士団の競合・対立があるなか、治承3年の政変で知行国主が平氏勢力へ交代したことによる勢力バランスの変動が考えられます。

各地の武士たちはそれぞれの状況や利害関係に応じて、反乱軍、鎮圧軍として内乱に身を投じました。

こうした状況から距離を置いていたのが奥州藤原氏でした。

源頼朝は挙兵直後から敵方所領の没収と味方への給与、味方の所領の安堵を行いました。所領の支配を自らの力で行ったのです。

これが鎌倉政権の独自性・自律性の基盤になったと評されます。

一方で平氏は平宗盛が惣官、平盛俊が惣下司、平重衡が追討使に任じられましたが、比較的少数の平氏家人が朝廷の宣旨で動員されたもので、朝廷という既存の政府の中で政権を掌握した平氏政権の特徴が現れています。

源頼朝は1185年には平氏を滅ぼして全国に所在する平家没官領を獲得し、源義経、源行家の追捕のための軍事体制を畿内・西国に展開しました。

この時に源頼朝は朝廷の政治に介入し、議奏公卿が設置され、翌年には源頼朝の推薦により九条兼実が摂政になります。

鎌倉政権は朝廷と並ぶ全国政権となり、奥州藤原氏が滅ぶと唯一の武家政権となります。

鎌倉政権は既存の政権に対する反乱軍として誕生・成長してきましたので、朝廷に対して自立性・自律性を確保していました。

全国政権となった鎌倉政権ですが、東国と西国とでは政権としての関与に大きな差がありました。

鎌倉政権では尾張・美濃・飛騨・加賀以西を西国としていましたが、1221年の承久の乱後、西国への関与のあり方が変化していきます。

承久の乱で3000とも言われる没収地を獲得し、畿内・西国に大量の地頭職が設置されました。

これにより従来の荘園領主との間に多くの紛争が発生しますが、地頭職は鎌倉政権が掌握していましたので、裁決は荘園領主たちにとって大きな影響を持ちました。

全国の土地は鎌倉政権が関与する武家領と、関与しない本所一円地に再編されていきます。

朝廷の軍事力が崩壊した結果、治安維持における鎌倉政権の重要性が拡大します。

13世紀後半以降、荘園制の動揺の中で、権益を巡って武力衝突も多発するようになり、「悪党」問題として鎌倉政権に対処が要請されるようになり、鎌倉政権は本所一円地にも関与するようになります。

