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塩野七生の「ローマ人の物語 第5巻 ユリウス・カエサル ルビコン以後」の感想とあらすじは?

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教科書などで習うようなカエサルの業績、事績というのは、ルビコンを渡ったあとからのことがほとんど。つまり、本書で取り扱っている部分です。

ドイツの歴史家モムゼンはカエサルを「ローマが生んだ唯一の創造的天才」と評しているそうです。

そして、ローマが生んだ唯一の天才といわれるカエサルの本領というのは、本書で余すことなく書かれていると思います。

彼の天才は軍事の天才というだけではなく、政治家としても天才でした。

もちろん、「第一次三頭政治」から、ガリア遠征といったものは、カエサルを語る上で欠かせないものですが、あくまでも、これはカエサルの助走期間内の話でしかありません。

翼を得て、大きく飛躍し、後には名前そのものが「皇帝」を意味するようになったカエサルの真の姿を塩野七生氏と一緒に眺めていきましょう。

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覚書/感想/コメント

前作と本作の時代には、キケロとカエサルという二人がいました。

二人は抜群の洞察力と表現力に恵まれ、二人ともが時代の主役でした。

そして、二人は政治的には真逆の立場であり、友人でもありました。

二人が生きた時代ほど豊富で正確な史料を残してくれたのはなかったのではなかいと塩野七生氏は述べています。

そして、その豊富な史料が残っているこの時代こそが、ローマ1千年の歴史の中で最も重要な時代になるのです。

共和政から帝政への移行。ローマ研究のほぼ4分の1が、たかが3、40年に過ぎないこの時期に集中しているのです。

ルビコンを越えたカエサル。これを聞いたポンペイウスも現職の執政官二人も、まさかの事態に、首都ローマから逃げ出してしまいました。

この翌日にはカエサルはローマを押さえました。国庫はそのまま残されていたそうです。

逃げ出した事により、高位の官職者は大きな失策をすることになります。

一つは正統政府の立場を自主放棄したのと同じであり、二つはローマ市民に首都の住民を見捨てたと思わせてしまった事です。

カエサルの許にはルビコン以前に招集をかけていた第十二軍団が到着し、第十三軍団とともにポンペイウスの私有地に進軍しました。

一方、ポンペイウスと元老院派の人びとは首都を捨てたのに続いて、本国のイタリア半島を捨ててギリシアに向かいました。

ポンペイウスは「クリエンテス」たちを総動員するためにイタリア半島を脱出したのでした。地中海世界全体を見れば、圧倒的にポンペイウスの方が優勢です。

カエサルはキケロに手紙を出しました。ローマで会いたいというのです。

これは元老院会議への出席を意味し、ひいてはポンペイウス側からカエサル派と断定されるのに等しいものでした。

キケロは悩んだすえに断ります。ですが、カエサルの意図はまさにキケロにローマに来させない事にあったのです。

紀元前四九年四月一日に開かれた元老院会議。執政官二人がポンペイウスと一緒に逃げてしまっているため、イタリア半島の秩序と安全の維持が必要となっていました。

内政の最重要任務は法務官のレピドゥスに一任しました。対外上の防衛の責任者は、護民官アントニウスを任命しました。

後にアントニウスとオクタヴィアヌスとともに「第二次三頭政治」の二人です。

カエサルは西を撃つと決めていました。スペインを攻略するのです。

ですが、資金に問題がありました。カエサルの金庫は空っぽになっていたのです。どうやら、資金はサトゥルヌス神殿の地下にある国庫が当てられていたようです。

スペインへは陸路を使いました。それは地中海の制海権をポンペイウスが握っていたからです。スペインにはポンペイウス配下の三将が待ち受けています。

これに対してカエサルはガリア戦役をともに戦い抜いた軍団すべてを投じました。

思わぬ事態が起きたのはマルセーユででした。激しい抵抗にあったのです。

マルセーユはカエサルの失脚を望んでいました。ガリア戦役でギリシア系ローマ人が台頭してきた事に対する不満でした。足止めを食らったカエサルは、一部を残してスペインへと進軍します。

スペイン戦役開始から一月が過ぎ、条件が整ったところでカエサルのいつもの速攻作戦が始まりました。そしてポンペイウス軍の解体に成功します。

カエサルの部下の兵士たちが従軍拒否をしました。従軍拒否を突きつけられなかった最高司令官はハンニバルとスッラしかいませんでした。アレクサンダー大王もスキピオ・アフリカヌスもストライキを起こされた経験があります。