この趨勢を決定的にしたきっかけは蒙古襲来でした。鎌倉政権は本所一円地にも動員・徴発したため、武家地のみならず本所一円地にも関与することになったのです。

御家人のみならず本所一円地の住人を含めた全ての武士を鎌倉政権下に組織する試みがされましたが、達成することなく滅亡を迎えます。

全ての武士を組織する武家政権は室町幕府によって誕生することになります。

鎌倉仏教と蒙古襲来 大塚紀弘

モンゴルとの戦争には神仏も動員されました。神仏の祈祷を主導したのは亀山上皇が主導する朝廷でした。

モンゴル降伏の祈祷を主に担ったのは鎌倉仏教ではなく旧仏教でした。

鎌倉仏教は鎌倉時代の仏教を意味しますが、一般には新仏教をさして用いられます。

浄土宗の法然、浄土真宗の親鸞、時宗の一遍、法華宗の日蓮、臨済宗の栄西、曹洞宗の道元です。

これに旧仏教を革新した法相宗の貞慶、華厳宗の明恵、律宗の叡尊も含まれます。

黒田俊雄氏が提唱した顕密体制論によると中世国家と仏教勢力の癒着構造は旧仏教が正統派と位置付けられました。

従来は新仏教の祖師の思想が高く評価されてきましたが、顕密体制論では旧仏教の影響力の大きさに力点が置かれます。

旧仏教が依然として鎌倉時代の仏教の主流だったというのは、研究者の間で広く認められるようになります。

モンゴル襲来前夜の日本では旧仏教が依然として勢力を保ち、浄土宗の念仏者、南宋仏教によって成立した禅僧、律僧が社会集団として成長しつつありました。

二度のモンゴル軍の退散は武士とともに動員された神仏の効験と受け止められました。そもそもモンゴル襲来が神事の停滞に対する神の怒りと捉えられました。

そこで朝廷や幕府はモンゴル降伏の祈祷を担った寺社の造営を支援せざるを得なくなります。

また幕府は特に神社から流出していた所領の返還を求める方針を出し、その結果、神仏習合によって神社と密接な関係を結んだ旧仏教はさらなる隆盛を迎えます。

新仏教のうち浄土宗、時宗は勢力を伸ばしますが、法華宗、浄土真宗、曹洞宗が多くの支持を獲得するのは室町時代後期の戦国時代を待たなければなりませんでした。

荘園村落と武士 小瀬玄士

荘園公領制は平安時代末期の院政期に完成へ向かう中世の土地制度です。

成立は所領の寄進者側の動向より、王権が主導的役割を果たした立荘によるという学説が有力です。

荘園公領制は現地から上皇に至るまでの様々な階層の人々が、得られる富を「職」によってそれぞれは獲得するシステムです。

ある土地に重層的に権益が設定されることで、典型としては一つの荘園に本家ー領家ー預所のような職が設定されてそれぞれが富を得ます。

公領も同じで知行国主ー受領ー郡郷司といった職が設定されました。

この荘園に住む住人の居住形態は今ひとつ明瞭ではありません。史料から村落内部の事情を知ることが難しいのです。

荘園の形態も、一定の広がりを持つ領域型荘園や、面的接続のない散財型があり、地域差も大きかったと考えられています。

また村落は農村だけでなく、街道沿いの宿や市、海岸沿いの漁村も含み、内実は多様でした。

文献史学では畿内周辺で近隣住民の連帯の誕生が村落につながっていくことが明らかにされました。

他の研究成果によると、平安期に荘内散在していた住民が、畿内では13世紀後半から徐々に集まり、集村的村落を形成していったと考えられています。

中世前期では主に三つの階層の百姓層がいました。名主層、小百姓、間人です。

武士も多様でした。御家人だけが武士ではなく、荘園公領や村等にも武士がいました。

源頼朝に従って御家人となったのは、東国の武士たちが中心でした。

東国の武士たちは幕府成立以前から自らに館を中心に所領を支配していました。館は堀や土塁を巡らしていました。軍事拠点というだけでなく、経営拠点でもありました。館の周辺には門田と呼ばれる直営田がありました。

平氏の旧領の地頭職を得ることになりますが、新たな所領は西国に分布しており、承久の乱を経て西国に御家人の勢力がさらに拡大していくことになります。

御家人に限っていえば、鎌倉幕府成立以前の東国の所領と、地頭職で得た西国の所領があり、自ずと差がありました。

また、御家人は全国に散在する所領の支配を迫られることになりました。

地頭職はある程度完成された荘園公領の体系の中に新規参入することになりました。地頭職は幕府から任じられるものであり、荘園領主の意向で改善されるものではありませんでした。

かつては武士が荘園制を打破し、領主制を打ち立てようとしていたと理解されましたが、近年では荘園公領制の枠組みを利用して、権益拡大を図っていたことが明らかになってきています。

御家人は権限をもとに支配を進めようとしましたが、荘園村落の住民も様々な抵抗をしました。百姓側による訴訟も有効な手段でしたが、最も強力なものの一人が逃散でした。

朝廷の政治と文化 遠藤珠紀

院政期以降、朝廷では嫡子の単独相続を基本とする「家」が形成されていきました。

朝廷では天皇家の家長である上皇が治天の君として院政を敷いていました。鎌倉時代以降も院政は連綿と続きます。

上皇が一人とは限らず、複数いる場合でも、1人が治天の君として院政を行いました。

院政の大きな要素には次代の皇位継承者の指名がありました。天皇を指名することで直系尊属として影響力を及ぼす体制です。

公家でも「家」を形成していきます。本来は一代限りの官職や利権を世襲にし、家格が固定化されていきます。

中世の役所は業務内容・組織の組み替え、細分化が進み、業務内容ごとに別々の家が請負うことがありました。業務が合理化され、それぞれと結びつき請負われる体制です。

鎌倉時代には多くの新しい公家の家が成立していきました。

家業と家の関係は、他の家と政治的にも文化的にも激しい競争を重ね、室町時代にはおよそ定まります。

南北朝動乱期の社会 高橋典幸

南北朝時代の早い段階で南朝は軍事的に劣勢に立たされていました。それにもかかわらず、南北朝時代は60年続きます。

南朝は断片的な史料から後醍醐天皇側近が中心になっていました。また、貴族の嫡流争いきっかけで南朝に仕える貴族もいました。

鎌倉時代後期から南北朝時代にかけて、貴族社会は大きな転換期を迎えていて、象徴するのが嫡流争いでした。

それまでの貴族の家では分割相続が行われて数多くの分家が成立していましたが、鎌倉時代後期になると、次第に分家が見られなくなります。

財産の相続形態も分割相続から、単独相続へ移行していきます。

分家の成立が抑えられ、嫡子の地位が相対的に高まり嫡子・嫡流の地位を巡る争いが引き起こされます。

分割相続の行き詰まりは、富の拡大ができなくなったためでした。

武家社会においても鎌倉時代までは分割相続が一般的でしたが、公家とは異なり惣領と呼ばれる嫡子に大きな権限が認められていました。

惣領の統制権は嫡子以外の庶子に及んでいました。

明瞭に現れるのが戦時でした。惣領は庶子を動員して一つの集団として戦場に赴きました。

こうした体制を惣領制と言います。

鎌倉幕府は武士を御家人化するにあたって惣領制を利用しました。

しかし次第に庶子が惣領から自立しようとし、惣領と争うようになります。

武家社会の惣領・庶子の対立を一気に加速したのが南北朝の動乱でした。

そして武家社会でも分割相続は行き詰まりを見せていました。

鎌倉時代後期になると御家人が新たな所領を獲得する機会が失われ、分割相続は所領の細分化をもたらすことになります。

南北朝の動乱はこうした事態を打開する絶好の機会となり、恩賞による所領獲得を期して戦争に身を投じました。

武士たちにとっては所領を獲得することこそが戦いの目的で、南朝、北朝のどちらに付くかは主要な問題ではありませんでした。

戦争は恩賞獲得、所領拡大の好機でしたが、留守の間の家族や所領も心配でした。

頼りになるのは周囲の武士たちでした。一致団結して動乱を生き抜くことを選択します。こうして南北朝時代には各地で武士たちの一揆、国人一揆が結ばれるようになります。

戦場に目を移すと「野伏」と呼ばれる歩兵の活動が目につきます。モンゴル襲来に対峙した鎌倉幕府軍は騎馬武者中心でしたので、そこから戦術・戦法に大きな変化があったことがうかがえます。

近年の研究で戦国時代の民衆は雑兵として駆り出されるだけでなく、戦場での略奪に積極的に加わることで生活の糧にしてきたことが分かっています。

南北朝の戦乱のみならず自然災害も相次ぎました。飢饉や疫病もしばしば発生しました。荘園の住民たちは自分達の生活を守るため、年貢の減免を一致団結して領主に求めました。荘園の住民たちの団結を荘家の一揆いいます。

村においても住民は団結し、自立的、自治的な生活を営むようになります。こうした村を惣村と呼びます。惣村では惣掟という村独自の規約を定めたり、村人が警察権や裁判権を行使しました。