ストライキを起こしたのは第九軍団でした。第十軍団と並んでカエサルの子飼い中の子飼いと自他ともに任じてきた軍団です。苦楽をともにし、信頼度と親密度が増した上での甘えによるものでした。

カエサルは要求の受け入れをはっきりと拒否をしました。

スペインでは成功したカエサルでしたが、北アフリカ戦線では本格的な損失をこうむっていました。投入されていたのはクリオでした。

カエサルは独裁官に就任します。そして、執政官にも就任しました。やるべき事を終えて、カエサルは独裁官を辞任しました。

陸上戦力ならカエサルはポンペイウスに絶対的に不利でした。一個軍団の構成数はポンペイウスの六千にはるかに及びません。平均二千五百前後しかなかったようです。ですが、精鋭でした。

幕僚級では、人を欠かないでもなかったカエサルでしたが、百人隊長に代表される中堅指揮官は圧倒していました。ローマ軍団のバックボーンは百人隊長といわれてきたのです。

戦費の比較においてはポンペイウスが圧倒していました。

カエサルは執政官という公式の立場を得てギリシアへ軍を進めました。

ポンペイウスは六万の軍、カエサルはその四分の一しか戦力を持っていませんでした。ポンペイウスとカエサルは睨み合ったまま動きませんでした。カエサルは動けません。ポンペイウスは動かないという理由の違いはあったのですが…。

やがて「ドゥラキウム攻防戦」の名で知られる三ヶ月に及ぶ攻防戦が始まります。

カエサルは少ない兵でポンペイウスを包囲するという方法に出あしたが、包囲網が長すぎました。やがて、逃げ出す事になります。

この両者の決戦は「ファルサルスの会戦」の名で知られます。敗れたのはポンペイウスでした。

元老院主導体制の打倒を目標とするカエサルは紀元前四七年の開始と同時に独裁官に就きました。

カエサルの「内乱記」はポンペイウスの死で終わりました。以後は書かれませんでした。

そしてこれに続く「アレクサンドリア戦記」「アフリカ戦記」「ヒスパニア戦記」はカエサルの幕僚や配下の中堅指揮官の筆によります。

ポンペイウスを倒したあと、カエサルはエジプトに上陸しました。ポンペイウスが殺されてから六日目の事でした。当時のエジプトは内紛状態にありました。

上陸後ただちに、紛争の当事者である姉クレオパトラと弟プトレマイオスを王宮に招集しました。

そして紀元前四八年にカエサルが下した裁定は、軍事上有利だった弟王を満足させるものではなく、「アレクサンドリア戦役」が始まりました。

カエサルはローマに戻る前に一仕事を片づけました。小アジアでポントス王ファルナケス相手に防衛を任せていたドミティウスが苦戦していたのです。

ここで勝ったカエサルはローマの元老院に「来た、見た、勝った」という三語で始まる戦果の報告を送りました。

ファルサルスの会戦から一年ぶりにカエサルは帰国しました。

キケロの問題を解決したあと、カエサルの許に第十軍団の従軍拒否を伝える知らせが来ます。

第十軍団は退役を望んだが、方便で給料などの値上げを狙ったものでした。最初から第十軍団はカエサルから去るつもりはなかったのです。ですが、カエサルは退役を許すという。とまどったのは第十軍団でした。

そして追い打ちをかけるように、カエサルは「戦友諸君」と呼んでいたのを「市民諸君」と変えました。まるでカエサルとの縁が切れたかのような呼びかけに、子飼いを自認する第十軍団としてはショックを受けました。