惣村の運営は寄合という会議で行われ、荘家の一揆に比べて平等な組織になっているのが特徴です。

惣村は対外的にも存在感を増していきます。領主に対しては、個々の農民に代わって惣村が年貢を請け負います。近隣との紛争も惣村が主体になりました。実力も武士たちから注目され軍事協力を求められることがありました。

室町文化と宗教 川本慎自

禅宗寺院の組織は大きく西班衆と東班衆に分かれます。

西班衆は学問や儀式に関わる役職であるのに対し、東班衆は経営や日常生活を担当する役職です。

日常生活もすべて修行という考えから、西班衆も東班衆も対等と位置付けられています。

理念はそうでしたが、実態として大寺の住持として出世するのはほとんどが西班衆出身の僧でした。

しかし南北朝時代に東班衆出身で住持までのぼり詰めた僧を何人か確認できます。

この東班衆が室町時代の文化に大きな影響を与えることになります。

南北朝時代から室町時代の初めにかけて水墨画の専門画家が出現しましたが、初期の水墨画家は禅僧で、東班衆でした。

その後に活躍した水墨画家たちも東班衆の築きあげた基礎の上に成り立っていました。

東班衆の職務の中心は寺院の財務であり、その一環で金融業を営んでいました。室町時代の中盤から後半になり、経営に係る仕事の占める割合が大きくなっていくと、西班衆との乖離が大きくなっていきますが、学問の面において実社会との接点や実用的な技術重んじるという姿勢が生まれるようになります。

同じように東班衆から伝えられた技術に医学もありました。

東班衆の技術が西班衆の知識と融合し、実用的な学問になり、やがては江戸時代の数学や医学につながりました。

中世経済を俯瞰する 中島圭一

中世には職人たちによる商品生産が本格化しただけでなく、流通ネットワークの整備も進みました。

荘園制においても交易は不可欠であり、12世紀までに在地の市が成立していたと見られます。余剰分は他の市で交易され、荘園制を基盤に成長しました。

13世紀前半には金属貨幣の使用が広まっていましたが、銭貨は中国の宋銭でした。

宋銭は一時流通を禁じられたことがありましたが、禁令はあまり効果がなく、13世紀には事実上黙認されて貨幣流通は本格的に発展します。

国家の保証もなく、銅貨という素材価値の低い宋銭が、なぜ信任を得ることができたのか不明です。

渡来銭によって支払・交換手段がコンパクトになりましたが、それでも持ち運びには困難を伴うことがありました。

そこで発達したのが為替送金のシステムでした。一回ごとに取り組む替銭だけでなく、割符と呼ばれる流通手形も存在しました。

こうした仕組みが安定的に機能するためには、資金の流通が著しい不均衡が無いことが必要でした。

中世には借上・土倉などと呼ばれる金融業者が現れ、14世紀初期の京都には少なくとも300〜400の土倉が営業していました。

1333年の鎌倉幕府滅亡をきっかけに製品のコストダウンと量産化の方向へ進みます。15世紀にはさらにハッキリとします。

生産スタイルの変化は流通にも大きな影響を与えます。生産地の周囲に面的な広がりを見せる地域的流通圏が生まれ、京都や鎌倉を媒介しない流通構造が形成されていきます。

モノの量産化の進行に伴いう地域的流通の成長の陰で、京都や鎌倉への物資の流れが次第に細くなり、中世の求心的な経済構造が崩れて、地域経済の分立が顕在化しました。

結果として15世紀には生産・流通・為替・金融など経済のあらゆる面で中世的な構造が解体に向かいました

中世経済の解体との因果関係を示すのは難しいですが、中世の貨幣の流通も15世紀末期に曲がり角を迎えます。

評価が低い銭化の受領を拒否する撰銭が広まったのです。

16世紀になると割符に代わる手段として黄金と呼ばれる金の延べ板の使用が始まり、これを前提に京都で金、次いで銀が交換手段の地位を獲得します。

近世の貨幣の特徴は、江戸幕府などの公権力による貨幣への関与、国内における貨幣の鋳造、金・銀・銭の三貨の使用、流通貨幣の地域性の4つが挙げられますが、いずれも15世紀末から16世紀にベースが整えられました。

室町幕府と明・朝鮮 岡本真

14世紀後半の倭寇を前期倭寇と呼びます。

最初に倭寇対策のためにアプローチしてきたのは高麗でした。

二度の蒙古襲来で高麗からの使節は途絶えていましたが、倭寇への対処を求めて1366年に使節を派遣しました。

北朝内で議論されましたが、南朝が抑えている九州の倭寇を禁圧するのは不可能であり、朝廷から返書は出さず、使節への対応は室町幕府に一任されました。

一任された足利義詮は自身の名義では返信せず、禅僧春屋妙葩の私信にて禁圧を約束します。

しかし、室町幕府は九州攻略が途上であり、倭寇禁圧をすぐには実行できませんでした。

より積極的に応じたのが九州に派遣されていた今川了俊でした。

高麗・朝鮮に対して足利将軍が表舞台に立つことはありませんでしたが、明に対しては当初から積極的に前面に立ちました。

1371年に九州を制していた懐良親王が明に朝貢使節を派遣しますが、翌年の1372年に明の洪武帝が派遣した使節は懐良親王ではなく、今川了俊が拘束します。

太宰府を今川了俊が落として、博多も北朝が掌握したのです。

懐良親王が明に使節を送ったことを知った足利義満は自身の使節を派遣します。

しかし明は義満の使節を退けます。明は諸国の君主である国王のみに朝貢を許していたからです。

洪武帝は懐良親王を日本の正統な君主としていましたので、義満は一臣下に過ぎないとみなされたのです。

一連の足利義満の使節派遣の背景には、懐良親王が日本国王である限り、南朝が九州攻防のために明に軍事的支援を求める可能性があり、それを阻止するためには、足利義満自ら日本国王に認定されるしか無いと義満が認識していたことがありました。

足利義満に転機が訪れるのは15世紀初頭です。明は内乱で混乱しており、そのなかで明は足利義満を日本国王に冊封します。

かつて足利義満が皇位簒奪を計画していたと考えられたこともありましたが、近年の研究では否定されています。

国内で日本国王の称号を使ったことはなく、あくまでも対外交渉上の称号だったことが明らかにされているのです。

足利義持の時代に明と断行しますが、日本国王の称号を使うことに対する批判があり、これを踏まえてのことと考えられています。

足利義政以降の時代に再び使節に派遣が復活します。理由の一つが貿易利益です。

こうして復活した使節に付随する貿易は勘合貿易として知られます。

室町幕府と天皇・上皇 三枝暁子

室町幕府は公家との連携を前提に成立した武家政権でした。

北朝を支えながら、京都を拠点にした政権の確立を目指しました。

室町将軍と上皇・天皇は、幕府成立時より緊密な関係にあり、将軍は天皇が行う公事の復興を財政支援によって担いつつ、公事への参加や皇位継承への関与等を通じて、上皇・天皇の政治を支えました。