従軍拒否も、報酬の値上げもない気持ちになり、泣き出した兵士たちは、カエサルへの忠誠を誓いました。

古代から、このエピソードは「カエサルは、ただの一言で兵士たちの気分を逆転させた」と言われるものです。

「文章は、用いる言葉の選択で決まる」と書いたカエサルの、面目躍如たるエピソードです。

カエサルが凱旋式を始めて経験したのは五十四歳のときでした。業績の不足というよりは時間の不足によるものでした。

凱旋式では軍団兵がシュプレヒコールを唱和するのが習わしとなっていました。カエサルの場合は「市民たちよ、女房を隠せ。禿の女たらしのお出ましだ!」というものでした。

民衆派と目されるカエサルが政治は、貧民救済のみを目的としたものではなく、社会福祉として行ったのは経済の活性化と表裏一体のものでした。

その点では、カエサルはグラックス兄弟の弟のガイウス・グラックスの後継者でした。

そして、「元老院体制派」と「反元老院体制派」の抗争は終息に向かっていました。

そもそも、ローマの混迷は個別の政策では解決できないレベルでした。

ローマの共和政そのものが機能しなくなってきていたからです。その事に気がついていたのが、スッラとキケロとカエサルでした。三人ともが憂国の士ではあったのです。

ローマの共和政は君主政、貴族政、民主政の利点を併せ持った理想的な政体と称賛されましたが、いかなるシステムにも生命があるように、このシステムにも動脈硬化現象と問題の質の変化が襲いかかりました。

スッラはシステム内改革を断行して元老院体制を補強して統治能力の回復を目指しました。キケロは公生活の浄化、つまりは公人の徳の向上を目指しました。

カエサルはこの二人と別の方法を採りました。まずは独裁官としての絶対的権力を手中にしたのです。

実際家であるカエサルは暦の改革から開始します。いわゆる「ユリウス暦」です。「グレゴリウス暦」に代わるまでの千六百二十七年間使われる暦です。両者の差はわずか十一分十四秒です。

カエサルは元老院によって十年の任期を持つ独裁官に任命されます。カエサルは細心の注意を払ってこの地位にいました。王政となる気配だけでもアレルギーを示すのがローマ人だったからです。

紀元前四五年に遺言状が書かれていますが、これは政治遺言状でした。後継者の指名がなされたのです。指名されたのは当時十八歳でしかありませんでした。

カエサルはこれからのローマにとって元老院主導よりも帝政が適していると考えていました。

元老院は補助的な機関として捉えており、市民集会は単なる追認の機関と化しました。そして護民官は反体制となるべきではなく、体制と一体になるべきものでした。

そしてカエサルはローマ史上前例のない「終身独裁官」となります。一個人への権力の集中を防いできたローマの共和政は終わったのです。

カエサルは解放奴隷を積極的に登用し、属州統治にも力を入れました。司法改革にも着手し、ローマ法の集大成を考えていました。

この当時の首都ローマは女や子供、奴隷、他国人をふくめれば百万人に達する規模だったといいます。治安対策にも力を入れる事になります。

福祉政策、失業対策・植民政策、組合対策、交通渋滞対策、清掃問題、贅沢禁止法など次から次へと手を打ちました。

紀元前六世紀からあった「セルヴィウスの城壁」を破壊させまし。城壁の必要性がなくなったのです。他に力を入れたものとして、教育水準の向上と、医療水準の向上がありました。

帝政は事実上成ったのです。

キケロとマルクス・ブルータス、カシウスの間で手紙の交換が増していました。

「三月十五日」。カエサルが暗殺されました。

暗殺の陰謀に加担した実行部隊の十四名以外の詳細は分かっていません。

カエサルがいったとされる「ブルータスお前もか」のブルータスはマルクス・ブルータスではなく、デキウス・ブルータスと考えた方がよいようです。

死後、カエサルの遺言状が公開され、後継者にはオクタヴィアヌスが指名されました。カエサルとの繋がりは、カエサルの妹の娘の子という関係です。

相続の時点で、オクタヴィアヌスはカエサルの養子となり、カエサルの名を継ぎました。

これに納得できなかったのが、アントニウスでした。

当時、オクタヴィアヌスは無名でした。オクタヴィアヌスに平時の統治能力があると見抜いたカエサルが指名したのです。

ただ、オクタヴィアヌスには戦場での才能はないとわかっていたので、アグリッパという青年を付けることにしました。

ユリウス・カエサルの名を継ぐことは十八歳のオクタヴィアヌスにとって、一億セステルティウスの金の遺贈よりも効力がありました。

そしてそのことをオクタヴィアヌスは充分認識していました。世界史上屈指の後継者人事だったのです。

十九歳になったオクタヴィアヌスは執政官になりました。この頃は、キケロなどはまだ少年のオクタヴィアヌスを操れると思っていました。

そして、オクタヴィアヌスは「第二次三頭政治」と呼ばれる共闘体制をアントニウス、レピドゥスとの間に結びました。キケロの希望を木っ端微塵に打ち砕く体制が出現したのです。そしてカエサル暗殺に関わる復讐が始まりました。