こうした関係は応仁の乱によって将軍家及び幕府が分裂するまで維持されました。

そのため将軍家と天皇家の関係は必ずしも対立的なものではなく、近年の研究は「権限吸収」論に象徴される、公武を対立的に捉える構図の相対化へ向かうのも理解できます。

一方で将軍の政治は常に上皇・天皇との関係に規定されるわけではありませんでした。

宗教政策においては、足利義満が鎌倉幕府が成し得なかった将軍家子息の門跡寺院への入室を果たすことにより国家的祈祷を担う宗教組織の編成を行いました。

寺社権門から公武関係を見ると、宗教・都市・社会集団に関わらずあらゆる政策において、将軍の統合力と求心力の大きさが際立っていることは否めません。

戦国の動乱と一揆 呉座勇一

江戸時代の百姓一揆は幕藩権力に対する仁政を要求する請願の性格が強く、デモやストライキに近いものでした。

近世の一揆は「起こす一揆」、中世の一揆は「結ぶ一揆」という説明がされます。

中世においては団結そのものを一揆と呼ぶことがありました。

ある目的のために構成員が平等に結ばれた集団および共同行動と言うことができます。

また、中世の一揆は百姓だけでなく、武士も僧侶も神官も一揆を結びました。

中世の百姓が結成する一揆としては「荘家の一揆」や「土一揆」があります。

武士によって構成される一揆もありますが、定まった呼称は確認されていません。そのため学会では「国人一揆」と呼んでいます。

戦国時代になると一揆が大規模化・組織化します。

その代表が一向一揆と惣国一揆です。

一向一揆は主に北陸・畿内近国で発生した本願寺門徒を中心とする一揆です。織田信長と長く対立し、鎮圧されます。

惣国一揆は一国規模の一揆で、伊賀惣国一揆は天正伊賀の乱で織田信長によって、紀州惣国一揆は豊臣秀吉の紀州征伐によって解体されます。

垂直的な支配関係を軸にする権力と、構成員の平等を理念とする一揆は水と油の関係にように見えますが、研究により戦国大名権力の一揆的構造が指摘されるようになっています。

一揆は結成する時に神仏に誓う形で契約が交わされますが、神仏の代わりに大名当主を推戴した武家領主の一揆こそが戦国大名権力というのです。

一揆と戦国大名が類似した構造と機能を持つのであれば、両者を対立的に評価する理由が失われます。

学会の共通認識では、一揆と大名を不倶戴天の敵とみなして、一揆を大名が屈服させることによって近世が始まるという古典的理解が成り立たないというものになっています。

一向一揆について言えば、本願寺門徒のみで結成されたものではなく、門徒と非門徒の連合という性格であることが解明されました。

本願寺が一向一揆を動かした要素の一つに「報謝行」があります。

報謝行は造悪無碍を抑止するための考えで、往生を約束してくれた阿弥陀仏への感謝・報恩として念仏を称えることが推奨されましたが、この概念を拡大して軍事的な奉仕を求めるようになります。

仏敵との戦いに参加することは命懸けの報謝行という理屈です。

こうして本願寺は門徒の軍事動員が可能になります。

本願寺・一向一揆は強大な軍事力を有するようになり、大名たちの争乱に巻き込まれるようになります。

しかし本願寺の一向一揆に対する影響力は万能ではなく、一定の限界がありました。一向一揆と本願寺は一体ではありませんでしたが別物でもありませんでした。

惣国一揆について言えば、領主の一揆と百姓の一揆が一郡や一国規模で共同した重層的な一揆と評価する見解が有力です。

惣国一揆論の根底には、歴史学会が農民闘争や中世の自治に対して抱いていた思い入れがあり、問題意識や理論が先行して史料の検討が不十分であった点が否めません。

今後は史料に即して惣国一揆を厳密に再定義する必要があるようです。

戦国大名の徳政 阿部浩一

戦国大名の徳政令の内容を見ていくと、中世徳政における眼目の一つである借銭・借米の破棄が主たるものです。

特定の国や地域を対象に一斉に発布される惣徳成の場合は、領国政策の一環としてより幅広い内容を持たせて善政の内容を強く含ませるものもありました。

この典型とされるのが北条氏徳政令です。

永禄3(1560)年の北条氏徳政令は、北条氏康から北条氏政への代替わりを背景に、撫民思想を基調とする北条国家の支配原則を示したものと見ることができます。

徳政は中世社会を特色づけるものですが、鎌倉・室町期にとどまらず戦国期にも広範に見られました。そして為政者の法としての徳政令は、中世社会の終焉とともに歴史の表舞台から姿を消していきます。