フィリッピの会戦の勝利により、カエサル暗殺の復讐を果たし、共和政主義者の壊滅に成功します。

このあと、アントニウスとオクタヴィアヌスは東西に別れました。オクタヴィアヌスは西方を担当しました。この西方にはイタリア半島が含まれていました。

オクタヴィアヌスの外交を支えたのは、メチェナス。メセナ運動の開祖です。

二十四歳になったオクタヴィアヌスは五歳年下のリヴィアに恋をしました。すでにクラウディウス・ネロと結婚していた人妻で、ティベリウスという三歳の子がおり、のちのドゥルーススを妊娠中でもありました。

ネロに直談判して、オクタヴィアヌスはリヴィアと結婚することが出来ました。ローマの為政者間の結婚としては珍しく、二人は生涯を添い遂げます。

この頃、アントニウスはクレオパトラと二重結婚をしていました。クレオパトラは自らの破滅の決定的な一歩を踏み出したのです。

アントニウスは所詮、軍団長レベルの人材だったようです。キケロは「肉体だけでなく頭脳も剣闘士なみ」と評していました。

そして、そのアントニウスと結婚したクレオパトラは多くの言語を巧に操る技能と持っていました。ですが、多くの言語を巧に操る技能と知性とは必ずしもイコールではありません。

紀元前三三年には三十歳になったオクタヴィアヌスは、アントニウスと対決することになります。軍事上の指揮はオクタヴィアヌスではなくアグリッパが担当することになりました。オクタヴィアヌスはカエサルがにらんだように軍事上の才能はなかったのです。

紀元前三一年「アクティウムの海戦」が行われました。

アントニウスを破って帰国したオクタヴィアヌスは以後の施政の基本方針として「パクス(平和)」をかかげました。「パクス・ロマーナ」の始まりです。

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本書について

塩野七生
ローマ人の物語5
ユリウス・カエサル ルビコン以後
新潮文庫 計約七五〇頁

目次

第六章 壮年後期
 紀元前四九年一月~前四四年三月(カエサル五十歳-五十五歳)
 「ルビコン」直後/ポンペイウス、首都放棄/コルフィニオ開城/ポンペイウス、本国放棄/大戦略/キケロ対策/首都ローマ/西を撃つ/マルセーユ攻防/スペイン戦役/逆転/降伏/ストライキ/北アフリカ戦線/カエサル、執政官に/戦力比較/ギリシアへ/第二陣到着/合流/ドゥラキウム攻防戦/包囲網/激闘/撤退/誘導作戦/決戦へ/ファルサルス/紀元前四八年八月九日/追撃/アレクサンドリア/クレオパトラ/アレクサンドリア戦役/「来た、見た、勝った」/カエサルとキケロ/政治家アントニウス/アフリカ戦役/タプソス会戦/小カトー/凱旋式/国家改造/暦の改定/通貨改革/ムンダの会戦/遺言状/「帝国」へ/市民権問題/政治改革(元老院/市民集会/護民官/終身独裁官)/金融改革/行政改革/「解放奴隷」登用/属州統治/司法改革/社会改革(福祉政策/失業対策・植民政策/組合対策/治安対策/交通渋滞対策/清掃問題/贅沢禁止法)/首都再開発/カエサルのフォルム/教師と医師/その他の公共事業/カエサルの特権/不満な人びと
第七章 「三月十五日」
 紀元前四四年三月十五日~前四二年十月
 三月十五日/三月十六日/遺言状公開/妥協/カエサル、火葬/逃走/オクタヴィアヌス/暗殺者たち/国外脱出/アントニウス弾劾/復讐/「第二次三頭政治」/キケロの死/「神君カエサル」/ブルータスの死
第八章 アントニウスとクレオパトラ対オクタヴィアヌス
 紀元前四二年~前三〇年
 第一人者アントニウス/クレオパトラ/「ブリンディシ協定」/オクタヴィアヌスの恋/アントニウスとクレオパトラの結婚/パルティア遠征/異国での凱旋式/対決へ/準備/アクティウムの海戦/最終幕/エピローグ