中世から近世へ 五味文彦

中世は治暦4(1058)年の後三条天皇の即位から永禄11(1558)年の織田信長の上洛までを指します。

摂関政治から脱して後三条天皇が親政を行うことから中世社会が始まります。さらに、皇位を我が子孫に伝えるために白河天皇が始めます。

上皇が治天の君として君臨し、貴族に家と家格が形成されていくと、朝廷はさながら家の集まりとしての性格を有するようになります。

家形成の動きは武士にも広がり、院政は武士の武力を基盤に展開します。

武士の中でも桓武平氏の平忠盛と清和源氏の源義家が武士の長者として台頭し、忠盛は昇殿を果たして武家を形成します。

保元の乱では武士の活躍が目覚ましく、武者の世の到来を識者に感じさせます。

平治の乱に勝利した平清盛は後白河上皇を支え、太政大臣になり、武家政権を成立させます。

治承4(1180)年に源頼朝が挙兵し、治承・寿永の乱を経て平氏の武家政権を倒して鎌倉に武家政権を樹立すると、西国には公家政権、東国に武家政権の二つの政権が並立します。

鎌倉政権は武士の長者・頼朝と主従関係にあり御家人の家の集まりを有し、頼朝が亡くなると幕府の実権は御家人の家連合が握ります。

京で院政を行っていた後鳥羽上皇が倒幕の挙兵をしますが、承久の乱で負けてしまい、幕府の勢力は西国に伸張します。

北条泰時が実権を握り、御家人連合の合議に基づく執権政治を推進し、政治指針として御成敗式目(貞永式目)を定めます。

一方で幕府は得宗家を中心とする政治体制になっていきます。

後嵯峨院が亡くなると、皇統が大覚寺統と持明院統に分裂し、摂関家以下でも家職の承継争いが生じます。御家人の家でも同様であり、モンゴルの二度の襲来を経て、得宗を中心とする北条一門と有力御家人勢力との対立が激しくなります。

大覚寺統の後醍醐天皇に足利尊氏が呼応して鎌倉幕府は元弘3(1333)年に倒壊し、後醍醐天皇の親政が始まりますが、ほどなく瓦解します。

朝廷は南北に分裂し、足利尊氏の開いた室町幕府も内部対立があり、戦乱は全国に広がり長引きます。収束するのは足利義満の時代です。

幕府は守護大名の連合政権の性格を帯びてゆき、大名の家格や武家の作法・故実が整えられ、近世へ継承されていきます。

中世の土地制度は後三条天皇の即位に伴って発せられた荘園整理令により荘園公領制として始まります。

もともと荘園制を展開する動きと、朝廷から任じられた国司の長官が受領として公領を支配する体制の競い合いがありました。この二つをすり合わせたのが延久の荘園整理令でした。

院政政権は荘園公領制の上に築かれていました。荘園や公領の下では、さまざまな職務に伴う権利=「職」が重層的に存在しており、なかでも武士は居館を中心に土地を取り込み、職を獲得して成長を遂げました。

鎌倉幕府は東国を実力で支配し、東国の武士の所領を安堵しました。平家の遺産を継承する中で、荘園公領制は新たな段階へ入り、承久の乱を経て幕府は西国への支配を拡大し、新補地頭を置くようになります。

それにともない紛争が増えましたので、貞永式目を定めます。法廷は鎌倉だけでなく、京の六波羅や九州にも設けられ、土地紛争を裁きました。

社会が安定して経済が成長すると、名主や百姓が力をつけます。畿内近国の先進地域では、荘園領主や地頭を相手に争い、それとともに新興武士や大寺院の寺僧が成長し、その活動は荘園領主から「悪党」と称されました。

南北朝の動乱を経て、各国の守護が支配を強めると、これに対抗して地頭御家人や新興の武士は「国人」として所領支配を深めます。

村では地侍や村人が力をつけ、国人や地侍は一揆契約を結び、村人は惣という村のまとまりを形成します。

室町幕府が半済令を出していくころから戦乱は鎮まり、荘園公領制は新たな段階に入りますが、大打撃を与えたのが応仁の乱でした。

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